■福田三津夫様
お米の収穫作業が終わったことを、このあたりの古老たちは「秋が終わった」と言います。
わたしは、自分の秋が終わったら、11月は亀山城跡保存会の活動が忙しくなります。6年生への亀山城歴史講座、亀山城プレーパーク(冒険遊び場)開催、五次元キーボード演奏会<宇喜多家をめぐる歌物語>協賛準備、宇喜多家法要。ほかにも、五年生の学習田のお米の収穫作業やらで、そちらのほうが忙しくなります。
先回のメールで、9月1日にあった「青い鳥楽団」復活のニュースと資料をお送りしました。10月14日には、次のようなイベントがありました。(お米の収穫作業で忙しく参加できませんでしたが)
長崎のキリシタンが岡山県の無人島に強制隔離されて、はげしい労働とキリスト教の棄教を迫られ、何人かの人が亡くなりました。その人たちを追悼する集いです。 その島は、愛生園がある長島の近くにある鶴島という島です。長島のことは知っていても鶴島のことは多くの人は知りません。
じつは、先にお送りしたメールの「青い鳥楽団」の楽長・近藤宏一さんが作詞作曲した「鶴島哀歌」という歌があるのです。10月14日、約170人の巡礼参加者は追悼のミサの後、全員で「鶴島哀歌」をうたったのです。
先にお送りした資料のうち、1968年に行われた大阪での一般市民の前での「青い鳥楽団演奏会の当日パッフレットを見ると、そこでも「鶴島哀歌」が歌われていたのです。歌ったのは、近藤宏一さんを人生の師と仰ぐ佐々木松雄さんで、彼は愛生園にあった岡山県立邑久高校長島分校(新良田教室)の卒業生でした。
佐々木松雄さんがお亡くなりになった(2019年)お葬式の棺の中には、わたしは「青い鳥楽団」演奏会の当日パンフレットを納めたのですが、誰か知らない人が「鶴島哀歌」の歌詞を書いた紙を納めた人がいたのには驚きました。
●佐々木松雄さん追悼 「鶴島哀歌」のうたがながれる
●鶴島巡礼について取材報道された朝日新聞記事
を添付します。
矢部 顕
追悼佐々木松雄さん
「鶴島哀歌」のうたがながれる
―佐々木松雄さんと鶴島哀歌―
矢部 顕
●鶴島哀歌 独唱 佐々木松雄
11月6日(2019年)、佐々木松雄さんが亡くなった。急性肺炎。享年73歳。新良田教室第6期生。
多磨全生園でのご葬儀に参列するという友人に頼んだ。青い鳥楽団演奏会「らいを聴く夕べ」のパンフレットを棺に納めてほしい、と。
葬儀後、友人からはていねいにもパンフレットを棺に入れた写真がメールで届いた。その写真にはパンフレットの他に、大きな活字が印字された白い紙が見てとれた。よく見ると詩が書かれているようだった。拡大してみると、なんとそれは「鶴島哀歌」の歌詞だった。「鶴島哀歌」の歌詞を棺に納めた人がいたのだ。
愛生園盲人会の青い鳥楽団が、療養所内や病院内でなく、一般市民の前ではじめて演奏会をしたのは大阪城の近くの大阪厚生会館(現在は大阪府立青少年センター)大ホールで1968年6月のこと。交流(むすび)の家開所記念行事としてFIWC関西が主催して行われた。
B5版20頁のこの当日パンフレットの演奏プログラムの頁のなかに「鶴島哀歌 独唱 佐々木松雄」とある。青い鳥楽団メンバー紹介の頁を見ると、「佐々木松雄(岩手県出身、新良田教室卒業、宮城県東北新生園より協力参加)」と記されている。この日のために東北新生園から大阪に駆けつけたことがうかがわれる。
佐々木松雄さんは東北新生園で療養していたが、療養所で唯一の高校である新良田教室(岡山県立邑久高校の分校)に入学するために長島愛生園に転園した。その高校生の頃、青い鳥楽団楽長近藤宏一さんと出会う。近藤さんの高潔な人格に感銘を受け、その時から生涯の師として仰ぐようになった。近藤さんは詩人でもあった。
盲目十年
人間の
ものを見るという不思議
見えないという不思議
これぞ まこと
神の傑作・・・・
佐々木さんはこの詩が好きで高校時代いつも口ずさんでいたそうだ。
近藤宏一さんがスイスでのウエルズリー・ベイリー賞(*)授賞式(2007年)に赴くときも、目の見えない近藤さんの手足となって案内した。その時の様子を『むすび便り』に原稿を依頼したのだが、出来上がった原稿は紙面に載せるにはあまりにも長かったので、エッセンスだけを抜粋して『むすび便り』(2007年12月)に掲載し、全体は『青い鳥楽団近藤宏一さんの授賞式随行記』として冊子として印刷発行した。(2008年)。
長島愛生園でFIWC関西が実施しているように、多磨全生園の祭りのときFIWC関東はチンドン隊を編成して祭りを盛り上げた。夜の交流会で、チンドン隊に参加した若い人たちにむかって、チンドン隊の演奏曲「青い鳥行進曲」(青い鳥楽団のテーマソング)について語ったのは東北新生園から多磨全生園に移っていた佐々木松雄さんだった。若いころから、そして今も尊敬してやまない近藤宏一さんの作詞作曲のこの曲ができるまでの青い鳥楽団の歩みについての話だった。彼が近藤さんの話をはじめると、熱がこもってきてなかなか終わらない。話を聞いている若者の中に、ひとりの若くない者がいた。大阪での青い鳥楽団演奏会を主催したメンバーのひとりの私がいて、後で名乗り出たものだった。
そのころ私は東京に住まいしていたので、それ以来たびたび佐々木さんを訪ねて親交をむすんだ。病気で麻痺した手のリハビリで始めた陶芸の作品が家の内外に処狭しと置かれていたのを思い出す。
●殉教の島に歌がながれる
「むすび便り」の読者のみなさんは愛生園のある長島に行ったことのある人は多いと思うが、近くに鶴島という島があることをご存知だろうか?
長島の東5km、周囲2kmの小さな島で人は住んでいない。流刑地として明治初期の1870年、長崎の浦上地区の潜伏キリシタンがこの島に送られ、拷問の末に棄教を迫られ、死者もでた。江戸時代の弾圧だけでなく、明治政府誕生後もこんなことがあったことを初めて知った
岡山カトリック教会が主催する巡礼の旅は昨年50回を数え、岡山以外の県からもふくめて163人が参加した。なんと163人! この人数に驚いてしまった。
わたしが転居してきてから親しくしている近隣の友人がいる。その娘さん夫婦が最近近くに引っ越してきた。その若いご夫婦と話していて、彼らが巡礼に参加したことを聞いて、またびっくり。
この夫婦が日曜日に通っている岡山教会が作った『殉教地 鶴島』と題した小冊子によると、幕末にも、また明治になってからも、浦上地区の潜伏キリシタンに対する大弾圧があり、3394人が西日本の21藩に流刑者として預けられた
岡山に流された117人は牢獄に入れられた後、113人が島に送られ、貧しい食事と狭い住まいしか与えられず、開墾を強制され棄教を迫られた。激しい拷問で転ぶものが続出。その数は半数を超えたという。しかし死を通して信仰を守った人もいた。明治新政府が成立してもなおこのようなことがあったのは、神道国教主義を政府方針としてキリシタン弾圧を決定したからであった。その後、各国がまず我が国を責めたものはこのキリスト教弾圧政策であり、その解放であったと言われている。その結果、太政官布告により我が国で初めて宗教の自由が保障されたのは明治6年。鶴島の人々は、3年余の流刑から解放され、浦上に帰ることができた。鶴島に残る十二の魂は、結局我が国最後の殉教者となった訳である。
この巡礼に参加した人たちはキリシタン墓地と呼ばれる場所で、野外ミサを行った。配布された16頁のプリントにミサ式次第が詳しく書かれ、その中の1頁は「鶴島哀歌」の歌詞と音符が印刷されていた。ミサ終了後、「鶴島哀歌」を全員で合唱した。
瀬戸の渦潮 見下ろす丘に
石の十字架は 静かに眠る
流刑の鞭に 倒れし人の
悲しい祈りよ その声よ
ああ 鶴島に
今日も蜜柑の 花散るばかり
うつし世遠く 捨てし心に
秘めて指操る ロザリオひとつ
涙にぬれし 踏み絵の御母に
捧げし誓いよ その魂(たま)魂(たま)よ
ああ鶴島に
今日も海鳥 さえずるばかり
巡る砂浜 たたずむ小道
しのぶ歴史に かげろう燃える
永遠(とわ)永遠(とわ)の救いに 生命(いのち)生命(いのち)をかけた
せつない願いよ その歌よ
ああ鶴島に
今日もひそかに 夕凪せまる
(作詞作曲・近藤宏一)
近藤さんがこの歌を作った動機が著作『ハーモニカの歌』に記されている。「他人事に思えなかった。縁もゆかりもない流刑の島に、ただ命をさえ捨ててもよいという運命と、ハンセン病によって一生を変えられ、やがて島の療養所の土に帰する私の生きざまとが、どこかで結びついているように思えた」。
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*The Leprosy Mission International(国際救らいミッション)<TLM>の創始者ウエルズリー・ベイリー氏を記念して、TLMが125周年を迎えた1999年に創設された。ハンセン病問題に対する勇気と成果、たぐい稀なる貢献をした人に贈られる。2007年には世界中から2名が選ばれ、スイスでの国際総会における特別歓迎会で授賞式が行われた。
(やべ あきら・岡山市在住)
1965年からFIWC関西に参加。青い鳥楽団演奏会(1968年)を主催した時のFIWC関西委員会委員長。NPO法人むすびの家理事。