最近、学生の書いた文章を読んでいて思うのは、日本人の英語がアメリカの移民の英語に似てきたということだ。1990年代の後半、わたしはカリフォルニア州立大学の大学院で学びながら、一年生のESLの授業を受け持っていた。日本人の書く文章は名前を見なくても日本人の書いたものだとわかった。書かれている量が少なく、曖昧な表現が多かったが、文法的にはわりあい正確だったのだ。冠詞が抜けていたり、時制が間違っていたりすることはあったが、1文の構造が成り立たず、ただ単語が並んでいる文を書くようなことはなかった。
ところが最近そのような文を日本の大学でよくみかけるようになったのだ。以前よりもリスニングなどはできるようになっているが、英文法力が明らかに落ちている気がする。いわゆるオーラルコミュニケーション導入の効果と弊害だろうか?頭の中に英語の構造ができる前にしゃべることを要求され、正しくなくても単語を並べれば通じることに慣れてしまったのだろうか?
カリフォルニアで一緒に働いていたアメリカ人の英語講師達は、日本からの留学生は移民の子供達に比べて基礎力がある、と言っていた。基礎力があれば、英語に慣れるにつれ、たくさん書くこともできるようになる。しかし、構造をなさない文を話したり、書いたりすることに慣れてしまったら、それを直すのはたいへんだ。
学校が英文法を教えなくなるのであれば、学校以外の場所、塾や予備校などでの英文法指導、また自主学習用の教材などの果たす役割はますます重要になってくるかもしれない。どのように学ぼうとも、日本人学習者の強みであったはずの基礎的な英文法力を易々と手放さないで欲しいと思う。
ところが最近そのような文を日本の大学でよくみかけるようになったのだ。以前よりもリスニングなどはできるようになっているが、英文法力が明らかに落ちている気がする。いわゆるオーラルコミュニケーション導入の効果と弊害だろうか?頭の中に英語の構造ができる前にしゃべることを要求され、正しくなくても単語を並べれば通じることに慣れてしまったのだろうか?
カリフォルニアで一緒に働いていたアメリカ人の英語講師達は、日本からの留学生は移民の子供達に比べて基礎力がある、と言っていた。基礎力があれば、英語に慣れるにつれ、たくさん書くこともできるようになる。しかし、構造をなさない文を話したり、書いたりすることに慣れてしまったら、それを直すのはたいへんだ。
学校が英文法を教えなくなるのであれば、学校以外の場所、塾や予備校などでの英文法指導、また自主学習用の教材などの果たす役割はますます重要になってくるかもしれない。どのように学ぼうとも、日本人学習者の強みであったはずの基礎的な英文法力を易々と手放さないで欲しいと思う。
誤解を招く、まとまった文章が書けない。I couldn't speak in a sentence.で恥ずかしい、留学してから改めて文法書を開きました。
今、大学で教えていて、元気はよくて、明るくて、「しゃべれるようになりたい」という情熱と積極性があって、照れずに話していいのですが、学年が上がっても上がっても、Broken Englishになってしまう学生をみると、あのころの自分を見ているようです。
なにか、目覚めさせて、文法の必要性を感じさせる題材はないものでしょうか。
ホント,デタラメでも通じちゃうんですよね…。
がんばって勉強しなおそう…。