益鳥の思いつき放題放談之記

他愛のない話題で綴る無責任放談・・・

恐るべし・・・

2008-07-12 17:23:37 | Weblog
2008年7月12日(土) くもり

欠乏症時代


益鳥の身辺余話 AM7時38分、室温27℃、湿度71%、曇り。

自分の都合のいいこと、自分に利用価値のあること、自分が仕切れること・・・自分を取り巻く環境の快適条件に自己中芯的あらゆる「都合よさ」を精査整備配置して、それに少しでもそぐわない事、人から受ける言動、扱い、経緯、結果に至るまで、細かいチェックを入れて、自分が受け入れることができる事かどうかを判定。クリアできないものには徹底した虐待や、反撃、攻撃対象として照準を合わせる心理的ゲームに興じる。

良く小説の中の登場人物が「これまでに彼を心の中で幾たび殺したことか・・・」なんて呟くところがあるが、ちょっと前の戦後と言われる時代には、腹立ち紛れに「そこまでなら・・・」と誰もそういった事態に直面したら・・・という疑似体験を想像した仮定で、理解することが出来たし、そういうこともあるだろう・・・と解釈できた。小説がもしかすると、そういったことがあるかも知れないといった「可能性」を示唆して成り立っているようなものであることを充分に理解して、「虚構」を読解して来たものである。

それが今や、現実社会において虐待や、反撃、攻撃、殺人の主人公として登場したり、しようとする予備軍的人々が増え始めて来た。嘗ては「虚構」は虚構として非現実的世界のこととして、誰の頭の中でもその確固たる明確な性格と地位を占有していた。

嘗ては虚構と現実の間に実に釣り合い良く介在した「時間の経過」というものが存在したものであったが、それが失われるに至る「地球の狭さ」と象徴的言葉で形容されるように、情報通信伝達手段の急速な進歩が、その虚構と現実の間を釣り合い良く割いていた中隔壁の用をなさなくせしめて来たことによるとでも解釈すべきであろうか。現在の「劇場型」社会の登場は現実社会を正に舞台化して恰も寸劇か狂言の舞台のように仕立て、自分がスポットライトを浴びることを悲願する主人公に牛耳られているのである。

多発する「誰でもよかった・・・」無差別殺人や通り魔事件の主人公たちは、そうした出演者と演出者を一人で演じる悲願の人たちである。彼らは、批評家といわれる人々に言われるように、特別な職業や、限られた生活環境によって培われた特異性を所持している人物とは限らない。今や誰でもその彼らになることができる資格者ばかりであることは間違いない。

加藤紘一元幹事長の発言をめぐる馬鹿騒ぎ・・・を見ていても解かるように、相手の真意や、事情や、経緯や背景などを理解し、認め受け入れるべき、人間としての情愛の欠乏、理解力の欠乏、事を見極めることのできる判断力の欠乏・・などが顕著な人間が増えていることが窺える現象である。正に恐ろしい時代、社会になったもんだなや・・・と思うことしきりである。





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