美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

ノスタルジア 遠ざかる風景

2011-06-07 11:03:38 | レビュー/感想
そこを出たらきっと自由の天地がある。「当局」の厳しい検閲や抑圧も確かにあったであろう。しかし、「放浪者」(映画ではモスクワから来た詩人アンドレイ・ゴルチャコフ)はむしろそう思うことで自発的に祖国を離れたに違いない。だが、そこにあったのはコミュニティが崩壊し、個々バラバラになってしまった「近代人=末人」たちの姿だった。それは「ドメニコ」が無言のうちに語るように、「信じること」を失った社会の成れの果てであった。終末が近いとの聖カテリーナの啓示を受け、ドメニコは家族を家に閉じ込めて予言の日を待つ。「無垢の人」ノアをとらえ、山の上に巨大な方船を造らせたのも、周りの人々から見ると馬鹿げた啓示だったかもしれない。(旧約聖書『創世記6章-9章』)結局、妻と子ども達は、住民の訴えを聞いた公権力の手で監禁から解放され、今、屋根が壊れ雨水が常に漏れ落ちる、半壊した石造りの家には、ドメニコ一人が孤独に暮らす。この狂人と呼ばれる人物が、愛する者たちからも見捨てられて、なおもたった一人で自分に託された警告のメッセージを公に知らせる役目を果たすとしたら、死を賭けた行動しかもはや残されていない。

とまれ。「アンドレイ」は、「ドメニコ」と出会う。田舎に残る宗教行事に、素朴な民衆の信仰を見ても、懐疑の思いを晴らすことのできない彼ではあったが、ドメニコのまっすぐな人格に心打たれる。直後、ドメニコはローマのスペイン広場で民衆に叫ぶように訴え、自ら灯油をかぶり火をつけて命を断つ。市ヶ谷の自衛隊基地のバルコニーの上で演説し切腹して果てた、あの三島由紀夫のような衝撃的な結末だ。三島の時と同じように、そこにいる誰も常軌を逸した彼の声に耳を傾けようとはしない。しかし、ドメニコの死を賭けた最後の訴えはアンドレイの決心を促す。広場を浸す湯治場の湯がすっかり引いて石畳の底が見えたとき、一本のろうそくに火を点し、その火を消さずに広場を往復すること。それが破滅を回避し世界を救う道だという。まったく馬鹿げたミッションであった。しかし、アンドレイは信じて引き受け、辛抱強く何度も試みてついに約束を果たす。その間の長まわしのカットが感動的だ。

この放浪者「アンドレイ」と狂人「ドメニコ」は、ソ連から亡命し奇跡的に美しい映画を残しつつも寄留地イタリアで客死したアンドレイ・タルコフスキーの揺れ動く魂の似姿であろう。「放浪者」が「狂人」の魂と一つとなって「信じること」への飛躍を遂げた後には、ほんとうにパラディーゾが待っているのだろうか。それは分からない。しかし、とてつもなく馬鹿げたことを信じられるようになったという、そのこと自体が「啓示」と言えるかもしれない。

タルコフスキーの「ノスタルジア」(原題NOSTALGHIA)以上に、「究極のニヒリスト」かもしれない芸術家のロマンティク・アゴニー(Romantic Agony)を夢の織物のように美しく表現した映画はない。そこにもまさしく「常に遠のいてゆく風景、麗しい距離(ディスタンス)」と、かつて北方の詩人(吉田一穂)が謳った芸術創造のメカニズムが働いている。決して得られることがない故に、現代の絶滅貴種たる芸術家の魂を引きつけるもの。永遠の「ノスタルジア」としてのみ存在する世界が、奇跡的に映画のスクリーンに映し出される。廃墟の教会を背景に、故郷の沼のほとりにやすらぐ男の姿。その姿を慰撫するかのように、静かに絶え間なく天上から白い雪が舞い落ち、危うい映写の光と交錯しながら消えてゆく。

ブログ主の運営するギャラリーshopはこちらです