Box of Days

~日々の雑念をつらつらと綴るもの也~ by MIYAI

We Shall Over Come : The Seeger Sessons

2006年04月08日 | diary
 のどかな週末のはじまり。レコードを聴いたり、ギターを弾いたり、パソコンのキーボードをかたかた叩いたり。あと、久しぶりに海を見にいこうかな。随分、行ってない気がするから。

 昨日は、ブルース・スプリングスティーンの新作『We Shall Over Come : The Seeger Sessons』を一足はやく聴けるということで、ソニー・ミュージックの本社まで行ってきた。アルバム全曲とメイキングDVDを大音量でたっぷりと味わう幸せ。ありがたやありがたや。

 フォーク・シンガーであるピート・シーガーのカヴァー・アルバムということで、『The Ghost of Tom Joad』や『Devils and Dust』に近い弾き語り調の作品を想像していたのだけど、実際聴いてみると、これが全然そうじゃなかった。

 ずっと気さくで猥雑で陽気で騒々しく楽し気な作品に仕上がっていた。

 とはいえ、これは(サウンド的にもアプローチ的にも)ロックじゃない。それよりもずっと昔からあるアメリカン・ミュージックをベースとしている。また、いわゆるフォーク・ミュージックでもない。これは酒場のバンド・ミュージック。リラックスした空気。フィドルやバンジョーが賑やかに鳴り出すと、気持ち良くなった酔っぱらいが歌い出す。うまいも下手も関係なく、大きな声をあげて、足を踏みならして、みんなで一緒に音楽を楽しむ。ここに収められているのは、そんな種類の音楽だ。

 そして、アプローチもかなりゆるめだ。これほどゆるい空気をもったスプリングスティーンの作品はこれまでなかった気がする。自分達が楽しく演奏すれば、その楽しさはきっと聴く人にも伝わるはず。そんな無邪気な純粋さをスプリングスティーンという人はもっているのかもしれない。ライヴでのナチュラルな立ち振る舞いなどを見ると、いつもそう思う。このアルバムでの演奏は、そんなライヴに近いものだと感じた。でも、これがスタジオ録音であることを考えた場合、本番じゃないと思った。これは、リハだ。

 スプリングスティーンがこのアルバムでやりたかったことは、根源的な音楽の楽しさ体現すること。そして歌い継がれてきた古い歌を、次の世代へと歌い継いでいくことだと、僕は思う。それはとても純粋な行為だ。だからきっと、思慮深くなにかを突き詰めたり、音を作り込むよりも、演奏したときの楽し気なムードやノリを優先したのだろう。しかし、こういうバー・バンド・ミュージックは、その音楽の性質上、生で観て聴いてこそ真価を発揮する音楽だ。ライヴはいい。しかし、録音はとても難しい。

 その点、なごやかなセッション風景の中で歌われるDVDの方が、よりスプリングスティーンのやりたいことが伝わってきて楽しめた。そこには仲間との楽しい時間があり、歌があり、スプリングスティーンの笑顔がある。

 『We Shall Over Come : The Seeger Sessons』のような音楽を演っている無名のミュージシャンは本当にたくさんいる。彼らは総じて他の仕事をしながら、音楽をつづけている。いたって普通の人達だ。でも、そこには彼らの世界があり、人生が投影された歌と演奏がある。今回、スプリングスティーンは、そこに入っていったのだと思う(入っていきたかったんだと思う)。しかし、こうした音楽は、(いくらブルース・スプリングスティーンであっても)ずっとやりつづけてきた人には、どうしたってかなわない。

 言うまでもないことだけど、いい作品には仕上がっている。なにより、スプリングスティーンが楽しそうにしているのが、僕には嬉しい。でも、これは趣味のアルバムだとも思う。スプリングスティーンの素朴な人柄は伝わってくるけれど、彼の他の作品がもつ、 ブルース・スプリングスティーンだけにしか表現し得ない独特の深みは希薄に思える。この辺が好き嫌いの分かれ目かもしれない。

 でもね、前作からたった1年というインターバルだし、前作『Devils and Dust』とのバランスを考えると、これでいいのかもしれないな。なにより本人が気楽に楽しんでるんなら、僕らも気楽に楽しめばいいのだろう。そういう作品が、スプリングスティーンのカタログの中にひとつあるのは、けっして悪いことじゃない。アメリカ発売は4月25日、国内盤は5月24日。どうぞよろしく。