湖南村尻百姓記

65歳で、妻の実家のある湖南町に帰郷・帰農して山里暮らし・百姓暮らしをはじめた隠退牧師の日記

農民の按手礼・・・

2018年04月06日 |  2.日本基督教団

筆者、日本基督教団神奈川教区で准允式を受け、西中国教区で按手礼をうけました。

按手礼を受けると、日本基督教団の正教師になるのですが、西中国教区で按手礼を受けたとき、他の牧師たちから笑われることになりました。

その理由は、按手礼を受けるときに、ひざまづくのですが、筆者は、両膝をついて按手礼を受けたというのです。<さすが、農村伝道神学校の卒業生、農民の按手礼を受けている>と酷評されました。そして、東京神学大学、同志社、関学などの神学部を出た牧師は、ヨーロッパの騎士が片ひざをついてひざまづく形で按手礼を受ける・・・、と説明してくれました。

日本基督教団の牧師になるための按手礼を受けるときの姿勢には、1.両膝をつく農民の姿勢と、2.片膝をつく騎士の姿勢の2通りがあることを知りました。

筆者が、両膝をついてひざまづいたのは、高校3年生のとき、Sweden Covenant Mission のグンナル・クリスチャンソン宣教師から、洗礼を受けるとき、両膝をついてひざまずくように指導されたからです。筆者、そのときの姿勢で、神奈川教区で准允を受け、西中国教区で按手礼を受けました。

日本基督教団には、平民の教会ではなく、士族の教会であるとの認識が根強くあるのでしょう。ですから、農民の姿勢ではなく、騎士の姿勢の方が好まれる・・・。 

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山口東分区の牧師会から排除された理由、オウム真理教問題・・・

2018年04月06日 |  2.日本基督教団

日本基督教団西中国教区の山口東分区の牧師会から、筆者が排除・疎外された理由・・・

1.筆者が、日本基督教団神奈川教区に在任中、基地問題小委員会に連座して、西中国教区山口東分区が岩国兵士センターで取り組んでいる米兵に対する日本人女性の斡旋行為を批判したこと(山口東分区の牧師たちは、筆者が赴任後そのことを知ったとか・・・)

2.当時の山口東分区長の筆者に対する言葉・・・。<おまえを、西中国教区の部落差別問題特別委員会の委員にしたのは、お前を委員にすれば、なにもしない、なにもできないと思ったからだ。それなのに、なぜ、被差別部落に出入りして、共産党でさへ批判している部落解放同盟と行動を共にしているのだ?山口東分区の教会には、被差別部落の出身者が少なくない。みんな、お前が被差別部落に出入りするようになってはらはらしている。即刻、部落に出入りするのはやめろ!>

3.山口東分区の牧師会で、筆者が、死海文書について、エッセネ派が集団生活をしていた遺跡から武器製造をしていた痕跡が発見されている。エッセネ派は、世俗社会から隠遁した信仰生活をしていたのではなく、当時のおかれた政治的・軍事的状況の中で敬虔な信仰を生き抜いていた。しかし、今の日本の社会で急成長しているオウム真理教は、過激的で容認できない・・・と発題したとき、東京神学大学を出た山口東分区長の牧師が、<オウム真理教の松本智津夫は、たくさんの弟子をつくった現代の宗教家の成功者だ。お前は、何人、受洗者をだしたんだ? 宗教家の劣等性がその成功者を軽々しく批判すべきではない!傲慢だ!>と激怒していました。例のオウム真理教問題が発覚する前の話です。

4.筆者が、山口東分区の某教会の教会役員の中には、統一協会を間接的に資金援助しているひとがいる、山口東分区として明確にしなければならないのでは・・・? と話したところ、当時の山口東分区の分区長、<あのひとは、山口東分区の教会の中で、企業家で最大の献金者だ! それなのに、そんな信仰深いひとを、お前は、どうして軽々しく非難するんだ? 問題があるのは、彼の方ではなくお前のほうだ!>と激怒していました。

5.また、山口東分区長は、<お前は、副業で、山口県東部産業技術学校で情報処理を教えているそうではないか?職業訓練校は、いわばこの世の落ちこぼれが行くところだろう?山口東分区の牧師たちが幼児教育にかかわっているのは、それが聖なるつとめだからだ。子供の真白なこころに福音を刻むことができるんだから。しかし、汚れにみちた大人に教えるのとは、全くわけが違う!世俗の副業を持つ牧師は、もう牧師ではない。わたしたちの仲間ではない。信徒伝道者に過ぎない。これからはお前を牧師扱いはしない!>などと激怒していました。

6.・・・
7.・・・
8.・・・

99.・・・

やがて、筆者は、日本基督教団西中国教区山口東分区の牧師会から離脱してしましました。筆者が牧師をしていた教会の役員会は、<そこまで言われて、山口東分区の牧師会に出る必要はありません。前任牧師が自害したあと、吉田先生が苦労して再建しようと努力されたことは、教会役員会がよく知っていますから・・・。今、吉田先生に見捨てられると、この教会はなくなってしまいます。1年でも、1か月でも、1週間でもいいでですから、この教会の存続のために、牧師としてかかわってくださいませんか・・・>と話していました。その要望を聞き入れて、筆者、前任者自害により教会経営困難になった教会の閉鎖のために派遣されたにもかかわらず、30年間、その教会を存続させることになりました。再建はできませんでしたが・・・。

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神学校の入学式の案内状に・・・

2018年03月16日 |  2.日本基督教団

今日、はがきで、<農村伝道神学校第70回入学式の御案内>が届きました。

その中に、こんな案内が・・・。

<始業講演 4月5日(木)午後1時公開
「お元気ですか」と言わないで
 -HIV/エイズとキリスト教
平良愛香(本校教師)>

平良愛香氏とは、筆者、一面識もありませんが、インターネットで確認しますと、なにやらあやしげな記事が羅列されています。 

<日本のキリスト教会において、男性同性愛者であることをカミングアウトしたうえで、初めて牧師として正式に任用された。農村伝道神学校卒業、2003年から日本基督教団三・一教会牧師。日本基督教団神奈川教区宣教部委員長、同教団神奈川教区副議長を務めたのち、2013年より同神奈川教区総会議長を2期4年務める。そのほかキリストの風集会代表。農村伝道神学校教師。日本聖書神学校特別講師。立教大学非常勤講師、桜美林大学非常勤講師。著作に、『あなたが気づかないだけで神様もゲイもいつもあなたのそばにいる』がある>。

日本基督教団西中国教区の山口の小さな教会の牧師をしていたとき、農村伝道神学校のときの後輩から電話があり<同性愛者である>とカミングアウトされてとまどったことがありますが、 平良愛香氏とは別人・・・。そのとき、筆者、後輩に、<どこから電話されているのですか?>と尋ねたところ、<精神病院からだ>という返事でした。<入院されているんですか?>と尋ねたところ、<精神科の看護人をしている>とのことでした。

筆者、逆立ちしてみたところで、理解し得ることがらではありません。聖書の教えに反する、理解しがたいことを理解する必要はありません。

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ars longa, vita brevis・・・

2016年09月25日 |  2.日本基督教団

ars longa, vita brevis.

筆者が、一番最初にこの言葉に接したのは、高校生のとき・・・。ゲーテの『ファウスト』の中に出てきました。この言葉、ゲーテも、ギリシアの医学者ヒッポクラテスの言葉からの引用だったようです。

筆者と妻、日本基督教団の牧師として、旧長州藩領地で30年間棲息してきましたが、その間、筆者は、幕府の代官所があった倉敷出身として、妻は、会津藩出身として、いろいろな排除・疎外にさらされてきましたが、2013年4月1日に、妻のふるさと・湖南に帰郷・帰農してからは、福島のひとびとに旧長州藩領地からの移住者としていろいろな排除・疎外にさらされてきました。そのことから、筆者と妻、旧長州藩も旧会津藩も同質・・・。幕末における両藩の衝突は、似た者同士の覇権争いとして認識するようになりました。

妻のふるさと・湖南に帰郷するとき、<旧長州藩領地で30年、旧会津藩領地でも30年>を筆者と妻のスローガンとして帰ってきました。筆者、65歳のとき、湖南に帰郷・帰農しましたので、30年後というのは、筆者が95歳のとき・・・。筆者、その時まで、妻の実家のおとうさんが残してくれた田畑山林で自給自足の暮しをするべく、人生最後の人生設計をたてました。しかし、月日が流れるのは早いもので、もう3.5年が経過します。残された歳月は、26.5年・・・。

もちろん、新約聖書に書かれている通り、<あすもわからぬいのち>・・・。何歳まで生きれるかは、人生の主である、主なる神さま次第・・・。誰も、自分の人生の長さを決めることはできません。

しかし、筆者の人生の晩年における Plan Do See は、95歳まで、くり返されることになります。1日を過ぎ越し、1週間を過ぎ越し、1ヶ月を過ぎ越しし、1つの季節を過ぎ越し、1年を過ぎ越し、7年を過ぎ越し、14年を過ぎ越し・・・、この世の、地上の旅人としての人生を過ぎ起していく・・・。

日本基督教団の隠退牧師である筆者にとって大切なのは、聖書の言葉を解釈・説教することではなく、聖書の言葉を生きて、神さまの言葉のただしさを信じつらぬくこと・・・。

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戦時中の慰安婦に関する本を5冊注文・・・

2016年08月28日 |  2.日本基督教団

今日、猪苗代町から戻ってきますと、郵便ポストに、この前、インターネットの日本の古本屋経由で注文していた、吉田清治著『朝鮮人慰安婦と日本人 (元下関労報動員部長の手記)』が届いていました。

この本、日本基督教団西中国教区の山口の小さな教会の牧師をしていたとき、自害したとされる(本当は他殺・・・?)前任牧師の蔵書の中に含まれていました。後記の『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』も・・・。しかし、筆者、30年間、その教会にいて、前任牧師が自害したという部屋の蔵書は一切触れませんでした。

しかし、昨今、<朝鮮人慰安婦>問題が世を賑わせていますので、<朝鮮人慰安婦>問題を混乱・混迷させたという、吉田清治の本を読んでみることにしました。問題の本は高価なので、『朝鮮人慰安婦と日本人 (元下関労報動員部長の手記)』を読むことにしました。

そして、読み始めてすぐ、目に入ってきたのは・・・

<20人以上の(朝鮮人)匪賊が侵入して、住民を各戸に閉じ込め、張北屯の(中国人)農民を使って騾馬を集めて、戸別に略奪をはじめた。(日本人)婦女子の悲鳴が聞こえても、外に匪賊がいて誰も門から出られなかった。世が明けると静かになり(朝鮮人)匪賊は立ち去っていた。住民たちが屯長へ被害を訴えに来た。物資が略奪され、女が家人の前で被害を受けた。娘をかばって老婆が頭を割られた。拉致からのがれようとした若者が門前で射たれたが、(朝鮮人)匪賊は(日本人)家族が近づくことも許さなかった。・・・「こいつらは盗賊ですよ。朝鮮独立のためと言って、強盗や人殺しばかりやってる」・・・>。

中国人よる、日本婦女子強姦・虐殺事件である<通州事件>と同じことが、朝鮮人によっても行われていた・・・。そのような事件を引き起こした中国・朝鮮の当事者はどのような戦争責任を問われ、日本人被害者に対して賠償責任を担ったのでしょう?戦後、朝鮮人匪賊を英雄としてまつりあげた南朝鮮・北韓国・・・、歴史の闇はまだ闇の中に置かれたままのようです。

『朝鮮人慰安婦と日本人 (元下関労報動員部長の手記)』に記されていることは、史実なのか、それとも創作なのか・・・?

今日、インターネットの日本の古本屋経由で、戦時中の<慰安婦>に関する本を5冊注文しました。戦時中の<慰安婦>は、<売春婦型>・<性的奴隷型>だけでなく<国家総動員型>もあるのではないかと思って・・・。

『慰安婦たちの太平洋戦争・正続』
『海の蛍 :若き「従軍」慰安婦の念い』
『従軍慰安婦問題の歴史的研究 売春婦型と性的奴隷型』
『証言記録 従軍慰安婦・看護婦 —戦場に生きた女の慟哭』
『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』

筆者、戦争は反対! しかし、日本を敵国として軍備拡張をする、中国共産党率いる中華人民共和国、そして、北韓国・南朝鮮、ロシア・・・、その軍事的挑発行為をやめさせ、戦争を未然に防ぐためにも、日本は、日本国民と日本の領土・領海・領空を守るための国防力と、万一日本が攻撃を受けた場合、さらなる被害を防ぐために敵国のミサイル基地・軍港・空港を破壊することができる軍事力を保有しなければならないと考えています。平和は大切です!だからこそ、それを守らなければ!

<20人以上の(朝鮮人)匪賊が侵入して・・・>の話も、武器を所有していてもそれを使うことができなかった日本人は、朝鮮人匪賊に蹂躙されたことへの問題点を示唆しています。

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ブログを書き続けているのは・・・

2016年02月19日 |  2.日本基督教団

筆者がブログを書きはじめたのが、2005年5月14日・・・。ブログの題は、『部落学序説』・・・。

それは、書下ろしで執筆していたのですが、読者の方々からいろいろ批判をされましたが、その中に、<自分の身元を隠して好き勝手なことを書いている>というのがありました。<身元を隠して>、なにかを物申す姿勢は筆者にはなく、<身元をさらす>ために、筆者の曾祖父・吉田向学の名をペンネームで、『部落学序説』の執筆の舞台裏を書きはじめました。それが、『田舎牧師の日記』・・・。

<部落差別について言及すると、被差別部落出身者に間違われる>と警告してくださる方が少なくありませんでしたが、筆者、<ほんとうにそんなことがあるのかどうか>、実験するために、『部落学序説』と『田舎牧師の日記』を書き続けましたが、2012年2月1日に、東海村の原子力発電所で仕事をしていたことがある、妻の実家のおとうさん、2011年3月11日の原発事故による福島の放射能汚染をすごく心配し、筆者と妻に、<福島が放射能汚染されていたら、もう福島に帰って来なくてもいい。心配して生きるのはおらひとりで十分だ・・・>と話していましたが、2012年1月1日に心臓発作で急逝しました。

それで、2012年中、毎月5~6日帰郷しては、妻の実家の庭や田・畑の放射能汚染度をドイツ製のガイガーカウンタで測定、線量の高い場合は、自然の除染装置(ホットスポット)を活かして除染作業をしてきました。2013年4月1日に帰郷したときは、山口の小さな教会の庭の放射能汚染度より少なくなっていました。その間も、山口から福島へ、ところを移して『田舎牧師の日記』を書き続けることになりました。そして、2014年3月3日に、OCNのブログがなくなりGooブログに移管されることになり、『田舎牧師の日記』あらため『湖南村尻百姓記』を書きはじめました。

当然、この『湖南村尻百姓記』の執筆も、『部落学序説』の執筆の舞台裏を書き続けた『田舎牧師の日記』を基本的には継承しています。ただ、<身元をさらしながら>部落差別に言及する筆者のいとなみは、多くの読者の方々が期待されているのとは別の方向に向かってしまいました。筆者の先祖のルーツ、筆者の曾祖父・吉田向学のルーツは、信州栗田村の真言宗・観聖寺の住職をしていた高祖父・吉田裕学にまでたどりつき、その観聖寺の跡地に代々住んでいる吉田氏にも音信がとれるようになり、筆者の<身元をさらす>旅は目的地にたどり着きました。

筆者が、柳田國男の書籍から紡ぎだした<常の民>(常・民)、<非常の民>(非常・民)の分類からしますと、武士支配の末端<足軽・中間・穢多・非人>ではなく、百姓支配に属する寺社関連の宗教者であることが確定・・・。筆者が執筆していた『部落学序説』の<百姓の視点・視角・視座>から見た<穢多・非人>の姿は、筆者が<自然体>で執筆したものであることははっきりしました。

<部落差別について言及すると、被差別部落出身者に間違われる>というようなことがほんとうにあるのかどうか・・・? 結論からいいますと、あり得ない! 明治以降150年が経過したとしても、<殺生与奪の権>を持つ<非常・民>の世界と、<殺生与奪の権>を持たない<常・民>の世界とは、その子孫に受け継がれる文化的影響・言語的影響などの点において大きく異なってきます。<身元を隠す>ことなどできるのかどうか・・・?<隠しきれる>ものではないのではないかと思われます。

逆からいいますと、近世幕藩体制下の<穢多>役、<非人>役の末裔ではないのに、<被差別部落住民>であるとしてその歴史を私物化し被差別部落民として生きて行こうとする人は、その歴史は、実際の歴史からほど遠い、差別思想である<賤民史観>をイデオロギー的に踏襲している場合がほとんど・・・。精々、<賤民>であることを跳ね返して闘って生きてきたと、あらぬ解放運動史を描くのみ・・・。その結果、被差別部落の人々を差別の拡大再生産という鉄鎖につなぎとめるだけ・・・。

筆者の先祖のルーツを探す旅は、信州の被差別部落のルーツを探す旅にもなり、信州の被差別部落の人々は、<賤民史観>という差別思想の構築者、部落史研究者・研究家などがとく<賤民>などではなく、紛うこともなき、近世幕藩体制下の司法・警察に従事してきた<非常の民>・・・。誇りを持ってその職務の遂行にあたっていた現在の警察官・刑務官、裁判所関係の職員と同等の存在・・・。明治になって、警察機構の末端をになっていた、あるいは本体をなしていた武士支配の<足軽・中間・穢多・非人>がその身分・職務を解かれたのは、その職務の中に、<宗教警察>があり、明治政府が、欧米の軍事・外交力を前に、<宗教警察>の解体を強く迫られたため・・・。

『信州栗田村古文書集成』から、筆者の先祖、真言宗・観聖寺の住職は、<宗教警察>の職務内容のひとつ<宗門改め>の機関のひとつでないことがわかり、筆者、ますます、被差別部落からほど遠い、むしろ対極にあることが分かりました。

『部落学序説』の執筆をはじめたとき、『被差別部落学序説』にしなかったのは、<部落>概念を<被差別部落>概念と同定することができないため。<部落>概念は、明治憲法制定前に、いろいろな法律が策定されますが、地方自治に関する法律制定の過程の中で、法律用語・政治用語・学術用語としてあらたに登場してきた近代的概念・・・。明治政府が想定した<部落>概念による統治が完成域に達するのが戦前・戦中の戦時体制において・・・。<部落>がなんであるのかは、日本の近代国家による人民支配の方法を理解する必要があります。しかし、日本の歴史研究者、それを明らかにしようとする人々は少なく、<部落>概念を<被差別部落>概念の短縮形としてすり替え、歴史の隠ぺいを図ろうとします。『部落学』は、『被差別部落学』を含みつつ、『被差別部落学』にとどまらず、近代日本の<部落>概念の再把握をめざすもの・・・。

『部落学序説』の執筆者である筆者・吉田向学が、どのように生きているのか、そして、どのような状況下で、『部落学序説』の論文化と出版を目指しているか、これまでの『部落学序説』の読者の方々にその過程を伝えるために、『田舎牧師の日記』にひきつづき『湖南村尻百姓記』を執筆しているもので、単なる団塊世代の定年退職後の帰農の記録ではありません。

湖南町赤津村の農家の方々が読まれても、何の意味もありません。

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会津の女は強い・・・

2015年12月03日 |  2.日本基督教団

娘の披露宴のとき、娘が綴った父母への言葉・・・。

娘は、<いろいろ試練にあったとき、会津生まれの母から、いろいろ教えられました。そのとき、会津生まれの女は強いと思いました。母は、わたしに、「ならぬものはならぬ」とよく教え諭していました。わたしも、母を通して、会津の女の血をひいているので、これからも・・・>と、これから、会津の血を引く女として、母として、生きていく決意を綴っていました。

妻は、娘のことばを聞いて、<やっと、わたしの子育ては終わったわ・・・>と涙を浮かべていました。

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披露宴次第になかったこと・・・

2015年12月03日 |  2.日本基督教団

娘の結婚式のとき、<披露宴次第>が配布されていました。

しかし、その披露宴の次第には書かれていないことがいくつかありました。

1.新郎の勤務先の高等学校の校長・教頭・科の教師の方々による万歳
2.新郎が担任しているクラスの生徒たちからのVideo Letter
3.新婦による父母への言葉

新婦である娘から、筆者と妻への言葉・・・、プロの司会の方が娘にかわって朗読してくださいましたが、これまで、筆者のことを<キリスト教会の牧師>であると紹介することにためらいの思いを持ってきた娘ですが、小学校5年生のとき、クラスの担任の教師が、<吉田のおとうさんは、キリスト教会の牧師だ。わたしは、キリスト教が大嫌いだ!>とクラスのみんなの前で話したことで、娘に対するいじめがはじまったとか・・・。それがトラウマとなって、娘は、父親の筆者が<キリスト教会の牧師>であることを隠すようになったのですが、披露宴の最後、<新婦による父母への言葉>の中で、娘は、<わたしの父は、キリスト教会の牧師です>と綴っていました。娘のその言葉を聞きながら、筆者、娘は、やっと、牧師の娘としていじめられた嫌な経験を払拭できたのだと思いました。

娘は、<高校3年生のとき病気になり、成績が落ちて、センター試験も失敗、担任から、予備校へ行く準備をしなさいと言われました。わたしの父母は大学を出ていません。しかし、京都大学に行くことになっていたのに家の都合で行けなかった父は、わたしを見捨てないで、受験指導してくれ、私を福島大学に入れてくれました。小さな教会の牧師をしていた父は、わたしを大学にやるために、職業訓練校で情報処理の講師をしたり、母は、病院の調理師をして、大学にやってくれました。今思うと、ほんとうに大変だっただろうと思います・・・>と話していました。

娘が幼稚園の年少組のとき、日本基督教団西中国教区の教職研修会の講師をされていた日本基督教団の副議長(同志社大学神学部卒)に呼び出され、西中国教区の副議長(同志社大学神学部卒)の前で、<君のようなものの娘を受け入れてくれるキリスト教主義大学はどこにもないのでそのつもりでいなさい>と引導を渡されました。筆者は、<娘はまだ幼稚園の年少組ですよ。どうして大学進学の話をされるのですか?>と尋ねますと、<西中国教区の副議長から、君が幻想を抱いていると聞かされたから・・・>とその理由を説明しておられました。筆者、<娘は、国立大学に進学させますので、私立大学にやるつもりはありません>と話しますと、西中国教区の副議長は、<無学歴の父親に育てられる子供が国立大学に入れるはずがない!>と自信たっぷりに話しておられました。筆者、<なぜ、そんなことが言えるのですか?>疑問を呈しますと、西中国教区の副議長、<同志社大学を出た父親に育てられた私の娘ですら国立大学に入ることができなかったのに、無学歴の君の娘が国立大学に入れるはずがない!>と自分の判断に間違いはないと立腹しておられました。

そして、娘の大学受験のあった年の西中国教区総会の昼食のとき、山口市内で精神科の医師をされていた山口教会の信徒の方(常置委員)の方が、<吉田先生、吉田先生の席はこちらです。こちらへ来てください。>といわれるので、その方の横に座りました。すると、<娘さん、大学進学はどうなりました?>と尋ねられますので、筆者、<おかげさまで、合格できました。>と答えました。すると、ざわめいていた食事の席がシーンとなり、その方がさらに、大学と学部を尋ねてこられました。それで、<国立の福島大学の行政社会学部です>と答えました。すると、その精神科医の常置委員の方、<わたしは、あなたの娘さんが国立大学に入ると確信していました。他の牧師先生方は、絶対に落ちると話していましたが・・・。山口教会の牧師の息子・娘さん3人もみんな国立大学に進学しています。苦労をした牧師は、息子や娘を国立大学に進学させるんです・・・>と話しておられました。

披露宴のときの、娘のことば、<京都大学に行くことになっていたのに家の都合で行けなかった父は、わたしを見捨てないで、受験指導してくれ、私を福島大学に入れてくれました。>は、筆者の耳元をすっと通り過ぎて行ったのですが、今、思い起こしてみますと、赤面のいたり・・・。しかし、<娘は、父親の言葉を信じて、大学受験に臨んだのだ。>と思いました。<おとうさんは、京都大学に合格するノウハウを持っている。一生に一度でいい。おとうさんのいうことを信じて、おとうさんのいう通りに受験してみろ。必ず合格する!>と娘を激励したときのことを思い出しました。

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日本基督教団三春教会・・・

2015年12月03日 |  2.日本基督教団

今日、日本基督教団の『農村伝道神学校学報』と『農村伝道神学校後援会だより』が送られてきました。

郵便局が押した赤色のゴム印つきで・・・。

この学報と後援会だより、山口経由で送られてきたらしい・・・。山口の地を離れてすでに3年が経過しようとしているのですが、いまだに山口・・・。そういえば、筆者、農村伝道神学校には住所変更の手続きはしていませんでした。当然、後援会への住所変更の手続きはしていません。

筆者と農村伝道神学校との関係が切れたのは、30数年前、農村伝道神学校の校長からすすめられた、日本基督教団西中国教区の教会に赴任して以来・・・。同志社大学神学部をでた前任者が自殺して、教会員が混乱している教会に赴任した筆者に、当時の、同志社大学神学部卒の分区長の牧師は、<おまえは、臭い者の蓋として招へいされただけだ!黙ってその蓋になってろ!>といって、筆者をその小さな教会に幽閉してしまいました。農村伝道神学校校長もそれに賛同されたとかで、筆者、その小さな教会に30年間、牧師として棄て置かれることになりました。そして30年後、教会員全員の一致で、その小さな教会は、宗教法人を解散することになりました。最後まで残った信徒の方々は、<吉田先生が赴任してきてくださったおかげで、30年間も教会を存続させることができました。わたしたちは、それだけで十分です。吉田先生の牧師としての最後のつとめとして教会の解散手続きをしてください>といわれ、筆者、その通りにしました。礼拝堂は、芸予地震のとき屋根瓦が全部ずれて一部崩壊するほどの被害を受けましたが、全国から集められた救援募金は1円も小さな教会には配分されませんでした。教会を解散するとき、最後まで残った信徒の方々は、教会の土地270坪を日本基督教団に献金して、それを東日本大震災の被害にあった東北の教会の再建のためのつかってもらってくださいといわれ、教会総会でそうすることを決議しました。解散時の透明性をはかるために、牧師は、退職金を全額放棄し、解散時の教会の負債の清算、解散手続きの費用はすべて牧師が負担すること、という条件つきで・・・。教会の解散時も、農村伝道神学校はいっさい関与がありませんでした。筆者、農村伝道神学校に寄付することも提案したのですが、<農村伝道神学校は30年間、吉田先生を見捨てていたのではありませんか?わたしたちは、農村伝道神学校に教会の財産をささげるのは反対です!>と言って強く反対されました。筆者、そのちいさな教会での30年間、信徒の方々の声に耳を傾けながら誠実に牧師のつとめを果たしてきましたので、解散時も、信徒の方々の思いを強く反映させることになりました。

それで、筆者、日本基督教団西中国教区とその諸教会や農村伝道神学校との関係を絶つことになってしまいました。その農村伝道神学校と後援会からの、山口経由での通信・・・。その中に、日本基督教団三春教会・佐々木威牧師の<農村教会に遣わされて>という文章が掲載されていました。それを読みながら、筆者、<そういえば、教区・教会・神学校の機関紙に、一度も原稿の執筆依頼をされたことも、掲載されたこともない・・・>と思いました。筆者、東京神学大学闘争のとき、東京神学大学・高崎学長を追い出した、日本基督教団阿佐ヶ谷東教会の神学生で、反東神大の農村伝道神学校を出て牧師になったということで、徹底的に排除・疎外にさらされてきましたから・・・(筆者にとっては事実無根の話しですが・・・)。

山口経由の『農村伝道神学校学報』と『農村伝道神学校後援会だより』・・・、次回、もし送られてくるようなことがあれば、封をきらないで廃棄することにしましょう。筆者は、すでに、農村伝道神学校や後援会から、はるか昔に葬り去られた過去のひとでしかありませんから・・・。

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礼拝堂に南朝鮮の慰安婦像を置いていた牧師・・・

2015年06月11日 |  2.日本基督教団

今日の、湖南町赤津村小枝町のおばあさんが熱中症でなくなり、その葬儀の手伝いのために集まった席上で、筆者、思いがけない話を耳にすることになりました。

それは、日本基督教団郡山細沼教会の武藤清牧師が、つい最近、逝去されたという話し・・・。

亡くなられたおばあさんの家で開かれたむらの寄合で、筆者の妻、ほかの2人の女性の方と話をしていました。なんでも、その3人、幼馴染であったとか・・・。こどものころ、よく、妻の実家の前にある観音堂や近くの諏訪神社で一緒に遊んでいたとか・・・。その話し、中学校の同窓会の話しになり、その同窓会に出席される<恩師>の方々の近況について話が弾んでいました。そのとき、中学の国語を教えていた武藤清先生の話しになり、その指導方法は、一風変わっていて、ひたすら生徒に授業中に読書させていたとか・・・。

すると、妻と話をしていたひとりの女性の方が、<武藤清先生、最近なくなられたそう。だから同窓会には出席できないとか・・・>と話しはじめました。筆者の妻、筆者のほうを見ながら、<あなた、知ってる?>と問いかけてきましたが、筆者、首を横にふるだけ・・・。

山口の小さな教会の牧師をしているとき、筆者のブログ『田舎牧師の日記』を読まれた、日本基督教団細沼教会の武藤牧師からお電話をいただき、<郡山に帰郷されたら、一緒に活動しましょう>とお誘いを受けていたのですが、2013年4月1日に帰郷してからは、一切の連絡はなし・・・。

武藤牧師は、湖南史談会の顧問をされている秋山雄記先生の話しでは、湖南出身で戦後クリスチャンになった最初のひとであるとか・・・。秋山雄記先生の話しでは、武藤牧師は、湖南が排出した著名人のひとり・・・。筆者、秋山雄記先生に誘われてなんどどか郡山細沼教会を訪ねたのですが、いつもお留守・・・。筆者、武藤牧師にお会いすることなく、武藤牧師逝去の情報に接することになりました。

今夜、インターネットで<郡山細沼教会 武藤清 死>で検索してみたのですが、ヒットせず・・・。そのかわり、こんな記事が目にとまりました。

<日本人牧師たち「韓国に謝罪しています」
韓国侵略を否定する日本の安倍首相の発言と閣僚の靖国神社集団参拝による日韓の対立が浮上する中で、自国の侵略行為を懺悔し、政府の謝罪を促す良心の声が日本人牧師たちから溢れでている。

日本の教会、慰安婦少女像立てて懺悔の祈り
日本の福島県の教会には、ソウルの日本大使館前に置かれた慰安婦少女像と同じ模型が設置されている。この教会を担任している日本人武藤牧師(86)が少女像に向かって日帝の蛮行を懺悔し、祈りを捧げる姿が5日、MBCニュースデスクで報道された>。

筆者と妻、妻のふるさと・郡山に帰郷したときは、日本基督教団郡山細沼教会で主日礼拝を守ることにしていたのですが、それは、妻が、安積女子高校で勉学していたとき、日曜日には郡山細沼教会に礼拝に参加していたため・・・。しかし、武藤清牧師は、妻の中学時代の国語の教師であることがわかり、妻に、郡山細沼教会の礼拝に出ることにためらいが生まれはじめました。筆者は筆者で、武藤清牧師がイデオロギー的な牧師であることにためらいが生じ、郡山細沼教会の礼拝に出ることはありませんでした。

その郡山細沼教会の礼拝堂に、 <ソウルの日本大使館前に置かれた慰安婦少女像と同じ模型が設置されている。>との記事を読んで、筆者、驚くこと限りなし・・・。日本の近現代の歴史・・・、歴史学の学者・研究者によって、史実よりも、イデオロギー的な史観が優先され、史実からほど遠い解釈が史実として信じられていることに、筆者、いつも批判的ですが、唯物史観や皇国史観などのイデオロギー的史観によって<賤民史観>や<貧農史観>を捏造した歴史学の学者・研究者に批判的・・・。ブログ『部落学序説』はその批判から生まれたものです。

郡山細沼教会の主日礼拝では、<慰安婦少女像立てて懺悔の祈り>・・・。

筆者、基督者として、また牧師として、<懺悔の祈り>は、ほんとうの<懺悔>に基づくものでなければならないと考えます。何の罪に対する<懺悔>なのか、罪の事実をきちんと実証しなければなりません。それをしないで、被害者・被差別者であることを主張するひとびとの主張をなんら史的に検証することなく、史的事実を明らかにするより、史的事実がどうであれ、被害者・被差別者であることを主張する人々に、主観的・心情的・感情的に<懺悔>するというのは、ほんとうの<懺悔>ではありえない。

筆者、日本基督教団の隠退牧師ですが、宗教的妄信、信心的熱情とは無縁の存在・・・。武藤牧師は、基督教的<信仰>より、キリスト教的<信心>を重んじたのでしょうか・・・?2013年4月1日に、妻のふるさと・郡山に帰郷して以来、何度も郡山細沼教会を訪ねたのですが、武藤清牧師にお会いすることができなかったのは、日章旗のネクタイピンをつけている日本的基督者である筆者と妻に対する<神の配剤>だったのかもしれません。

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宗教法人解散の最終手続き完了・・・

2015年02月26日 |  2.日本基督教団

宗教法人日本基督教団下松愛隣教会の解散手続き、法的にはすべて完了されているのですが、今日、日本基督教団の宗教法人担当者の方から、清算した土地の代金は必要経費を差し引いて、すべて、日本基督教団の<東日本大震災救援募金会計>に組み込まれたとの連絡がありました。

<これですべて完了となりました>。

筆者、これでほっと一安心・・・。宗教法人日本基督教団下松愛隣教会の解散は、主任担任教師である筆者が提案したものではなく、下松愛隣人教会役員会の方々の総意です。

教会総会で解散決議をした2012年4月1日から、西中国教区からの謝儀援助停止・・・。教会からも謝儀は無支給・・・。経費は牧師負担・・・。退職金はなし・・・。解散手続きに必要な費用はすべて牧師の個人負担・・・。教会の負債はすべて牧師が清算する・・・。教会の財産処分にともなって牧師は一銭も受け取ってはならない・・・。教会役員会から出されたそれらの条件をすべて受け入れて、解散手続きをすることになりました。信徒に痛みはなく、牧師のみに痛みがともなうような解散手続きでした。

しかし、筆者が信じている神さまは、隠退牧師になった筆者を支えるべく、いろいろな配慮をしてくださっていたようです。なぜ、そのような状況の中で、2013年4月1日に、妻のふるさと・湖南に帰郷して、自給自足をめざして、米・野菜の有機栽培・無農薬栽培の田舎暮らし・山里暮らし・百姓暮らしが可能になったのか・・・、もう少し時間が経ってから、お話しすることにしましょう。

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おとうさんは、右翼・・・!

2015年02月05日 |  2.日本基督教団

最近、夕食を食べながら、娘が、<おとうさんは、右翼みたい・・・>といいます。

筆者、即、<右翼なんかではない!>と否定するのですが、娘は、<いいえ、おとうさんは右翼みたいです。それなのに、教会の牧師をしているとき、どうして左翼みたいに批難されていたの?それがとても不思議・・・>であるといいます。

筆者、<どうして、右翼みたいだというの?>と娘に尋ねますと、<おとうさん、日の丸のネクタイピンや、日章旗のネクタイピンを堂々と使うでしょう。普通のひとは、そんなことしないでしょう?ごく普通に日の丸や日章旗のネクタイピンをつけるなんて・・・。それにおとうさん、青空に日の丸がはためくのをみると、胸がジーンとすると言ってたでしょう?それなのに、教団や教区の牧師さんから、牧師をしている間、ず~と、ラディカルだといって排除されてたなんて、信じられない!>といいます。

筆者、<おとうさんは、いつも同じ・・・。ただ、世の中の動きにあわせて、教団・教区の牧師たち、あっちへ行ったりこっちへ行ったりするから、常に移ろいゆく人々の視点・視角から見ると、動かないおとうさんのほうが右へ行ったり左へ行ったりしているように見えるだけ・・・。

この前、日本基督教団から来たメールに、東日本大震災の被害にあった教会への支援を<人道支援>と表現していましたが、東京に住む日本基督教団の方々は、東日本大震災の被害にあった東北のひとを<日本人>ではなく<外国人>扱いしておられるのかもしれません。東京電力が東北に原発を作り、事故で深刻な放射能汚染を引き起こしたのは、東北が日本であって日本でないから・・・? そうでないと、東日本大震災の被災地の教会の支援に対して、<人道支援>なんて言葉が飛び出すことはないのですが・・・。

筆者、日本の国を愛してはいるので愛国者ではありますが、国粋主義者ではありません。自衛隊を軍隊に再編成、軍備拡張して、中国・南北朝鮮からの軍事的侵略を阻止、独立国家として軍事的に自立するのは賛成ですが、軍国主義者ではありません。

筆者の目からみますと、日本の左翼は、日本の右翼の裏返し! 両者は、同祖同根であり、国を滅ぼすもと・・・。筆者右翼でも左翼でもありません。まるっきり、ただのひと・・・。

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差別思想に対する批判・・・

2015年01月25日 |  2.日本基督教団

日本基督教団西中国教区の牧師・信徒たちから、筆者が忌避されるようになった理由・・・。それは、筆者が、無学歴・無資格、学問・研究の門外漢であるにもかかわらず、学者・研究者の研究姿勢や研究結果を批判したこと・・・。筆者が批判したのは以下の3種類の差別思想・・・。

1.賤民史観
2.貧農史観
3.優性思想

筆者が、それらの差別思想を批判するときの、視点・視角・視座は、聖書主義・敬虔主義・合理主義・相対主義・民衆史観・・・。右翼の<皇国史観>・<国粋主義>や、左翼の<唯物史観>・<共産主義>とは無関係!西中国教区の牧師をしているとき、右からは左として排除・疎外され、左からは右として排除・疎外され、孤立無念の独立独歩の道をたどってきましたが、筆者の生き方と強く結びついていますので、死ぬまで変わることなし!

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賀川問題の悪夢・・・

2015年01月25日 |  2.日本基督教団

筆者が、日本基督教団西中国教区の牧師・信徒たちから、30年間にわたって排除・疎外された理由は、

インターネットの<生きて在るを学ぶ・蔵 生存学創成拠点・アーカイブ><1997>に掲載されている杉山博昭著『キリスト教社会事業家と優生思想』に出てきます。

その一節に、次の文章があります。

<賀川豊彦の場合、1980年代には著書のなかの部落差別表現を列挙して差別者として糾弾するという、表面的な批判が中心であったために、賀川の思想全体を実証的に批判することが十分なされなかったが(6)、むしろ賀川の思想の根幹として批判的検討を加えるべきなのは優生思想である。一連の賀川批判のなかで優生思想に本格的に触れたのは吉田光孝氏であろう(7)。吉田氏は賀川豊彦全集の通読を通して、賀川の差別意識の背後には優生思想があると指摘している。 確かに賀川の著作から優生思想にかかわる部分を取り出すのはきわめて容易である。>(7:吉田光孝「討議資料の欺瞞性を撃つ 賀川豊彦は差別者か」『資料集『賀川豊彦全集』と部落差別』キリスト新聞社、1991年、212頁~233頁)

日本基督教団西中国教区の牧師たちが、賀川豊彦の差別的な言説の背後には優性思想が通底していると指摘した筆者に、<誰もが隠しておきたい賀川豊彦の恥部を暴露するなんて、お前は人格異常だ!>と非難、それ以降、筆者、徹底的に、西中国教区の牧師・信徒たちから排除・疎外されることになりました。しかし、今日の時代から見て、賀川豊彦の思想の中に差別的な表現があるとみられる背景にあるのは賀川豊彦が生きていた時代の優性思想にあることは、隠そうとしても隠すことができる類のものではありません。杉山博昭教授が語っておられるように、<賀川の著作から優生思想にかかわる部分を取り出すのはきわめて容易である>からです。

同じことは部落差別問題についても言えます。日本基督教団西中国教区の部落差別問題特別委員会の委員をさせられていたとき、4期8年の経験からしたためたブログ『部落学序説』についても、杉山博昭氏のことばを転用することができるでしょう。

<一連の部落史研究批判のなかで、被差別部落のひとびとを賤民の末裔であるとする賤民思想の差別性に本格的に触れたのは吉田光孝氏であろう。吉田氏は、賤民史観に依拠する部落史研究者の研究の枠組みを批判分析して、被差別部落の人々が賤民の末裔ではなく、司法・警察の本体である非常の民であったことを、<非常・民>論・<新けがれ>論を展開して明らかにした。被差別部落の史資料から<非常・民>論・<新けがれ>論を、部落史研究者の論文の中から差別思想である賤民史観にかかわる部分を取り出すのはきわめて容易である。>

日本基督教団西中国教区から排除・疎外されるようになった、もうひとつの理由がそこにあります。西中国教区の牧師・信徒たちは、<誰もが隠しておきたい被差別部落の恥部を暴露するなんて、お前は人格異常だ!>と、筆者を非難、排除・疎外、筆者の人格や、牧師であることすら否定するようになったのです。

筆者、現在、妻のふるさと、福島県郡山市湖南町赤津村に身を置いていますが、賀川豊彦の立体農業を再現すべく努力をはじめていますが、賀川豊彦が語る、<村に善い村と悪い村があるのは、一つはその住民の性質によることは争はれない。悪質遺伝の多い村では、将来発展する希望は非常に少ない。さうした村は衰亡するより道はない。その反対に、優等な種を保存すれば、その村の繁栄は期して待つことが出来る・・・>などという<妄言>を語ることはつゆもありません。村の衰退と繁栄は、優性思想とは無関係に、ひとえに日本の国政・農政に起因するものです!

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賀川一枝女史からコメント・・・

2015年01月25日 |  2.日本基督教団

昨日、日本基督教団の有名な指導者のひとり、賀川豊彦のゆかりの方から『田舎牧師の日記』にコメントがありました。

<豊彦の孫、督明の妻です。督明は昨年9月に61歳で亡くなりました。生前、二人で部落差別とハンセン病隔離の問題を解決(和解)しようと試みていましたが、志半ばで果たせませんでした。農村伝道神学校について検索していて、貴ブログに行き当たりました。同じ思いでおりますので、お話しできたらと思います。私は編集をしています>。

このコメントを読みながら、筆者、心中、穏やかではありません。賀川問題をめぐって、筆者、日本基督教団西中国教区の牧師たちから徹底的に排除・疎外されることになったからです。しかし、意を決して、コメントに返事を差し上げました。

<コメントありがとうございます。私は、日本基督教団西中国教区の中では、日本基督教団の偉大な指導者・賀川豊彦の隠された罪(優性思想)を<暴いた>牧師として、徹底的に排除・疎外され、30年間、排除・疎外されたまま、牧師を隠退しました。湖南の小説家・諏訪三郎や、彼に影響を与えた賀川豊彦に限らず、すべてのひとは、時代的制約のもとで生きていくことになります。体制的であれ、反体制的であれ、時代から超越して生きていくことは不可能でしょう。基督者にとって大切なのは、時代の流れの中に身を置きつつ、時代の流れに埋没せず、時代の流れから自由になって、神の言葉につかえることです。諏訪三郎も賀川豊彦も、基督者として同じ姿勢をまっとうしたものと思われます。日本基督教団西中国教区の指導的立場にある牧師たちは、賀川豊彦を、批判が許されない、時空を超えたキリスト教的偉人に仕立て上げようとします。私は、彼らの中に、賀川豊彦の負の側面を糊塗し美化し、そうすることでかえって賀川豊彦の人格を貶めてしまうような愚行に走っていると思わざるを得ませんでした。部落差別とハンセン病隔離の問題は、私のブログ『部落学序説』をお読みいただければ、日本基督教団西中国教区の牧師たちと私の見解の違いが分かります。今、神谷美恵子著作集を読み直していますが、愛生園の精神科医・神谷美恵子に対する批判も、的を外した批判が多すぎるように思われます。賀川豊彦についてお話されるのは、私ではなく、私の農村伝道神学校時代の教義学の教授であった雨宮栄一先生とされたほうがいいのではないでしょうか?私はナチスと闘ったドイツ教会闘争に関しては門外漢です。ナチスの優性思想に関する情報は皆無です。私は、ナチスによって排除された法学者・ラートブルフの影響を受けているに過ぎません。>

筆者の、これまでの過去の経験では、部落差別問題・瀬病患者差別問題・・・などの社会問題で、筆者に近づいて来られた方の大半は、<大いに失望>して去って行かれたからです。日本基督教団は、<学歴がものをいう世界>、無学歴・無資格の、無名の隠退牧師の筆者が発言・発信し得る世界ではありません。

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