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映画鑑賞「うさぎ追いし 山際勝三郎物語」

2016年12月26日 | 家族
夫に誘われて久しぶりに映画を見に行った。


うさぎ追いし 山際勝三郎物語

作品紹介
近年、物理・化学・医学分野における日本人の功績はめざましく、世界的な賞であるノーベル賞を一度に複数人が受賞することも珍しくはなくなった。
100年以上の歴史を持つ同賞を日本人が初めて受賞したのは、今から60年以上前にさかのぼる。
しかし、それよりもさらに20年以上も前に、ノーベル賞受賞に値する画期的な研究成果をあげた人物がいた――それが、山極勝三郎である。
勝三郎は、世界で初めて人工的な癌の発生実験に成功し、その発生原因と治療法の解明に道を拓いた。
後年、数度にわたりノーベル賞の候補にも推薦され受賞には至らなかったものの、その研究業績は数多くの医学関係者に脈々と受け継がれている。
2人に1人は癌患者と言われ、その患者数は年間90万人を超えるという現在の日本。
今日まで続く癌との闘いに、勝三郎の研究成果がいかに大いなる影響をもたらしているかは計り知れない。
しかし、このような偉大な功績を残した勝三郎についてそう広くは知られていないのもまた現実だ。

本作は、知る人ぞ知る偉人・山極勝三郎の生涯を忠実に描きだした初めての劇映画である。
長野県上田市で生まれ育ち、わずか16歳で上京、他家へ婿養子入り。
病を患いながらも癌研究を成功へと導き、67年間で閉じたその人生は、妻・かね子の献身的な存在と郷里上田への愛に支えられていたといって過言ではない。
その一人の男の壮大なる生きざまを体現するにあたって、日本が誇る最高の役者陣が集結した。山極勝三郎に扮したのは、いまやその姿を見ない日はないほどの大人気実力派俳優・遠藤憲一。
学生時代~晩年までの40年間あまりを圧倒的な存在感で演じきった。
また、勝三郎の傍に寄り添い続けた妻・かね子を演じたのは水野真紀。勝三郎の良き理解者であった親友・滋次郎には豊原功補。
勝三郎とともに研究を成功へと導いた助手・市川には岡部尚、勝三郎の娘(晩年)・梅子には高橋惠子、勝三郎の恩師・三浦には北大路欣也。
死へ至る病・癌との闘いを一方に据えつつ、もう一方では勝三郎を取り巻く師弟愛や家族愛、友情、また生まれ育った信州上田への郷土愛を描き、生きることの喜びや豊かさに胸が熱くなる珠玉の1作がここに誕生した。
ーーーーー

上記の作品説明の通りの映画であった。
千曲川や別所線、信大繊維学部など見慣れた風景が随所に出てきて
とても楽しく見ることが出来た。
観客は私たちと同世代の方がほとんど。
上映は一日一回18:40~20:40だった。


映画の中でノーベル医学生理学賞を逃したエピソードが取り上げられている。
実は山際勝三郎の時代、
医学生理学分野には世界レベルの日本人研究者達がきら星のごとく存在した。
まさにノーベル賞にふさわしい業績が目白押しだったのだ。
しかし日本人の受賞者は一人も出なかった。

1919年2月、第1次世界大戦後のパリ講和会議で
日本が国際連盟規約に人種差別撤廃条項を盛り込むよう提案したが
議長であったウィルソン米国大統領の強引な反対によって実現しなかった。
当時はそのような、白人優越が絶対の世界だったということだ。

我が国の自然科学研究が
明治大正の時代から既に世界の最高レベルにあったことを確認するために
以下、いくつかの例を挙げておく。

北里 柴三郎(1853 - 1931年) 1890年(明治23年)、破傷風菌抗毒素を発見し、さらに血清療法という、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発。1894年(明治27年)、ペストの蔓延していた香港に政府より派遣され、病原菌であるペスト菌を世界で初めて発見。

高峰 譲吉(1854 - 1922年) 1894年(明治27年)、タカジアスターゼ(強力なデンプン分解酵素)の発見、医薬品として商品化。1900年(明治33年)、アドレナリンの発見(結晶化の成功)。これは人類が初めて生命体から取り出した「ホルモン」。

山極 勝三郎(1863 - 1930年) 1915年(大正4年)、世界ではじめて化学物質による人工癌の発生に成功。ひたすらウサギの耳にコールタールを塗擦し続けるという地道な実験を3年以上に渡って行い、人工癌の発生に成功。

鈴木 梅太郎(1874 - 1943年) 米糠を脚気の予防に使えることを発見。1911年(明治44年)オリザニン(後のビタミンB1)を発見。ビタミンという概念を明確に提示。1912年(明治45年)オリザニンを結晶として抽出。

野口 英世(1876年 - 1928年) 黄熱病や梅毒等の研究で知られる。1900年(明治33年)蛇毒の血清学的研究。1913年(大正2年)進行性麻痺・脊髄癆が梅毒の進行例であることを証明。数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞の候補に三度名前が挙がった。
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