ペアのエナガの他3羽でいるものも見たが、ペアにもう1羽が加わっているということか?常緑の灌木の中に入ったので、またクモの巣の採取かと思ったが、見つからなかったのか、それとも別のことで入ったのかクモの巣を咥えているところは見られなかった。込み入った葉の中にいるのでほとんど全身が見えることはなく、撮影はほとんどできませんでしたが、やっと姿を現したのでシャッターを切った瞬間にはもう枝から飛び出していてぶれてしまいました。
オビドスを後にして、首都リスボンに向かいます。オビドスを出てすぐに昔の水道橋が見えました。
ジェロニモス修道院は大きく壮観でした。内部もドームを支える柱にも細かな彫刻が施されています。
ステンドグラスのマリアやイエス像の顔つきがちょっとアラブ風。
ゆったりと流れるテージョ川。ポルトガルはどこに行っても10㎝四方くらいのやや菱形になった敷石で舗装されていましたが、この場所ももちろんそうでした。自転車で走るとかなり乗り心地が悪そうですが、ポルトガルは坂が多い土地柄のため自転車はあまり利用されていないとか。
ジェロニモス修道院は大きく壮観でした。内部もドームを支える柱にも細かな彫刻が施されています。
ステンドグラスのマリアやイエス像の顔つきがちょっとアラブ風。
ゆったりと流れるテージョ川。ポルトガルはどこに行っても10㎝四方くらいのやや菱形になった敷石で舗装されていましたが、この場所ももちろんそうでした。自転車で走るとかなり乗り心地が悪そうですが、ポルトガルは坂が多い土地柄のため自転車はあまり利用されていないとか。
エナガのペアに出会え、木の幹にあるクモの巣を採取しているところを撮ることができました。
ヒメシャラと思われる木では2つのペアが一緒に数分間も採餌。
しかし、別の場所ではテリトリー争いなのかペア同士が争う場面も見られました。争うと言っても2回接近した程度で体をぶつけるような激しい行動ではありません。
ヒメシャラと思われる木では2つのペアが一緒に数分間も採餌。
しかし、別の場所ではテリトリー争いなのかペア同士が争う場面も見られました。争うと言っても2回接近した程度で体をぶつけるような激しい行動ではありません。
このところエナガが低い所に降りてくることが少なくなり、撮影もできない日が続いているので少し気分を変えて東高根森林公園にでかけた。
冬鳥はミソサザイを確認したのみでしたが、声のみであるもののエナガはペア今季初めての確認でした。エナガはペアを見たものの撮影のチャンスはありませんでした。
早春の花が目を楽しませてくれます。
湿生植物ゾーンではフクジュソウが光沢感のある花を咲かせていました。
マンサクも黄色い花をつけています。早春の花は黄色いものが多いですね。
ヒキガエルとアカガエルまたはヤマアカガエルの卵塊がありました。
冬鳥はミソサザイを確認したのみでしたが、声のみであるもののエナガはペア今季初めての確認でした。エナガはペアを見たものの撮影のチャンスはありませんでした。
早春の花が目を楽しませてくれます。
湿生植物ゾーンではフクジュソウが光沢感のある花を咲かせていました。
マンサクも黄色い花をつけています。早春の花は黄色いものが多いですね。
ヒキガエルとアカガエルまたはヤマアカガエルの卵塊がありました。
旅の4日目。出発まで少し時間があったので海岸まで歩いてみることにした。ホテルは丘の上にあるのでずんずん下って行く。途中に水汲み場だろうか、道路脇にほっこりするデザインのものがあった。海岸まで20分程でしたが、帰りは登り坂なので少し汗ばみました。
この日はナザレから南へ30㎞余りのオビドスへ。オビドスの人口はわずか800人程だという。城壁に囲まれた村で城壁の上を歩きながら家並みや周囲の展望を楽しむことができた。これまでは朝の内は雨や曇りがちの天気が続いていましたが、やっと朝から晴天に恵まれました。
白壁に赤茶色の屋根で統一されている美しい家並み。どこを撮っても絵になるような魅力たっぷりの美しい村でした。
城壁の外側の風景。
この日はナザレから南へ30㎞余りのオビドスへ。オビドスの人口はわずか800人程だという。城壁に囲まれた村で城壁の上を歩きながら家並みや周囲の展望を楽しむことができた。これまでは朝の内は雨や曇りがちの天気が続いていましたが、やっと朝から晴天に恵まれました。
白壁に赤茶色の屋根で統一されている美しい家並み。どこを撮っても絵になるような魅力たっぷりの美しい村でした。
城壁の外側の風景。
エナガは営巣するのではと予想している木の周辺で見ることができた。常緑の灌木の中に入っていったので、クモの巣の採取が目的だろうと推測すると案の定でクモの巣を咥えて出てきた。撮影もしてみましたがピントが甘い写真になってしまいました。この場面だとAFのレンズだとピントが合ったかもしれませんが、私の400㎜レンズはMFなので瞬時のピント合わせは難しい。
コゲラは一か所に留まって採餌していたのでじっくりピント合わせができました。
冬鳥はツグミとシメを確認した程度。
コゲラは一か所に留まって採餌していたのでじっくりピント合わせができました。
冬鳥はツグミとシメを確認した程度。
アルコバサからナザレのホテルに戻りましたが、ホテルに入る前にナザレ教会とメモリア礼拝堂へ。
ナザレ教会の壁面はアズレージョで覆われていました。
メモリア礼拝堂は小さく可愛らしいもの。この中も一面アズレージョで彩られていました。
夕暮れ時のナザレの海岸。
ナザレ教会の壁面はアズレージョで覆われていました。
メモリア礼拝堂は小さく可愛らしいもの。この中も一面アズレージョで彩られていました。
夕暮れ時のナザレの海岸。
オオタカがカラスに追い回されている場面に遭遇しましたが、いったん視界から消え去り再び姿を現したときは、オオタカがカラスを追いかけ、その後ろを10羽ほどのカラスが追いかけるという構図。2回私の頭上を通過してゆきましたが、1回は20メートルもないほどの距離だったので迫力満点でした。
エナガはペアに一度出会ったのみで高所にいたので指をくわえて見ているしかありませんでした。このところはエナガのペアに出会っても大抵は1つのペアのみで多くても2組です。ついこの間まで群れで行動していた頃は7,8羽の群れが2組あったので15,6羽いたことになりますから、まったく数が合いません。他の10羽余りはどこに行ってしまったのでしょうか。
エナガはペアに一度出会ったのみで高所にいたので指をくわえて見ているしかありませんでした。このところはエナガのペアに出会っても大抵は1つのペアのみで多くても2組です。ついこの間まで群れで行動していた頃は7,8羽の群れが2組あったので15,6羽いたことになりますから、まったく数が合いません。他の10羽余りはどこに行ってしまったのでしょうか。
エナガは公園に着いたときは鳴き声が聞こえていましたが、カメラをザックから出している間にどこかに行ってしまい、以後はまったく姿を見せませんでした。しからばと宝来公園に行くと3羽のエナガの群れに出会いましたが、ずっと高所で採餌していたのでかなり距離があり鮮明には写りません。木の表面に小さな虫がいるようで幹に止まって盛んに啄んでいました。この時期のエナガは3羽でいると雌を巡る駆け引きで追いかけあいが始まることが多いですが、この3羽は普段通りの穏やかな動きでした。
バターリャの次はアルコバサのサンタマリア修道院へ。バスで30分程の距離。この修道院も1153年に建設が始まったという歴史的建造物で世界遺産に指定されています。
修道院の中庭。
参事会堂の彫像。
細かな彫刻が施された水鉢。
ところでポルトガル生まれの有名人というとサッカー選手のクリスチアーノ・ロナウドが最も知られていると思いますが、ピアニストでも世界的に活躍している人がいてその名はマリア・ジョアン・ピレシュ。この人の演奏するモーツァルトやシューベルトが好きなのでCDで聴くことが多いです。1944年のリスボン生まれなので現在71歳になりますが、昨夜は1973年に録音したモーツァルトのピアノ協奏曲第23番のCDを聴きました。ピレシュがまだ20代という若い頃の録音でオーケストラも地元のリスボン・グルベンキアン・オーケストラ。1973年録音のわりに全体に音質がよくなくて、そのためなのか、それともその頃は今のピレシュとはピアノの音が違っていたためなのかわかりませんが、ピアノの音にはそれほど特徴がないようです。それに演奏も現在の彼女ほどの表現の深さは感じられません。手首の故障のためしばらくの間演奏活動を中断して、その後1980年代の終わりに近い頃から続々と録音を始めていますが、1973年からの10数年の間に大きな飛躍を遂げたようです。
修道院の中庭。
参事会堂の彫像。
細かな彫刻が施された水鉢。
ところでポルトガル生まれの有名人というとサッカー選手のクリスチアーノ・ロナウドが最も知られていると思いますが、ピアニストでも世界的に活躍している人がいてその名はマリア・ジョアン・ピレシュ。この人の演奏するモーツァルトやシューベルトが好きなのでCDで聴くことが多いです。1944年のリスボン生まれなので現在71歳になりますが、昨夜は1973年に録音したモーツァルトのピアノ協奏曲第23番のCDを聴きました。ピレシュがまだ20代という若い頃の録音でオーケストラも地元のリスボン・グルベンキアン・オーケストラ。1973年録音のわりに全体に音質がよくなくて、そのためなのか、それともその頃は今のピレシュとはピアノの音が違っていたためなのかわかりませんが、ピアノの音にはそれほど特徴がないようです。それに演奏も現在の彼女ほどの表現の深さは感じられません。手首の故障のためしばらくの間演奏活動を中断して、その後1980年代の終わりに近い頃から続々と録音を始めていますが、1973年からの10数年の間に大きな飛躍を遂げたようです。