相互批評の饗宴――幻想史学と仲間たち

 これは幻想史学の提唱から15年経った仲間たちとの相互批評と詩と写真による饗宴である。

書評―古田武彦著『俾弥呼』(ミネルヴァー書房)―室伏志畔

2011年11月09日 | 書評
   九州王朝説の明日のために①         室伏志畔
       
 9月22日付けの西日本新聞に福岡市西区の元岡G6号墳から、銘文入り鉄製太刀が出土したとの報道記事を友人が届けてくれた。そんな記事が載っていたかと産経新聞を広げて見るが、畿内版の新聞には何の痕跡もない。それを確認し送って貰った記事を読むと、その鉄製太刀を「大和朝廷の下賜品」としている。しかし、奥野正男はその元岡の古代製鉄遺跡について200メートルほどの狭い谷に二十八基の製鉄溶鉱炉が並ぶ特筆すべきものとしている。その現地の鉄との成分分析の比較無しに、相変わらず、学者は大和朝廷に関連づけるのに忙しい。
 その一方、九州王朝説関係の冊子を見ると、倭国から日本国への転換について、一昨年来の「禅譲・放伐論争」の延長戦にあり、大化の改新や壬申の乱について、通説と変わらぬ天智と天武の皇統争奪戦をあれこれしている。そこには九州王朝・倭国の影はすでに無い。しかし、白村江の倭国敗戦後の壬申の乱とは、唐によって一度は解体を見た倭国権力が、唐に通じ覚え目出度い明日の日本国権力と、明日をめぐる決死の戦いにあったというのに。それは九州を溢れ畿内へ場所を移し戦われたが、九州王朝説論者がことごとく倭国権力を見失い、皇統メガネを愛用し論じているのだから笑わせる。この状況は、九州王朝説のここ二十年の凋落と無関係でなかろう。そうした中、九州王朝説の提唱者・古田武彦が、その四十年に及ぶ古代史研究の「畢生の一冊」とし、『俾弥呼』を提示する。多くを教えられ報いること少なかった私は、今後、氏に話しかける機会がそうあるとは思えないので、少しく述べてみたいと思う。
     1.九州王朝説と市民の歴史研究運動
 氏の古代史研究の前提に親鸞研究がある。その史料批判から浮き彫りにされた親鸞思想は、本願寺教学からの親鸞の解放と別でなかった。この方法をもって氏は古代史に相渉り「魏志倭人伝」記載の邪馬壹国について、これまでの邪馬台国論は、それを大和と繋ぐために邪馬臺(台)国とした曲学でしかないと断じ、『三国志』全体の「壹」86個と「臺」56個に当たり、そこに一切の誤用がないことを確かめ、邪馬壹国の表記に誤りなしとした。それは大和一元史観からの邪馬壹国の解放と別でなかった。氏はそれを『「邪馬台国」はなかった』(1971年)にまとめ、華々しく70年代初頭に古代史界にデビューした。それに続く『失われた九州王朝』(1973年)は、漢籍に載る倭国は近畿王朝・大和朝廷ではなく、それに先在する九州王朝であったとし、倭国を日本国のかつての亦の名としてきた通説を排し、大和中心の皇統史観の外に九州王朝を屹立させた。これに続く『盗まれた神話』(1975年)は、記紀神話の多くを九州王朝からの盗用とし、天孫降臨神話を対馬海流上の島々からの九州侵攻とし、その天孫降臨地を北九州の高祖山の日向(ひなた)周辺に比定し、そこに倭国の起原を置き、神話を歴史に奪回した。この初期三部作における瞠目すべき発見の連鎖は、大和中心の歴史しか知らない日本人にとって事件であった。
この大和朝廷に先在する九州王朝の提唱は、皇統の枠組みを越えた王権論の提起にほかならない。それは皇統枠内に歴史学を閉じ込めてきた学界との軋轢を生む一方、戦後史学に飽き足らなかった市民の関心を集め、各地で「古田武彦と共に」学ぶ市民の歴史運動が組織されたことは、やはり特筆に値する。それらを全国的な「市民の古代の会」へ組織したのは藤田友治であった。かくして九州王朝説は、氏を頭脳に藤田を組織者にもつことで70年代後半から80年代を席巻し、一時、会員は八百名、非会員シンパはその10倍に及ぶ侮れぬ勢力をもった。この背景に70年代後半に始まった大学闘争が、72年の浅間山荘事件を引き起こすまでに退化し、行き場を失った学生や市民の受け皿として九州王朝説があったことは否めない。その組織者・藤田が学生運動家上がりであったのは偶然ではない。
     2.九州王朝説潰しの謀略
本書は、この初期三部作の嚆矢を成す邪馬壹国の女王・俾弥呼(ヒミカ)についての評伝で、氏の四〇年に渉るさらなる論理の到達点を示すものである。そこで言い残すまいとする氏の踏み込みは時に薄氷を踏み危うさと表裏してあるかに見えるが、私は急ぐまい。
 その九州王朝説は90年代に入ると一転し冬の時代をえる。2004年に藤田と私が「九州王朝説の現在」を「季刊・唯物論研究」87号で特集したとき、「まだ九州王朝説を云う人がいますか」と左翼知識人から云われたことを想い出す。そのため、近時、久しく出版されること少なかった氏の、それから七年した本書が、発売後、一ヶ月余にしてすでに5千部を売り、すでに第2刷に入ったと聞くのは嬉しい。その本書を刊行したミネルヴァー書房が一昨年から復刊した氏の第一期著作集もよいらしく、第二期著作集の復刊も間近いと聞く。この古田武彦リバイバルの兆しは、90年代に九州王朝説離れを来したが、大和中心の歴史学では何事も始まらないため、それに対し最もトータルな批判をもった九州王朝説の見直しにあるのかも知れない。現在の歴史学の閉塞状況の打開のために古田武彦の著作は、その基礎文献としてもっと読まれる必要があろう。
 ところで、私は古田武彦リバイバルの兆しと書いた。7、80年代、向かうところ敵なしの感があった九州王朝説が、なぜ急に90年代に入り冬の時代を迎えたかの反省は、もっとなされる必要がある。それをあらぬ「偽書疑惑」をかけられために起こった不幸な出来事ですますなら、それは大きなまちがいで、そこに思想としての九州王朝説の脆さがあったことの自覚なしに明日の九州王朝説もまたないのだ。
 江戸寛政期の再写本『東日流外三郡誌』を持ち上げた氏に、「歴史を贋造する人たち」と悪罵を投げたのは、「季刊・邪馬台国」の編集長で、数理歴史学を説く安本美典であった。その告発にも似た提起は学問的に争われることなく裁判沙汰になる背景に右翼の影も見られた。それは皇国に九州王朝を先在させたことへの反発にあるが、マスコミによる情報操作は、「市民の古代」の会幹部を浮き足立たせ、反対派の機関誌で論を張る体たらくを生んだ。そのことは、それが仕組まれた政治的な九州王朝説潰しであったことを語る。それは今も、この再写文書の中身を検討するのではなく、和田家文書の保管者であった故和田喜八郎の怪しげな手つきをあげつらい、その手の本がジャーナリズム大賞を受けるところに、この問題の根深さある。その賞のバックに戦後史学の屋台骨を築いた津田左右吉を擁する早稲田大学があり、多くの名だたる文化人がこの書を推し、歴史物を売り物にする出版社が、その後押しをしているのもまた事実なのだ。九州王朝説はこれらを向こうに回す歴史思想として足腰を鍛えることなしに、情報操作による袋叩きは、今後も繰り返されないという保障はどこにもない。
 この騒動の発端を成す氏の『真実の東北王朝』(駿々堂)が発刊されたのは1990年であった。これと前後するように昭和は終焉し、ベルリンの壁の崩壊を序曲としてドミノ倒しのごとく東欧社会主義国家が倒れ、ついに1991年12月にソ連邦も崩壊する。これらの終焉と九州王朝説は何ら関係ないとはいえ、その組織論が古田本による外部意識の注入論であることは、マルクス・レーニン本による左翼組織論と同じで、それにマスコミが疑惑のキャンペーンを張ると会がひとたまりもなく吹っ飛んだことは、90年代を前後する終焉に重なる一面を持つ。そのことは九州王朝説の再編は、それぞれが九州王朝説を内在化させる道を通してしか保持できないことを教えるが、現状は今も氏の本のオウム返しで、その組織的再編もまたその域をでなかったところに、かつてと違う九州王朝説の苦渋のこの20年が刻まれたのだ。
     3.神武東征論と記紀史観
 「偽書疑惑」の中でその払拭に敢然と一人、氏は抗する中で、その再編を安易に古田枠で処理しようとしたことは、「君が代」論の新展開の契機を創った「多元的古代・九州支部」(現・九州古代史の会)等の排除を結果し、氏は自ら九州王朝説の情報源の梯子を外す逆説を結果した。そうした中、氏は九州王朝から近畿王朝への架橋を、神武の畿内大和東征論をする中で、かつて多くの者がはまった記紀史観の迷路に分け入った。それはかつての『三国志』を中心とした漢籍から記紀文献への史料分析の移行を意味する。しかし、そこに内外文献の越えがたい位相差があることを氏は見ることなくたやすく二つを繋いだ。
 神武東征の出発地を記紀の説く南九州から北九州へ、氏は自ら発見した天孫降臨地に改めたものの、東征地を疑うことなく畿内大和に踏み行った。それは戦後史学の神武架空説に対し、記紀の神武東征説にお墨付きを与えることになった。この逆説は大和を疑わずに、そこを大和と信じ踏み込むものでしかない。ここにある欠落は、神武に先立ち大倭(やまと)に降った饒速日命の天神降臨の無視にあった。対馬海流上の島々である天国(あまくに)からの天孫降臨が北九州への侵攻であるなら、それに先立つ天神降臨が北九州を差し置き、瀬戸内海の奥にある畿内大和へ侵攻したと誰が信じえよう。実際、饒速日命の足跡は、今も畿内河内にあるとはいえ、それに先在し、九州の遠賀川流域周辺に今も見ることができる。それは神武東征の前後に刻まれた饒速日命族の大倭(やまと)侵攻と追放の二つの足跡にほかならない。この意味を押さえることなく、氏は記紀の畿内大和への神武東征を首肯したため、これを境に、氏は九州王朝と近畿王朝との二朝並立論へ移行し、九州王朝説は焦点ボケする。それは結果として九州王朝の陰にあった倭国皇統を見失わせ、九州王朝の影の半分を記紀が造作した畿内大和に丸投げした。そのため、氏はその後、倭をある時はチクシと訓み、ヤマトと訓む二元論を強いられる。のみならず、この神武皇統以前の饒速日命皇統の見落としは、『東日流外三郡誌』出現の幻想的背景がそこにあることさえ見ないのだ。ここにある氏の致命的な欠落は九州王朝・倭国の故郷が、倭(やまと)を淵源とすることの見落としにある。換言すれば、原大和としての倭(やまと)が倭国の共同幻想の淵源にあることに気づかないことにある。それなくして、畿内での大和の復活もまたありえない。

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