湖南村尻百姓記

65歳で、妻の実家のある湖南町に帰郷・帰農して山里暮らし・百姓暮らしをはじめた隠退牧師の日記

こどもの養育環境として最高の環境・・・?

2018年08月18日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

天野正子編著『団塊世代・新論 <関係的自立>をひらく』に、団塊世代の子ども時代について、このような言葉がありました。

<テレビが一般の家庭に普及しはじめたんは、1969年ころからであり、団塊世代の子ども時代は、地域差はあるものの、きょうだいや近所の友だちと、幼いきょうだいの子守りをしながら夕方遅くまで外で遊んだ最後の世代である。山や川や海で子どもたちだけで遊んでいて、怪我や事故にあることも多かったが、その多くは身近な自然のなかでの事故であった。必ずしも ない安全とはいえないが、異年齢集団と自然環境という、子どもの養育環境としては最高の環境のなかで育ってきた。・・・団塊世代の子ども時代は、学校での勉強と、放課後の勤労と遊びが調和しており、貧しいながらも人間関係は豊かな時代であった>。

筆者は、<
団塊の世代(1947-1949)>、妻は、<しらけ世代(1950-1964)>、娘と娘のご主人は、<ミニマムライフ世代(1980-1988)>・・・。筆者が、日本基督教団の牧師になるために神学校に入ったときの世代は<しらけ世代>・・・。そのためでしょうか、筆者と妻は、相互理解がそれほど難しくありません。

筆者は、団塊世代といっても、その世代の落ちこぼれなので、団塊世代と価値観をほとんど共有していません。東京神学大学機動隊導入問題、東京神学大学学長がその学生が阿佐ヶ谷東教会にやってくることを恐れ警察に警護を依頼した問題も、当事者ではありません。機動隊導入は、1970年・・・。1970年といえば、筆者が、高校3年の3学期のはじめ、大学進学を前に病気で倒れた父を、母や妹と共に働いて、医療係数50%を生きていたとき・・・。東京神学大学紛争、阿佐ヶ谷東教会問題とは、直接関係がない存在・・・。しかし、その阿佐ヶ谷東教会が筆者を教会員として受け入れ、神学校で勉学している間、いろいろ勉強させてもらったのですが、今も感謝の思いを持っています。

しかし、日本基督教団の社会派・福音派の両方の教会・牧師・信徒は、それを理由に、筆者をラディカルな牧師、過激派牧師として、排除・疎外してきました。筆者は、思想は嫌いで、哲学すること、自分で物事を考えることを大切にしていました。学生用語・運動用語・政治用語とはほとんど無縁の生き方をしてきました。日本基督教団の元総幹事で、農村伝道神学校の校長をされていた方が、筆者が、農村伝道神学校に入学した際、<あなたは、純福音の教会の出身でしょう?この神学校は、あなたのようなもののくるところではない。本来なら不合格にして入学させないのだが、鶴川学院(農村伝道神学校の上部機関)の理事長の推薦状を持ってきたので、仕方なく、農村伝道神学校の校長として入学を認めざるを得なかったが、日本基督教団の信仰告白を自分の信仰告白としたり、桑田秀延の『基督教神学概論』や北森嘉蔵の『神の痛みの神学』を愛読しているという神学生は、この神学校で卒業することは難しい・・・>と話しておられました。

筆者、農村伝道神学校にはいるとすぐ、日本基督教団の教会で転会させてくれる教会を探していたのですが、福音派の教会からは、<社会派の神学校の神学生は受け入れることはできない>と拒絶され、社会派の教会からは、<純福音の教会出身の神学生は受け入れることができない>と拒絶され、教会探しに悪戦苦闘していたとき、筆者をこころよく受け入れてくださったのが、阿佐ヶ谷東教会でした。阿佐ヶ谷東教会の主日礼拝に2回続けて出席したとき、長老の方から、<君、2回続けて主日礼拝に出席したのですから、この教会に転籍しなさい>と言われ、Sweden Covenant Missionの教会から、日本基督教団の教会へ転会が決まりました。筆者にとってとても幸いなことでした。

しかし、その<幸>のあとに<不幸>が追いかけてきました。日本基督教団の元総幹事で、農村伝道神学校の校長をされていた牧師が、農村伝道神学校を任期途中で辞任、阿佐ヶ谷東教会の牧師として赴任してきたからです。阿佐ヶ谷東教会の赴任してきた牧師の夫人、このひとも日本基督教団の牧師の資格をもっている方でしたが、筆者に、<あなたは、高倉の弟子ではありません。どこの馬の骨かわからない、無学歴・無資格のあなたを弟子にすることは、名門出身の牧師である高倉の恥になりますから。あなたを神学生としてではなく、一教会員とみなします>と、語りかけてきました。そして、さらに、不幸なことが重なることになりました。高倉牧師の就任の歓迎会より、阿佐ヶ谷東教会の幼稚園教師の方の受洗と筆者の転会の歓迎会の方が豪華で、こころがこもっていたことです。

筆者は、 暦年齢では、<団塊の世代(1947-1949)>に属しますが、実年齢では、当時の阿佐ヶ谷東教会の青年会の方々と同じ、<しらけ世代(1950-1964)>に属していたのです。

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近世の修験僧は、現代の牧師に類似・・・?

2018年08月09日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

修験道・・・

わかいときは、筆者には、ほとんど縁がない世界であると思っていたのですが、人生の晩年になって、筆者の父祖・吉田永學の先祖が、信州・栗田村の観聖寺の住職の家系であることが分かりました。

それ以来、真言宗、密教、修験道・・・などに関する本を、インターネットの日本の古本屋経由で集め、通読しながら、いろいろ考えてきましたが、近世幕藩体制下の修験僧は、中世の修験僧とはその性格が大きく異なるようです。近世の文献、史資料を読んでみた限りでは、近世の修験僧は、霊山で修業をするだけでなく、農民の暮らしと深く結びついて、農学・気象学・医学・薬学・土木・治水・冶金などに関する知識・技術を持つ市民的科学者でもあったようです。いろいろな文献を読んでいきますと、近世の修験僧は、そして、筆者の父祖・吉田永學の先祖、信州・栗田村の観聖寺の代々の住職たちは、栗田村の農民に対して、まるで<牧師>であるかのようなふるまいをしていたようです。

日本基督教団の隠退牧師の筆者、幕末から明治にかけて、基督教に改宗した士族階級の牧師と違って、新義真言宗の僧侶、宗教家として17世を数える存在・・・。宗教家としての先祖の生き方は、 筆者のものの見方、考え方にも大きく反映されているようです。といっても、筆者は、<宗教混交>の世界に身を投じることはありません。13歳のときに聖書をよみはじめ、16歳のとき教会に通いはじめ、17歳のとき、高校3年生のときに洗礼を受けた筆者、比較宗教学の視点・視角・視座から新道・仏教・修験の世界を調べることはあっても・・・。

それにしても、近世の修験僧は、現代の牧師のよう・・・。明治以降、修験は、国家の宗教政策によって廃止され、そのほんとうの姿を否定され、あらぬ姿を押し付けられてきたようですが、それを明らかにするのも、日本基督教団の隠退牧師である筆者の、人生の晩年の課題かもしれません。 

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今年の春の父祖・吉田永學のふるさとを訪ねたときの足跡・・・

2018年08月09日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

この春、筆者の祖父・吉田永學のふるさと、信州栗田村(現在の長野市栗田)を2泊3日で訪ねたとき、県立長野図書館を3回、長野市文書館を1回尋ねました。県立長野図書館を訪ねたとき、司書の方に質問したのが、下の国立国会図書館のサイトに掲載されている<質問(Question) 長野市栗田地区にあった観聖寺(真言宗)について。明治11年に廃寺になったようだが、それが分かる資料を探している>・・・。筆者の質問が記録されるなんて! 筆者、<一を聞いて十を知る>タイプの人間なので、このひとつの<質問(Question)>に正しい回答(Answer)を得たことで、先祖の歴史を、1550年ころまでさかのぼることができるようになりました。



 

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父祖・吉田永學の先祖の歴史をまとめるために・・・

2018年08月09日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

今日、午前中、台風13号が福島県に最接近するとかで、野菜の収穫をしたあとは農作業を中止・・・。

今日は、気分転換に、会津若松へドライブしました。会津若松市内には、妻の従姉が住んでいたのですが、筆者は、1度お会いしたことがあるのですが、妻は、ありません。ただ、住所も電話番号もわからず、NAVIも使用することができないので、結局、たどりつくことができませんでした。

その帰り、<麦のさと>といううどん屋さんで昼食をとって、スーパーによってかえってきましたが、スーパーで、小学生の学習用ノートを4冊購入・・・。同じものは、すでに4冊もっているのですが、1冊30枚なので、4冊では、4冊×30枚×2ページ=240ページ・・・。1ページに1年の記事をわりあてるとして、筆者の父祖・吉田永學の先祖、信州・栗田村の真言宗観聖寺の年表をつくるには、1550年~1950年の400年、最低でも400ページ必要なので、同じノートを追加して、8冊のノートを1冊に製本、左図の表紙をつけました。

妻は、<あなた、歳が歳なのですから、はやくまとめるものはまとめておいた方がいいわよ。『部落学序説』もはやく出版したほうがいいのでは・・・? お米つくりは、食べる米がとれたら十分ですから・・・>と話していましたが、筆者、<晴耕雪読の方針にかわりはありません・・・>と答えました。

『部落学序説』・・・、周防・紀州・信濃の3ケ国の穢多・非人に関する史資料で、リライトすることになりそうですが、自費出版で、古書店で販売してもらえるよう努力するつもりです。現時点で評価されようとは100%思っていませんので・・・。 『近世栗田村古文書集成』に収録された古文書によりますと、近世の栗田村には<穢多>役、<非人>役は存在していませんでしたから、『部落学序説』の執筆当初からの視点・視角・視座に変更なし!

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児島高校の詩吟部で最初にならった<川中島>・・・

2018年08月06日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

筆者が卒業した高校は、岡山県立児島高校(普通科)です。1年生のときの担任は、漢文の渡辺先生・・・。筆者、渡辺先生にすすめられて、渡辺先生が顧問をされている詩吟部に入りましたが、そのとき、最初に教えられた詩吟は、頼山陽の<川中島>・・・。

鞭声粛粛 夜河を過る
曉に見る千兵の 大牙を擁するを
遺恨なり十年 一剣を磨き
流星光底 長蛇を逸す

筆者の祖父・吉田永學のふるさと・信州栗田村の武将は、第2回目の川中島の戦いのときから、武田信玄の陣営に加わったようで信濃には、武田信玄ゆかりの寺院が少なくありません。信州・栗田村の真言宗・観聖寺もそのひとつなのでしょう。筆者、信濃の国の史資料を探索している最中なので、甲斐の国にまで手を広げることは難しいのですが、筆者にとっては、避けて通ることができない課題です。 

上杉謙信ではなく、武田信玄を見る目を養わなければならないようです。 

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先祖の歴史に影を落とす武田信玄・・・

2018年08月06日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

筆者の父祖・吉田永學のふるさと・信州栗田村(長野市栗田)の吉田さんを訪ねたとき、知りえた先祖に関する史資料・・・、整理をしていて、先祖の歴史に、武田信玄が大きな影を落としていると思わされています。

日本基督教団西中国教区の山口のちいさな教会の牧師をしていたとき、副業で、情報処理関連の仕事をしていましたが、そのとき、NTTとNHKの人材派遣会社から頼まれて、山口県東部高等産業技術学校や山口県東部女性就業センターでパソコン・情報処理の講師を10年間に渡ってしたことがあります。

そのとき、受講生の中に、長野県出身で、武田信玄の側室・由布姫の末裔の方がおられました。工業高等専門学校の教授(のち別の工業高等専門学校の校長)をされていた方の奥さまで、筆者の先祖は信州・長野であると話をしましたら、<わたしの先祖も信州・長野です>と話しておられました。そのときは、筆者、筆者の先祖が武田信玄の支配下に置かれていたとは夢にも思っていなかったのですが、いろいろな史資料を見ていますと、筆者の先祖、真言宗・観聖寺の住職は、武田信玄の影を深く落としている存在だと思われてきます。

昨日、長野の吉田さんと電話で話をしていたとき、<真言宗・観聖寺は、武田信玄とかかわりがありそう・・・>と話をしましたら、長野の吉田さんも、<やはり・・・>と話しておられました。筆者の先祖は、中世(戦国時代)から近世にかけて、武士が出家して僧侶になったというのではなく、中世(戦国時代)からずっと宗教者であったようです。16世紀中葉まで(今から、470前まで・・・)、先祖探しをさかのぼらせることができるようです。名も無き一宗教者の家柄であるにもかかわらず・・・。 

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<原始修験道>と修験道の本質・・・

2018年08月05日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

原始キリスト教・・・

歴史学的研究法を駆使して明らかにされてきた<原始キリスト教>の姿、ほんとうのキリスト教の姿を明らかにしてきたのか? 実は、その時代の歴史学者の価値観や価値基準を反映した、単なる解釈にすぎなかったということはよく指摘されてきたことがらですが、日本基督教団西中国教区の山口の小さな教会の牧師をしていた30年間、であった仏教の僧侶の中に、長州藩・吉部村の雲林寺の住職の方がおられます。その方は、<原始仏教>の研究の批判者・・・。歴史学的研究で明らかにされた<原始仏教>は、<日本仏教>、あるいは仏教の本質とは直接的なかかわりはないと・・・。むしろ、仏教の本質を誤解せしめることになると・・・。

基督教も仏教も、<原始~>を追及しはじめると、その本質から著しく逸脱していくようです。

それは、日本の修験道も同じ・・・。明治になって、明治政府の国家神道樹立に向けた宗教政策によって神仏分離が実施され、明治政府によって禁止されることになった修験道も同じ・・・。今や、<原始修験道>の研究が百花繚乱の時代を迎えているようですが、果たして、<原始修験道>は、修験道の本質を把握することができるのやらどうやら・・・。

筆者、修験道の歴史的研究のいとぐちをつかむことができるのやらどうやら・・・。 

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父祖・吉田永學のふるさとを訪ねて知りえたことをまとめることに・・・

2018年08月05日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

田畑の草取りに追われるようになって、この春、父祖・吉田永學のふるさと、信州・長野を訪ねて、長野県立図書館や福島市立文書館で閲覧・複写した史資料、書籍を検証する時間がなくなってしまいました。

これまでに調べてきた結果を、1.吉田家の年表(1637年寛永14年~)、2.長野県立図書館の蔵書から知りえた真言宗・観聖寺に関する文献のコピーと、3.筆者の解釈・解説をまとめて、盆前に、長野の吉田さんと、岡山の妹に送ることにしました。明治になって、中本山の伊勢・世義寺が神仏分離(伊勢神宮を国家神道の拠点にするため)されたとき、信州でその末寺をしていた真言宗・観聖寺も廃寺に追い込まれてしまいますが、送る資料のコピーには、伊勢神宮・神宮寺・世義寺・伊勢御師・修験道に関する文献も含まれます。

筆者の先祖の地、真言宗・観聖寺のあった、信州・栗田村には、近世幕藩体制下においては、<穢多>役・<非人>役が配置されたなかった村のひとつです。もちろん、真言宗・観聖寺も一切関係なし。その関連史料のコピーも含めて、送ることになります。 

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『怨霊と修験の説話』・・・

2018年06月22日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

インターネットの日本の古本屋経由で、もう1冊注文したのが、南里みち子著『怨霊と修験の説話』・・・。

著者の南里みち子さんが九州大学で文学博士の学位を取得したときの博士論文のようです。その内容は、以下の通り・・・。注文をしたときは、その内容をまだ確認していませんでした。書名から、修験に関する一般書、通俗書の類ではないかと思っていましたが、あにはからんや、学術書・研究書の類でした。

目次

まえがき
1.序章
 1.『北野天神縁起』とその研究
 2.天神信仰と善家父子の役割
2.菅公怨霊説話成立の背景
 1.「天神縁起」の尊意・浄蔵法験説話
 2.『将門記』忠平あて書状の性格
 3.『歓喜天霊験記』の説話
3.日蔵上人の説話
 1.日蔵蘇生の説話
 2.目蔵とその活動基盤
4.松尾明神の説話
 1.松尾明神と法華経
 2.松尾明神と怨霊信仰
 3.松尾明神の性格
5.治病の説話
 1.怨言調伏の説話
 2.浄蔵の医術
6.蘇生説話
 1.浄蔵伝の蘇生説話
 2.死者を蘇生させた人々
7.浄蔵と晴明伝承
 1.清行蘇生説話の成長
 2.清行・浄蔵と陰陽道
 3.浄蔵および晴明伝承の類似
8.『地蔵菩薩霊験記』の浄蔵説話
 1.『地蔵菩薩霊験記』と浄蔵伝
 2.浄蔵と地蔵信仰
9.浄蔵止住の寺
 1.二つの般若寺
 2.浄蔵をめぐる修験集団
 3.雲居寺と浄蔵
10.泣不動の説話の成立と展開
 1.「泣不動ノ縁起ノ事」
 2.証空と余慶
 3.泣不動の説話の展開相
11.文殊化現の説話
 1.文殊化現の説話とその基盤
 2.聖・上人の文殊信仰
 3.化人にためされた人々
12.飛鉢説話の基盤
 1.飛鉢説話の問題点
 2.飛鉢伝説と鑑真
 3.飛鉢説話の起源
初出一覧
あとがき

 

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『甲斐近世史の研究』上下2冊が届く・・・

2018年06月22日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

インターネットの日本の古本屋経由で注文していた磯貝正義他編『甲斐近世史の研究 上』・『甲斐近世史の研究 下』の2冊が届きました。

筆者の祖父・吉田永學は、寛永14年(1637)に、僧舜良によって、真言宗・観聖寺がつくられますが、その直系血族の子孫・・・。戸籍上では、筆者の姉は、吉田永學の孫として記載されています。その弟である筆者も、当然吉田永學の孫のひとり・・・。真言宗・観聖寺の仏具・史料・敷地を受け継いでおられる吉田さんご夫婦は、筆者を、真言宗・観聖寺の住職の家系の末裔として受け入れてくださいましたが、先祖の歴史は、まだまだ分からないことばかり・・・。

真言宗観聖寺の開祖・舜良の名は、武田信玄の千人法幢のリストの中に出てきます。そのリストの中に出てくる舜良が、真言宗観聖寺の開祖・舜良である可能性は数%存在しているように思われます。それで甲斐の国の、真言宗で世義寺の末寺のことを調べていましたら、甲斐の国には、世義寺の末寺が多数存在していることを知りました。しかし、境を接する信濃の国の世義寺の末寺には、まだその名に出会ったことがありません。今、明治初年代の長野県の町村誌を読んでいますが、北信濃においては、現在のところ、筆者の先祖の観聖寺のみ・・・。

上杉より武田とのつながりが強かったのでしょうか・・・?

この春、長野の吉田さんを訪ねたときにいただいた家系図・・・、真言宗・観聖寺の住職の名前と就任年月が掲載されていますので、今、筆者が日本の近世・近代の歴史をひもとくときは、初代から17世までの、どの先祖の時代の出来事であるのかどうかを念頭に置きながら、調べを進めていくことになります。歴史は、自分とは関係のない遠い世界の話しではなくて、先祖の生き方と密接な関係のある話しになってきました。

祖父・吉田永學の孫は、姉と筆者と、妹と弟・・・。筆者と弟の名前は、修験道を反映している名前・・・。そこまで考えて名前をつけているなら、筆者の父は、吉田家のルーツをきちんと語り継ぐべきでした。筆者の父は、筆者に、<調べたらすぐわかる>と話していただけ・・・。 

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甲斐國志に出てくる世義寺末寺・・・

2018年06月21日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

インターネットの日本の古本屋で『甲斐國志』を検索してみました。古書としては高価で、年金暮らしの筆者が入手できるしろものではありません。

しかし、国立国会図書館の デジタルコレクションで閲覧することができることがわかり、早速、『甲斐國志巻之九十一 修験』にアクセスしてプリントアウトしてみました。甲斐の国には、80近い、伊勢・世義寺の末寺が存在していたようです。それにひきかえ、筆者の祖父・吉田永學は、信州栗田村の真言宗・観聖寺の直系血族にあたりますが、真言宗・観聖寺も伊勢・世義寺の末寺です。

甲斐の國と違って、信濃の國においては、伊勢・世義寺末寺の数は少なそう・・・。 

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祖父の名字は、吉田ではなく𠮷田・・・

2018年06月15日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

今朝、筆者の祖父・吉田永學の戸籍を見ていました。すると、すべての戸籍の名字は、<士>ではなく<土>でした。除籍謄本すべての姓は、<吉田>ではなく<𠮷田>・・・。

<よしだ>姓には、武士身分の<吉田>と百姓身分の<𠮷田>があると耳にしたことがありますが、筆者の先祖の姓は、<𠮷田>姓であることを考えますと、筆者の先祖は、殺生与奪の権を持っていた武士階級ではありえない。 武士階級の頂点は、将軍・藩主、武士階級の末端は、穢多役・非人役・・・。彼らは、その職務上、殺生与奪の権を持っています。しかし、百姓(農、工、商、神主、僧侶など)には、殺生与奪の権はありません。

明治11年に、神仏分離で廃寺に追い込まれた、信州栗田村の真言宗・観聖寺の住職の直系血族の末裔である筆者、姓が、<吉田>ではなく<𠮷田>であることに、筆者のルーツを感じさせられています。 

 

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信州栗田村の宝暦10年の村明細帳・・・

2018年05月25日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

昨夜、『信州栗田村古文書集成』に掲載されている<宝暦10年信濃国水内郡栗田村明細書上帳>を見ていました。

1.石高 808石(田66%、畑34%)
2.家数 88軒 (内80軒本百姓、6軒水呑百姓、1軒太子堂、観音堂1軒)
3.人数 433人 (男128人、女5人)
4.御林 無御座候
5.野原 無御座候
・・・
6.船渡 無御座候
7.溜池 無御座候
8.橋 五ヶ所 村中自普請
9.郷蔵屋敷 壱ケ所
10.用水溜類 無御座候
11.米津出場 無御座候

天保期の古文書には、その他に、

12.金銀・銅・鉄・鉛山幷砥山稼一切無御座候
13.町場・市場 無御座候
14.勝れ候高持百姓格別有徳ト申候程之者も無御座候
15.助郷之義 村方人足出シ申候
16.困窮村と申ニも無御座候
17.農業之外男女共助成候稼無御座候
18.当時公事・出入無御座候
19.御関所幷口留番所無御座候

信州・栗田村は、近世においては、百姓身分と僧侶だけで構成された村であったようです。栗田村の住人は、代々農家で、その家と田・畑は、ほとんど変更・移動はなかったようです。幕府の天領に属する村でありながら、<穢多>役、<非人>役が配置されなかった村・・・。<勝れ候高持百姓格別有徳ト申候程之者も無御座候>という文言を前に、筆者、祖父・吉田永學の先祖、真言宗・観聖寺の住職(修験僧)がどのような生き方をしていたのか、イメージすることができるようになりました。修験僧は修験僧でも、中世の密教系山岳修験僧ではなく、里修験・・・。入手した古文書を見るかぎり、真言宗・観聖寺の修験僧は、近世幕藩体制下の、基督教会の牧師のような宗教者・・・。日常・非日常の世界での活動で、常・非常の<非常>の世界とはあまりかかわりを持たなかったようです。

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筆者の、元にある小・中・高の記念誌・・・

2018年05月22日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

筆者の手元にある小中高の記念誌は、全部で7冊・・・。

1.倉敷市立琴浦西小学校『百十年の歩み』
 筆者と姉、妹、弟が出た小学校の記念誌です。琴浦西小学校は、そのまま琴浦西中学校に移行しますので、琴浦西中学校の卒業生名簿の役割もになっています(岡山県)。

2.坂根小学校『坂根小学校百年誌』
 筆者の母と兄たち、筆者の従姉たちが出た小学校の記念誌。掲載された写真をもとにいつか水墨画・水彩画にしてみたいと思っています。卒業式記念写真と名前が掲載(徳島県)。

3.長野市立芹田小学校 『長野市立芹田小学校・創立百周年記念誌』
 筆者の祖父・吉田永學とその兄弟、その子供たちが出た小学校の記念誌。名簿は、教職員名簿(長野県)。

4.上松町立上松中学校『創立五十周年記念・五十年のあゆみ』
 中学校1~3年、高校1~2年、文通していた中学生が出た中学校の記念誌。卒業生名簿を兼ねています(長野県)。

5.長野県立木曽山林高等学校・創立百周年記念誌『山霊生英傑』
 中学校1~3年、高校1~2年、文通していた中学生が出た林業高校。卒業生名簿を兼ねています(長野県)。

6.福島県立安積女子高等学校『安女七十年史』
 妻が出た高校の記念誌。名簿は、教職員名簿(福島県)。

7.旧安積女子高等学校同窓会『創立百周年記念・会員名簿』
 妻が出た高校の、平成21年の同窓会会員名簿(福島県)。

記念誌に収録された写真を見て、一番なつかしさを感じるのは、筆者の母が出た『坂根小学校百年誌』に掲載された村の写真です。

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日毎にイメージがはっきりしてくる父祖・吉田永學の先祖たち・・・

2018年05月20日 |  1.自分史(吉田向学のルーツ探し)

昨夜も遅くまで、父祖・吉田永學の先祖に関する記事が出てくる文献を読んでいました。

『信州栗田村古文書集成』にでてくる真言宗・徳音山観聖寺に関する記事のひとつに、<観聖寺跡 舎利田(吉田氏宅地内)にあり、創立寛永14年(1637)舜良開山、新義真言宗修験伊勢国度会郡中本山・世義寺の末。明治11年廃す。>というのがあります。

この文章では、<世義寺の末>とありますが、『芹田村誌』では、<世義寺の末派>となっています。<末>と<末派>、どのような違いがあるのか、また、<末寺>との関係は・・・? そんな疑問を持って読んでいるとき、<末派>の意味を説明している文献に遭遇しました。父祖・吉田永學の先祖、真言宗・徳音山観聖寺の先祖の修験僧の多くは<権大僧都>の肩書がついていますが、この<権大僧都>は、極一般的な修験者をあらわしていることが分かりました。<権大僧都>は、近世幕藩体制下における無名の宗教者の肩書・・・。

日毎にイメージがはっきりしてくる父祖・吉田永學の先祖たちの姿・・・。<創立寛永14年(1637)舜良開山・・・>、その言葉は、真言宗・徳音山観聖寺が、中世の修験道ではなく、近世の修験道の特質を内包していることを物語っていました。先祖の歴史をたどることは、ほんとうは、とても楽しいことなのかもしれません。父祖・吉田永學の先祖たちは、<日常>・<非日常>の世界に生きており、法的逸脱としての<非・常>にはかかわっていなかったようです。そうでないと、寛永14年(1637年)から、明治政府の宗教政策によって廃寺にされる明治11年(1878年)まで、村のひとびとや天領の代官所から支持され、村の人々から<観聖寺様>と様付けで呼ばれることはなかったと推察されます。



 

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