円覚寺日記 四季綴り

このお寺が建っている環境のごとく、ゆったりとした気分で書いていきたい。
浄土真宗本願寺派 円覚寺の日記帳です。

自然治癒?

2007年04月20日 | 日記
今日も多くの方がご来寺。午前中は会計さんと作業、途中から婦人会の役員さんが合流して法要出勤法中さんへの応対に関して打ち合わせ。
午後になると納骨堂の会計さんがご来寺。その作業中にK印刷さんが法要パンフレットの納入のため来られました。次に風呂場のボイラーが故障したのでボイラー業者の方がメンテのため30分ほど来られて、そのあとにS照寺様が借用依頼していた仏具を持ってきてくださいました。
で、夕食をすませると、夜7時半からは鞍手組雅遊会の皆様が来られて雅楽の練習と法要の打ち合わせを行いました。
今日は一日とても強い風が吹きましたが、それに負けないくらい本堂や門信徒会館・庫裡を何回も往復しましたが、自然と筋肉痛はおさまりました。
今日はこれにて失礼します。

婦人会役員打ち合わせ

2007年04月19日 | 日記
午後は婦人会役員の皆さんがお寺に集まって法要の打ち合わせをしました。
今日は直方市の浄福寺様で行われた鞍手組仏教婦人会の総会に出席されて、引き続き円覚寺にお越しいただいたわけで、大変お疲れのところ本当にありがとうございました。
お寺の行事がスムーズに行われる上で、仏婦の皆さんのお力添えは欠かせないものです。どうぞよろしくお願い申し上げます。

私は筋肉痛が、まだ直らん。

これくらいで

2007年04月18日 | 日記
昨日の夜から太ももが筋肉痛です。別にスポーツをしたわけではありませんが、どうも法要準備で本堂や庫裡を行き来する時間が増えたのが原因みたいです。これくらいで筋肉痛になるとは、恥ずかしい。いままでぬくぬくと甘えてきたのだなあと思い、本当に恥ずかしいです。

悲喜の涙

2007年04月17日 | 日記
今日は法要に使う声明本(いわゆる経本)を作成いたしました。会奉行のH性寺様とS徳寺様が作成のお手伝いをしてくださいました。
版は事前に作成しておりましたので、今日は印刷と製本の作業です。ちなみに5月2日親鸞聖人750回大遠忌法要は「正信念仏偈作法二種」、5月3日住職継職法要は「無量寿経作法」です。各200部の製作でした。午後6時まで作業を行い、無事製本が一段落いたしました。会奉行様には大変お世話になり、誠にありがとうございました。

現在はコピー機や印刷機があり、比較的簡単に早く、しかも大量に印刷出来る時代です。当寺でもパソコンやプリンター・印刷機がもはや手放せなくなりました。400部もの声明本が数時間で作れてしまうのも印刷機のおかげです。一般家庭でもカラープリンターの普及率は高くなりましたね。しかし自坊でこれだけ大量印刷をしておきながら言うのも矛盾しているなあと反省しつつ考えますと、自ら筆をとり一字一字真剣に書く事が少なくなったことも確かです。
宗祖親鸞聖人は比叡山での20年に及ぶ自力聖道門の行でも悟りを得ることが出来ず山を下り、当時京都市中で他力念仏を説く法然上人の門下に入り、そこで真実のみ教えに出遭われ、その教義を誰よりもよく領受されました。そこで恩師法然上人から『選択本願念仏集』の書写をゆるされ、その時の心の模様を
「『選択本願念仏集』は、禅定博陸[月輪殿兼実、法名円照]の教命によりて撰集せしめるところなり。真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見るもの諭り易し。まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。年を渉り日を渉りて、その教誨を蒙るの人、千万なりといへども、親といひ疎といひ、この見写を獲るの徒、はなはだもつて難し。しかるにすでに製作を書写し、真影を図画せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。よりて悲喜の涙を抑へて由来の縁を註す。」(教行信証化身土文類末)
とよろこばれたのです。
これは私の想像でしかありませんが、親鸞聖人はうれしさ・ありがたさからこぼれそうになる涙をこらえながら味わいかみしめ、一文字書くたびに感謝のお念仏が口から自然と出ていたのではないでしょうか。
便利になった反面、思いをめぐらせ真剣に考えるという行為がなくなってきています。その空白となった部分を取り戻すことは大切なことであると思います。そのためには新たなかたちで時代に即しながら空白を埋めつつ発展していくこともこれからのお寺・仏教には必要でしょう。

定例法座

2007年04月16日 | 日記
本日16日は親鸞聖人の月命日にちなんで、午後より定例法座です。正信偈和讃のお勤めのあと、法話、そして5月の法要の案内をしたあと、お茶の時間です。
今日はM本さんがおはぎを持ってきてくださり、みんなでおいしくちょうだいいたしました。M本さん、ごちそうさまでした。

照育

2007年04月15日 | 日記
午前午後とも法事で出かけておりました。
午前の法事には小さな子が8人くらい居て、お勤めのあとの法話ではきちんと正座してお話を聞いてくれました。両手を合わせて合掌する姿は大変微笑ましいものです。
また午後の法事は新制三部経のお勤めで、私が読経していると後ろからなにやら可愛らしい女の子の声が聞こえてきます。私にあわせて三部経を読んでいるのです。しかも経段だけでなく和讃の部分もきちんと!その声を聞いて逆に私が緊張してしまい間違えそうになりました(汗)
さて話を聞いてみると山口県のお寺の幼稚園に通っているとのこと、しかも毎朝勤行の時間があるそうです。なるほど上手なわけだ、と感心してしまいました。
こうして一日を振り返って考えると、午前午後ともに小さな子がお仏壇の前でお参りをする姿に出遭ったわけですが、それによって本当に幼少期から仏縁を結ぶことの大切さを実感しました。
本願寺が宗祖750回大遠忌に向けて推進しているキッズサンガですが、積極的に参加し、ほとけの子を育てていきましょう。

逆らわず

2007年04月14日 | 日記
ただでさえ気持ちに余裕がないうえ、連日の会議で頭を余計に使って普段よりさらにあたふたとしている私ですが、今日中間市にお参りに行った際に少しだけ時間を忘れるような光景に出遭いました。
河川敷で風を全身に受けてゆうゆうと青空の中を泳ぐ無数の鯉のぼりたち、圧巻です。
私も風に逆らわず、ただ身をまかせてみたい、と考えますが・・・。
しかし鯉のぼりをしばらく眺めているうちに、本物の鯉が川の流れに逆らって進んでいく姿を、民意に逆らい、そして良識に逆らって進もうとしているどこかの国の政府の姿と重ね合わせてしまったのでした。(「国民投票法案」衆議院可決)

ころも

2007年04月13日 | 日記
法要の案内状の宛名書きを法要委員会の方々(昨日は全体会でしたが今日は8人ほど)とともにしました。
すでに5月2・3日の法要の案内は機会あるごとにして参りましたが、開催まで20日を切った今、改めて皆さんにご案内を差し上げてより多くの方にお参りしていただこうと考えております。
法要委員会の方をはじめ、多くの方のご協力がないと何一つ行事を進めることが出来ないということを実感します。そこで僧侶が気をつけないといけないことはなんでしょうか。
ついつい私たちは自分自身に対してご門徒が力を尽くして下さっていると考えてしまいがちですが、実はそうではなくて、私が着させていただいている「袈裟」や「法衣」、これに対してのお力添えであるということでしょう。



法要委員会

2007年04月12日 | 日記
本日午後より親鸞聖人750回大遠忌法要ならびに住職継職法要の会議「法要委員会」が当寺本堂にて午後1時半より開かれました。
今回は法要の全体進行を取り仕切っていただく会奉行というお寺様、H性寺とS徳寺のお二人のご住職にもお越し頂き、法要の概要や意義についてご説明いただきました。会奉行様、ご多忙の中誠にありがとうございました。
その後、委員会にて役割分担やスケジュール調整などを話し合ったのですが、我々寺族だけでは解決できない問題も多くの方が集まると祖像もしなかったようなアイデアも出たりして、話し合いが一気に前進することもあり、そんなときはとても気持ちよく全身が鳥肌が立つような興奮をおぼえますね。
何かと忙しいこの時期にもかかわらず、法要の円成のために駆けつけてくださった法要委員の皆様、誠にありがとうございました。そして今後もよろしくお願い申し上げます。

あきらめないということとは

2007年04月11日 | 日記
昨日の法座は「お茶講」という町内の中山地区で古くから行われているものです。
法座の会場がお寺ではなく、ご門徒のお宅に近所の方が集まって行う「講」というかたちであります。
ご家庭のお仏間で一緒に正信偈をお勤めし、膝と膝が触れあうくらいの距離でご法話をお取り次ぎさせて頂くのですが、お寺の本堂でお話しするのと違って、黒板に書いて難しい仏教用語を説明することも出来ない、御聖教や法話を書いたノートに目を落としながら話すこともあまり出来ない(昔は皆そのようにして仏法お取り次ぎしていたのでしょうが)ということで、ほのぼのとしながらもどこか緊張感を持って真剣にご門徒と向き合える感じがして、大変勉強になります。
さて、私がここ鞍手に帰ってきた12年前にはほかの地区にも「講」がありましたが、参加者の高齢化、近所付き合いの減少化、またそれに伴い自分の家族以外を自宅に迎い入れる事への抵抗等の要因、いやいや僧侶側の問題の方が大きいのか?、いくつかの講が消滅してしまいました。
その消滅の仕方にはパターンがあって、毎月一回あっていたのが、2ヶ月に一回になり、季節ごとに一回になり、そして・・・、という感じでした。
存続して欲しいという強い願いを持って、続けましょうよ!と呼びかけてきましたが、一度切れた堤防が水の勢いによってより激しく削られていくように、止めることは出来ませんでた。しかしいまでもまだ存続させる方法があったんではないか?と問うてみることがあります。
四諦の『諦』の理を「あきらめること」と解釈してはいないか?そこにぬくぬくと留まっていないか?
そのうち自らおぼれてしまう危機感に気付いているか?
昨日お参りに来られたご門徒さんの笑顔を見て、このよき伝統を存続させるためにも、常にいろんな可能性を探ることが現在の僧侶に科せられた役目でもあると気を引き締めております。
(あえて自分にプレッシャーをかけています)