いーなごや極楽日記

極楽(名古屋市名東区)に住みながら、当分悟りの開けそうにない一家の毎日を綴ります。
専門である病理学の啓蒙活動も。

奥の松 特別純米

2011年01月26日 | 飲み物、食べ物

 極楽家の晩酌は大抵箱入りのテーブルワインなのですが、大井川鉄道土産の甘ったるい酒を飲んだら、反動でちょっと辛口の日本酒が飲みたくなりました。リカーマウンテンで山積みしてあった福島の「奥の松」です。パック入りのディスカウント清酒に比べれば値段は張りますが、一升瓶で売られている清酒としてはごく普通の値段で、これだけ酒らしい味わいがあれば、普段飲む酒としては十分以上です。

 東北の酒との付き合いは、学生時代に米沢で運転免許合宿をしてからです。酒蔵を見学して買った「東光」と、上杉神社前の酒屋の親父さんの薦めが「富久鶴」でした。

 当時は国税庁の「特級、一級、二級」なんて区分があって、税金さえ納めればまずい酒でも特級が取れるし、醸造用アルコールや糖類、調味料の添加が当たり前にやられてました。一般の酒屋に並ぶのはテレビで宣伝している大手メーカーの酒ばかり。その大手メーカーはと言えば、小さな蔵を叩いて原酒を安く仕入れ、調合して高く売るという「桶買い」がまかり通っていました。当然、まともな味にはなりゃしません。その結果、一般の味覚から本来の日本酒の味が急速に失われていったのです。日本酒にとっては戦中戦後の米不足に続く長い冬の時代だったでしょう。メーカー銘柄の酒に飽き足らない、日本酒の好きな人だけが、まともな酒造りを続けている地方の蔵を支援し、デパートや酒屋を訪ね歩いて地酒を楽しんでいたのです。今みたいに、チェーン店の酒屋に行けば全国の銘酒が選び放題、なんて状況は想像できませんでした。

 だから、東光も富久鶴も、東北の酒って旨いと思いましたね。これは推量に過ぎませんが、酒造りのルーツが関西や中国地方と共通だからじゃないでしょうか。東北は今でこそ酒どころですが、酒造りでは後進地です。江戸時代の酒どころと言えば伊丹、灘、伏見などで、東北では桃山期に最初の造り酒屋ができた記録はあるものの、有名銘柄が生まれるようになったのは遅く明治の後期からと記載がありました。安定した米作があってこそ酒も造れます。米の収量が不安定な江戸時代に、品質で他を圧倒する酒を造るのは確かに難しいでしょう。

 酒造は江戸時代のハイテク産業ですから、東北の諸藩も灘や伏見から一流の杜氏を招聘して、旨い酒を造らせようと努力したみたいです。杜氏の系統なんて難しくて私にはよくわかりませんが、元は関西から始まった酒造もいくつもの系統に分かれて全国に広がった過程で、私の好きな西日本と福島、山形では同じ系統の酒造りが、その味覚と共に伝えられたのでは、と想像します。甘口の酒が伝わった東海地方や、端麗な酒が伝わった北陸とは別系統ということです。

 日沼頼夫(ひぬまよりお)先生という成人T細胞白血病の原因を発見したノーベル賞級のウィルス学者がおられるのですが、先生によれば九州から東北の太平洋岸各地に数百年も前から移民があり、そのせいで九州出身者に多い成人T細胞白血病ウィルス(HTLV-I)感染者が、東北地方にもかなり集簇しているのだそうです。もちろん歴史を調べれば九州から東北への移民の記述はあるでしょうが、ウィルス感染や遺伝子型を調べることによりそれを実証できますし、定量もできるでしょう。

 東北の太平洋岸の漁村はご存知のリアス式海岸で、隣の集落との行き来が極めて不便なため交流が少なく、先祖が九州から持ち込んだウィルスの分布がよくわかるのだということです。九州の味覚や酒造りが移民により東北に伝わったということもありそうですね。
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