歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

東西宗教交流学会のことなど

2005-07-22 | 日誌 Diary
7月19日から21日まで京都のパレスサイドホテルで東西宗教交流学会に出席。
テーマは「絶対者の人格性と非人格性をめぐって」

        発表者    応答者
7月19日 花岡栄子   森哲郎     
        八木誠一   カール・ベッカー
7月20日 竹村牧男   河波晶
        田中裕    延原時行
7月21日   総括    

7月18日に風邪をこじらせ、喘息の発作がでてしまい、体調は最悪であったが、自宅療養してもホテルで寝ていても同じことと思い、欠席せずに京都に直行。発表者は私を入れて4名。一人当たり2時間が割り当てられ、セッションの間はホテルの自室で休養できるので実にゆったりとした時程であった。通常の学会であったならば、出席できるような状況ではなかったかもしれないが、この学会のゆとりをもった時程のおかげで、開催中に体調も回復し、無事に7月20日の発表を済ますことができた。

東西宗教交流学会終了後、23日から石川県かほく市の西田幾多郎記念館で開催される「西田哲学会」の第三回全国大会も、当初は出席できそうにも思えなかった。しかし、ここでも東京に帰るのも、金沢のホテルで静養しながら学会に出ても同じ事と思い直し、北陸線にて京都から金沢へ。現在、当地のホテルにてこの記事を書いている。

東西宗教交流学会は来年で25周年になるとのこと。今は転換期であるのかもしれない。総会では今後のことが主として話し合われた。私が、この学会にはじめて出たのは、西谷啓治、玉城康四郎、両先生が発表されたときであった。秋月龍老師も参加され、両大家を前に、ウイットに飛んだ、しかしかなり辛口のコメントをしていたのを記憶している。つい先日のような気もするが、考えてみればそれはもう20年も前のことであった。今は、両先生も秋月老師も鬼籍に入られた。

私の発表に対しては、発表時にレスポんデントの延原時行氏と討論できたこと、また、最終日での総括でも、さまざまな方々からコメントを頂いたので、再び、場所的神学の可能性や、人格と普遍との関係を機会を与えられた。

学会を終えて再確認したことのひとつは「人格」という概念自体がキリスト教に由来するものであるがゆえに、日本では、その言葉自体が何を意味するか、それがいかなる世界観に由来するかが理解されておらず、「人格の尊厳」「人格への配慮」ということが教育や政治の場面でいわれても、単なるヒューマニズムに基づく「建前」としてしか理解されておらず、この概念がわれわれの実践に十分に生かされていないということであった。

一個の人格は、歴史的世界(自然と社会)の全体を、その都度含む、それを超越する存在であるということ、それゆえに一個の人格は、自然の全体や社会の全体が、そのためにあるところのものであり、かけがえのない貴重な存在であるという世界観ーそれは人格を抽象的に考えるということではなく、もっとも具体的に考えることの結果なのであるが-こそが、キリスト教が人類に与えたもっとも貴重な思想的遺産である。しかしう、それと同時に、西欧社会で発達した人格概念は、まだ完全なものとは思えない点がいくつかある。そのひとつは、人格が閉ざされた個的実体として、また理性的実体として捉えられたことにあろう。実体とは、存在するために他を必要としないものであり、本質的に自我中心的な存在、私的利害と他者の抑圧と支配を志向する存在である。

今回の大会、またそれに先行したIHARの国際学会のテーマである「絶対者における人格性と非人格性」は八木誠一氏によるものであった。八木氏は「人格主義」の思想を、西欧において発達したキリスト教的文明のもつ排他性、独善性、権力性と結びつけ、これにたいして仏教のもつ「非人格的」な「絶対者」にもとづく東洋社会の寛容性、他者受容性、平和性を対比させ、場所論によって、キリスト教の中にもあった非人格的な絶対者を再発見すべきだと考えたのであろう。

人格性に対する私の考えは八木氏とは異なっていることを確認した。八木氏は、場所論にもとづく聖書神学は「非人格的」であると考えておられるようであったが、氏があげておられた実例は、すべて、「私と汝」「父と子」などの人格的な応答の中で語られたものである。したがって、場所論的思想と人格主義的思想を対比させて、キリスト教の欠陥を「人格主義的思想」に見出すのは間違いであると私には思われたのである。

一個の人格の尊厳よりも、全体を優先する社会、個が全体に埋没するがゆえに、責任の主体が曖昧化されやすい社会、私から見れば頽落した「場の調和を第一義とする」社会である(残念ながら日本社会にはこの傾向がある)。こういう社会は、他者に対して決して寛容とはいえず、異質な思考をするものを排除すると言う意味で、独自の「排他的構造」をもつということはいうまでもなかろう。しかし、この明白な事実は、八木氏のように、人格主義を排他性に、場所性を寛容性にパラレルに考えることの危険性を示すものではないだろうか。求められるものは、場所性と人格性の対比ではなく、その統合である。

一神教的な文明の中で生まれた人格性の概念から、暴力と非寛容を生み出したものは、聖書の中の人格概念に由来するものではない。そうではなくて、人格を自我中心的にかつ実体論的に捕らえる考え方であろう。それは起源において古代の専制政治に由来するものであり、「存在するために他を必要としない絶対者」の観念へと、人々の思想を導く原動力であった。

八木氏が「キリストにおいてある」とか「父が私のうちに、私が父のうちにある」というような場所的表現が聖書の中に多用される実例に注目されたことは大切である。キリストを場所として捕らえることの重要性は、私も自分の発表で指摘した。しかし、私の場合は、それらは徹頭徹尾、人格的なる物の中で、場所的に語られるのである。

すなわち、聖書的な人格の概念は、近代の資本主義社会において成立した人格概念、とりわけキリスト教的な背景を捨象して移植された人格概念から区別されねばならない。自我の私的利害と所有(財産)を第一と考え、ここに人間の権利を求める思想は、近代的なヒューマニズムに基づく限りは欺瞞的であり、決して「人類普遍の原理」などではない。我々は、近代国家において単なる建前と化してしまた「人格」の概念を、いまいちど、聖書に根ざす人格概念によって再考する必要があろう。場所の論理は、私にとっては、まさにそういう文脈においてこそ意味があるのである。
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