大学1年生の英文法の補習クラスでの出来事です。
このクラスは学生の能力差があるため、学生はグループに分かれ、グループごとに問題集を進んでいました。そのクラスでグループからもはずれてしまうくらい進むのが遅い学生が一人いました。
気付くとみんなはもう3ページ目をやっているというのに、最初のページを開いています。寝ているわけでもない。窓際の後ろの席に座り、じっと問題集を見ています。
わたしは「一緒にやって行こうか」と言って、数えられる名詞と数えられない名詞(countable nouns and uncountable nouns)の例を読み、問題に進もうとしました。すると、その学生はいきなり「納得できない」と言いました。
「え?」と一瞬あっけにとられると、「なんでそんなこと(countable and uncountable nouns)分けるのか納得できない!」とはっきりと言ったのです。真剣なまなざしで怒ったようにわたしを見ました。
わたしが決めたわけじゃないんだけど... と言いたいところですが、そう言うわけにもいきません。聞いてみると、彼の主張は「全部一緒でいいじゃないか」と言うことです。ついでに複数形も納得がいかなく、全部単数にしてsを付けるなんていらないと思う、とのことでした。ふざけて言っているのではなく真剣そのものでした。
そうか、それでこの学生は英語ができないのか、とわたしは納得しました。
彼にとっては日本語のルールが常識で、それと異なる英語のルールを心理的に受け入れることができないのだ、ということがわかりました。母国語と違う概念には誰でも多少なりとも疑問や違和感は感じたりするものですが、それでもたいていは「そういうことか」と吸収していくものです。(中にはその違いを面白いと思う人もいます。)
彼の場合は抵抗感が普通よりも強いのでしょう。まるでわたしが英文法の象徴であるかのように怒りの視線をじっと向けていました。
わたしはいつもの軽い調子で「そっか~、納得できないんだ。確かに数えられるとか数えられないとか分けない方が簡単だよね」と言いました。わたしが同意するとは思っていなかったのか、今度は彼が「え?」という顔をしました。
しばしの沈黙のあと、わたしはおもむろに窓の外を見て「あそこに鳥がいるよね」と指差しました。
そして「鳥ってどう数えたっけ?」と尋ねました。
「一羽、二羽ですけど」と彼は答えました。
「それじゃあ、犬とかは?」
「一匹、二匹」
「人間は?」
「1人、2人」
「そう、数え方がみんな違うよね。人を一羽とか言ったら笑うよね」
彼の目がちょっと笑いました。そしてわたしは尋ねました。
「この呼び方に違いがあることに関しては納得している?」
彼はハッとしたように止まっていました。
「これだって全部一緒だったら簡単だよね。これは外国の人にとっては難しいところらしいよ。」
彼は静かに黙っていました。怒りの様子は消えていました。
「子供の頃、こういう数え方の違いを教わった時に、納得して学んだ?納得ということではなく、『そういうことなんだ』っていう感じで覚えていかなかったかな?」
「. . . そうです。」
「それと同じように、今まで知らなかった英語のルールを今君は知ろうとしているんだよ。」
そしてわたしは静かに付け加えました。
「日本語には日本語のルールがあるように英語には英語のルールがあって、どちらもその国の人にとっては自然に受け入れられることが、他の国の人にとっては難しかったり納得できないことだったりするのかもしれないね。」
すると彼は「わかりました」と言って問題集に向かいました。
その後、彼は他の学生に遅れながらもなんとか授業についてきました。授業最終日に修了書を受講生に渡す時には、彼は授与する時のBGMにと言って、わざわざCDとスピーカーを自宅から運んできました。彼なりにこのクラスでの勉強に満足したのかな、となんとなく安心しました。
わたしはこの出来事を通して、外国語を学ぶには自分が当然としてきたことと違うことを「ここではそういうことなのか」と受け入れる柔軟性がとてもたいせつであることを実感しました。
これは理論的な話をするといわゆるthe language ego と呼ばれる外国語を学ぶ時の自我の存在のありかたの問題になるのですが、一般的には子供の時はこの自我が活動的で柔軟性があるけれども、puberty (思春期)を過ぎた頃からそうでなくなり、心理的に外国語の吸収が難しくなる、ということらしいです。
The language ego clings to the security of the native language to protect the fragile ego of the young adult.(若者は自我がまだ不安定なので、それを守ろうと母国語に執着する)そして、自我が確立、安定した大人になると今度は、その自我を守るための、a wall of defensive protection (防御の壁)ができてしまうと言われています。
もちろんその程度には個人差があるわけで、language ego が柔軟な人のほうが、a wall of defensive protection (防御の壁)が低く、外国語を吸収し易いということなのでしょう。
わたしはまたフランス語を学び直そうかと思っているのですが、わたしの防御の壁は既にかなり高そうな気がして心配です. . .
長い話につきあっていただいてありがとうございました。
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(英語の引用部分はH. Douglas Brown の "Principles of Language Learning and Teaching" より)
このクラスは学生の能力差があるため、学生はグループに分かれ、グループごとに問題集を進んでいました。そのクラスでグループからもはずれてしまうくらい進むのが遅い学生が一人いました。
気付くとみんなはもう3ページ目をやっているというのに、最初のページを開いています。寝ているわけでもない。窓際の後ろの席に座り、じっと問題集を見ています。
わたしは「一緒にやって行こうか」と言って、数えられる名詞と数えられない名詞(countable nouns and uncountable nouns)の例を読み、問題に進もうとしました。すると、その学生はいきなり「納得できない」と言いました。
「え?」と一瞬あっけにとられると、「なんでそんなこと(countable and uncountable nouns)分けるのか納得できない!」とはっきりと言ったのです。真剣なまなざしで怒ったようにわたしを見ました。
わたしが決めたわけじゃないんだけど... と言いたいところですが、そう言うわけにもいきません。聞いてみると、彼の主張は「全部一緒でいいじゃないか」と言うことです。ついでに複数形も納得がいかなく、全部単数にしてsを付けるなんていらないと思う、とのことでした。ふざけて言っているのではなく真剣そのものでした。
そうか、それでこの学生は英語ができないのか、とわたしは納得しました。
彼にとっては日本語のルールが常識で、それと異なる英語のルールを心理的に受け入れることができないのだ、ということがわかりました。母国語と違う概念には誰でも多少なりとも疑問や違和感は感じたりするものですが、それでもたいていは「そういうことか」と吸収していくものです。(中にはその違いを面白いと思う人もいます。)
彼の場合は抵抗感が普通よりも強いのでしょう。まるでわたしが英文法の象徴であるかのように怒りの視線をじっと向けていました。
わたしはいつもの軽い調子で「そっか~、納得できないんだ。確かに数えられるとか数えられないとか分けない方が簡単だよね」と言いました。わたしが同意するとは思っていなかったのか、今度は彼が「え?」という顔をしました。
しばしの沈黙のあと、わたしはおもむろに窓の外を見て「あそこに鳥がいるよね」と指差しました。
そして「鳥ってどう数えたっけ?」と尋ねました。
「一羽、二羽ですけど」と彼は答えました。
「それじゃあ、犬とかは?」
「一匹、二匹」
「人間は?」
「1人、2人」
「そう、数え方がみんな違うよね。人を一羽とか言ったら笑うよね」
彼の目がちょっと笑いました。そしてわたしは尋ねました。
「この呼び方に違いがあることに関しては納得している?」
彼はハッとしたように止まっていました。
「これだって全部一緒だったら簡単だよね。これは外国の人にとっては難しいところらしいよ。」
彼は静かに黙っていました。怒りの様子は消えていました。
「子供の頃、こういう数え方の違いを教わった時に、納得して学んだ?納得ということではなく、『そういうことなんだ』っていう感じで覚えていかなかったかな?」
「. . . そうです。」
「それと同じように、今まで知らなかった英語のルールを今君は知ろうとしているんだよ。」
そしてわたしは静かに付け加えました。
「日本語には日本語のルールがあるように英語には英語のルールがあって、どちらもその国の人にとっては自然に受け入れられることが、他の国の人にとっては難しかったり納得できないことだったりするのかもしれないね。」
すると彼は「わかりました」と言って問題集に向かいました。
その後、彼は他の学生に遅れながらもなんとか授業についてきました。授業最終日に修了書を受講生に渡す時には、彼は授与する時のBGMにと言って、わざわざCDとスピーカーを自宅から運んできました。彼なりにこのクラスでの勉強に満足したのかな、となんとなく安心しました。
わたしはこの出来事を通して、外国語を学ぶには自分が当然としてきたことと違うことを「ここではそういうことなのか」と受け入れる柔軟性がとてもたいせつであることを実感しました。
これは理論的な話をするといわゆるthe language ego と呼ばれる外国語を学ぶ時の自我の存在のありかたの問題になるのですが、一般的には子供の時はこの自我が活動的で柔軟性があるけれども、puberty (思春期)を過ぎた頃からそうでなくなり、心理的に外国語の吸収が難しくなる、ということらしいです。
The language ego clings to the security of the native language to protect the fragile ego of the young adult.(若者は自我がまだ不安定なので、それを守ろうと母国語に執着する)そして、自我が確立、安定した大人になると今度は、その自我を守るための、a wall of defensive protection (防御の壁)ができてしまうと言われています。
もちろんその程度には個人差があるわけで、language ego が柔軟な人のほうが、a wall of defensive protection (防御の壁)が低く、外国語を吸収し易いということなのでしょう。
わたしはまたフランス語を学び直そうかと思っているのですが、わたしの防御の壁は既にかなり高そうな気がして心配です. . .
長い話につきあっていただいてありがとうございました。
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(英語の引用部分はH. Douglas Brown の "Principles of Language Learning and Teaching" より)
marine fishの上手な説明が、悩める学生さんを救いましたね。
僕も、事ある毎に思い出すのが、以前先生に言われた
「文法が先に出来たわけじゃない」という言葉です。
ん~何にでも柔軟性が必要ですね。ポチッ
フランス語がんばってください。
数の数え方を柔軟に…
確か、91を20x4+11と言うんでしたよね。
※石原都知事フランス語バッシングより~
そういえば私は、そういった日本語と英語の違いを楽しんでいたほうです。だから英語嫌いにならずにすんだのかも(笑)
子供に英語を教えるとき、単数複数形や時制で、名詞や動詞が変化したり、aやtheの定義など、教えるのはホントに苦労します。
このお話を参考に柔軟に英語の楽しさを伝えていこうと思いました。
晩学だから納得しないとダメです。
でも、ここに壁があるということをしっかり認識してから、取り組むっていうのは悪いことではないと思います。遅いですが・・。
イミもなく丸覚えは早いかもしれませんが忘れるのも早いと思います。
私もその学生さんほどではないですが
面倒には思ってたんでヾ(´▽`;)
で、うちのカレにとってはまったく逆じゃないですか。
だから、カレが覚えた日本語は、複数形になったりします♪
marine fishさん フランス語も勉強なさってたんですね!
私、3回チャレンジして3回挫折しました~
多分、もうやらない…かな(笑)
まさにその通り。その短い言葉の中に深いメッセージを感じます。もし英語が誰か1人の人間が考えて作ったものだとしたら、あんなに複雑にはならないでしょうね。
いい言葉をありがとうございます。
日本滞在XX年で日本語を全く使わない・使えない英語NS
この壁が高いんですね。どおりで (納得)