湖南村尻百姓記

65歳で、妻の実家のある湖南町に帰郷・帰農して山里暮らし・百姓暮らしをはじめた隠退牧師の日記

いつの間にか猪苗代湖畔の木々も紅葉・・・

2018年10月24日 |  2.猪苗代湖南

今日、妻の実家のおかあさんをデイケアへ送り出した後、午前10:30~午後2:00まで、猪苗代町へ買い物にでかけました。

食料品・日用品と牛糞堆肥を購入するためですが、いつのまにやら、猪苗代湖畔の木々も紅葉をはじめていました。 コシヒカリとはえぬきの稲刈りに集中しているとき、山の木々が紅葉をはじめているのを観察する精神的ゆとりがなかったようです。

妻の実家の棚田の田では、稲刈りを終えて棒がけをしています。例年ですと、湖南・湖東・湖北の田はすべて稲刈りを終えているのですが、県道9号線を通って、湖南・猪苗代間を往復している間、まだ稲刈りが済んでいない田がいくつも目にとまりました。稲刈りがすんだ広大な猪苗代の田には、コハクチョウの群れが2か所で駐屯していました。コハクチョウがやってきているというのに、まだ稲刈りが済んでいない田があちらこちらに・・・。

今日は、会津磐梯山は雲の中に隠れていましたので、猪苗代湖畔は、瀬戸内海のような雰囲気がありました。猪苗代湖畔の道を走る都度、岡山の、筆者の生まれ故郷の琴浦の海を思い出しますが、寂しさを感じることはほとんどありません。琴浦の海に似た猪苗代湖があるためでしょう。

米は、昼と夜の温度差が大きくなり、霜に2~3度あててから刈入れした方が美味しくなるといわれていますから、まだ刈入れを済ませていない田は、量より質の米つくりをされているのかもしれません。 

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湖南の伝説の娘・白妙姫・・・

2018年10月11日 |  2.猪苗代湖南

湖南には、伝説の娘がたくさんいます。

その伝説の娘の末裔の方々も少なくありません。その末裔の方々も<伝説の娘>を自称するので、伝説の娘は、湖南にあふれています。

その中で、筆者が一番尊敬している伝説の娘は、湖南町中野村の<白妙姫>・・・。

<天正17年(1589)、湖南の領主であった戦国大名・会津芦名は侵攻してきた伊達正宗と猪苗代湖北の磐梯山麓で合戦して大敗、湖南・中地の小倉城主伊藤盛恒は領主芦名義広と共に、義広の生家である関東の水戸・佐竹家を目指して逃れました。>

伊藤盛恒の内室・蔀御前と<一人娘白妙姫>は村里に逃れていましたが、白妙姫の母は病死・・・。母の死を看取った白妙姫は、鎧を身にまとい、刀と弓を持って、馬に乗って、<父を追ってともに戦おう>とひとり、<黒川(のちの若松)へ向かったが、父はすでにその会津を脱出した後でした・・・>。

『ぐるっと湖南』には、伝説の娘としてとりあげられていますが、筆者の祖父・吉田永學の先祖は、信州栗田村の真言宗・観聖寺の住職の家系・・・。その観聖寺を開山したのは、舜良・・・。舜良は、同時代(元亀3年(1572年))の武田信玄の千人法幢の名簿に出てきますが、 <伝説>の中に数えてしまうには、白妙姫の話は現実味を帯びています。

湖南には、たくさんの伝説の娘と、その末裔を自称する方々がいますが、白妙姫の末裔の方々も少なくないのでしょうね・・・。まだ、一度もであったことはありませんが・・・。

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湖南は伝説と民話の町・・・

2018年10月09日 |  2.猪苗代湖南

妻のふるさと・湖南は、伝説と民話の町・・・。

現代においても、湖南には、伝説の娘、民話の娘がたくさんいます。湖南の赤津村の長福寺の境内に弁天様が祭られていますが、その弁天様について、伝説・民話が語り伝えられています。

<古道・鎌倉街道の境の峠の西側・会津郡の田代の御堂に弁天様が祭られており、自分がこの世で一番美しいと思っておりました。ところが、そのふもと・高坂の伊勢神宮にきた巫女たちがそれよりも美しいという噂を聞き、御堂から逃げ出してしまったそうです。そして、赤津の断崖絶壁から湖水に身を投げようとしたとき木こりに助けられ、そこに御堂を建ててもらい赤津弁天様としてあがめられるようになりました。赤津では、弁天様に気をつかい顔を汚してお参りしました。それ以来、赤津には弁天様よりきれいな人は生まれないということです>(『ぐるっと湖南』)。

<自分がこの世で一番美しいと思っておりました(自惚れ)。ところが・・・噂を聞き(世間の噂を信用し)、・・・逃げ出し(真実から目をそらし)・・・断崖絶壁から湖水に身を投げようとした(思いのままにならぬときは自殺をしようとするが)・・・赤津弁天様としてあがめられ(しかし、逆に伊勢神宮に対する反逆者として尊ばれ)・・・赤津では(ひろき日本においてここらだけ)、弁天様に気をつかい(伊勢神宮とは疎遠になり)・・・それ以来、赤津には弁天様よりきれいな人は生まれない(伊勢神宮を参拝するひとはいない)・・・>、この伝説・民話の中に、湖南の赤津の伝説・民話の娘たちの末裔の生き方が映し出されているようです。

よって、今でも、湖南の赤津村には、伊勢神宮社は存在しない・・・。

湖南の赤津村の女性たち、赤津弁天様に生き写し・・・。<おらは伝説の娘だ!おめえ、おらのことを知らねえなあ?ここらのもんでねえおめえは、ろくでなしだ!伊勢神宮の巫女とかかわりのあるおめえとは、金輪際口きかねえ!> 

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湖南の農家は、金持ちばかり・・・

2018年09月29日 |  2.猪苗代湖南

今日、妻とふたりで、軽トラにのって、湖南の赤津村、福良村の田をみてまわったのですが、妻は、<今、湖南にのこっている農家は、みんな金持ちばかりね・・・。屋敷も庭も広いし、田畑も数10町単位だし、山林になると、どれだけあることやら・・・。湖南で農業を続けることができない農家は、みんな湖南を離れていったのよね・・・。私たちは、やはり、湖南で一番小さな農家で、一番貧しい農家であるみたい・・・。農家にもはいれず、百姓なのよね・・・>と話していました。

妻の実家が、湖南の他の農家と同じように、大きな農家であったとしたら、筆者、妻と一緒に、妻のふるさと・湖南に戻ることはなかったでしょう。おとうさんが残してくれた田4.0反、畑0.6反、家・庭0.1反、山林8.0反と聞いて、<これなら、人生の晩年、自給自足用に、有機・無農薬で米や野菜をつくって生きていくことができそう・・・>と思ったので、日本基督教団の隠退牧師になったとき、迷わず、妻のふるさと・湖南に帰郷・帰農することができました。

どんどん、農地と栽培が大規模化する、純然たる農村的地域社会で、筆者と妻が、今のような百姓暮らしを続けることができるのは、妻の実家のおとうさんの百姓哲学と、それを継承して生かした筆者と妻が集めた知識・技術の集積のため・・・。

筆者と妻の晩年の暮らしは、富める農家の中の貧しきラザロにすぎません。

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猪苗代湖の東西南北の田をみてまわる・・・

2018年09月16日 |  2.猪苗代湖南

今日、妻とふたりで、猪苗代町へ食料品の買い出しにでかけました。

猪苗代町へつくまでは、国道294号線・県道9号線・国道49号線沿いの稲田の様子を観察・・・。まだ、稲刈りをしている田はなさそうです。買い物をすませたあとは、国道49号線を西に走って、猪苗代湖畔の道から国道294号線に抜けて湖南に戻ってきましたが、その間も、稲田の様子を観察・・・。

今年は、湖南の赤津村が近辺では一番早く田植えを済ませていましたので、もしかしたら、稲刈りも、湖南の赤津村が一番早いのかもしれません。ひえが繁茂したり、稲が倒伏しはじめた田があちらこちらで目につきました。素人百姓顔負けのプロの農家のひえが繁茂して倒伏しはじめた田・・・。語る言葉を失ってしまいます。 

家に戻ると、疲れが出て、仮眠・・・。目がさめたとき、村野雅義著『日本のおコメ コメづくりの現場を390日、“百姓”を徹底体験する』を最後まで精読しました。

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猪苗代湖一周を目指したけれど・・・

2018年08月15日 |  2.猪苗代湖南

娘が、ご主人が猪苗代湖をみたいといっているといいますので、筆者が運転して、猪苗代湖の小倉沢の湖岸をくるまで走ってみることにしました。

小倉沢の集落を通り過ぎて、林道へ・・・。筆者が、<猪苗代湖畔を一周してみる?>と後部座席のふたりにといかけますと、ふたりとも、<行ってみたい!> それで、猪苗代湖畔をドライブで一周するときの最初の難関、小倉沢からの林道を延々とドライブして、湖畔にたどりつきました。

そこには、観光客がいっぱい・・。水泳場で遊ぶ親子ずれ、水上オートバイ(?)で遊ぶ若者から高齢者までの軍団、ヨットハーバーに並ぶ白帆のヨットたち・・・、まるで、別世界のようになった夏の猪苗代湖畔・・・。湖水に浮かぶ磐梯山や白いヨットがとても美しく見えます。空は夏空、白い入道雲、湖水の水はみずいろ・・・。カラフルな水着を着て遊ぶこどもたち・・・。駐車場にとまったくるまは、ほとんどが県外ナンバー、群馬・栃木・茨城・埼玉・千葉・静岡・三重・宮城・・・。生活の場所としての湖南とは別の湖畔の姿がそこにありました。

国道49号線に入り、翁駅の近くまでいったとき、渋滞に巻き込まれました。それで、娘は、猪苗代湖一周を断念、もときた道を戻り、国道294号線に入り、湖南まで戻ってきました。国道49号線を走って猪苗代湖の上戸経由で湖南に戻ろうものなら、午後6時すぎになるところ、国道294号線の渋滞部分を避けて農道を走り国道294号線をかえってきたところ、午後4時過ぎに家にたどりつきました。 

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湖南5ケ村の田を見てまわる・・・

2018年05月31日 |  2.猪苗代湖南

午後3:30に、育苗用ハウスの片付けを終わり、そのあと、妻とふたりで、湖南5ケ村の田を見てまわりました。

どの村の田も、田植はすべて終わっていました。いつも、さなぶりのときも田植えをしている筆者と妻でさへ、今年は、8~9日前に田植えを終えていますから、専業農家やプロの農家(兼業農家)の方々は、それ以上に早く田植を終えてしまったことでしょう。

田に入って作業をしている農家は、ひとりもいない・・・。と、思っていましたら、湖南の三代村の、湖南史談会のKanedaさん、ご自分の田で補植作業をされていました。道路脇にくるまをとめて、Kanedaさんと少しく立ち話し・・・。Kanedaさん、お元気そうでなによりでした。この前お会いしたときは、青白い顔をされていたのですが、今日は、少しく日焼けして、本来のKanedaさんの顔の色に戻っていました。 

農家は、元気な姿が一番似合っています。 

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土・日は湖南のさくら満開で観光客が押し寄せる・・・

2018年04月23日 |  2.猪苗代湖南

4月21日(土)と22日(日)、湖南のさくらが満開を迎えたため、観光客が湖南に押し寄せてきたようです。

国道294号線は、くるまのラッシュ・・・。関東からのくるまも多く、高齢化の進む湖南にあっては、青年・壮年の方々の姿が目にとまる季節です。

湖南の農家は、土・日の2日間、どの農家でも、田畑の作業でいそがしく立ち振る舞っていました。湖南のプロの農家(兼業農家)は、土・日に農作業を集中的にこなしている人々が少なくありませんので、この土・日は、まさに農繁期モード・・・。

しかし、一夜あけて月曜日の今日、湖南の田畑は、閑散としていて、農作業をされているのは、<専業農家>の方々ばかり・・・。それと、<専業百姓>の筆者と妻・・・。<専業農家>の方々は、筆者と妻を馬鹿にすることはありませんが、<プロの農家(兼業農家)>の方々は、素人百姓の筆者と妻を<馬鹿農家>よばわりするのが常・・・。素人百姓でも、<専業>は<専業>、 土・日だけの<プロの農家(兼業農家)>に<馬鹿農家>よばわりされる所以はないと思われるのですが・・・。

ともあれ、農村的地域社会にあっては、田畑で、農家がいそがしく農作業している風景が一番似あっています。 観光客の姿が見えなくなると、<プロの農家(兼業農家)>の姿も見えなくなるのは、なにとなく淋しい感じがします。

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田んぼで<焼畑>・・・?

2018年04月08日 |  2.猪苗代湖南

今年の湖南、田んぼに残った稲わらや稲株を焼いている農家の姿があちらこちらに見られます。

焼かれて黒くなった田の面は、まるで<焼畑>農業をしているような感じ・・・。昨年、刈入時期に雨の日が多く、その前の中干しが十分できなかった田では、コンバインを入れることができず、天候が回復するのを待ちに待って、しかたなく、ぬかるんだ田でコンバインを走らせた農家は、高刈りをしていますので、背丈の高い稲株がかなり残っているようです。

今日、赤津村の長福寺の総会と世話人会があったとき、湖南の赤津村の農家の方に尋ねたところ、背丈の高い稲株や稲わらをそのままにして大型トラクターを走らせると、それが車軸にからみついて、取り除くのが大変になるため、焼き払っていると教えてくださいました。

筆者と妻、毎年、田畑で農作業をはじめるときは、稲わらや農業用資材、野菜の残滓などをできる限り取り除くことにしています。農業用資材は廃棄して、そのほかの稲わらや野菜の残滓は、堆肥場で堆肥にします。湖南に帰郷・帰農して今年で6年目、いままで一度も<火>を使って稲わらや野菜の残滓を処分したことはありません。<火>を使うと、土の中にいる生き物が死んでしまうためです。こどものころ、熱い湯を庭にまいたところ、筆者の母から酷く叱られたことがあります。土に熱湯をかけると、土の中の生きものが死んでしまうので、絶対にそういうことをしてはいけないと・・・。火で焼きつくすことも同じです。 

<百姓>として生きるということは、生きとし生けるものを大切にして、無用な殺生をしないということと同義です。 

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湖南では、8町米をつくると収入は1,000万円・・・

2018年03月14日 |  2.猪苗代湖南

湖南では、8町米をつくると、その農家の収入は、1,000万円になるとか・・・。

 今日、妻が耳にした湖南の農家の方の話しですが、筆者が、読んだことがある大規模水田経営に関する本は、1冊・・・。1995年に発行された、和田照男編『大規模水田経営の成長と管理』(東京大学出版会、8,000円)のみ・・・。

その本によりますと、販売金額1,000万円以上の農家は、<農業自立のひとつの線>を越えていることになります。全農家の5%に該当するようですが、その5%で、農家の販売額の44%のシェアをもっているそうです。そんな農家と、わずか4.8反の田畑で米と野菜を栽培する筆者と妻とでは、比較する意味すらありません。妻は、湖南で一番小さな農家として、自給自足に徹した米つくり、野菜つくりに徹していくつもりのようです。

有機栽培・無農薬栽培を固守して・・・。 

米も野菜も、量より質を追求・・・。 

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阿賀野川から日橋川へ、日橋川から猪苗代湖へ・・・

2018年03月12日 |  2.猪苗代湖南

昨日、このブログで紹介した、会津藩の廻米路が出てくる歌の一節、

東に天鏡の海眺めつつ 赤井原宿黒森峠

難なく越えて安積なる 御代官所の赤津宿
此処で落ち合う海路客 磐梯白く豪雪で
会津は四方閉ざされても 行かねばならぬ江戸表
恵日大寺篠山港から 白河夜船で漕ぎつける
ながめ赤津の秋山港 廻米蔵も賑わえる・・・

<恵日大寺篠山港から 白河夜船で漕ぎつける>が気になって、今朝、Googleの地図で確認してみました。すると、現在でも、阿賀野川の上流、塩川村で、阿賀野川の本流から分かれて、枝流の日橋川に入ります。その日橋川、恵日大寺の南側を流れ、その先は、猪苗代湖に・・・。つまり、阿賀野川の河口のある新潟から、猪苗代湖戸の口まで、ひとつの川でつながる水路があるということ、その猪苗代湖に注ぎ込む、妻のふるさと・湖南の赤津村の会津布引山を源流とする常夏川は、阿賀野川系の川であり、会津布引山を源流とする川は、猪苗代湖を経て、阿賀野川の河口にある新潟まで1本の水路でつながっているということを意味します。

妻の父方の先祖は、越後の西蒲原郡・・・。妻の先祖は、阿賀野川をのぼって、ひとつの支流の源流のある湖南の赤津村までたどりついたことになります。 

雪解けの豊かな水を、奥羽山脈を越えて、郡山の平野に水を引き入れたのが安積疎水・・・。安積疎水の取水口は、国道49号線沿いの猪苗代湖畔にあります。奥羽山脈の<山陰>側(会津猪苗代)の水を<山陽>側(安積郡山)に 流れるようにしたのが安積疎水・・・。安積疎水の事業は、中国山地の<山陰>側(鳥取)の雪解け水を<山陽>側(岡山)に流れるようにして、恒常的に水不足で、干害が多発する<山陽>側(岡山)に水を供給するという大事業に匹敵する大事業・・・! 壮大なる大事業であったようです。

筆者と妻、一度、湖南(赤津)→常夏川→猪苗代湖→日橋川→阿賀野川 →西蒲原郡(新潟)まで、川沿いをドライブしてみたい・・・。

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湖南には通史がない・・・

2018年03月11日 |  2.猪苗代湖南

妻のふるさと・湖南には、通史がなさそうです。

筆者が60歳になり、年金の一部が入ってきたとき、65歳のときに、妻のふるさと・湖南に帰郷・帰農して、人生の晩年を過ごすために、妻のふるさと・湖南に関する史資料を集めました。インターネットの日本の古本屋経由で集めた本が大半ですが、7~8冊は、郡山市内の古書店から購入しました。

しかし、湖南の歴史・民俗を知るための、総合的な概説書に遭遇することはありませんでした。ほとんどが、史資料を収集して収録するのみで、その内容は、断片的な知識の寄せ集めです。湖南の歴史・民俗に関する個々別々な資料の集積も大切なのでしょうが、その集積した史資料を分析して総合するための枠組みが未形成です。

湖南には、郷土史の物知りがいても、郷土史の研究者がいない・・・。

湖南史談会の役員会で、湖南の歴史をもっと調べましょうと提案したところ、<湖南の歴史はもうええ!湖南の歴史を調べたければ、勝手に調べろ!>と言われて、筆者、湖南史談会を脱会することにしました。湖南史談会の元会長をされていた秋山雄記先生の話しでは、湖南史談会の前の世代のひとびとが、湖南の民家から借りた古文書を返さないところか、それを借りた会員の遺族がその古文書を一括して古書店に売却してしまったとかで、湖南から大切な史資料がなくなってしまい、いまだにその史資料の行方が分からないとか・・・。湖南史談会が、もう一度、湖南の民家から史資料を収集して、湖南の歴史を明らかにしていく機会が与えられるのかどうか、先の見通しはそれほど明るくはなさそうです。

湖南の歴史をひもとこうとしますと、資料の少なさに、ただただ戸惑うばかり・・・。湖南には、誰も、<湖南歴史資料館>をつくろうとしたひとはいないのでしょうね・・・。

湖南公民館に、郷土資料に関する図書がありますが、筆者が最初に尋ねたとき、当時館長をされていたから、<ここらのもんでねえもんに、ここらの史資料は見せられねえ!>といわれ、それ以来、今日に至るまで、見たことはありません。湖南公民館の事務所の鍵のかかった本箱に収納されていますので・・・。郡山市の図書館や文書館に行けば閲覧できる本ばかりだったように記憶していますので、これからも筆者とかかわりのない資料群です。

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湖南が会津に入るとき・・・

2017年12月12日 |  2.猪苗代湖南

妻のふるさと・福島県郡山市湖南町赤津村が<会津>に入るときは、天気予報のときだけ・・・。

福島気象台の天気予報をみますと、郡山市湖南町は、<会津>地方の<会津中部>に属しています。会津若松市・会津坂下町・会津美里町と同じ天気・・・。一方、湖北の猪苗代町は<会津北部>に属します。

同じ猪苗代湖の北と南なのに、湖北(猪苗代町)と湖南(郡山市湖南町)は、天候も異なるようです。

会津若松市が標高200mなのに、郡山市湖南の標高は530m・・・。標高が高いところから、郡山市湖南の天気は、<会津中部>ではなく<会津南部>の天気に近いような気がします。

しかし、湖南の天気は、湖南の人々の気質と同じで、<会津北部>、<会津中部>、<会津南部>の間を行ったり来たり・・・。時として、会津ではなく二本松の天気だったり・・・。主体性がなく付和雷同して、いつも貧乏くじを引き、負の側面だけを押しつけられるのが習い性になってしまった感があります。

湖南は、会津藩からも、白河藩からも、二本松藩からも、辺境の地として冷遇されてきた村々・・・。長州藩にも、同じような村々がありました。<本藩別業の地>と言われた、広島藩との国境にある本郷村・・・。

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近世幕藩体制下の猪苗代湖の湖上漕船・・・

2017年11月23日 |  2.猪苗代湖南

今日夜、近世幕藩体制下の猪苗代湖の湖上漕船に関する論文を読んでいました。

<猪苗代湖の湖上漕船>については、郡山地方史研究会の大河先生から研究テーマにするようにと指導されているのですが、近世幕藩体制下の猪苗代湖の湖上漕船の概略を把握しようと思って読みはじめました。

なかなか、難しい郷土史研究のテーマであるようです。赤津村にあったという、<会津製鉄所>の歴史を明らかにするのと同じ程度の困難さに直面しそうです。いずれも、会津藩の独占事業ですから・・・。

今日読んだ、湖南史談会の創立メンバーによる小論文には、<伝説>があっても<史資料>が少ない・・・。とりあえず、

01.『郡山市史』
02.福良の<武藤家文書>
03.三代の<鈴木家文書>
04.中地の<石井家文書>
05.会津藩<湖上船行之法令>
06.<浜坪口御番所異聞>
07.<文化二年石造金毘羅供養塔>
08.<横沢浜路地区編集誌>
09.<天保二年二本松藩領舘村名主書上帳>
10.<同人別移動伺書>
11.<二本松領浜路村と会津藩潟村との山論訴訟問題資料>
12.<宝暦二年会津赤井村行者治左衛門之往来手形>
13.<天保九年壷下口留番所留書>
14.会津藩による<山ノ内五箇郷会津復帰方願上書>
15.<寛文十年猪苗代湖上漕船之法令>
16.『秋山家文書』

などの史資料があげられていますが、2016年8月の湖南史談会の役員会で、<湖南の歴史を調べたければ勝ってに調べろ。>と言われ、筆者、熟慮した結果、脱会を決めました。筆者は、現在の湖南史談会の研究者ではなく、昔のふるきよき時代の湖南史談会の研究者の研究成果を踏まえることにしました。

そのほかにも、筆者が集めた史資料を精読して、近世幕藩体制下の猪苗代湖の湖上漕船について、無学歴・無資格、歴史研究の門外漢である筆者でも、研究できるのかどうか、そのための資料収集が可能なのかどうか、この冬、見通しを立てることにします。

明治以降の資料では、日本の古本屋で検索しますと、『猪苗代湖南汽船KK資料』(秦川堂書店・ 東京都千代田区神田神保町、¥577,500)がヒットしました。この資料には、近世の猪苗代湖の湖上漕船に関する記述があるのでしょうか・・・?

Googleで<猪苗代湖南汽船>で検索しますと、次の記事がありました。

<今回、新着資料としてご紹介するのは、物流博物館の「会津猪苗代湖蒸汽通運丸広告」です。
 


この資料は、猪苗代湖に就航していた蒸気船「通運丸」の明治15年4月の広告です。通運丸は、内国通運会社(現・日本通運㈱の前身)が明治10年(1877)に開業し、江戸川・利根川を中心に、鬼怒川・渡良瀬川・霞ヶ浦・北浦などで貨客の輸送に活躍した蒸気船です。数多く製造され、明治末には第41号船まで存在していたことが確認できます。その姿は、錦絵などにも取り上げられ、多くは外輪船として描かれていますが、実際にはスクリュー船も相当数ありました。内国通運では、東京湾から館山や伊豆方面への海上航路にも通運丸を就航させていましたが、猪苗代湖をはじめ、浜名湖、秋田県などの地域にも通運丸が就航していたことはあまり知られていません。東京・千葉方面以外での通運丸の様子を知ることができる資料はこれまで当館ではほとんど収蔵しておらず、今回が初めてとなります。

本資料の内容は、発着時刻を改めた旨を周知するものになっています。「但暴風之節ハ此限ニアラス」とあるのは、猪苗代湖では古来天候の急変、特有の西風が恐れられていた(『猪苗代町史』)ためでしょうか。広告主の「内国通運会社翁澤汽船取扱所」は明治14年設立(『福島県史』)、同年通運丸を2船体新造し、翌年に就航させます。『汽船表』『日本船名録』によると、いずれも舟津(現・福島県湖南町)で製造されたスクリュー船で、第一号船は明治19年初まで、第二号船は明治21年末までの記録が確認できます。船主は資料によって、内国通運会社、もしくは汽船取扱所発起人の一人である渡部源十郎他23名と記されています>。

近世幕藩体制下にの猪苗代湖上の船がどの港からどの港へ走っていたのかを知る参考になりそうです。

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湖南は、ねたみやっかみの酷いところ・・・

2017年11月23日 |  2.猪苗代湖南

今日、郡山に食料品の買い出しに行ったとき、湖南の農家の方と話しをする機会がありました。

話しは、おのずと、今年の米の収穫量について・・・。その農家の方、<湖南は、ねたみやっかみの酷いところ・・・。反あたり12俵とれたなんていうと、ねたみやっかみから、誹謗中傷・罵詈雑言のあめあられ・・・>と話しておられました。

農家Aが農家Bの栽培できないものを栽培すると、農家Bは、ねたみやっかみから農家Aに対して、あることないこと、誹謗中傷・罵詈雑言を並べ立てて、非難と嫌がらせをするようです。普通、大人になると、たとえ、そういう思いを持っていたとしても胸中深く隠しおくものですが、湖南の<プロの農家>(兼業農家)は、認知症的症状を示して、こころにおもったことをすぐ言葉と態度に出すそうです。

なかには、専業農家の誰からも相手にされずに、<どうだ、オラの腕前は!>と、常に、反あたり12俵採れたと吹聴するひとが少なくありませんが、彼らは、自分自身が他の農家からねたみやっかみの対象にされたいという強い願望を持っているのでしょう。しかし、露骨にそれを人前でさらすので、誰も彼らの言葉を信じる農家はいないようです。

<おらの家は、おめえの家より大きいべえ!>
<おらの庭は、おめえの庭より広いべえ!>
<おらの田は、おめえの田よりたくさん採れる!くやしいべえ?>
<おらの畑のインゲンは、毎年豊作だ!しろうとのおめえらには、真似はできねえべえ?>
<おらのかかあは、太ってるべえ!おんなは太ってる方があじがええんだ!>
<おらの田には、虫がいねえべえ?なんでおめえの田には、おらが知らねえような虫がいっぱいいんだ?>
<ここらでは農薬まかねえと米も野菜もつくれねえ!おめえ、もしかしたら農薬のまきかたひとつ知らねえのけ?>
<どうだ!おそれいったか?おらあ、ここらの誰よりも米も野菜もつくり方が上手んだ!>

おらが、おらが、おらが・・・。日本全国どこを探しても、こんなに<おらが>虫が繁殖している場所はないのではないでしょうか。<おらが>は、湖南の農家のこころに住みついて離れない<オラ蛾>虫のこと・・・。認知症は、年老いてから出てきたこどもの頃の性格・・・。湖南の教育、まさか<オラ蛾>虫を育てる教育をしているのではないでしょうね・・・?湖南では、こどももとしよりも、みんな<オラ蛾>虫に噛まれて、その毒素に冒されているようです。

郡山で、湖南の農家の方と話しをしたあと、2013年4月1日に妻のふるさと・湖南に帰郷・帰農してから、湖南のプロの農家の方々から浴びせられて誹謗中傷・罵詈雑言を思い出していました。

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