被差別部落の地名とタブー

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1.はじめに

2006年10月11日 | 地名とタブー はじめに

はじめに

『部落学序説』を書きはじめて4ヶ月経過したころ、部落解放同盟新南陽支部から、『部落学序説』のひとつの文書・「被差別部落と姓」について差別文書であるとの指摘がありました。

しかし、その論点は、『部落学序説』の筆者としては、部落解放運動のこれまでの「常識」を覆すものであり、どう理解していいのか、ためらいの思いをもちましたが、部落解放同盟新南陽支部の担当者の方は、口頭で、「『部落学序説』は、第3章までの近世篇で終わっておくべきであった。それを勝手に近代篇まで続けて書きはじめたので止むを得ず批判して執筆を中断させることになった・・・」と言っておられましたが、当初、その抗議に対して、『部落学序説』第4章を破棄することにしました。

しかし、『部落学序説』の筆者としては、納得することができず、部落解放同盟新南陽支部の文書・口頭での申し入れについて検証を重ねました。その結果、被差別部落の地名・人名に関する取り扱いについては、部落解放運動・同和行政の中で実施されてきた地名・人名に関する取り扱い方を踏襲するのが妥当と判断しました。それで、『部落学序説』第4章以下の執筆を再開したのです。

その際、第4章の記述を、「権力」の側からではなく「民衆」の側からの視点・視角・視座に徹することにしましたので、部落解放同盟新南陽支部から批判のあった既述の第4章は、『部落学序説』(別稿)として再掲することにしました。

そして、1年が経過しましたが、部落解放同盟新南陽支部は、その後、『部落学序説』の筆者に対する批判・抗議を継続することはありませんでした。『部落学序説』の論述は、「きれいごとに過ぎる」・・・、という批判に対しては、筆者が書くテーマを予告して、「きれいごとでない・・・」論述とはどういう論述なのか、部落解放同盟新南陽支部から「参考」を求めたのですが、一切、応答はありませんでした。

そのテーマは、『部落学序説』(付論)の「汚れについて」というテーマです。
 1.汚れという言葉の意味
 2.穢多と汚れ
 3.身分と糞尿

その論述に関心を示されたのは、部落解放同盟新南陽支部ではなく、ブログ『蛙独言』の著者・田所蛙治氏をはじめとする京阪神の部落解放同盟の方々でした。

この1年、『部落学序説』の筆者に対する、部落解放同盟新南陽支部からの接触はほとんどありませんでした(当方からコンタクトをとったことはありますが・・・)。部落解放同盟新南陽支部は、『部落学序説』の筆者が、第3章で終わらず、第4章を、その後、1年間に渡って継続していることに問題を感じ続けてこられたのでしょう。

なにを思われたのか、1年を経過した10月に入って、1年前の批判を再び展開されはじめました。

昨年(2005年)5月14日に、『部落学序説』の執筆を開始するに先立って、2年前から、その論文の概要を20部作成して、大学教授・高校教師・宗教家・新聞記者の方々に配布していました。執筆を計画している『部落学序説』の内容について、感想と意見をお伺いするためでした。

『部落学序説』の執筆計画は、当初から、第3章で終わらず、第4章から第7章までを含んでいました。『部落学序説』の構成は、執筆の初期の段階で公表していた通りです。

第4章 解放令批判
第5章 水平社宣言批判
第6章 同対審答申批判
第7章 部落差別完全解消への提言

『部落学序説』は、その概要に基づいて論述が展開されています。『部落学序説』執筆の計画・立案は、筆者の独創によるものです。部落解放同盟新南陽支部の方々も、「常民・非常民論」、「新けがれ論」、「賤民史観批判」などの解釈原理をかかげて、部落差別問題を論じていくことなど、想像すらしていなかったのではないでしょうか。

筆者の『部落学序説』が、部落解放同盟山口県連とはなんら関係なく開始されたものであることは、現在の部落解放同盟山口県連・宮川委員長に連絡をとってみられればすぐわかります。

『部落学序説』の執筆を公開したあと、部落解放同盟新南陽支部の方々が便乗してこられたに過ぎません。時には、『部落学序説』の執筆を中断して、「島崎藤村論」をとりあげるよう要求されたりしましたが、それは、『部落学序説』の執筆計画に既に組み込まれているものを先取りして文章化するようにという要望でした。

「ブログの性格上、順不同で文章化しても、あとで編集しなおせば済むので、『部落学序説』の執筆計画に固守する必要はない・・・」というのが、部落解放同盟新南陽支部の方々の意見でした。

『部落学序説』執筆に、部落解放同盟新南陽支部の影響を加味したいというより、部落解放同盟新南陽支部の運動方針と、『部落学序説』の内容との間に「齟齬」(見解の相違)がないかどうか気になられたのでしょう・・・。「齟齬」があるかないかの、その判断は、極めて早急でした。『部落学序説』を書きはじめて4ヶ月後、部落解放同盟新南陽支部は、その結論を出されたのです。

その結論というのは、99%は問題がないが、残りの1%に差別性がみられるので、『部落学序説』の第4章以下の論述を中止するように・・・、という要請として受け止められるものでした。

その1%というのが、『部落学序説』の筆者が、被差別部落の地名・人名に対してとっているひとつの姿勢にありました。

筆者は、『部落学序説』は、歴史学・社会学・民俗学・宗教学・法学・政治学・・・などの学際的研究として遂行しています。当然、歴史資料も取り扱うことになりますので、被差別部落の地名をとりあげる必要も出てきます。また近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多」について言及するとき、「穢多村」の在所としての「地名」だけでなく、「穢多村」の庄屋・畔頭などの名前と共に「穢多頭」・「長吏頭」の名前がでてきます。

『部落学序説』の筆者としては、過去の部落解放同盟による被差別部落の地名・人名の取り扱いに際して、「差別文書」として指摘された論文を検証して、その指摘を受けないで、なおかつ、部落差別の完全解消につながる提案を論文を書き続ける方法を模索してきました。

それが『部落学序説』本文執筆に先立って明らかにした、被差別部落の地名の「相対座標」です。もういちど説明しますと、近世幕藩体制下の徳山藩の山陽道沿いの4箇所の穢多村(日本海側の飛び地をのぞいて)を東西南北に位置づけて、徳山藩東穢多村・徳山藩西穢多村・徳山藩南穢多村・徳山藩北穢多村と呼ぶものです。

この相対座標で、被差別部落を特定するには、徳山藩領図(地図)と徳山藩穢多村の在所に関する史料が必要です。それらは、徳山市立図書館の郷土史料室を尋ねれば簡単に知ることができます。

その労をとらないで、「東山藩東穢多村はどこなのだろう・・・」と自前の前知識と先入観で特定しようとすると、「徳山藩」=「徳山市」を暗黙のうちに想定し、徳山市の一番東に位置する同和地区指定された被差別部落を想定することになるでしょう。いわゆる「久米」の被差別部落です。

しかし、徳山藩の「東穢多村」は、徳山市の一番東にある「久米」の被差別部落のことではありあません。なぜなら、徳山藩領と徳山市の行政域とは全く異なるからです。それに、近世幕藩体制下においては、筆者が相対座標でいう「東穢多村」は「徳山藩領」であって、一方、徳山市の一番東にある「久米」の被差別部落は長州藩本藩に属します。行政上全く異なる場所を指しています。

歴史を無視して、「みそもくそもいっしょ」に受け止めるひとがいたとすると、『部落学序説』の筆者の徳山藩の「東穢多村」に関する記述は事実無根、筆者の単なる推測・幻想・・・であるという批判が生れてくる場合もあるかもしれません。

最近になって、被差別部落のひとといえども、山口県内の被差別部落の地名・在所について知らない場合が多いのではないか・・・と思うようになっています。

姻戚関係とか、仕事の関係、部落解放運動の関係で、交流のある被差別部落はあるかもしれませんが、どの運動家も、山口県内のすべての被差別部落に精通しているわけではないのです。

『部落学序説』執筆のきっかけとなった、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老に対する聞き取り調査の場所となった未指定地区は、部落解放同盟山口県連の運動のテリトリーの枠外の被差別部落でした。

部落解放同盟新南陽支部の方々が持っている山口県の被差別部落に関する情報と、『部落学序説』の筆者が、近世幕藩体制下の史料をもとに、自分の足で尋ね歩いた被差別部落に関する情報とは、「被差別部落」という概念の外延と内包に大きな違いをもたらしているということは、当然といえば当然過ぎることです。論文執筆のために史料・伝承を漁る以上に、被差別部落の所在の特定とその歴史を知るために多くの時間を割いてきたからです・・・。

『部落学序説』の筆者の頭の中にある「被差別部落」は、近世幕藩体制下の司法・警察であった非常民として、空間と時間を超えて、場所と歴史を超えて、普遍的に存在していた、今日「被差別部落」という概念に集約されてしまった「穢多」の在所のことです。つまり、『部落学序説』の描く「穢多村」は、部落解放同盟新南陽支部のある旧徳山藩北穢多村に還元しつくしされることは本質的にありえないのです。

『部落学序説』の章立て・内容を、部落解放同盟新南陽支部の部落解放運動の枠組みの中に縮減させようとする試みは、『部落学序説』の筆者に対する不当な介入でしかありません。

部落解放同盟新南陽支部のブログ『ジゲ戦記』は、部落解放同盟新南陽支部の部落解放運動の本質を示しています。その名称通り、所詮、かりものでしかありません。部落解放同盟新南陽支部は、部落解放運動のまねごと・・・、それに終始してきたのではないでしょうか。

『部落学序説』の筆者の、部落差別を完全解消に追い込みたいという熱意は、部落解放同盟新南陽支部の及ぶところではありあません。

部落解放同盟新南陽支部の「当事者-部落民の自主運動を否定するような論法におちいっている」という批判の根拠になっている、被差別部落の地名の取り扱い方は、戦後の部落解放運動の中で、部落解放同盟が主張し続けてきたことではないでしょうか。被差別部落の地名を不用意に取り上げているということで、部落解放同盟から差別事件として糾弾を受けた学者・研究者・教育者も少なくありません。被差別部落の「地名」をタブー視しつづけ、被差別部落の「地名」を部落研究・部落問題研究・部落史研究に際しても禁忌状態におき続けてきたのは、とりもなおさず、部落解放同盟自身です。

部落解放同盟新南陽支部は、その地方の末端に位置づけられるとはいえ、『部落学序説』の筆者が、被差別部落の地名を「相対座標」で表現することを、筆者の差別性のあらわれとして、「当事者-部落民の自主運動を否定するような論法」と批判し、筆者の「一貫した主張そのものの前提までもゆがめることになる」と主張するのはどういうことを意味するのでしょうか・・・。

被差別部落の地名は、現在の被差別部落の住人に許容された独占的に処分可能な固有の権利などではありません。被差別部落の「地名」は、「地名」である以上、何らかの意味合いを持っているものです。単なる通俗的・一般的な語源論で斟酌すべきものではありません。すべての被差別部落の伝承に歴史の核(歴史上のほんとうの意味)が隠されているのと同じく、被差別部落の「地名」にも、現代の学者・研究者・教育者がたどりつけていないほんとうの意味が内在されていると思われます。日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に裏打ちされて、従来、被差別部落の「地名」に関する研究は禁忌状態におかれてきましたが、それは、『部落学序説』の筆者からみると、部落差別完全解消のための道のり上の大きな障害になったと考えられます。

被差別部落の「地名」は、一般的市民・国民の共有財産でもあるのです。

被差別部落の「地名」は、解明されるべき豊富ななぞに満ちています。被差別部落の「地名」を、語源論と歴史学的研究によるだけでなく、民俗学や歴史的社会学の手法によって明らかにし、被差別部落の「地名」の中に刻印されたほんとうの歴史を解明することも可能なのです。

しかし、現代の部落研究・部落問題研究・部落史研究は、そのことを容認する環境にあるのでしょうか。また、部落解放運動は、その研究を受け入れる状況にあるのでしょうか。また、日本の社会は、それを研究や運動を受け入れるに充分なほど人権感覚が成長しているのでしょうか。

それを判断の材料に加えると、『部落学序説』は、方法論的に、被差別部落の「地名」表記に際して、「相対座標」に徹することが最適であると思います。

『部落学序説』は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を撃つことを目的として執筆しているため、その「賤民史観」に依拠してきた部落解放運動の担い手の一部からは、「部落民の自主運動を否定するような論法におちいっている」という批判が生じる可能性は多分にあります。「賤民史観」の批判は、差別・被差別を超えて根源的な批判に徹することを使命としているからです。

しかし、このブログ『被差別部落の地名とタブー』においては、『部落学序説』の筆者と、部落解放同盟新南陽支部の方々とのやりとり(単発的・非継続的・一言居士的ことばのやりとり)は捨象して、「被差別部落の地名とタブー」について総合的・包括的な解明をこころみ、部落研究・部落問題研究・部落史研究における被差別部落の地名のより実り豊かな取り扱い方を追求してみたいと思います。

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8 コメント

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<反駁や論争は免れない>・・・ (吉田向学)
2012-12-08 13:45:49
<反駁や論争は免れない>・・・

しかし、そのことは、<使おうと予定している時間を失うきっかけになる>というのは、『方法序説』の著者・デカルト・・・。

デカルトは、<反駁や論争>に対応するため、研究・執筆のために<<使おうと予定している時間を失う>ことは<絶対避けたい>ことがらであるといいます。その<反駁や論争>が、<今生きている人々に何らかの利益をもたらすかもしれない>としても・・・。

<他の人たちの各種各様のあらゆる意見と一致するのは不可能である>から、<諸反論>によって、わたしがたびたび仕事からこころをそらされてしまう>ことは好ましくない。デカルト曰く、<人から受ける反論についての経験からすると、そこからどんな利益も期待できない>。反論の中には、<悪意と嫉妬をもってあばき出そうと賢明になっていると知れている人々>も多い・・。

筆者、<人生の短さと実験の不足とによって妨げられさえしなければ、その道をたどって間違いなくその学問が発見される>ことを信じて、自分に課したつとめをまっとうしていきたい。

現在、渡辺広氏の三部作『未解放部落の史的研究』・『未解放部落の形成と展開』・『未解放部落の源流と変遷』を精読中。部落史研究のすべての流れを概観し、筆者が執筆している『部落学序説』がどのような位置づけにあるのかを確認し、さらに論調を強めていくためです。

渡辺広氏の三部作の読書は、無学歴・無資格、部落史研究とは無縁の筆者の、その学者・研究者・教育者との実りの多い対話です。

30年間山口に棲息して、部落差別問題にかかわっている間に、『部落学序説』と同じ方向性をもって研究している方に遭遇することができなかったのは残念ですが、デカルトがいうように、<ほかのどんな人が取り組んでも、それを始めた当人ほどにはうまく完成されない>のですから、筆者が『部落学序説』の執筆を継続する意味もそこにあります。
渡辺広氏の三部作『未解放部落の史的研究』・『未... (吉田向学)
2012-12-08 14:11:42
渡辺広氏の三部作『未解放部落の史的研究』・『未解放部落の形成と展開』・『未解放部落の源流と変遷』で、渡辺広氏が依拠している主要論文・書籍の大半は入手済み・・・。

無学歴・無資格、部落史とは無縁の筆者、しかも事実上年金暮らしにはいっている筆者、部落史に関する史資料を簡単に入手できるわけではありません。筆者が入手する本は、学問的に優れていると思われる特定の学者・研究者・学者とできる限り同じ基盤に立って批判検証するために役立つ本・・・。

小さな塵を核として結晶するような形で、部落史に関する史資料を集積していますので、筆者の蔵書、『部落学序説』執筆のために特化していますが、中途半端な学校同和教育の教師や部落解放運動家の蔵書よりは充実していると<自負>しています。
『部落学序説』の執筆は、筆者の<執筆計画書>に... (吉田向学)
2012-12-08 20:37:28
『部落学序説』の執筆は、筆者の<執筆計画書>に基づいて行われていますが、それを作成してから、既に10年の歳月が流れようとしています。筆者が、その<執筆計画書>を手渡して意見をお伺いした方々は、筆者の『部落学序説』が今後どのように展開されていくのか、一目瞭然の状態にあると思われますが、その<執筆計画書>、現在、何部残っていることやら・・・。ほとんどは手渡した瞬間に破棄されるか、ほとんど読まれることなく死蔵されているか・・・、もしかしたら、その<執筆計画書>、筆者の手元にしかないのかもしれません。
渡辺広氏の分析では、筆者のブログ『部落学序説』... (吉田向学)
2012-12-09 13:47:33
渡辺広氏の分析では、筆者のブログ『部落学序説』や『被差別部落の地名とタブー』は、戦後の部落解放運動からの要請に応える形で形成された部落史研究の主流とは異なる流れのようです。つまり、『部落学序説』や『被差別部落の地名とタブー』の主張は、部落解放運動の利権追求に何の役にもたたないということ・・・。そういう意味では、部落解放運動に従事してきた方々、現在従事されている方々が、筆者のブログ『部落学序説』・『被差別部落の地名とタブー』の内容に賛同される可能性はありません。一部で、筆者のブログに関心をもたれる部落解放運動家たちは、筆者のブログの内容が、これまでの部落史研究の方向性から大きく逸脱しないように制限・制御する意図を秘めておられるのでしょう。紀州藩『城下町警察日記』・・・、渡辺広氏の見解では、大きく分けても3種類の解釈の流れがあるようです。その流れのどこに視点・視角・視座を設定しているかによって、『城下町警察日記』の解釈が大きく異なってきます。
礼拝のあと、書類を整理・・・。この<被差別部落... (吉田向学)
2012-12-09 15:43:09
礼拝のあと、書類を整理・・・。この<被差別部落の地名とタブー>を執筆するときに作成した調査資料が出てきました。それを前にして、筆者、独り言・・・。<それにしても、ここまでよく調べることができたものだ>と。古地図・古文書・民間伝承・・・、なにでもない史資料を積み重ねれば、いろいろなことが分かることを確認。ついでに、和歌山城下町の、江戸時代の住居地図を前にして、紀州藩『城下町警察日記』に出てくる地名をその住居地図町で確認してみました。東西奉行所・番所・牢屋・揚屋・穢多屋敷・非人宿・・・。城下町で事件が発生した場合、非常の民がどのように町の中を動くことになるのか・・・、頭の中で観念的にとらえるより、事件の真相をより深く把握することができるようです。ただ、筆者64歳にして視力が減退・・・。大きな虫眼鏡を使わなくても町名や通り名、屋敷の持ち主の名前が見えるように拡大コピーしなければ・・・。事件毎に城下町の地図上で人の動きを表現すれば、『城下町警察日記』を読むのも楽しくなりそう・・・。
渡辺広氏の三部作『未解放部落の史的研究』・『未... (吉田向学)
2012-12-11 08:44:21
渡辺広氏の三部作『未解放部落の史的研究』・『未解放部落の形成と展開』・『未解放部落の源流と変遷』には、すべて<序説>の部分があります。この<序説>・・・、学問の前提を批判検証するためのプロレゴメナに該当します。渡辺広氏は、『未解放部落の史的研究』においては紀州藩の名草郡・那珂郡、『未解放部落の形成と展開』・『未解放部落の源流』においては紀北の<未解放部落>を対象に研究が進められています。岡山の部落史研究の学者・研究者・教育者の見解では、渡辺広氏の研究は紀州藩に限定されているので、部落史研究の一般説・通説足り得ないとして過小評価されるのでしょうが、渡辺広氏の研究は、紀州藩にこだわるjことでかえって<未解放部落>の本質を把握しようとする労作として評価されて当然であると思われます。その渡辺広氏、なぜ、いろいろな部落史研究の可能性の中で、筆者のブログ『部落学序説』がとく新けがれ論・非常民論に達することができなかったのか、渡辺広氏の三部作は、その背景を示唆しています。戦後日本の、否、近代日本の欧米の学問に対するInferiority complexが大きく災いしているようです。そのInferiority complex、無批判的に日本史学に唯物史観を移植せしめ、部落史研究における賤民史観を移植せしめることになります。無学歴・無資格、部落史研究の門外漢である筆者、渡辺広氏の三部作から、渡辺広氏の研究的枠組みをとりはずし、そこに収録されている史資料を、筆者の研究的枠組みである新けがれ論・非常民論に取り込むことになります。今どきそんな研究をして何の意味があるのか・・・? 現在の部落解放運動家や部落史の学者・研究者・教育者から非難されそうですが、いいんですよ! 筆者、現在の落解放運動家や部落史の学者・研究者・教育者のためではく、後の時代の落解放運動家や部落史の学者・研究者・教育者のために執筆しているのですから。
筆者のブログ『部落学序説』とその関連ブログ群(『... (吉田向学)
2012-12-11 08:56:41
筆者のブログ『部落学序説』とその関連ブログ群(『被差別部落の地名とタブー』等)は、筆者が、『部落学』を執筆するための前座となる、いわば<試論>・・・。『未解放部落の史的研究』・『未解放部落の形成と展開』・『未解放部落の源流と変遷』の著者・渡辺広氏を『部落学』執筆の仮想<指導教官>として、本格的な論文を書くことにしましょう。無学歴・無資格、学問とは無縁の筆者の不幸、生涯師として仰ぐことができる学者・研究者・教育者に出会わなかったことでしょう。そのため、筆者、<本>を通じて著名な学者・研究者に師事することになります。下手な学者・研究者・教育者に師事することになるより、筆者には、かえって幸いしたのかもしれません。
早稲田大学図書館の<古典籍総合データベース>か... (吉田向学)
2012-12-14 10:36:09
早稲田大学図書館の<古典籍総合データベース>から『紀伊国名所図』・『難船漂流人口書写』・『四季艸』をダウンロードしました。紀州藩の研究は、江戸幕府全体の研究につながるようです。将軍徳川吉宗と江戸町奉行大岡越前による近世幕藩体制下における行政改革は、江戸時代後半の政治の質を形成したと思われます。その時代を、唯物史観・賤民史観によって過小評価・曲解しなければ・・・。

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