湖南村尻百姓記

65歳で、妻の実家のある湖南町に帰郷・帰農して山里暮らし・百姓暮らしをはじめた隠退牧師の日記

どこから切りだされて基督者になったのか・・・

2019年01月07日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

旧約聖書のイザヤ書にこのような言葉があります。<義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ>。

恣意的な解釈でしかありませんが、筆者は、基督教や教会とであう前、中学1年生のときに新約聖書に出会いました。中学3年間、いつも学生服のポケットに新約聖書をしのばせて、休憩時間に読んでいました。

中学校には、授業に必要なものしか持っていってはいけなかったのですが、時々実施される持ち物検査のときにも、筆者が持っていっていた新約聖書は問題にはなりませんでした。休憩時間に新約聖書を読んでいますと、教師が、<君の家は、基督教か?>と問いかけてきます。筆者は、その都度、<いいえ、仏教徒です>と答えていたのですが、高校2年生のとき、小学生のときからの親友に誘われて、Sweden Covenant Mission の教会に通うようになり、高校3年生のとき宣教師から洗礼を受けました。それは、筆者の求道の結果でした。

高校生のとき、旧約聖書を読むようになり、イザヤ書第51章1節の言葉がこころに響きました。<主を尋ね求める者よ、・・・あなたがたの切り出された岩・・・を思いみよ>。

筆者が、どのような世界から導き出されて聖書の神を信じるようになったのか、それをいつもこころにとめていなければならないと思いました。

高校3年の3学期、地方公務員をしていた父が倒れ、再起不能になり、筆者、大学進学を断念して、父を看病する母を、妹の3人で支えることになりました。エンゲル係数ならぬ医療係数が50%を超える中、筆者は、毎月配本される岩波の日本思想大系の
聖徳太子・最澄・空海・源信・往生伝・法然・一遍・親鸞・蓮如・道元・日蓮などを読んでいましたが、筆者の聖書信仰の基盤を覆すことにはなりませんでした。そのころ、筆者の先祖が、信州栗田村の真言宗・観聖寺の住職の家系であるとは夢にも思っていませんでしたが、日本の神道・仏教・儒学にこころひかれるものがあって、読んでいました。

筆者にとって、<切り出された岩>とは、仏教・神道、その宗教混交の修験道の世界のことです。生きる力を与えられたのは、仏教でも神道でも修験道でもありませんでした。それは、聖書でした。基督教でした。高齢者になって、修験道を学びはじめたといっても、それは、比較宗教的に関心をもって学んでいるだけで、先祖の宗教世界、修験道に回帰するためではありません。 

17歳のときの決断が、70歳になるまでの筆者の人生の方向性を大きく決定づけてしまう・・・。そして、71歳以降の残された人生においても・・・。 

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古文書に出てくる吉田家の先祖・・・

2019年01月07日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

午後、古文書に出てくる吉田家の先祖は、現在筆者が確認しているところでは、筆者から7代先まで・・・。父(1)・祖父(2)、祖父の父(3)・祖父(4)・曽祖父(5)・高祖父(6)、高祖父の父(7)・祖父(8)・・・。

8代先の先祖が、真言宗・観聖寺の住職として就任したのは、寛政9年(1797)、永學の高祖父(6)の生まれた年は、宝暦1年(1751)・・・、つまり、今から269年前まで、筆者の先祖の歴史を、一般的に公開された史資料、古文書でたどることができるということを意味します。

『観聖寺文書』では、寛永14年(1637)までさかのぼることができますが、とりあえず、筆者から8代先までの先祖の、一般的に公開された史資料・古文書の記述から、その姿を明らかにすることにしましょう。長野の吉田さんが、継承されている『観聖寺文書』の研究解読の参考になるのを願って・・・。

日本基督教団西中国教区山口東分区のちいさな教会の牧師をしていたとき、西中国教区部落差別問題特別委員会の委員にされ、そのとき、旧長州藩の枝藩である徳山藩の穢多村の歴史を調べる機会が与えられました。その時の、調査の結果が、筆者のブログ『部落学序説』になっていますが、そのとき身につけた郷土史研究法が、筆者自身の先祖の歴史をたどることに役立つとは・・・。<情けは人のためならず>でしょうか・・・。<所与の人生を引き受けて生きる>、そう決断したひとは、その所与の人生がどのような人生であれ、筆者、共感を抱くことになります。

日本基督教団の隠退牧師である筆者、近世幕藩体制下において、世襲を許された、当山派修験道、伊勢神宮の神宮寺、伊勢の世義寺の信州における末寺であった真言宗・観聖寺の住職の末裔・・・。受容して、遠い先祖の歴史を、公開された史資料を探索して手繰り寄せることになります。

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先祖の通婚圏を探る・・・

2019年01月06日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

今日、朝と夕、筆者の祖父・吉田永學の戸籍に出てくる、吉田永學の高祖父から吉田永學の孫までの出生地を確認しました。

北信濃と東信濃の10ケ村に及びます。これが、信州・栗田村の真言・観聖寺の住職の家系の戸籍で確認できる範囲の吉田家の通婚圏であるようです。それ以前の宗門人別帳を見ても、その範囲をでることはなさそうです。

近世幕藩体制下の身分制度の影響を反映してか、吉田家に嫁いでくるひとは、修験道者の娘が多かったようです。吉田家から嫁ぐひとは、農家のひとも少なくなかったようですが・・・。武士階級(藩士・士雇・穢多・非人)との姻戚関係は皆無・・・。

壬申戸籍では、平民と記載されていましたので、武士階級との接点はないとは思っていたのですが、筆者の祖父・吉田永學ひとり、ふるさと・信濃を離れて、四国の善通寺の軍隊関連に勤めた後、岡山の児島に移り住んで余生を過ごし、ふるさと・信濃に戻ることなくその生を閉じたようです。ふるさと・信濃を離れて、再び帰って来なかったのは、筆者の父祖・吉田永學、ただひとりであったとか・・・。

筆者の父祖・吉田永學の父は、真言宗・観聖寺住職、母は、修験道者の娘・・・。つまり、筆者の直系尊属のひいおじいさんとひいおばあさんは、修験道の流れをくむひと・・・。

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先祖の歴史をより詳しくたどるために・・・

2019年01月04日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

筆者の祖父・吉田永學は、寛永14年(1637年)、僧・舜良によって開山された真言宗・観聖寺の住職の直系血族の子孫・・・。その真言宗・観聖寺の歴史をより詳しくたどるには、<観聖寺文書>だけでなく、それをあきらかにするための傍証も必要です。

<観聖寺文書>は、長野の吉田さんが明らかにされていきますので、筆者は、その成果を受容しつつ、その時代の史資料から観聖寺に関連する史資料を探索し、民衆史・民間宗教史の中に観聖寺を位置づける作業をすることになります。

筆者も、長野の吉田さんも70歳を超えていますので、悠長に構えるわけにもいかず、毎月1回、Reportの形で、長野の吉田さんに調べた結果と、筆者の解釈を文章化して送ることにしました。歳をとればとるほど、こなすことができる仕事量が少なくなってきますので、なりゆきにまかせることなく、Plan・Do・See を徹底していかなければならないようです。

今年は、有機栽培・無農薬栽培での米つくり、野菜つくりも文章化していくことにしていますので、『部落学序説』の編集・校正、出版と、多忙な年になりそうです。

歳をとると、なにもすることがなくなる・・・、とよくいわれますが、少なくとも、筆者と妻は、そういう境地に達することはなさそうです。清貧をむねとして生きてきた筆者と妻は、いまだに経験していないことがたくさんあります。新たな挑戦は、その未経験のことがらのほんの一部分でしかありませんが・・・。

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12月24日は、母の命日・・・

2018年12月24日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

今日、12月24日は、筆者の母の命日・・・。

妻の実家のおとうさんがなくなった2012年と同じ年の12月24日になくなりました。筆者の母の誕生日は、8月8日・・・。生れた日もなくなった日も、とても分かりやすい日なので、筆者、それを忘れることがありませんが、筆者の父の生れた日となくなった日を忘れて久しくなります。戸籍で確認すればいいのですが、それもしないまま・・・。

今日のクリスマスイブは、妻と一緒にまもる40回目の聖夜です。筆者も妻も、基督教とは無縁の世界から導き出され、東京町田市にある鶴川学院で、日本基督教団の信徒として出会いました。筆者は、鶴川学院農村伝道神学校の神学生として、妻は、鶴川学院シオン幼稚園の教師として・・・。筆者も妻も高校2年生のとき基督教会に通いはじめ、筆者は、17歳のとき、妻は、20歳のとき洗礼を受けました。今年、筆者は、54回目のクリスマスイブ、妻は、44回目のクリスマスイブ・・・。

今年のクリスマスイブは、雪がちらつくだけのイブ・・・。ホワイトクリスマスにはならないようです。筆者の母がなくなった年のクリスマスは、妻のふるさと・湖南には50cmの積雪があり、ホワイトクリスマスでした。

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人生の晩年になって適った夢・・・

2018年12月15日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

人生の晩年になって適った夢のひとつに・・・

雪国で暮らしてみたい、というのがあります。筆者は、瀬戸内海の海辺の町、岡山県児島郡琴浦町下之町で生まれ育ちました。29歳で、日本基督教団の牧師になるために神学校に入るまで、ほとんどふるさとで過ごしました。父祖・吉田永學がしていた家具屋の<吉田屋>という屋号がかかれたガラス戸のある家の奥の庭は、船着き場になっていました。入り江の向こうは、入浜式塩田が広がる、まったくの瀬戸内海の海辺の町・・・。

筆者のこどものころの夢のひとつは、母のふるさと、徳島県美馬郡の坂根村のような、冬、雪がつもる雪国で暮らしてみたいというのがあります。今から考えますと、雪国に対するあわい期待と夢は、母のふるさとだけでなく、祖父・吉田永學のふるさと、信州・栗田村の雪国への無意識の憧憬があったのかもしれません。

ともかく、筆者、人生の晩年になって、妻のふるさと・湖南の赤津村、旧会津藩領地の豪雪地帯の山郷で過ごすことができるようになったのですから、湖南での雪国暮らしは、筆者の人生の晩年になって適った夢のひとつ・・・!湖南の冬の雪景色を好きになることはあっても、嫌いになることはありません。 

しあわせ・・・。 

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先祖からの自由、先祖への自由・・・

2018年11月24日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

ほんとうの自由は、<~からの自由>にとどまらず、<~への自由>にいたらなければなりません。

ひとがその先祖の歴史から自由になることについても同じことが言えます。<先祖からの自由>は、<先祖への自由>の道のりを経て、ほんとうの意味で、<先祖からの自由>を確保することができます。

新約聖書の主イエスさまのことばにも、その両側面が含まれています。父母をはじめとする先祖からの自由を説かれると同時に、父母をはじめとする先祖への自由も保障されています。先祖を否定するも肯定するも、自分の一生をそれによって拘束され、そのしがらみの鉄鎖に自らをつなぎとめることへの警鐘のことばであって、いたずらに、先祖を否定しているわけではありません。

筆者にとっては、父祖・吉田永學の先祖からの自由だけでなく、父祖・吉田永學の先祖へ自由によって、聖書の主なる神さまが、筆者をどのように、聖書の神に対する信仰へと導いてくださったのか、そのみわざのあとを確認することができるからです。

明治以降、にわか宗教家になった武士階級ではなく、中世にはじまり近世幕藩体制下を名もなき宗教家として生き抜いてきた、筆者の先祖の歴史、今ではすっかり受容できるようになり、先祖の歴史を調べることに、興味と楽しさがともなっています。 

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父祖・吉田永學の足跡をさがしたけれど・・・

2018年11月24日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

22日と23日の夜、国立国会図書館デジタルコレクションにアクセスして、筆者の祖父・吉田永學の足跡を探しました。

公務員をしていたので、<職員録>のどこかにその名前が記録されているのではないかと思ったのですが、見つけることができませんでした。筆者が見た、祖父・吉田永學に対する辞令に書かれた職種・身分は、国立国家図書館デジタルコレクションで閲覧できる<職員録>には掲載されていないことが分かり、探すのを断念しました。

つまり、祖父・吉田永學は、まるっきり、<ただのひと>・・・。信州・栗田村の真言宗・観聖寺の住職の家系で、その直系血族である祖父・吉田永學は、寛永14年(1637)に創設された真言宗・観聖寺が、明治政府によって神仏分離・修験道廃止の対象にされ廃寺に追い込まれたあとに生まれたのですが、その後の歩みは、ふるさと信濃を遠く離れた瀬戸内の讃岐や備前での暮らしでした。児島修験の聖地、備前の国児島の海辺に住み着いた父祖・吉田永學の住んでいた家に生まれた筆者、父祖や祖母の遺品はそれほど多くはありませんでした。父祖の残したものは、『伊呂波引き節用辞典』と父祖が画いたおびただしい数の水墨画と10数体の仏像・・・。祖母が残したものは、お琴・・・。姉の話しでは、祖父・吉田永學とそのふるさと・信濃を結ぶものは、吉田永學のおとうとが時々、たくさんのお土産をもって祖父を訪ねてきたこと・・・。祖父・吉田永學の遺骨は、祖母の実家のある讃岐の墓地に埋葬されたとか・・・。姉は、祖母の実家と疎遠になり、父祖の墓参りをすることはなくなったとか・・・。

<ただのひと>を先祖にもつ筆者が、近世どころか、中世の僧侶・舜良(真言宗・観聖寺の開祖)までたどりつくことができたのは、ある意味、奇跡のようなできごと・・・。日本の近世・幕藩体制下を無名の宗教家として走り抜けてきた先祖の歴史を、日本基督教団の牧師になった、真言宗・観聖寺の直系血族の末裔である<17世>に相当する筆者がたどりつけたのですから・・・。

この春、祖父・吉田永學のふるさと、信州栗田村の真言宗・観聖寺跡地に住んでおられる吉田さんを訪ねたとき、吉田さんが保存されている観聖寺文書の一部と、長野市公文書館の古文書の一部から、祖父・吉田永學の戸籍と近世文書とを結びつける高祖父の1代前の先祖の名前が結びつき、真言宗・観聖寺の開祖・舜良から、筆者までの先祖の足跡を調べるてがかりを入手することができました。

昨夜から、国立国会図書館デジタルコレクションで、真言宗・観聖寺の中本山である<世義寺>を検索してみましたが。インターネット上で閲覧できるものはごくわずかでしかありませんが、近世の<世義寺>の信奉者の多くは、<農民>であったようです。古文書では、真言宗・観聖寺の住職も、田畑を借りて米・野菜を栽培していたようです。

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冬支度がすむと、真言宗・観聖寺に関する文献を読み漁ることに・・・

2018年11月20日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

今年で、妻のふるさと湖南で迎えることになる6回目の冬・・・。

妻の実家の親類・親戚筋の方々の間では、<吉田くんは、2~3年で貯金を使い果たして、ここを出ていくことになるべえ!カネさもってねえようだから、つきあうと損をするぞ!>という言葉が行き渡り、妻の実家の親類・親戚筋とつきあうことはほとんどないまま、2~3年どころか、今年で6年目・・・。

貯金はもともとないので、なくなるもなくならないも、最初から関係ない話し・・・。年金暮らし+百姓暮らしに徹して、コメと野菜は自給自足・・・。有機・無農薬栽培で、美味しくて安全なコメと野菜を食べていますので、健康そのものの暮らし・・・。

今年も、無事、冬支度を終えることができそうなので、積雪期に入りますと、筆者は、<晴耕雪読>・・・。<晴耕>といっても、100~150cm積雪した世界で田畑を耕すことはありませんが、除雪作業は日々の仕事になります。除雪作業をしていないときは、読書三昧・・・。

この冬は、1.筆者の祖父・吉田永學、曾祖父・吉田向學のルーツ、信州栗田村の真言宗・観聖寺に関する文献を読み漁ることになります。すでに関連資料・書籍を50~60冊入手していますから・・・。2.部落学序説の出版の準備・・・。3.標高550mの湖南高原の棚田の田での有機・無農薬栽培でのコメつくり・野菜つくりのマニュアルつくり・・・。 

名もなき宗教家の末裔である筆者の先祖・・・、筆者自身の手によって、調査・解明しなければ、筆者の先祖の歴史は筆者の歴史につながることはありません。伊勢神宮の神宮寺・世義寺の信州における末寺であった、信州栗田村の観聖寺の住職の直系血族にあたる筆者、調べなければならないことは多い・・・。明治初期の神仏分離・廃仏毀釈に関する文献は、日本基督教団の牧師になるために農村伝道神学校に入る前から収集、批判・検証していました。この冬は、インターネットで、<国立国会図書館デジタルコレクション>にアクセスして、これまで読みたいと思っても読むことができなかった史資料を閲覧することができますので、この冬の<晴耕雪読>は充実したものになりそうです。

年があけると、筆者は、71歳・・・。若いときには想像だにすることができなかった筆者の人生の晩年です。 

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人生のいくつかの転機・・・

2018年11月01日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

筆者、岡山生まれ、岡山育ちですが、生まれてから29歳のとき、日本基督教団の牧師になるために、鶴川学院農村伝道神学校に入学するまで、<岡山県人>として生きてきたのですが、なにとなく、違和感を感じていました。

ひとつは、筆者の語る言葉が純粋な岡山弁ではないこと・・・。こどものころ、からだが弱かった筆者は、ほかのこどもたちと遊ぶことはほとんどなく、いつも母のそばにいて、母と話をしていました。そのため、母の言葉である徳島弁からかなり影響を受けることになりました。

今年の春、曾祖父・𠮷田向学、祖父・𠮷田永学、父、姉の本籍地、長野県長野市栗田の𠮷田さん宅を訪ねたとき、ブログ『部落学序説』の愛読者になってくださった、長野県の元学校教師の Maruyama さんの案内で、長野市公文書館をたずねたとき、その主事さんとの会話に、

主事:吉田さんは、どこの出身ですか?
筆者:わたしは、岡山生まれの岡山育ちです。
主事:なぜ、栗田村の古文書を調べているのですか?
筆者:父、父祖、曾祖父の本籍地が、長野市栗田にありますので・・・。
主事:それじゃあ、吉田さんも長野のひとですね。 

というのがありました。そのとき、岡山は、筆者にとって寄留の地でしなかったことを確認させられました。岡山だけでなく、東京も神奈川も山口も、そして、妻のふるさと・福島においても、寄留の民でしかないことを・・・。

人生には、いくつもの転機があります。無学歴・無資格の筆者は、学校・病院・商社・教会と職業を4つ経験し、現在は、日本基督教団隠退牧師となったあと、妻のふるさと・湖南で百姓を生きています。

男の厄年42歳のとき、Database System Engineer の資格とり、
43~45歳のとき、日本のバブル崩壊
50の手習いで、情報処理技術者試験のシスアドと第二種(COBOLで受験)合格
57歳のとき、ブログ『部落学序説』を書下ろしで執筆
60歳のとき、インターネットの日本の古本屋経由で古書を収集。リーマンショック。
63歳のとき、妻のふるさとが原発事故による放射能汚染
64歳のとき、1月1日に妻の父、12月24日に筆者の母が逝去
65歳のとき、日本基督教団の隠退牧師になり、妻のふるさとに帰郷・帰農。標高550mの湖南高原の棚田の田で有機・無農薬のコメと野菜つくりをはじめる
70歳のとき、曾祖父・𠮷田向学、祖父・𠮷田永学の故郷を訪ねる 

筆者の70歳、古希の歳は、筆者にとって、どのような人生の転機になったのか・・・? 

 

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十分、自分をさらしてきたので・・・

2018年10月04日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

2005年5月・・・、インターネットのブログで、書き下ろしで、『部落学序説』の執筆をはじめました。

その『部落学序説』、その大半は、書き下ろしを始めて3~4ケ月で書き上げたものですが、そのとき、読者からの批判だけでなく、誹謗中傷も激しく、多くの読者の方々から、<触れてはならない部落問題に触れるのだから、まず、執筆者の吉田向學が誰であるのか語れ!>とコメントが寄せられ、その要望に応えるべく、『部落学序説』の執筆の背景にある情報を提供するために、『田舎牧師の日記』を書きはじめました。日本基督教団の隠退牧師になったあとは、『湖南村尻百姓記』に移行して書き続けてきました。

日本基督教団西中国教区の、山口のちいさな教会の牧師をしていた30年間、筆者に与えられた役職は、西中国教区部落差別問題特別委員会委員のみでした。しかも、最初の4期8年間だけ・・・。そのあとは、徹底的に排除・疎外されていましたので、ずっと無役・・・。筆者の、山口のちいさな教会の牧師をしていたときの30年間に及ぶ、部落差別問題とのかかわり、『部落学序説』執筆の際の視点・視角・視座、<運動団体から差別者とラベリングされる立場からの部落差別完全解放への提言>は、そのまま終えることになりました。信州栗田村の真言宗・観聖寺の住職の直系血族の末裔である筆者、信濃の史資料、古文書、研究論文などに書かれている通り、中世・近世を通じて僧侶・修験者であり、いわゆる穢多・非人身分ではありませんでした。運動団体の<被差別者でなければ差別者>という主張では、筆者、典型的な<差別者>の範疇に入ります。

吉田向学の名前で『部落学序説』の執筆をはじめたのは、幕末・明治を生きぬいた長野県出身の、曽祖父・吉田向学の名前を出せば、筆者のルーツがわかるのではないかとの思惑でペンネームを曽祖父の名前にしたのですが、どこからも情報を入手することができませんでした。しかし、日本基督教団の隠退牧師になり、妻のふるさと・福島に帰郷・帰農する直前、筆者の祖父・吉田永學、曽祖父・吉田向學が、信州・栗田村の真言宗・観聖寺の住職の家系であることを史資料で確認することができました。

筆者の、『部落学序説』の出版と、筆者の先祖のルーツ探しの旅は、今も続いていますが、もう、十分に、『部落学序説』の執筆者である、筆者自身をさらけ出してきたと思います。これからは、『部落学序説』の執筆者である筆者自身をさらけだす営みを自粛し、『部落学序説』の書き直しに時間と労力を傾けてまいりたいと思います。

このブログ『湖南村尻百姓記』も、その内容の範囲も大幅に縮小、帰農した隠退牧師の百姓暮らしのみを簡単につづってまいりたいと思います。 日本基督教団西中国教区のちいさな教会の牧師をしているときお世話になった方々への近況報告をかねて・・・。

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みっちゃんみがつくみみずくほうし・・・

2018年10月04日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

筆者、小学生のころよく、<みっちゃんみちみちうんこして>の曲で、同級生からからかわれていました。

みっちゃんみがつく みみずくほうし
法師、胞子で飛んで行け

筆者のいもうとの話しでは、小学校の教師が、筆者のためにつくった歌で、<みんな、おにいちゃんのためにだけ、この歌を歌っていた>と話していました。筆者の祖父・吉田永學が、信州栗田村の真言宗・観聖寺の住職の末裔であることは、<吉田屋>の屋号をもつ家具店の近隣の商店の方々も、小学校の先生方も、みんな知っていたのかもしれませんね・・・。

知らぬは、筆者ばかりなり・・・。

祖父・吉田永學に、孫娘としてかわいがられた記憶のある姉も、祖父・吉田永學が、信州・栗田村の真言宗・観聖寺の住職の末裔であることは聞かされていませんでしたから、ほんとうのところはわかりません。

筆者という胞子が飛んで行った先は、岡山、岡山から西では、長崎・熊本・大分・山口・岡山・香川・徳島、岡山から東では、大阪・和歌山・三重・岐阜・長野・栃木・神奈川・東京・福島・山形・・・。<胞子>としてだけでなく、<法師>として・・・。今は、<基督教法師>・・・。今や、妻の実家の棚田の田や畑で、野鳥・渡り鳥や、イノシシ・クマ・たぬき・むじな・きつねなどの野生動物、カエル・とんぼ・くもなどの田のいきもの、野草や田畑の草に、聖書の神、主なる神さまのありがたい教えを説法しています。聖フランシスの足跡をけがして・・・。
 

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いつのまにか東日本の住人になる・・・

2018年09月30日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

筆者、いつのまにか、東日本の住人になったようです。

左の地図は、筆者と東日本の関連を図示したもの・・・。

筆者が中学1年生のとき、祖父のふるさと・長野県に関心を持ち、当時中学生の間で流行っていた文通をすることしました。長野県西筑摩郡上松町立上松中学校の女性生徒と・・・。

2013年4月1日に、日本基督教団の隠退牧師になり、妻のふるさと・湖南に帰郷・帰農する前、筆者の父祖・吉田永學のふるさとが、信州栗田村の真言宗・観聖寺の住職の末裔であることがわかり、<帰農>という言葉が別の意味合いを帯びてきました。

寛永14年(1637年)舜良によって開山された真言宗・観聖寺は、明治になって、明治政府の神仏分離政策で、伊勢神宮から神宮寺である世義寺が切り離され、修験道禁止令によって廃寺へと追い込まれましたが、その信州における世義寺の末寺であった真言宗・観聖寺も廃寺に追い込まれます。そのとき、曽祖父・吉田向學は<帰農>を選択します。 

今年の春、祖父・曽祖父のふるさと・長野市栗田の吉田さんをたずねたとき、長野市の丸山先生に案内されて、長野市公文書館を尋ねましたが、そのとき長野市公文書館の主事の方、「吉田さんも長野のひとです」と話しておられました。

妻のふるさと・福島では、筆者は、<異郷の民>(あるいは、異教の民・・・?)でしかありませんので、信濃をこころのふるさとの地として、人生の晩年の歩みをすすめていきたいと思っています。

頭の中の白地図に、いろいろな思い出を書き込むことができるようになって、しあわせを感じるとともに、これまで導いてくださった主なる神さまに感謝・・・! 
 

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こどもの養育環境として最高の環境・・・?

2018年08月18日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

天野正子編著『団塊世代・新論 <関係的自立>をひらく』に、団塊世代の子ども時代について、このような言葉がありました。

<テレビが一般の家庭に普及しはじめたんは、1969年ころからであり、団塊世代の子ども時代は、地域差はあるものの、きょうだいや近所の友だちと、幼いきょうだいの子守りをしながら夕方遅くまで外で遊んだ最後の世代である。山や川や海で子どもたちだけで遊んでいて、怪我や事故にあることも多かったが、その多くは身近な自然のなかでの事故であった。必ずしも ない安全とはいえないが、異年齢集団と自然環境という、子どもの養育環境としては最高の環境のなかで育ってきた。・・・団塊世代の子ども時代は、学校での勉強と、放課後の勤労と遊びが調和しており、貧しいながらも人間関係は豊かな時代であった>。

筆者は、<
団塊の世代(1947-1949)>、妻は、<しらけ世代(1950-1964)>、娘と娘のご主人は、<ミニマムライフ世代(1980-1988)>・・・。筆者が、日本基督教団の牧師になるために神学校に入ったときの世代は<しらけ世代>・・・。そのためでしょうか、筆者と妻は、相互理解がそれほど難しくありません。

筆者は、団塊世代といっても、その世代の落ちこぼれなので、団塊世代と価値観をほとんど共有していません。東京神学大学機動隊導入問題、東京神学大学学長がその学生が阿佐ヶ谷東教会にやってくることを恐れ警察に警護を依頼した問題も、当事者ではありません。機動隊導入は、1970年・・・。1970年といえば、筆者が、高校3年の3学期のはじめ、大学進学を前に病気で倒れた父を、母や妹と共に働いて、医療係数50%を生きていたとき・・・。東京神学大学紛争、阿佐ヶ谷東教会問題とは、直接関係がない存在・・・。しかし、その阿佐ヶ谷東教会が筆者を教会員として受け入れ、神学校で勉学している間、いろいろ勉強させてもらったのですが、今も感謝の思いを持っています。

しかし、日本基督教団の社会派・福音派の両方の教会・牧師・信徒は、それを理由に、筆者をラディカルな牧師、過激派牧師として、排除・疎外してきました。筆者は、思想は嫌いで、哲学すること、自分で物事を考えることを大切にしていました。学生用語・運動用語・政治用語とはほとんど無縁の生き方をしてきました。日本基督教団の元総幹事で、農村伝道神学校の校長をされていた方が、筆者が、農村伝道神学校に入学した際、<あなたは、純福音の教会の出身でしょう?この神学校は、あなたのようなもののくるところではない。本来なら不合格にして入学させないのだが、鶴川学院(農村伝道神学校の上部機関)の理事長の推薦状を持ってきたので、仕方なく、農村伝道神学校の校長として入学を認めざるを得なかったが、日本基督教団の信仰告白を自分の信仰告白としたり、桑田秀延の『基督教神学概論』や北森嘉蔵の『神の痛みの神学』を愛読しているという神学生は、この神学校で卒業することは難しい・・・>と話しておられました。

筆者、農村伝道神学校にはいるとすぐ、日本基督教団の教会で転会させてくれる教会を探していたのですが、福音派の教会からは、<社会派の神学校の神学生は受け入れることはできない>と拒絶され、社会派の教会からは、<純福音の教会出身の神学生は受け入れることができない>と拒絶され、教会探しに悪戦苦闘していたとき、筆者をこころよく受け入れてくださったのが、阿佐ヶ谷東教会でした。阿佐ヶ谷東教会の主日礼拝に2回続けて出席したとき、長老の方から、<君、2回続けて主日礼拝に出席したのですから、この教会に転籍しなさい>と言われ、Sweden Covenant Missionの教会から、日本基督教団の教会へ転会が決まりました。筆者にとってとても幸いなことでした。

しかし、その<幸>のあとに<不幸>が追いかけてきました。日本基督教団の元総幹事で、農村伝道神学校の校長をされていた牧師が、農村伝道神学校を任期途中で辞任、阿佐ヶ谷東教会の牧師として赴任してきたからです。阿佐ヶ谷東教会の赴任してきた牧師の夫人、このひとも日本基督教団の牧師の資格をもっている方でしたが、筆者に、<あなたは、高倉の弟子ではありません。どこの馬の骨かわからない、無学歴・無資格のあなたを弟子にすることは、名門出身の牧師である高倉の恥になりますから。あなたを神学生としてではなく、一教会員とみなします>と、語りかけてきました。そして、さらに、不幸なことが重なることになりました。高倉牧師の就任の歓迎会より、阿佐ヶ谷東教会の幼稚園教師の方の受洗と筆者の転会の歓迎会の方が豪華で、こころがこもっていたことです。

筆者は、 暦年齢では、<団塊の世代(1947-1949)>に属しますが、実年齢では、当時の阿佐ヶ谷東教会の青年会の方々と同じ、<しらけ世代(1950-1964)>に属していたのです。

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近世の修験僧は、現代の牧師に類似・・・?

2018年08月09日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

修験道・・・

わかいときは、筆者には、ほとんど縁がない世界であると思っていたのですが、人生の晩年になって、筆者の父祖・吉田永學の先祖が、信州・栗田村の観聖寺の住職の家系であることが分かりました。

それ以来、真言宗、密教、修験道・・・などに関する本を、インターネットの日本の古本屋経由で集め、通読しながら、いろいろ考えてきましたが、近世幕藩体制下の修験僧は、中世の修験僧とはその性格が大きく異なるようです。近世の文献、史資料を読んでみた限りでは、近世の修験僧は、霊山で修業をするだけでなく、農民の暮らしと深く結びついて、農学・気象学・医学・薬学・土木・治水・冶金などに関する知識・技術を持つ市民的科学者でもあったようです。いろいろな文献を読んでいきますと、近世の修験僧は、そして、筆者の父祖・吉田永學の先祖、信州・栗田村の観聖寺の代々の住職たちは、栗田村の農民に対して、まるで<牧師>であるかのようなふるまいをしていたようです。

日本基督教団の隠退牧師の筆者、幕末から明治にかけて、基督教に改宗した士族階級の牧師と違って、新義真言宗の僧侶、宗教家として17世を数える存在・・・。宗教家としての先祖の生き方は、 筆者のものの見方、考え方にも大きく反映されているようです。といっても、筆者は、<宗教混交>の世界に身を投じることはありません。13歳のときに聖書をよみはじめ、16歳のとき教会に通いはじめ、17歳のとき、高校3年生のときに洗礼を受けた筆者、比較宗教学の視点・視角・視座から新道・仏教・修験の世界を調べることはあっても・・・。

それにしても、近世の修験僧は、現代の牧師のよう・・・。明治以降、修験は、国家の宗教政策によって廃止され、そのほんとうの姿を否定され、あらぬ姿を押し付けられてきたようですが、それを明らかにするのも、日本基督教団の隠退牧師である筆者の、人生の晩年の課題かもしれません。 

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