部落学序説

<常・民>の視点・視角・視座から見た<非常・民>である<穢多・非人>の歴史的真実の探求

人生と差別・・・

2008年08月29日 | 付論

部落学序説付論 某中学校教師差別事件に関する一考察
11.ある中学校教師の同和教育の限界・・・(その1 人生と差別)

インターネット上で公開されている、2001年度に実施された佐賀市同和教育夏期講座の講演録《時分の花を咲かそう-差別解消の主体者を育てる部落史学習を求めて-》の執筆者の、岡山の中学校教師・藤田孝志氏とは、どういう人物なのか・・・。

筆者は、ほとんどその情報をもちあわせていません。

ただ、その講演録《時分の花を咲かそう-差別解消の主体者を育てる部落史学習を求めて-》をてがかりにして、岡山の中学校教師・藤田孝志氏がどのような人物であるのか、一考していきたいと思います。

藤田孝志氏は、その講演の冒頭で、このように自己紹介をされています。「私は研究者ではありません。学者でもありません。皆さんと同じく中学校の教員をしています」。

藤田孝志氏は、その自己紹介の中で、さらに、「10数年の間社会科の教員として歴史の授業をしてきました」といいます。藤田孝志氏、「10数年の間社会科の教員」をされている間に、授業だけでなく、「十数年の間、部落史を自分なりに研究」をしてきたといいます。しかも、その研究成果を、その授業のなかに、「試行錯誤しながら」取り込んでいったといいます。

藤田孝志氏が、佐賀市同和教育夏期講座で講演されたのは、2001年度ですから、「10数年」を「12、3年」と想定して逆算しますと、藤田孝志氏は、1966~1967年生まれ、大学で中学校の「社会科の教員」になるための勉強をはじめられたのが1984~1985年頃、ストレートで大学を卒業し、岡山の中学校教師になったと想定しますと、はじめて、中学校の教壇に立ったのが1988~1989年・・・、藤田孝志氏は、現在41~42歳ということになります。

少し幅を持たせても、40代前半か半ばということになるのでしょうか・・・?

藤田孝志氏、意識して、そうしているのかいないのか、筆者にはわかりませんが、中学校の教室で生徒を教える<教育者>を指すことばとして使用しているのは、「教員」だけでは、ありません。その他に、「教師」・「先生」ということばも使用されています。

藤田孝志氏が、「教師」・「先生」ということばを使用するとき、大体、次のような使い分けをされているようです。

「先生」ということばは、<会話>文の中で使用されます。「先生、どんな授業をされていましたか。」とか、「先生方、答えられますか。」とか、講演の中で、その講演の聴衆に対して呼びかけ、問いかけるときに、この「先生」ということばを多用します。また、<教育者>の世界の常識なのでしょうか、お互いを呼び合うのに、「先生」ないし「○○先生」という表現を多用します。佐賀市同和教育夏期講座に参加した人々が、同市の小学校・中学校の教師であるにもかかわらず・・・です。

一方、「教師」ということばについては、藤田孝志氏は、その佐賀市同和教育夏期講座に集まってきた小学校・中学校の<教育者>に対して、<批判>的な言説を語るときに、「教師」ということばを多用します。講演の本論は、「教師の姿勢と視点を問う」という意味のことばではじまります。

「部落史学習をする上において、その目的を明確に教師が自覚し、そしてその目的をどこに置いているのか、そのことをしっかりと教師自身が感じているか・・・」と、小中学校の学校「教師」に苦言をていしたり、批判するときに使用されます。

藤田孝志氏は、自分に対して「教師」ということばを使用するときは、「われわれ教師は、部落と部落外の関係性のどこに立ってきたのでしょうか・・・」と、「教師の悪しき弊害」を指摘・糾弾する場合です。

岡山の中学校教師にとって、みずからの「教育者」であることを指すことばとして、「教員」は肯定的に受けとめることができるが、「教師」ということばは、多分に否定的要素を持つことばとして、かなり留保しながら用いられているようです。「差別解消」「目的」として部落史学習を指導する「教員」・藤田孝志氏と、依然として、「近世政治起源説」に依拠して、「人間というものは自分よりも弱い者、貧しい者、悲惨な者がいれば安心するんだ、優越感を抱いて安心するんだ、そういう人間観、貧しい貧しい人間観を知らず知らずのうちに子どもたちに伝えている」「教師」との間の比較が徹底されます。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏の「教員」「教師」という二つのことばに対する用法・・・、筆者どこかに違和感を感じてしまいます。

無学歴・無資格、公教育の世界とはまったく縁のない筆者の目からみますと、「教員」「教師」ということばの意味、価値付けは、筆者とは、まったく逆転しているように思われるのです。筆者、藤田孝志氏と違って、小中学校の学校<教師>は、「教員」より「教師」ということばの方がより適切であるように思われます。

筆者、『部落学序説』の付論・某中学校教師差別事件に関する一考察を執筆するときも、今回の、「ある中学校教師の同和教育の限界・・・」を論じるときも、中学校<教員>ではなく、中学校<教師>です。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏からは、またまた、「重箱の底をつつくような無意味な議論・・・」として罵倒されることになるかもしれませんが、少なくとも、「ことば」と深くかかわっている人々の中には、「教員」「教師」ということばについて、筆者と同じ評価をする人々も少なくありません。

「私は「教員」はおもしろくないので「教師」と言ってほしい気持ちだ」(田中克彦著『ことばの差別』(農山漁村文化協会))と明言する方もおられます。

一橋大学大学院社会学研究科を出られて同大学の教授をされている田中克彦氏は、「「員」には何か大きな団体や組織が前提になっていて、個人はその中に埋没してしまっている。だから「教員」というのは、校長の支配する学校に勤めている先生をいうが、家庭教師や塾の先生を、教員とは決して言わない。」といいます。

田中克彦氏は、日本人は、「員と呼ばれたいという心理」があるといいます。「大企業、大会社や役所に所属しているんだという、自分の身分を示したいという、何か親方日の丸式の権威づけを頼りにしている、弱いくせに権威主義者の顔がみえて、ちょっと情けない感じがする。むかしからずっとそうなのか、あるいは新しいできごとなのか・・・」。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏が、「教師」より「教員」を偏愛する背景には、田中克彦氏が指摘しているような、「教員」として「自分の身分を示したい」という欲望や、「弱い」自分を「教員」であることで「権威づけ」る、藤田孝志氏固有の「姿勢や視点」があるのかも知れません。

筆者の、ある種の危惧は、岡山の中学校教師・藤田孝志氏の、佐賀市同和教育夏期講座の講演録《時分の花を咲かそう-差別解消の主体者を育てる部落史学習を求めて-》の結びのことば「おわりに」の中で、それまで、抑えに抑えていた、「教員」としての「権威主義」が一挙に噴出してくることにあります。それも、筆者の目からみますと、前代未聞の装いをもって・・・。

それは、<他者>に対する<差別発言>として姿をあらわしてきます。その<他者>というのは、岡山の中学校教師・藤田孝志氏の<おとうさん>のことです。中学校教師・藤田孝志氏が、その父親に投げつける<差別語>とは、「ゴミ取り」ということばです。

筆者、岡山の中学校教師・藤田孝志氏の内面世界、日本国憲法第19条で、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」と保障されている精神世界について、立ち入ることはよしとしません。しかし、2001年度佐賀市同和教育夏期講座で、藤田孝志氏によって語られた、藤田孝志氏とその父親との間の確執は、その内面世界・精神世界が<語り>という<行為>によって、佐賀市同和教育夏期講座に集まった小中学校の教師の前で<暴露>され、いまなお、インターネットを通して、不特定多数の読者に向けて公開され続けている、藤田孝志氏の<差別性>を物語る以外の何ものでもありません。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏が、その父親について語るときの<手法>は、筆者、容易に理解することはできません。

藤田孝志氏は、その父親についての言説は、ひとつの自己表現、パフォーマンスであると認識しておられるのかも知れません。藤田孝志氏は、「差別解消の主体者を育てる部落史学習」を提言するために、ひとつの<役>を演じておられるのかもしれません。それはあくまで<役>の演出であって、実際は、もっと別のところにあると・・・。

しかし、今回は、その可能性を検証する時間的ゆとりがありませんので、あくまで、講演の文脈と表現にもとづいて検証していきますが、藤田孝志氏にとって、その父親とは、どんな存在だったのでしょうか・・・?

『旧約聖書』に、モーセの10戒というのがあります。出エジプト記の第20章に出てきます。その第5戒は、「あなたの父と母を敬え。」という戒めです。この、戒めには、条件がついていません。つまり、「あなたの父と母を敬え。」というのは、時代と状況を越えて、無条件に、人として守らなければならない神のことばなのです。

親に学歴があるかどうか、社会的地位や名誉があるかどうか、富や財産があるかどうか、健康であるかどうか・・・、そういう様々な条件とは無関係に、「あなたの父と母を敬え。」と聖書のことばはすすめているのです。

しかし、藤田孝志氏の講演録によりますと、藤田孝志氏は、小学生のとき、すでに、父親に対する<尊敬の念>を喪失しています。それを喪失させたものは、父親の「仕事」です。

藤田孝志氏の<おとうさん>は、「市役所の衛生課」に勤務し、ゴミの収集をしてまわる仕事をされていたそうですが、藤田孝志氏、小学生のとき、ある経験をします。

「小学生の時、友達と学校から帰っていたときのこと・・・急に友達が鼻をつまんで臭いと言」います。そして、「一目散に走り出し」、藤田孝志氏の方を振り向きながら、「孝志ちゃん、臭いだろう。早く・・・」と大声で呼びかけたというのです。小学生の藤田孝志氏の「目線の前に、生ゴミの袋を手に持ち、破れた袋から流れ出た汚い液体を体に浴び、黙々とゴミを片づけている父」親の姿がありました。友達は、大声で、藤田孝志氏の名前を呼び、「臭い!」と叫んでいるのですから、当然、藤田孝志氏とその父親の視線はひとつに結ばれます。そのとき、小学生の藤田孝志氏の目には、その父親の姿は、「汚いもの」に見え、「友達と一緒に逃げ」出したというのです。

この出来事・・・、筆者の目からみますと、<悪夢>です。

夢の中で、このような場面を見ても、決して、他の人に語ることはないでしょう。<悪夢>を通して、自分の中にある<差別性>に気づき、人知れず煩悶することになったとしても、それは、こころの中のできごと、時間と歳月をかけて、自らの中にある<差別性>を克服していったことでしょう。というより、筆者、もし、同じ状況に置かれたとしたら、父親の傍らに立ち尽くし、その友達とはもはや一緒に遊ぶことはなかったことでしょう。

しかし、藤田孝志氏、父親の職業・仕事の内容にこだわり続け、「大学を卒業し、教師になった後も父の仕事を・・・隠し続けました」といいます。「父の仕事を軽蔑し、人にゴミ取りの子と思われるのが嫌で、ひた隠しに生きてきました・・・」といいます。

藤田孝志氏が、大学で学んだことは、「小学校しか出ていない」、無学歴の父親を凌駕するためであり、大学を卒業後、中学校の「教員」になったのは、「ゴミ取りという仕事」に比べて、社会から「軽蔑」される仕事ではなく「尊敬」される仕事につくためでした。学歴と職業で、藤田孝志氏は、その父親を凌駕することで、こども時代の不幸な経験を払拭しようとしたのです。

藤田孝志氏が、2001年佐賀市同和教育夏期講座でこの話をされたとき、その講座を聞いていた、佐賀市の教育委員会・小中学校の校長・教頭・教師の方々、藤田孝志氏が、その父親について語る差別的言辞について、何のコメントもされなかったのでしょうか・・・? 筆者、『旧約聖書』のエレミヤ書に記されている、預言者・エレミヤを通して語られる神のことばでは、「父がすっぱいぶどうを食べたので、子どもの歯がうく。」という、父と子の連座制のようなものが否定されています。父は父、子は子・・・、父と子は、神の前では、まったくの独立した別個の存在、人格なのです。

藤田孝志氏の、<前近代的>な父子関係は、それ自体が問題であったはずです。

藤田孝志氏、2001年の佐賀市同和教育夏期講座で、どこからもコメントをつけられることはなかったのでしょう。その後の講演録や文章、インターネットの書き込みで、藤田孝志氏の、その父親に対する過激な<差別発言>がさらに強化されていきます。たとえ、その父親に向けられたものであっても、<差別発言>は<差別発言>です。

藤田孝志氏、自分「自身の中にある差別意識やこだわり」が、藤田孝志氏の父親の学歴・職業に対する蔑視の原因であることを認識しつつ、それを根本的に解決することができないため、その講演から3年後の2004年、インターネットのBBSの書き込みの中で、その父親について、「小学校しか出ていない両親のいない父であり、どこの馬の骨ともわからん男と結婚後も家にいれてもらえなかった父」・・・、とさらに、父親の負のイメージを増強させます。

藤田孝志氏は、差別事象・差別現象を引き起こす原因は、「500年間、何ひとつとして変わっていない・・・差別意識」にあるといいます。500年前といいますと、2001年から起算して1501年・・・、蓮如がなくなった2年後・・・、ということになります。中世・近世・近代・現代を通して、「差別の形態」「差別の表出形態」は、その時代によって変遷していったけれども、「差別意識」は、何も変わることなく、時代の「底流」を流れて今日に受け継がれていっている・・・、といいます。

藤田孝志氏は、その「差別意識」を解体し、「差別解消」につなげることを、自己の課題として認識しておられるようです。「500年間、何ひとつとして変わっていない・・・差別意識」・・・、藤田孝志氏は、それから自由になることができた、最も<卑近>な実践事例として、その父親に対して抱いていた学歴・職業に対する「差別意識」から解放された・・・、と宣言しているのです。

ほんとうにそうでしょうか・・・?

藤田孝志氏は、「私は何と親不孝な息子だろう・・・」と思っているそうですが、筆者の目からみますと、それは、親に対する<不孝>などではなく、親に対する<侮辱>・<差別>そのものです。藤田孝志氏の、自己の価値観にそぐわない人々、他者に向けられた、誹謗中傷・罵詈雑言の数々・・・、それは、その父親に対してなげかけた誹謗中傷・罵詈雑言と同じもの、拡大再生産されたものでしかなさそうです。

2003年、インターネットのBBSの書き込みにおいては、小学生の時の藤田孝志氏の<不幸>な体験、ますます洗練されたものになっていきます。

「最後に、私自身の話をして終わりたいと思います。私は、長く父の仕事を語ることができませんでした。私の父は、もう退職しましたが、私は父の職業を尋ねられるたびに、「公務員です、市役所に勤めています」とだけ答えてきました。父は衛生課に勤務していました。私は小さい頃から、父が残飯やゴミを収集車にのせる姿、汗と泥に汚れて働いている姿を見るのが嫌でした。小学生の頃、学校から友だちと帰っていたある日、友だちが急に鼻をつまみ、「臭え、汚いな~」って言って走り出しました。「お~い、孝志ちゃん行こうぜ。臭いから行こう」と私を呼ぶのです。道の先には、ゴミ収集車がありました。父でした。まぎれもなく私の父でした。真夏の昼下がり、照りつける太陽に吹き出す汗を汚れた手ぬぐいで拭いながら働く父でした。ビニール袋は破れ、中から生ゴミがこぼれていました。悪臭が周囲に漂い、汚い液体が流れていました。その臭い液体を身体に浴びながらも、父は一生懸命にゴミを片付けていました。私は、そんな父を、汚いものでも見るように、横目で見ながら走りました。私は友だちと一緒に走って逃げたのです」。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏のこの表現、日本的精神風土の中では、父親の学歴・職業に対する<差別>は、ほとんど問題にされることはないようですが、同じ表現が他者に向けて語られたとき、藤田孝志氏の「ゴミ取り」・「ゴミ取りの子」という表現は、間違いなく、「清掃労働者の人権を侵害する職業差別」として、「自治労」あたりから糾弾を受けることになるでしょう。

東京都では、「清掃労働者」のことを「ゴミ清掃員」と表現するそうですが(田中克彦著『ことばの差別』)、藤田孝志氏は、「教員」である自分と同じ属性をもっている父親の職業「ゴミ清掃<員>」を認めたくないらしい・・・。「教員」「ゴミ清掃員」も、同じ、「社会に役立つ仕事」であることに違いはないのですが、それを、藤田孝志氏は、同じ<地平>に立って認識するこにためらいがあるようです。その背後には、「ゴミ清掃員」「仕事」は、「必ずしも尊敬される仕事ではない」という、藤田孝志氏の職業に対する価値観があるようです。

藤田孝志氏は、講演録の中で、「職業の貴賤」は江戸時代の価値観であり、近代以降現代における価値観では、もはや「職業の貴賤」はない・・・と力説されていますが、筆者が、その講演録を読む限りでは、藤田孝志氏、典型的な職業差別の体現者のようです。

藤田孝志氏が、中学生・高校生の時代・・・、すでに、「東京都のごみ清掃員の中には、大学院の修士過程を出ても就職口がないため、学歴をかくして、「ゴミ屋」にもぐっている例もいろいろある」(田中克彦著『ことばの差別』)時代であったようです。

田中克彦氏、「なまじっか、準知的職業などにつくよりは、精神の健康にはよほどさっぱりしていい・・・」という外国人記者の認識を評価しています。

藤田孝志氏の父親の学歴・職業に対する<差別意識>・・・、日本の知識階級・中産階級の社会的慢性病のようなものです。そのような精神的枠組みから、ほとんど離脱できていないような岡山の中学校教師・藤田孝志氏・・・、それで、人生を終えるとなると、とてもさびしい人生になるのではないでしょうか・・・?


その後も続発した中学校教師による差別事件・・・

2008年08月19日 | 付論

部落学序説付論 某中学校教師差別事件に関する一考察
10.その後も続発した中学校教師による差別事件・・・

1989年の秋、A市で、「社会同和教育市民学習講座」が2日に渡って開催されました(昼夜2回制・筆者は昼の部に参加させてもらう)。

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初日の講師は、C市教育委員会同和教育主事の、元中学校教師Cです。その同和教育主事、講演の最初で、導入のテクニックとして、黒板に図をかきはじめました。

「これから、絵をかくので、素直に答えてください。皆様がどれだけ素直な気持ちを持っているか試してみたい。これは何ですか?」

C同和教育主事は、黒板に円(図1)を描きます。「これは、何ですか?」

すると、社会同和教育の受講生たちは、「丸・・・」と答えます。

C同和教育主事は、更に続けて、「これは・・・?」といって、三角形(図2)を描きます。

受講生たちは、「三角・・・」と答えます。

筆者を含めて、そのC同和教育主事は、何の話をするつもりなのだろうと思っているとき、C同和教育主事、更に、黒板に図を描きます。それは、円を描く動作なのですが、最初に円を描いたときと違うのは、円を描くときの始点と終点の間に空白を作ります(図3)。

C同和教育主事は、「これは・・・?」と受講生によびかけますが、誰も何も答えません。C同和教育主事、それでは、「これは・・?」といいながら、今度は三角形を描きます(図4)が、やはり、終点が始点にたどりつくまえに、ぐっと強調してやめます。「これは・・・?」と受講生に問いかけますが、受講生は何も答えません。

するとC同和教育主事、このようにいいます。「そうですね、これは円ではありませんね。ここが欠けていますから・・・」。そして、始点と終点が一致しない三角形をさしながら、「これも三角形ではありませんね。ここが欠けていますから・・・」。

C同和教育主事、黒板に図を書くことで、受講生の関心を一点に集中させながら、このように話を展開していきます。

「少々、欠けたところがあっても、それを見る側が補ってみてあげると、これも丸になり、三角形になります。同和教育もこれと同じです」・・・。

筆者は、その「社会同和教育市民学習講座」が行われたA市の隣の隣の下松市に住んでいますが、C市教育委員会同和教育主事の住んでいるのは、さらに下松の隣の市になります。詩集『部落』の丸岡忠雄氏のふるさとであるC部落と同じ市に住んでいるのですが、C市・・・、共産党の支持層の多い地域です。C部落も、山口県で、共産党系の運動団体・全解連の影響を強く受けた地区です。日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」の影響を強く受けた場所です。被差別部落の置かれた社会的・経済的「低位性」を強調して、そこからの脱出を、部落解放運動の主眼において運動しているところです。

C市教育委員会同和教育主事・元中学校教師C氏は、講演の最後で、「同和問題を基本的人権の問題として考えていかなければならない」と力説します。「人権感覚を身につけていくことが必要」であると、その講演を結びます。

同和教育主事・元中学校教師のいう「人権」とは、いったい何だったのでしょう。

その当時、山口県立文書館の研究員をされていた北川健先生が、個人誌『むぎ』を出していますが、その第160号(1989年10月25日発行)に、「地区住民は「不完全三角形」なのか」と題して、このような文章を掲載されています。

「この9月、或る地の講座に講和しに行ったところ、地元の方が云うには、前の晩に来講の主事の先生は次のように説いた、というんです。

まず黒板に不完全な《円》と《三角形》の図を画いて、「皆さん、コレは何ですか?」って問いかける。それで、受講者は「まア、円です」・「一応三角形です」と答える。

すると、講師先生は、「そうですネ、不完全な形ですけど、皆さんはそれぞれを丸や三角形に見ましたですネ。たとえどこか不足したものであっても、整ったものとしてアタリマエに見ていく、人間についても、そういう素直でオオラカな気持ちで見ることが大切ですネ。それが同和の精神でありまして・・・」と本題に入って入った、のだそうです。

オカシイ!と思いますヨ、私は。

これだと地区の人間は「不完全」で「一本足りない」「ハンパ」だ、と云っていることでしょう。

地区の者は「一人前ではない」という偏見像を押し通している点では、例の『紙芝居』授業と通じてますヨ。

これでは「どこかチガウ」「どこかが欠けている」という偏見を否定もせずに、逆に「それでも同じものとして見なす」ことを勧めているんですからネ。どだいオカシナことですヨ。

これでは「地区の人間には欠けたところがある」と公認、公言しているのと同じことでしョ。

「チガウものをオオラカに見る」のではなく、「オナジものをアタリマエに見る」というのが同和教育のはずですよネ。それを根本から取り違えているんですから。

基本的に見方がオカシイ」。

A市立A中学校教師差別事件に際して、A教諭の、「四本指を出してはいけない。九州では大変なことになる」、あるいは、「九州のある所に行って、そんなことをしたら殺される、気をつけろ!」と、その授業の中で生徒に語った事件、そのあと、別の授業で、そのクラスの被差別部落出身の女子中学生に視線をあわせながら「四本指」を出して傷つけた事件・・・、山口県の教育界は、それは、「差別事件」ではなく、同和教育に熱心な教師の、指導上の「失言事件」として片づけてきました。A市立A中学校教師差別事件・・・、山口県の教育界にあっては、差別事件の事例として共有されることなく、闇から闇へ葬り去られていきました。その結果、同種の「差別事件」が、大手を振ってまかり通るようになってしまいました。

筆者、被差別部落のひとびとを、「特殊部落民」と呼ぼうが、「四本指」と呼ぼうが、「欠けたところのある人間」と呼ぼうが、「賤民」と呼ぼうが、問題は、その背後にあう人間観であると思います。人間を「賤民」と「良民」とに分断し、「賤民」を限りなくおとしめ、「良民」を限りなくおしあげる、日本の歴史学の差別思想である「賤民思想」・「賤民史観」の異なる表現形式であると思います。

A市の被差別部落のひとびとの「人間はみな同じではないか!」という問いかけに、山口県の教育界はこぞって、「それは違う。人間には、一般の人と、一般の人から区別された特殊な人がいる。同和教育は、特殊な人が一般の人になることをめざして行われている・・・」と言い続けてきました。

A市立A中学校教師教師差別事件だけでなく、元中学校教師のC市教育委員会同和教育主事差別事件も、差別事件として認識されないまま、更に、同種の差別事件発生の引き金になっていきます。

国の同和対策事業(地域改善対策特別措置法)の2002年3月末の終了時・・・、山口の地において、どのような形で、同和対策事業・同和教育事業の幕引きが行われたのでしょうか・・・。

門外漢の筆者の眼には、山口県の教育界(教育委員会・学校・教師)は、同和教育における差別性を自ら問い直し払拭することなく、部落差別の拡大再生産の担い手、継承者として、その現場から遠ざかっていったとように見えます。

しかも、それは、山口県の同和教育だけではなかったようです。

岡山県の同和教育においても、被差別部落民衆を「賤民」の末裔と断定してやまない、そして、インターネット上のBBSで差別思想を書きつらねて何の意も介しない、岡山の中学校教師・・・。山口のA市A中学校教師差別事件のA教諭、C市教育委員会同和教育主事のC元中学校教諭と、同質の<差別者>ではないかと思います。

大切なのは、同和教育、部落史教育のため、「賤民」からの解放・・・、という「輝かしい一ページ」を教えるために、それに先立って、生徒に「賤民」概念を教え込むことではなく、被差別部落の人々を「賤民」の末裔として見る、そういうまなざし、差別思想である部落史の視点・視角・視座(「賤民史観」)の否定と排除こそ、同和教育、部落史教育の指導の対象・課題にしなければならないのではないでしょうか・・・。

筆者、『部落学序説』とその関連ブログ群で、そんなに難しいことは語っていない。基督教会の牧師らしく、聖書的人間観に照らして、神の前において、古今東西、人間に貴賤の区別なしと主張しているに過ぎません。被差別部落の人々を、行政用語である「特殊部落」、差別用語である「四本指」、学問用語である「賤民」と表現することは、被差別部落の人々を根源的に差別・排除するいとなみであるといえます。


部落解放運動は、五本目の指を求める運動か?・・・

2008年08月19日 | 付論

部落学序説付論 某中学校教師差別事件に関する一考察
9.部落解放運動は、五本目の指を求める運動か?・・・

1980年12月10日に、山口県A市立A中学校で起きた部落差別事件・・・。

A市教育委員会・A中学校は、「偶然」その時期が重なったに過ぎないと、A教諭を、B市立B中学校へ「栄転」させます。

部落差別事件の当事者であるA教諭を、差別の現場であるA中学校から切り離し、遠ざけることで、部落差別事件の終焉と解決をはかろうとした教育界に、A市の被差別部落の人々は、後日、「残念ながら、私たちの力足らずと相まって、市行政の姿には、今だ大きな変化は生まれていない。むしろ、逆に新たな差別事件・・・本事件(「A市差別住宅条令事件」)に結果した。」と記しています。

A市立A中学校で起きた部落差別事件が完全解決に至らず、そのことによって、「人権侵害の常習犯が、自らの過ちを自他共の生きた教材として教訓化していくことを放棄した結果、再犯に至ったということである・・・」と、A市の被差別部落の人々は、A市の同和行政・同和教育行政を厳しく批判します。

A市立A中学校教師差別事件・・・、A市行政もA市教育委員会も、この差別事件を真摯にうけとめ、事実確認をていねいに行い、なぜ、そのような差別事件が起こったのか、その要因を詳細に検証していけば、A市は、同和行政においても同和教育行政においても、A市立A中学校教師差別事件のあと、繰り返される差別事件に遭遇することはなかったことでしょう。しかし、A市とA教育委員会が、力でねじ伏せた差別事件は、<差別事件>にあらずとして葬り去られ、そのことによって、類似の<差別事件>の頻発にくるしめられるようになるのです。

26年前、日本基督教団西中国教区の小さな教会に赴任してきた筆者は、できたばかりの西中国教区部落差別問題特別委員会の委員にさせられました。筆者、自ら委員になったのではなく、「誰も引き受けてがいないから・・・」という理由で、転任してきたばかりの筆者は、その委員を押しつけられたのです。

それまで、筆者は、部落差別問題については、主要な関心毎ではありませんでした。筆者の関心は、<農>の問題とか、<天皇制>の問題とか、<明治初期の基督教>・・・、でした。部落差別問題について、ほとんど知識と情報を持ちあわせていなかった筆者ですが、その分、A市の被差別部落のおじさん、おばさんと出会って、また、部落解放運動をはじめていた若い青年の方々と出会って、実に多くの<伝承>や<史資料>に接することができるようになりました。筆者にとって、その被差別部落の人々の反差別への闘いは、極めて、新鮮な、すがすがしい闘いに映りました。

同和事業の利権獲得闘争ではなく、部落差別の完全解消をめざして闘っているひとびとがここにいる・・・、その印象は、それ以来、ずっと、筆者のこころの中に巣くっています。その印象は、今も、失われることはありません。

しかし、そのA市の被差別部落の人々の反差別闘争・・・、全国の部落解放運動の流れからしますと、極めて傍流のようでした。コペル編集部編『部落の過去・現在・そして・・・』(阿吽社)の中で、灘本昌久氏は、A市の被差別部落の人々の闘い(「A市差別住宅条令事件」)を、部落解放「運動史上の汚点のひとつ」として酷評するのです。A市の被差別部落を尋ねたり、A市の被差別ぶらくのおじさんやおばさん、部落解放運動をしている青年たちの声に耳を傾けることなく・・・。

筆者、そのとき、はじめて、日本全国で展開されている部落解放運動は、「かなり、テキトウで、イイカゲンなものだなあ・・・」という印象を持ちました。そして、その印象・・・、今日まで、強化されこそすれ、弱まることはありません。

灘本昌久氏は、その《「差別語」といかに向き合うか》の論文の中で、A市の被差別部落の方々の部落差別完全解消への取り組みを、部落解放史の歴史から抹消することさえ提言していたのです。

当時の灘本昌久氏のプロフィールは以下のようなものです。「19五6年、神戸市に生まれる。京都大学文学部史学科卒業。大阪教育大学大学院教育学研究科修了。1991年3月まで京都部落史研究所研究員をつとめる。現在は近畿大学、京都外国語大学などで非常勤講師をつとめる」。

学歴資格を持ち、歴史学に精通している灘本昌久氏・・・、山口の地方のA市のA部落の人々に対して関心を持ち、なぜ、灘本昌久氏が、部落解放「運動史上の汚点のひとつ」として認識せざるを得ないような運動を展開しているのか、<現場>に身を於て考えてさえいれば、地方の小さな被差別部落の闘いに「誹謗中傷・罵詈雑言」と思われるようなコメントを残されることはなかったことでしょう。

自ら被差別部落出身をなのる灘本昌久氏によって、A市の被差別部落のひとびとの闘いに投げつけられた部落解放「運動史上の汚点のひとつ」・・・、という、極めて不当な<烙印>は、筆者をして、中央の部落解放運動の信頼性をそこなうのに十分でした。学歴・資格は、被差別部落の人々が、反差別への闘いに勝利することを保障しない・・・。むしろ、学歴・資格をもたず、ひたすら部落差別という重荷を背負って生きている地方の部落解放の担い手を切り捨てることになる・・・。そのとき、筆者のこころの中で、「部落解放同盟」・「部落解放運動」・「部落解放研究所」が、偶像が崩れるように崩れ落ちたのです。

部落解放運動とは何なのか・・・。

山口の地にあっては、<四本指が五本目の指を求める運動・・・>として認識される場合があるようです。

山口県A市立A中学校で起きた部落差別事件のA教諭が、「四本指を出してはいけない。九州では大変なことになる」、あるいは、「九州のある所に行って、そんなことをしたら殺される、気をつけろ!」と、その授業の中で生徒に語った背景には、「四本指」を出す行為は、九州では問題になるが、山口では問題にならない・・・という認識があったと思われます。

筆者の妻は、東北・福島の出身ですが、山口の地に棲息するようになってすぐ、筆者にこのように話したことがあります。「ときどき、教会の人が、近くに住むあの人はこれだといって、四本指を出すけれど、あれはどういう意味なの・・・?」 筆者も、ときどき、露骨な差別発言・差別行為を目にしたり、耳にしたりするようになりました。

「九州では問題になるが、山口では問題にならない・・・」。

A市立A中学校で起きた部落差別事件の背後には、そういう山口県の風土が存在していたと思われます。

ある会社の社長は、会社の存続がかかった場合、会社の業績をのばすために、競争相手の会社の社長が、事実であるかどうかに関係なく、「部落」であることを匂わせて、自社の営業に有利なように話を運ぶこともある・・・、と話していました。「商売敵はみな部落」・・・。おそるべき部落差別の現実です。

それだけではありません。少しでも部落問題に関心をもったことがある、知識階級・中産階級に属する人々からは、部落解放運動は、「四本指が五本目の指を求める運動」と理解・認識する人が出てきます。その根拠になっているのが、例の詩集『部落』に収録された「五本目の指を」という詩です。この詩を根拠に、被差別部落の人々は、自らを「四本指」と認め、その運動を「五本目の指を求める運動」と認識していると理解するようになるのです。

差別と被差別の感情が微妙に入り交じった複雑な思想の産物である「五本目の指を」という詩は、山口で、部落差別と闘う、あるいは、同和教育・解放教育に関与する人々の中にも、受容されていきます。被差別部落の人々を「四本指」と断定して、その上で、部落解放運動を「五本目の指を」求める運動と認識していきます。

「四本指」(差別された人々)が「五本目の指」を取り戻して「人間」になっていく運動・・・。『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、まさに、日本の歴史学(部落史研究)に天性のごとくに内在する差別思想である「賤民史観」に酷似した枠組みをもっています。被差別部落のひとびとを「賤民」の末裔として断定し、それを根拠に、「賤民」からの解放、「脱賎行為」を反差別の闘いとして評価します。「五本目の指を」と同じく構造をもっています。

山口の地にあっても、部落解放運動に関与した運動団体は、同和会(自民党系)・解放同盟(旧社会党系)・全解連(共産党系)・全国連(新左翼系)・・・等ありますが、「五本目の指を」という部落解放運動を展開したのは、全解連(共産党系)の被差別部落の人々です。

そして、この世の中の調停者、解放同盟(旧社会党系)と全解連(共産党系)の調停者を指向する、日本基督教団西中国教区の部落差別問題との取り組みの世界にも、この差別的な、歴史学の差別思想である「賤民史観」に立脚した「五本目の指を」運動が流れこんできます。

日本基督教団出版局から出された、日本基督教団西中国教区宣教研究会編『改訂版・洗礼を受けてから 証しの生活』の中で、部落差別がとりあげられる際に、「第5章証しとしての市民行動」・「その3 差別」でとりあげられる、部落差別・在日朝鮮人差別・沖縄差別の三つの差別のなかで、部落差別を論じた文章の見出しに使われたことばが、括弧抜きの「五本目の指を」でした。

括弧つきなら、詩集『部落』からの引用句であると弁明することもできないこともありませんが、『改訂版・洗礼を受けてから 証しの生活』は、地の文として使用されているのです。つまり、日本基督教団西中国教区の当時の宣教研究会は、部落解放運動を、「四本指と言われているひとびとが五本目の指を求める運動」として認識していたこことになります。

筆者、A市立A中学校で起きた部落差別事件に関する『論文と資料』を読んで、部落差別の深刻さにおどろかされただけでなく、自分の所属している日本基督教団出版局発行の書籍の中に、しかも、西中国教区の「憲兵隊」とささやかれていた宣教研究会の文章の中に、A教諭と勝るとも劣らない差別的な表記を目にして、愕然とさせられたのです。

その時の宣教研究会のメンバーは、「四竈一郎・岩井健作・杉原助・筒井洋一郎・大野昭」の5名の牧師・・・。協力者として、「榎昭三・片岡慶彦・小林茂・陣内厚生・田口重彦・玉井義治・橋本栄一・船越諭・RWマクウィリアムス・桝田邦雄・桃井完二・森田恒一・山田守」が関与されています。合計18名の教職・信徒が関わりながら、「五本目の指を」という表現を、西中国教区の部落差別問題の啓発に用いられる文章の表題とすることの問題性を誰も気付いていなかった・・・、ということを示しています。

筆者、西中国教区の部落差別問題特別委員会を4期8年で辞任したあと、それまでの、部落差別問題との取り組みを原稿用紙300枚にまとめて、問題提起しました。

しかし、そのときの、西中国教区宣教研究会と部落差別問題特別委員会は、筆者の問題提起を、とるにたらない問題として切り捨て、原稿用紙300枚の論文を、教区の部落差別問題の取り組みの方向性に反するとして没収・破棄しました。そのときの西中国教区部落差別問題特別委員会の委員長は、日本基督教団の部落解放運動の指導的役割をになった東岡山治牧師でした。

日本基督教団の部落解放センターからは、「あなたの部落差別問題との取り組みは、日本基督教団の部落解放運動の方向性と異なる。わたしたちは、あなたに何も期待しない。それでも、部落差別問題と取り組むというなら、日本基督教団とは何の関係もないところで取り組みなさい・・・」と引導を言い渡されました。

筆者、被差別部落のひとびとをさして「四本指」で表現したり、被差別部落のひとびとの部落解放運動をさして、「五本目の指を」獲得する運動として表現したりするひとびとの背後に、非人間的なものの見方考え方をみます。旧約聖書・新約聖書の人間観、神学的人間観とも大きく異なります。

筆者、被差別部落のひとびとをさして「四本指」で表現したり、被差別部落のひとびとの部落解放運動をさして、「五本目の指を」獲得する運動として表現したりすることの総体を、差別的であると認識します。

筆者が、山口の地で、牧師としてであった被差別部落の人々は、被差別部落の人々をさして、「特殊部落民」と言おうが、「四本指」と言おうが、「賤民」と言おうが、被差別部落の人々を貶め、差別していることに違いはない・・・、そういう発想をとりのぞくことこそ、部落解放運動の目的であると考えておられました。

山口県A市立A中学校教師差別事件の『論文と資料』集・・・。それを精読して以降、筆者、『部落学序説』とその関連ブログ群執筆につながる独自の道を歩みはじめました。

筆者は、被差別部落出身ではありません。しかし、山口県の被差別部落の人々との出会いを通して、入手することができた、部落史の史資料、論文、聞き取り調査、行政による被差別部落の実態調査、差別事件の確認会・糾弾会の資料、被差別部落・穢多村・穢多寺の探訪によって、部落差別の<本質>を<観察>(かんざつ)してきました。

日本基督教団出版局発行の文書を批判したことで、また、西中国教区の著名な教職・信徒たち(四竈一郎・岩井健作・杉原助・筒井洋一郎・大野昭・榎昭三・片岡慶彦・小林茂・陣内厚生・田口重彦・玉井義治・橋本栄一・船越諭・RWマクウィリアムス・桝田邦雄・桃井完二・森田恒一・山田守など)の部落差別に熱心に取り組んでこられた方々の<差別性>をとりあげたことで、教団内における疎外・排除は確定的なものになってしまいました。山口県の教育界の体質と、日本基督教団西中国教区の18名の教職・信徒の体質がほぼ同じものであったことは、筆者の<不幸>でした。

筆者の、山口の地での26年間の部落差別問題の取り組みを抽象化したものが、『部落学序説』とその関連ブログ群に他なりません。抽象化そのものは「机上」の作業ですが、それに到るまでは、筆者に誹謗中傷・罵詈雑言を繰り返してやまない岡山の中学校教師の<実践>に勝るとも劣らない、山口の<闘う被差別部落>の人々との交流があります。

A市立A中学校教師差別事件の『論文と資料』集のなかで、A市の被差別部落の方々はこのように記しています。「私たちは沈黙の中から血涙をふりしぼって、みずからをさらし立ち上がった。そして差別事件を告発した」。筆者の、『部落学序説』とその関連ブログ群は、その「血涙」に、差別者の側から<共感>するものに他なりません。


事実認識の違いを越えて存在する問題・・・

2008年08月18日 | 付論

部落学序説付論 某中学校教師差別事件に関する一考察
8.事実認識の違いを越えて存在する問題・・・


1980年12月10日に、山口県A市立A中学校で起きた部落差別事件・・・。

その当事者となったA中学校のA教諭の記憶と、その授業を受けたクラスの、被差別・差別の両方の側に身を置く生徒の記憶の違い、いずれの記憶が事実なのか・・・?

前者は、「4本指を出してはいけない。九州では大変なことになる」と言っただけで、クラスの生徒たちがいうような、「九州のある所に行って、そんなことをしたら殺される、気をつけろ!」などと言った覚えはないと主張されます。

A教諭にとってみれば、クラスの生徒たちは、A教諭の発言の聞き違い、誤認識をしているに過ぎない、場合によっては、生徒たちの悪意・誹謗中傷・罵詈雑言、A教諭が学校教師であることを不当におとしめる所作と映ります。

結局、A教諭は、<栄転>という形で、A中学校を離れなければならなくなりますが、この差別事件が、1980年12月26日「地区の学力促進学級保護者会」で公にされ問題にされた翌月の1981年1月15日、A市立A中学校校長と地区役員2名の3名で会合がもたれますが、そのとき地区役員から、「疑問と意見」が提起されたといいます。

地区役員「「九州の方にいったら大変なことになる」とは、こちらの方ではいいとも受けとられる」。
A中学校校長「「九州の方へいけば大変で、こちらの方ではどうということはない。」というのではない。これが舌足らず、説明不足で、誤解を招く最たるものだが、当人が九州ということばを出したのは、当人の友人が北九州で先生をしており、この教材で授業をした。その友人は、生徒が4本出してやっているのを特別注意せずにいたところ、これが問題になった。当人は、授業中にフッーと、そのことを思い出したので、そういう表現をしたのである」。

A中学校校長は、A教諭から問題の授業について聞きただしたあと、地区役員との会合にのぞんでいるのですが、最初からA教諭と地区役員の間で、事実確認の場が提供されなかったことで、問題は、複雑化していきます。

A校長は、なぜ、最初の事実確認のとき、A教諭を同席させなかったのか・・・。

A校長にとって、A教諭は、山口県の教育界の名門の出であり、兵庫県の中学校で同和教育を習熟した熱心な指導者である、「日ごろ、同和教育に励んでいる」彼を、「同和に関する事件がおこるたびに確認会へ出席させていくことになれば、・・・恐怖心が芽生え、同和教育の推進に支障をきたす」ことになるといいます(第2回事実確認会でのA校長の発言)。

A教諭は、そのクラスの生徒たちに、「4本指を出してはいけない」「同和教育」を実践したのであって、「差別教育」をしたのではないと、A教諭を弁護します。

A校長は、「先生というものは意外と小心で・・・(その同和教育の指導内容について、被差別部落の側から問題提起されると、同和教育への)・・・やる気をなくす。」と語ります。被差別の側は、このA校長の言葉を、「教育の専門家がやっていることに、ケチつけ無用・・・」と主張していると受け止めます。

そして、1981年9月30日の第3回確認会とのときになって、はじめて、A校長に付き添われて、A教諭が出席し、問題となった授業における事実確認がすすめられていきますが、そのとき、A教諭は、問題発覚当時、A校長が語った、「「九州の方へいけば大変で、こちらの方ではどうということはない。」というのではない。これが舌足らず、説明不足で、誤解を招く最たるものだが、当人が九州ということばを出したのは、当人の友人が北九州で先生をしており、この教材で授業をした。その友人は、生徒が4本出してやっているのを特別注意せずにいたところ、これが問題になった。当人は、授業中にフッーと、そのことを思い出したので、そういう表現をしたのである。」という言葉を<全面否定>します。

この説明・・・、A校長の<捏造>になるのでしょうか・・・。A教諭が問題視されているようなことは、山口だけでなく、九州においても、全国的によく起きていることで、特別問題にされることではない・・・、というA中学校校長の差別的な認識を表出したものになってしまいます。

A教諭は、「なぜ九州ということばが出てきたのか?」という、被差別の側からの質問に、「クラスに九州からの転校生がいたこと」「友人の話し」「短絡的に結びついた」・・・と答えます。

「クラスに九州からの転校生がいた・・・」というのは、A教諭が、「4本指を出してはいけない。九州では大変なことになる」「同和教育」したクラスの生徒の中に九州からの転校生がいたということを意味しています。

「友人の話し・・・」というのは、A教諭の書いた『差別発言の反省と今後の信念』という文書によりますと、「友人が九州の大学に在学中に「パチンコ屋で4本指を出したら大変なことになった」という話」です。このA教諭の友人のことばは、A教諭の「同和地区はこわいという潜在意識」を増強したといいます。

この「クラスに九州からの転校生がいたこと」「友人の話し」という、ふたつの要因が、A教諭をして、「4本指を出してはいけない。九州では大変なことになる」という「同和教育」の実践に踏み切らせたといいます。「同和教育に熱心な教師」によってなされる即席の、場当たり的な「同和教育」・・・、A教諭から、被差別の側が納得のいく説明が語られることはありませんでした。

しかし、山口の地においては、地区役員の「「九州の方にいったら大変なことになる」とは、こちらの方ではいいとも受けとられる。」という発言を裏打ちするような状況がありました。

それは、日本共産党系の運動団体・全解連に大きく影響を受けた、山口県の被差別部落の人々の中にも、自らをさして、「4本指」ということばを使用している人々が少なくなかったからです。もちろん、「4本指」を自らを語るときに使用するひとびとは、それを「自称語」(被差別者が被差別者のことを語るときのことば)としてではなく「他称語」(差別者が被差別者のことを語るときのことば)として・・・。

近代部落差別における典型的な差別語である「特殊部落」ということばと同じく、この「4本指」ということばも、典型的な差別語です。「特殊部落」ということばも、「4本指」ということばも、被差別部落・被差別部落民に対してなげかけられるとき、それは、無自覚であれ自覚であれ、差別発言・差別行為・差別表現になります。「死語」(言葉としては存在していても無意味化された言葉)にならなければならない言葉です。

被差別の側は、「部落民でさえ、部落民であると言っているのに、なぜ、わしらがお前らのことを部落民と言って悪いのか!」と言い続けてきたといいます。「特殊部落民でさえ、特殊部落民であると言っている・・・」。「4本指ですら、4本指であると言っている・・・」。

その強烈な印象を与えるのが、詩集『部落』の「五本目の指を」です。

全文を孫引きで引用します。

私がはじめて恋を知ったのは
二十一の秋
私はかぎりなく彼をしたい
彼はやさしく私をいたわっていたようだった
冬になると
彼の部屋のコタツに火を入れて
私達は話し合った
私が彼のオヨメさんになる日のことを

その夜は、雪がシンシン
しずんでいた・・・
”春”になったらネ
指切りしましょう
私の指がかあいいと言って
からめた指を
二人は長い間大切にしていた

その彼が
私を四本指
だといいはじめたのはいつからだったか
彼のおかあさんにあった日から
二人の上に春は来なくなっていた
私には見えないけれど
たしかに指が
四本だという
切れたのは指切りした指だろうか
約束を守らなかったのは
私ではなかたのに
私は四本指の娘だという
持って生れた不幸せだという

私は想った
私は泣いた
生れ出た家のひくいのきのこと
ねこのひたい程の耕地をむさぼる一かたまりの部落民のこと
血族結婚の末の精神異常者のこと
若者たちは自暴自棄
追いかえされた若妻
テテナシ子

私は死のうと思った
傷をいやす為に
ちゃんとした五体になる為に
私の心の中でプッツリ切られてしまった
五本目の指を
その指をかえせ
その指をかえせと
うたいながら

傷口はいえないだろう
傷口はいえないだろう
傷つけたものへのいかりとなって
その口はひらくだろう
なお大きく
深く
いたみながら

この詩の内容、被差別に置かれた側の悲しみと、差別されることへの抗議の声としては、訴えるものを多く持っています。とくに、差別問題に関心があったり、差別問題に取り組む、知識階級・中産階級の人々にとっては、部落差別とはなにか、それを直感的に知ることができる優れた詩であるとは思います。

しかし、筆者、この「五本目の指を」という詩は、その詩が綴られる前提となったものの見方や考え方に大きな問題を秘めていると思われます。戦後のある部落解放運動・・・、日本共産党系の全解連の運動の理念や人間観のひずみが前提されているように思われます。

A市立A中学校A教諭も、山口県の公立中学校で同和教育に関与していく過程の中で、目にすることになった詩です。この詩を、表面的な意味でしかとらえることができず、この詩の背後にある問題の本質を見抜くことができなかったA教諭の必然的な差別表現が、「4本指を出してはいけない。九州では大変なことになる」ではないか・・・、筆者はそう推察します。

A教諭が、「4本指を出してはいけない。九州では大変なことになる」と言ったのか、それとも、「九州のある所に行って、そんなことをしたら殺される、気をつけろ!」と言ったのか、いずれが事実であっても、その発言の前提となっているものの見方や考え方は、批判検証に値します。


差別事件を起こした教育現場のジレンマ・・・

2008年08月14日 | 付論

部落学序説付論 某中学校教師差別事件に関する一考察
7.差別事件を起こした教育現場のジレンマ・・・


1980年12月10日に起きた、山口県A市立A中学校教師差別事件の当事者A教諭・・・。

そのA教諭に対して、A市教育長は、このように話しました。「A先生をかばうのではないが、まじめな人間ですよ。ただ、まじめな人間なら、こういうことがないかと言ったら、難しい問題ですね・・・」。

A市教育長は、率直に発言する人のようです。「A先生をかばうのではないが・・・」と、A教諭を教育長としてかばう意志をしめしながら、A市教育長がほんとうにかばいたいのは、A教諭ではなく、A教諭を「同和教育に熱心な教師」として、山口県の教育界に発言力のある山口大学教育学部教授をその父親に持ち、将来、山口の教育界の幹部になるべく期待される教師として採用した、A市教育委員会そのものであることを示唆しています。

教室で発生した差別事件をめぐって<差別者>の側に立たされるA市教育委員会・A中学校と、その差別性を追求し学校現場から差別教育を排除しようとする<被差別者>の側との<交渉>の行方の如何によっては、A教諭は、ある意味、微妙な立場に立たされることになります。

A市教育委員会・A中学校は、みずからの教育者としての、特に、同和教育の推進者としての威信が危うくなるときは、迷わず、A教諭を、A市教育委員会・A中学校の同和教育の基本姿勢・基本方針から逸脱した、差別事件の責任者として、A教諭にその責任のすべてを集約してしまう可能性があります。

A市教育長の、「A先生をかばうのではないが、まじめな人間ですよ。ただ、まじめな人間なら、こういうことがないかと言ったら、難しい問題ですね・・・。」ということばは、A教諭による差別事件の解決という緊急の課題に直面した、A市教育委員会・A中学校の精神的葛藤を綴ったことばです。

このA市教育長のことばを少しく検証してみましょう。

A市教育長は、差別事件を起こしたA教諭を「まじめな人間」と評価します。

「まじめ」ということは何を意味しているのでしょう。『広辞苑』でひもといてみますと、「まじめ」とは、「①真剣な態度・顔つき。本気。②まごころがこもっていること。誠実なこと。」という意味だそうです。

「まじめ」というのは、①と②の意味、あるいは①と②のいずれかの意味をもっているということになります。

②は、その人の内面(知・情・意、精神)のあり方を示していますが、①は、その内面が形となって「態度」・「顔つき」にあらわられた状態を示しています。「内なる世界」と「外なる世界」が一致しているとき、その「まじめ」ということばは、称賛されこそすれ、非難されるべきものは何も含んでいません。

しかし、①と②のうち、いずれかが欠落しますと、著しく、「まじめ」という美徳を損なってしまいます。①はあるけれど、②が欠けている場合、その人の「態度」・「顔つき」は、表面的・外面的には「まじめ」ということばがあてはまっても、何らかの事情で、その内面世界・精神世界の破綻が問題になったときは、①と②のギャップ、「外なる世界」と「内なる世界」との亀裂・断裂が問題にされます。

よく、マスコミ(新聞・テレビ)で、学校教師などの教育関係者の不祥事が問題・事件がとりあげられるとき、よく耳にしたり目にしたりすることばは、「あのまじめな先生が・・・」という驚きの言葉です。

いじめ・暴力事件・強制猥褻事件・婦女暴行事件・少女買春事件・窃盗事件・万引き事件・インターネット不正書き込み事件・ストーカー犯罪・ひき逃げ事件・差別事件・汚職事件等が発生したとき、「まじめな先生・・・」が、①をはぎとられると同時に、②を欠落させた現実の姿が明らかになってくるという事例には枚挙のいとまがありません。

「外なる世界」が崩れ、「内なる世界」があらわにされるとき、多くの人々は、「あのまじめな学校教師が、あのようなことをするなんて信じられない・・・」と一様に表現します。

筆者、『部落学序説』を執筆するようになって、読者の方からなんどかメールをいただきましたが、そのひとりに岡山のある中学校教師がいます。その中学校教師、最初は、「わたしのホームページも読みに来て下さい」と好意的なメールをくださっていました。筆者、その時点で、彼のすべての文章をダウンロードして読みはじめましたが、その中学校教師の属しているグループで何が問題にされたのか、兵庫県の部落解放同盟の関係者を加えて、『部落学序説』の執筆者である筆者に対して、極端な誹謗中傷・罵詈雑言を繰り返しなげかけてきました。

その中学校教師、筆者に対して、誹謗中傷・罵詈雑言の限りを尽くしたあと、インターネット上での彼のすべての発言をすべて無かったことにしてほしい、彼のBBS上での発言をすべて削除するので、筆者の<反論>もすべて消去してほしいとの要請がありましたが、筆者、その時点で、岡山の某中学校教師とその背景にいる部落解放同盟の関係者に対する<信頼感>を完全に喪失していましたので、彼らの一方的な都合のいい論理を受け入れることをよしとせず、彼らのBBSにおける誹謗中傷・罵詈雑言の記事をただ記録するにとどめました。

最近、岡山の某中学校教師、そのBBSを完全に閉鎖することで、問題の解決を図りたいようですが、彼と、その背後にある部落解放同盟、あるいは岡山の被差別部落の関係者の、筆者に対する誹謗中傷・罵詈雑言は、1年10ヶ月も続いていますが、筆者、そのすべてをダウンロードして記録しています。筆者、いつでも、その全文を公開する用意があります。

筆者にメールをくださった方々の中には、彼は、「まじめな教師・・・」であるとコメントされる方もおられます。その「まじめな教師・・・」が、こと、インターネットの書き込みになると、別人格のように、極めて傍若無人な、誹謗中傷・罵詈雑言にまみれた発言をすることになるのですが、どういうことなのでしょう。

インターネットの世界では、『広辞苑』の「まじめ」という言葉についての説明の①の意味はほとんど表現されず、言葉を介して、②の意味だけが一人歩きします。岡山のある中学校教師による、筆者に対する誹謗中傷・罵詈雑言は、その教師の「内面世界」・・・、「まごころがこもっていること。誠実なこと。」の欠如を示すものでしかなくなります。

A市の教育長は、A中学校教師差別事件の当事者となったA教諭のことを「まじめな人間である・・・」と評価します。

筆者、1980年に起きた、A中学校教師差別事件の『論文と資料』集を精読して、差別・被差別相互の言説を批判検証しているに過ぎませんが、A中学校教師・・・、A市教育長が評価するように「まじめな人間」であるのかもしれませんが、少なくとも、『広辞苑』の「まじめ」という言葉の①と②の二つ要件を充たすことのできる「まじめな教師」ではなかったようです。

A教諭がまじめな教師であるかないかの判断は、無学歴・無資格の筆者の主観的な判断でしかない・・・、学歴・資格を持ち、A市の教育界を指導している教育長の判断の方を社会的に許容される妥当な判断とする・・・、と考えられるひとも多いでしょうが、筆者、次の点で、A教師が「まじめな教師」であったという説に疑問をさしはさみます。

それは、以前に紹介した差別事件の経緯です。そのまま再掲します。

「そのA教諭が、理科室で、フレミングの法則を教えていたとき、A教諭の指の出し方を生徒に模倣させます。親指・人指指・中指の3本を、3次元的に直交させて、親指を導体の向き、人指指を磁界の向き、中指を起電力の向きとして具体的に教えていたのですが、A教諭の指の出し方をみながら、44人の生徒はそれを模倣しようとします。

しかし、中には、フレミングの法則の指使いとは異なる出し方をする生徒もいます。

そのとき、A教諭は、生徒が将来、「差別行為」をしないように指導する必要を感じて、自分の親指を曲げて、「4本指」を生徒の前に突き出して、「4本指を出してはいけない・・・」と指導します。

すると、「男子の生徒たちが、「どうしてか?」と声をあげた。」といいます。

A教諭は、生徒の<問い>に納得のいく<答え>を出さずに、「それは言えない・・・」と答えたといいます。

しばらく沈黙のときをおいて、A教諭、「九州のある所に行って、そんなことをしたら、殺される、気をつけろ!」と発言したといいます。

生徒は、そのような言葉を語るA教諭の真意を理解できず、「殺されるって、どうしてか?」とさらに質問を続けたといいます。

しかし、A教諭は、生徒たちの質問に、生徒たちが十分納得のいく説明をすることなく、「4本指」の話を中断し、フレミングの法則の説明に戻ったといいます」。

A教諭・・・、その授業を受けた被差別部落の生徒からの差別表現であるとの訴えに端を発した、被差別部落からの事実確認に際して、基本的には、被差別部落の人々に対する差別行為になるおそれのある「4本指」を自ら提示して、「4本指を出してはいけない。九州では大変なことになる・・・」(A教諭著《差別発言の反省と今後の信念》)と、「不用意」に、「生徒の差別行為防止」を意図した「同和教育」上の「指導」を行ったと弁明していますが、A教諭、そのクラスの生徒たちに、「九州のある所に行って、そんなことをしたら、殺される、気をつけろ!」と発言したことはないと断言します。A教諭の弁明では、彼の授業を受けた生徒たちが聞いたという、「九州のある所に行って、そんなことをしたら、殺される、気をつけろ!」という発言は、生徒たちの<ソラミミ>であり、生徒たちは、教師が話してもいないことを語って嘘をついている・・・、ということになります。

A教諭の弁明は、A教諭の、そのクラスの生徒たちに対する<不信感>の表明です。

筆者、これほど、自分の教え子に対する<不信感>、うそつきよばわりする教師を他に知りません。自他共に、「同和教育に熱心な教師」の役を演じ続けるために、A教諭、そのクラスの生徒たちは、差別・被差別の立場を問わず、事実とは違う<ウソ>の表現をして、A教諭を窮地に陥れている・・・、というのです。

そのような思いや姿勢の中で、A教諭の同和教育担当者としての指導、そして、理科の授業そのものも成立するはずがありません。

<教育>というものは、本来、教える側と教えられる側の間の<信頼関係>が成立してはじめて、効果的に実践しうるものだからです。

そう考えますと、A市教育長のいう、A教諭に対する評価、「A先生をかばうのではないが、まじめな人間ですよ・・・」という評価は、そのまま信じるに足ることばではなくなってしまいます。教える側が教えた内容(同和教育)と、教えられた側が受け取った内容(差別教育)との間に大きな亀裂があり、教える側が、教えられた側が受け取った内容を教える側の与り知らぬことであると全面否定することは、「まじめな教師」としてのイメージをそこなうだけでなく、「まじめな人間」のイメージもそこなうものになってしまいます。

A市教育長の目からみた、A教諭の差別事件の解決の難しさは、「まじめな人間」が、なぜか差別事件の当事者になる・・・、という一点にあります。

A市教育長のことばは、教育界においては、「まじめであるかな否か」ということと、「差別するかしないか」ということとは、必ずしも一致しないことがあるということを意味しています。人間として、まじめであるか否か、教師として、まじめであるかいなかは、差別するかしないかということと、無関係に成立する・・・、その間に、亀裂が走った場合、その亀裂をどう受けとめ、解明し、解決していったらいいのか・・・、そこには、「難しい問題」があるということなのでしょうか・・・。

A市教育委員会とA中学校・・・、A教諭が、そのクラスの生徒たちに、「九州のある所に行って、そんなことをしたら、殺される、気をつけろ!」と言ったのが事実であるのかどうか、調査をします。その調査というのは、その授業に出ていた44名の生徒に対する聞き取り調査をしたり、アンケート調査をしたりするというものではなく、生徒44名の「生活ノート」を提出させ、その授業があったあとの記録を読んで、そこに、その授業とA教諭の指導内容に対して、どのような書き込みがあったのか・・・、を調べるというものです。

『論文と資料』集の中で、このような論評がなされています。

「事件が表面化して、學校側は、同クラスの生徒たちの生活ノートを調べた」。しかし、「生徒たちは、この事件について具体的反応」を書きとどめることはなかったといいます。その結果、A中学校側は、A教諭の「指導」は、「生徒たちには、それほど深刻なカゲをおとしていなかった」と判断したといいます。

もし、A教諭の「同和教育」「指導」が、差別教育であるなら、その授業を受けた生徒たちは、深刻な影響を受け、そのことについて、何らかの形で、「生活ノート」に書き込むはずだ。その「生活ノート」に何の書き込みもなされていないのは、A教諭の「指導」が、生徒たちに何の影響も与えなかったことを意味すると・・・。

しかし、A教諭の授業を受けた44名の生徒に対する、被差別部落の側が実施した聞き取り調査の中で、次のような生徒の<対応>が明らかになるのです。

被差別部落の住人ではない、一般の生徒の親は、自分の子どもから、授業中に、教師からこんな話があったと聞かされて、このように答えたといいます。「そんなことを口にしてはいけない・・・」。当然、その日の「生活ノート」に、A教諭の授業を受けた生徒たちは、「4本指」という差別表現について、自分の意見を書き込むことをしなかったと思われます。

被差別部落出身の生徒たちの受けとめ方は以下のようなものでした。

(学校教師から)「部落に対して、そんな言われ方を聞いたのははじめて・・・」。被差別部落出身の生徒たちは、A教諭によって、生徒の前に「4本指」を差し出しながら、差別表現・差別行為をされたことで深刻なショックを受け、ことばにすることができない状態でした。

他の生徒は、「親友にも、部落の話はできない。話せば、それが原因で離れてしまうかも・・・」という不安を語ります。「生活ノート」に、A教諭の差別表現・差別行為について書き込めば、そのことを通して、A教諭から不利益、まかり間違うと、いじめや差別を受けることになるかもしれないという不安と、「生活ノート」を通じて、自分が被差別部落出身であるということが明らかになることを危惧するという不安が込められています。

また、被差別部落出身の生徒は、そうでない生徒と違って、結婚するときにも、「一歩、引いて考えなければならないのだ・・・」と、差別的現実を前にその壁の厚さに絶句する生徒もいます。

その結果、A教諭から授業をうけた日、クラスの生徒の中で話題になったことは、「次の日・・・みんなの中で話題にならなかった。自分も話せなかった・・・」といいます。

A教諭の授業中の差別表現・差別行為は、その授業を受けたクラスの生徒44名のこころの中に、暗い影を残し、被差別部落出身の生徒も、そうでない一般の生徒も、そのできごとに対して<沈黙>を守るようになるのです。当然、生徒の「生活ノート」・・・、クラスの担任が読むことになる「生活ノート」にA教諭の差別性を指摘することばなど書き込まれるはずもなかったのです。

A市教育委員会・A中学校は、A教諭の授業が、そのクラスの生徒44名にどのような影響を与えたのかを調査するために、生徒44名に聞き取り調査をしたり、アンケートを実施したりするのではなく、クラスの生徒の個人名の入った、その「生活ノート」を出させて、その書き込みの有無と内容をもとに、A教諭の差別表現に対する生徒たちの影響力を判断しようとしたのです。

被差別部落出身の生徒も、そうでない一般の生徒も、「生活ノート」に何の書き込みもしていないという理由で、A教諭の授業中の同和教育の指導は、生徒に何の影響も与えていない・・・、ということで、決着がつけられようとしたのです。

日本全国の津々浦々の学校で、発生したと思われる部落差別事件・・・、その事件の概略は、同和教育の教材として紹介されます。しかし、筆者の目からみますと、あまりにも、パターン化され過ぎて、わかったようでわからない同和教育の教材になってしまっています。差別事件が発生した、個々の地域社会の歴史と文化、社会生活・・・、差別事件の当事者となった教師の生い立ちと、受けた教育・・・、いろいろな要素が切り捨てられ、抽象化され、パターン化されてしまったとき、換骨奪胎され、生気をうしなってしまったような無味乾燥な差別事件の記録・報告から何を学ぶことができるというのでしょうか・・・。

『部落学序説』とその関連ブログ群の筆者の経験からも、全国的に発生する差別事件を抽象化して教訓的に学習させられる従来の同和教育より、地域の歴史と文化、社会生活を視野にいれながら、教育現場における具体的な差別事件を正しく認識することの方が、日本の社会から、教育現場から、部落差別をなくすために大きく貢献すると思われます。

筆者、すべての差別事件は、正しく<知解>されることによって、部落差別完全解消への有力なあしがかり、てがかりを得ることができると思います。ときどき、部落差別について、正しく生徒に<知解>させる努力を怠って、あいまいな認識のまま、「同和地区」の有力者やボス格の人々と一緒に飲んだり遊んだりして、「部落の人と交流をしている」、「だから、自分のしている同和教育は正しい」、「机上の学問ではない・・・」などと主張する教師も出てきますが、そんな、ごまかし、いつまでも続くことはありません。いつか、A市立A中学校のA教諭のように、自ら、そのような姿勢の過ちに気付かされる日がやってきます。


闇から闇に隠される教育現場の差別事件・・・

2008年08月11日 | 付論

部落学序説付論 某中学校教師差別事件に関する一考察
6.闇から闇に隠される教育現場の差別事件・・・


1980年12月10日に起きた、山口県A市立A中学校教師差別事件の当事者A教諭・・・。

自他共に、「同和教育に熱意ある実践者」であることを自負する教師が、なぜ、その同和教育の実践活動において、<差別>として指摘されることになったのか・・・。

戦前・戦後を通じて、<学校>という教育現場は、様々な部落差別事件の<現場>になってきました。教育現場における部落差別は、<学校>の教師と生徒との間で発生しました。教師(差別者)対生徒(被差別者)、教師(差別者)対教師(被差別者)、教師(被差別者)対生徒(差別者)、生徒(差別者)対生徒(被差別者)・・・教師と生徒の差別・被差別の立ち所を変えて、いろいろな差別事件が発生してきました。

しかし、多くの場合、<学校>という教育現場で起こった様々な差別事件は、どちらかいいますと、一般民衆・国民のあずかり知らぬところで処理され、解決されてきました。

この山口県A市立A中学校教師差別事件もそのひとつです。

「差別発言」事件は、「失言事件」として処理され、結局、事件そのものが闇から闇へ隠されていきます。

筆者も、もし、部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々が収集したり執筆されたりした『論文と資料』を入手して、それを精読する機会がなかったとしたら、ただの、一般民衆・国民でしかない筆者にとって、山口県A市立A中学校教師差別事件は、その見出ししか知らない差別事件のひとつに過ぎなかったことでしょう。

否、A市立A中学校教師差別事件、その見出しにすらなり得ませんでした。

以前、『部落学序説』の中で、他の差別事件について書いたとき言及しましたように、灘本昌久氏などは、その典型です。部落解放同盟新南陽支部の部落解放への闘いを、<中央>の論理で<誹謗中傷>してかえりみません。地方の小さな支部に<罵倒雑言>をなげかけても、まるで何の痛みも感じないようです。灘本昌久氏にとっては、それは、<誹謗中傷・罵詈雑言>ではなく<意見>であると弁明されるかもしれませんが・・・。

しかし、筆者、近世幕藩体制下の徳山藩の北穢多村の跡地に住む、部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々との奇しき<出会い>によって、部落解放同盟新南陽支部が闘ったきた、<学校>という教育現場で発生した様々な差別事件に関する、一次資料・二次資料を入手し、それを読破することができる機会にめぐまれました。

差別事件が発生するごとに、彼らによって作成される『論文と資料』集・・・、それらの論文と資料は、部落差別問題とほとんど縁がなかった筆者に、ひとりの民衆として、国民として、部落差別完全解消のために<発言>することができる内的根拠を提供してくれることになりました。

筆者、26年前、山口の小さな教会に牧師として赴任してきたときは、山口県A市立A中学校教師差別事件の当事者A教諭・・・、なぜか、<栄転>というルートで、出身地の防府の中学校に転任されていましたから、そのA教諭とは一度も面識がありません。

教育現場の差別事件という重大なできごとを論じるのに、被差別の側の『論文と資料』のみを用いて、A教師に対して一度も取材したり、聞き取り調査をしないで、論じることは、<独断と偏見>であると非難されるかもしれません。しかし、その『論文と資料』の中には、A教諭による直筆・押印の文書《差別発言の反省と今後の信念》という文書も含まれていますし、A市教育委員会・A中学校発行の《A市立A中学校における教師の差別事件についての反省と今後の取り組み》という文章も含まれています。A教諭だけでなく、A教諭の授業で、A教諭の差別的言動をまのあたりにした、クラスの生徒の聞き取り調査の記録も含まれています。

岡山の某中学校教師などは、筆者の『部落学序説』とその関連ブログ群の内容を、「観念論」・「机上の空論」と非難してやみませんが、A市教育委員会・A中学校発行の文書や、A教諭直筆の文書は、部落解放同盟という運動団体の圧力で書かされたものであり、A市教育委員会やA中学校、A教諭の真意を反映したものではないと断定されるなら、その可能性があるかもしれません。

しかし、筆者の目からみますと、A市教育委員会・A中学校発行の文書や、A教諭直筆の文書は、運動団体によって強制的に書かされたものではなく、彼らの<自己弁明の書>であると思わされます。

A教諭、「潜在的な差別意識を完全に取り除くためには、自分がはだかになって地区生徒の中に飛び込んで生徒の苦しみ・いたみ・保護者の願いを自分のものとして受けとめる同和教育を実践していきたい・・・」、「人権尊重の精神をもって」・・・学校教師を続けていきたいと、被差別部落の人々に、《差別発言の反省と今後の信念》という文章を送っていますが、その文章・・・、A教諭が、差別事件を起こしたA市立A中学校を辞して、防府市の某中学校に<栄転>したあとに送付されてきたものです。

「はだかになって地区生徒の中に飛び込んで生徒の苦しみ・いたみ・保護者の願いを自分のものとして受けとめる同和教育を実践していきたい」というA教諭の言葉、同和教育に対する熱意というより、被差別部落出身の生徒たちのこころに深い傷を残したまま、<栄転>した中学校での指導理念をのべるという、観念的な冷たい響きがあります。

被差別の側から、「どうして、A教諭を栄転させたのか?」とつめよる被差別部落の人々に、A市教育委員会・A中学校は、「偶然」であり、差別事件が起こる前から決まっていたことであるといいます。自分の息子を、実家のある防府市内の中学校に転任させたいと働きかけていた、父親の国立山口大学教育学部の教授の声を、いつかどこかで聞き届けることにしていたのでしょうか・・・。

教育界における言葉の使い方は、そうとう乱れているようです。

<偶然>は<必然>になり、<必然>は<偶然>になる・・・。<白>は<黒>になり、<黒>は<白>になる・・・。正反対の意味で使われる場合も少なくありません。

並平恵美子氏は、司法・警察の職務に携わっていた<非常の民>のひとつ、「長吏」という職務を、<白と黒を区別する職務>と解釈していましたが、司法・警察の職務に生きる、近世幕藩体制下の「穢多」役・「非人」役は、法に照らして、<白>(無実)と<黒>(有罪)を区別する役務・・・、もし、当時の「穢多」役・「非人」役が今日も生きていたとしたら、きっと、教育界における言葉の使い方に激怒し、ことがらの是非を明らかにしようとしたに違いありません。

しかし、被差別部落の人々の<正論>に押されて、その場限りの受け答えで済ますことはできないとさとった、A市教育委員会・A中学校・・・、A教諭を、A教諭の父親の要望と本人の希望をいれて、<栄転>させ、身の安全を確保したあと、A教諭について、<批判・分析>を展開します。

おそらく、A教諭・・・、自分が、教育委員会や中学校校長によって、どのように見なされ、評価されるようになっていったのか、記録された文章に目を通すことはなかったのではないかと思われます。

A教諭・・・、差別事件を起こした、A市立A中学校に勤務し続け、その校区内の複数の被差別部落に出入りし、その言葉の通り、「はだかになって地区生徒の中に飛び込んで生徒の苦しみ・いたみ・保護者の願いを自分のものとして受けとめる同和教育を実践」していれば、A教諭、その授業を受けた被差別部落内外の生徒たちのこころの傷を癒すことができたでしょうに・・・。そして、A教諭自身、ひとかわもふたかわもむけた良い教師になったでしょうに・・・。


典型的な差別語「四本指」について・・・

2008年08月07日 | 付論

部落学序説付論 某中学校教師差別事件に関する一考察
5.典型的な差別語「四本指」について・・・


「特殊部落民」と同じく「四本指」という言葉は、典型的な差別語です。

どこをどのようにとっても、「四本指」を<非差別語化>することは不可能です。「四本指」という言葉は、被差別部落と被差別部落民を差別するためにつくられた言葉です。

その「四本指」が差別語であること、また、被差別部落のひとびとを指すのに「四本指」「代名詞」として用い、「親指を曲げた四本指」として象徴的なしぐさで表現することは、典型的な「差別行為」になります。

山口県A市A中学校A教諭の差別事件をまとめた、部落解放同盟新南陽支部の、現在の部落史研究会の方々が作成した『論文と資料』によりますと、「四本指」という差別語・差別行為について、被差別の側からこのような解釈が提示されています。

「四本指」は、「部落民に対する予見と偏見の象徴である」。

「四本指」は、「部落民を人間外の賤しい人間」と見なしていることを意味する。

「四本指のしぐさ・行為によって、私たちの先輩やきょうだいたちが生命さえ奪われてきたのは過去だけのことではない」。

「四本指」は何を示しているのか? 「様々に<いわれ>をつけようとつけまいと「四本指」は、部落民を対等な人間とはみず、<賤しい人間外の人間>とみる<部落民に対する代名詞>である」。

「四本指」は「「人間にあらず」という悪意をこめた部落民への偏見である」。

部落史研究会の方々は、「四本指」という差別語を使用するときは、自分たちの意志によってもちいるのではないことをしめすために、かならず「四本指」・・・というように括弧付で使用しています。「四本指」という言葉を、被差別部落の人々が自らの存在を表現するために「自称語」(ブログ『蛙独言』の著者・田所蛙司氏から影響を受けた言葉)として使用することはないのです。

部落史研究会の方々は、「四本指」という言葉の「いわれ」を検証しようとはしません。「四本指」という言葉を説明するに、どのような<いわれ>が採用されようと、「四本指」を本質的に差別語であって、その言葉を、無化することも、非差別語化することもできない・・・、と主張されます。「四本指」という言葉は、被差別部落の人々をさして用いられる言葉としては、「死語」にならなければなりません。

「四本指」は、被差別部落のひとびとに、その人生から希望を奪い、その生命さえ奪ってきた「予見」・「偏見」・「悪意」が作り出した差別語・差別行為なのです。

『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆者である筆者が、はじめて、部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々が作成された、A中学校教師差別事件に関する『論文と資料』を読ませてもらったとき、筆者、その『論文と資料』に掲載された、上記の引用したことばのうち、次の表現がこころに刻み込まれました。それは、

「四本指」は、「部落民を人間外の賤しい人間」と見なしていることを意味する。
「四本指」は何を示しているのか? 「様々に<いわれ>をつけようとつけまいと「四本指」は、部落民を対等な人間とはみず、<賤しい人間外の人間>とみる<部落民に対する代名詞>である」。

ということばです。

部落史研究会の方々は、「四本指」は、「部落民」を、「人間外の賤しい人間」・「賤しい人間外の人間」とみなすことと同じである・・・、というのです。

この表現、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」の用語で言い換えれば、「社会外社会」・「人間外人間」・「賤民」・・・、ということになります。

A中学校教師差別事件に関する『論文と資料』を読んで以来、筆者は、「四本指」という差別語・差別行為は、被差別部落のひとびとを「賤民」と断定する差別的象徴である・・・、と理解してきました。被差別部落の人々に、「四本指」を突き出すことも、被差別部落の人々をさして「賤民」という概念を適用することも、同じ差別表現・差別行為であると自覚するようになりました。

部落史研究会の方々が、「四本指」を括弧付でしか使用しないのと同じように、被差別の当事者ではない、差別・被差別の関係の中では、差別の立場にたっている筆者は、被差別部落の人々をさすのに「賤民」という概念を使用するときは、留保をつけて括弧付で使用してきました。・・・それから20数年、筆者は、日本基督教団の牧師として、部落差別問題にかかわってきましたが、「賤民」という概念を使用しなくても、部落問題・部落差別問題について表現することができるようになりました。

今では、はっきりと確信をもってこのようにいうことができます。

被差別部落の人々を「四本指」という差別語・差別行為でしめすことは、被差別部落の人々を「賤民」と断定することであり、被差別部落の人々を、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」の学問上の差別語である「賤民」概念で表現することは、学問・研究の世界で、被差別部落の人々を「四本指」として認識・表現するのと同等・同義であると・・・。

「被差別部落の人々は四本指である」という命題と、「被差別部落の人々は(あるいはその先祖は)賤民である」という命題とは同義である・・・、と。

筆者の『部落学序説』(「非常民」の学としての部落学構築をめざして)は、部落差別問題について、ほとんど何もしらなかった筆者が(部落解放同盟新南陽支部の学習会に参加するようになって、筆者、被差別部落のおじさん・おばさんから差別語を使用しているとの指摘を何度も受けました。その都度、その理由を教えられ差別語の使用をやめていきました・・・)、日本の歴史学に内在する差別思想である賤民史観から自由になって、被差別部落の人々を、司法・警察である「非常民」という概念で認識するようになっていった要因は、山口の地における被差別部落の人々との出会いに大きく影響されています。

もちろん、山口県に住む被差別部落のひとびとは、すべてのひとが部落解放同盟新南陽支部のひとびとのような方々ばかりではありません。新南陽支部の方々は、差別社会(A市立中学校教師差別事件の場合、教育界のことですが・・・)からの「四本指」というラベリングを根底から否定しようとします。新南陽支部の部落解放は、「四本指」というラベリングを許容する差別社会を根底から解体することです。

しかし、山口には、「四本指」としてラベリングされ、その差別的現実を受容して「五本目の指」「返せ」と運動してきた人々もいます(詩集『部落』)。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」による、被差別部落の人々に対する「賤民」という差別語によるラベリングを拒否する人々もいれば、「賤民史観」を受け入れ、「賤民」からの解放を目的に運動する人々もいます。運動団体からみれば、前者は、部落解放同盟(旧社会党系)に多く、後者は、全解連(共産党系)に多くみられます。

『部落学序説』の視点・視角・視座である「非常民論」・「新けがれ論」・・・、部落解放同盟新南陽支部との交流の中から、筆者が、「常民」(「差別者」)の視点・視角・視座から、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」を考察したものに他なりません。いわば、<出会い>の産物です。部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々の<合理主義的人間観>と筆者の<聖書的人間観>の類似性が、差別・被差別を越えて、共に、部落史を検証していくときの共通基盤となりました。

少し断線しましたが、部落史研究会の方々と『部落学序説』の筆者の、差別語「四本指」を明らかにした上で、A市立A中学校教師差別事件のA教諭の「四本指」理解を検証します、次回・・・。


某中学校教師差別事件の概要・・・

2008年08月05日 | 付論

部落学序説付論 某中学校教師差別事件に関する一考察
4.某中学校教師差別事件の概要・・・


日本基督教団西中国教区のちいさな教会に赴任してきて26年・・・、西中国教区が、無学歴・無資格の筆者に割り当てた唯一の役は、設立されたばかりの部落差別問題特別委員会の委員でした。

筆者、教区総会期4期8年に渡って、西中国教区部落差別問題特別委員会の委員をしてきましたが、9年目にその委員を辞任して以来、無役で現在に至っていますが、その委員をしている間に出会った、部落解放同盟新南陽支部の方々から、山口県の教育現場で起こっている様々な差別事件に関する資料を提供されました。

それらの資料は、筆者、散逸することがないようにファイリングしていますが、どの差別事件も深刻です。読んでいて、差別事件が発生する日本社会の<風土>、学校教育の<現場>が持っている深刻な差別性を前に、筆者、語るべき言葉を失うことも少なくありません。

筆者、「差別者」の範疇にはいる存在ですが、それでも、差別事件の「糾弾要綱」に目を通していて、「差別者」の側の論理に唖然とさせられ、それに抗議する「被差別者」の側の論理に驚かされます。「差別」に対して、「怒り」だけでなく、「悲しみ」すら感じさせられます。

1980年12月10日(水)、山口県A市A中学校の理科室の授業で、その差別事件が発生します。

その理科の授業を担当したいたのがA教諭でした。

その授業をうけていた生徒は、3年4組の44名・・・。A市立A中学校は、校区に、近世幕藩体制下の徳山藩で、司法・警察の職務に従事していた、徳山藩北穢多村の<末裔>の方々が住む被差別部落を含んでいました。当然、44名のクラスの中には、被差別部落出身のこどもたちも含まれます。

このA教諭・・・、「理科」の先生ではあるのですが、同和教育に熱心な教師として、自他共に認める存在でした。A教諭の、学校教師として同和教育に携わるときの基本的な姿勢は、「人権尊重の精神」(A教諭の言葉)でした。A教諭にとって、同和教育は、「人権教育」の一環であり、同和教育を通して、生徒たちに、「人権尊重の精神」を育んでいくことは、中学校教師としての彼の基本理念であったようです。

しかし、A中学校における同和教育の時間は、それほど多くはありません。

A中学校における同和教育について、A中学校校区にある被差別部落の生徒は、このように語っています。「同和教育の時間といったら、副読本を使い、読んで、先生がその感想を求めて終わる。みんな、ほとんど聞いていない。内職している者や態度で拒否している者がいる。そんな時間は、みんなやる気がないし、おもしろくない。次第に、教科の自習の時間にかわってしまう・・・」。

それは、学校同和教育における、差別・被差別を問わず、生徒たちのすなおな反応であったと思われます。

A教諭は、同和教育の時間的不足を補うべく、A教諭の、中学校教師としての全てのいとなみの中で、主体的に同和教育を実践していたようです。

そのA教諭が、理科室で、フレミングの法則を教えていたとき、A教諭の指の出し方を生徒に模倣させます。親指・人指指・中指の3本を、3次元的に直交させて、親指を導体の向き、人指指を磁界の向き、中指を起電力の向きとして具体的に教えていたのですが、A教諭の指の出し方をみながら、44人の生徒はそれを模倣しようとします。

しかし、中には、フレミングの法則の指使いとは異なる出し方をする生徒もいます。

そのとき、A教諭は、生徒が将来、「差別行為」をしないように指導する必要を感じて、自分の親指を曲げて、「4本指」を生徒の前に突き出して、「4本指を出してはいけない・・・」と指導します。

すると、「男子の生徒たちが、「どうしてか?」と声をあげた。」といいます。

A教諭は、生徒の<問い>に納得のいく<答え>を出さずに、「それは言えない・・・」と答えたといいます。

しばらく沈黙のときをおいて、A教諭、「九州のある所に行って、そんなことをしたら、殺される、気をつけろ!」と発言したといいます。

生徒は、そのような言葉を語るA教諭の真意を理解できず、「殺されるって、どうしてか?」とさらに質問を続けたといいます。

しかし、A教諭は、生徒たちの質問に、生徒たちが十分納得のいく説明をすることなく、「4本指」の話を中断し、フレミングの法則の説明に戻ったといいます。

後日、山口県教育委員会、A市教育委員会、A中学校は、A教諭のこの指導は、「同和教育に熱心な教諭の差別をなくすための指導」であったと弁明することになります。問題があったとしても、それは、「差別事件」ではなく、説明不足で生徒に誤解を与えた「失言事件」として決着しようとします。

A中学校に通う、被差別部落出身の生徒は、男の子もいれば女の子もいます。

しかし、A教諭、なぜか、女の子に対して、「部落民」であることを自覚させようとして、彼なりの「部落民告知」を実践しようとします。A教諭が、被差別部落出身の女子中学生に部落民であることを自覚させ、そのあとどのような指導をしようとしたのか・・・、A教諭は説明することはありませんでしたが、同じ月の1980年12月19日、「光合成に必要な条件を指で数えたとき」、そのクラスにいた、被差別部落出身の女生徒と目と目があう形で、4本指を出した・・・、そうです。

A教諭は、そのとき、その女生徒の「表情が変わったことに気づいた・・・」といいます。A教諭の視線と、突き出された、その「4本指」にとまどう女生徒・・・、A教諭は、女生徒をどまどいの中に残したまま、授業を続けたといいます。

A教諭の行為、特定の女生徒に対しては明らかな差別行為・・・、しかし、その他の生徒にとっては、「光合成に必要な条件を指で数えた」に過ぎない、何でもない行為・・・、という極めて巧妙かつ狡智な方法を採用したと思われます。学校教師による生徒に対するイジメはいつもこのような形で行われます。

その女生徒の話を聞いた、その母親、「言うに言われぬ憤りに襲われた・・・」といいます。母親は、「先生だからといって、そんなことを言っていいはずがない。とにかく学校に電話しよう。」とするのですが、女生徒は、母親に、「学校に抗議の電話をすると、あとで、私がいやな目に合うからやめて!」と母親を静止したといいます。

A教諭によって、有耶無耶にされた1977年に引き起こされた、被差別部落の女生徒に対する「差別事件」の記憶が消え去らない中、再び起きたA教諭による「差別事件」・・・。母親は、1980年12月26日に開催された「促進学級保護者会」で、A教諭の「差別行為」について、「問題提起」することになります。その娘さんが、A教諭の「4本指」をめぐる差別行為を明らかにしたことで、A教諭から、<嫌がらせ・イジメ・疎外・排除>にさらされることを危惧していることを含めて・・・。

A教諭の「差別行為」について、「促進学級保護者会」でその事実を知らされたA中学校校長は、翌日12月27日、校長室にA教諭を呼び出して、「事情説明」を求めます。

そのとき、A中学校校長は、生徒の保護者から指摘された事件の「事実確認」を、A教諭の語る説明だけをてがかりに了解していきます。「人権尊重の精神」にとみ、山口大学教育学部の教授を父親に持ち、「同和教育の熱心な推進者」であるA教諭の説明は、全面的に信頼に足りうるものとし、間違いがあったとしても、それは「差別事件」ではなく「失言事件」でしかない・・・、との方針のもと、A中学校校長は、A教諭に問題解決を「一任」させるのです。

現在、大分県の教育委員会による、教職員採用試験不正採用汚職事件・・・、それは、大分県の教育界だけの話ではありません。筆者が棲息している山口県においても、過去に同じ汚職事件が問題化したこともありますし、それが明らかになる前までは、<コネ採用>はなかば一般化・常識化して、<公然たる秘密>でした。父親が、山口大学教育学部教授、そして本人が、同和教育の先進地、兵庫県での同和教育の実践者・経験者という実績の持ち主であれば、その周囲の教職員たち、やがては山口県の教育界の幹部になるA教諭のために、その<失敗>を取り繕って将来のために<恩>を得る・・・、ということは決してめずらしいものではありませんでした。A中学校校長の行動パターンには、その<慣習>が滲み出ています。

A教諭が、事件前も事件後も、自己の教育者としての基本的な理念とする、「人権尊重の精神」、その精神は、誰よりもまず、教育者自身に向けられていくのです。「人権」が尊重されなければならないのは、A教諭の「同和教育という名の差別指導」で傷ついた、被差別部落の生徒たちではなく、そのことで、被差別部落の人々から「糾弾」を受ける可能性のあるA教諭自身であると認識されるのです。

A教諭、フレミングの法則を教えているとき、生徒に、「4本指」を出す差別行為をしないように指導したことを認める一方、その授業の際、生徒44人から質問はなかった・・・、授業中に、そのことをめぐって生徒とやりとりをした記憶は一切ない・・・、問題提起をしている被差別部落の生徒が<誹謗中傷>しているかのように、事件の責任を被差別部落の生徒の側に転嫁しようとします。

しかし、1977年の、A教諭による、被差別部落の女生徒に対する「差別事件」のように、「一対一の席」での「差別発言」ではありませんでした。そのときは、<知らぬ、存ぜぬ、記憶なし>を言い張って、「差別事件」をうやむやにすることができました。その女生徒に<うそつき>とラベリングしたまま・・・。

しかし、今回の「差別事件」・・・、A教諭の言動を目の当たりにしていたのは、ひとりではありませんでした。クラス44人の生徒が、A教諭の「差別事件」の証言者になったのです。被差別部落出身であると否とを問わず・・・。


ある部落民告知・・・

2008年08月05日 | 付論

部落学序説付論 某中学校教師差別事件に関する一考察
3.ある部落民告知・・・

1977年山口県の同和教育指定校になった、A市A中学校に、「同和教育に熱心な教諭」として赴任したきたA教諭・・・。

山口の地で実践しようとした同和教育は、山口の被差別部落の歴史と文化、その中で培われてきた学校同和教育ではなく、A教師が、同和教育の先進地・兵庫県B市B中学校で教師をする中で身につけた同和教育の<知識>と<技術>です。

B中学校は、「校区に大きな被差別部落をもち、学校生徒の過半数が、地区の子どもたちでしめられている」中学校です。そこで、実践されている同和教育は、「寝た子を起こすな」式の教育ではなく、逆に、「寝た子を起こす」教育です。

被差別部落出身の中学生たちが、部落差別に負けず、部落差別と闘って、それを克服して生きていくことができるように、被差別部落出身であることを知らない中学生に、彼が被差別部落出身であることを知らせ、被差別部落出身の中学生にリンクさせ、部落解放の担い手として育てていく・・・、そういう教育が採用されていたと思われます。

「寝た子を起こす」教育は、山口以外の都道府県で、同和教育を学んだことのある教師によって、山口の同和教育の世界に導入されていきます。同和教育の<後進地>である山口県においては、彼らによって、<先進地>の同和教育を移植する試みがなされるのです。

兵庫県のB市立B中学校で、その<先進地>の同和教育の知識と技術を身につけて、山口の地に帰郷し、山口県の同和教育指定校になったA市立A中学校に着任したA教諭は、中学1年生のクラス担任になります。

1学期の期末試験が終わったある日、A教諭は、被差別部落出身のCさんと成績のことについて面接するのです。「一対一の席」で、A教諭は、Cさんにこう話しかけるのです。

「どこに住んでいるか、知っているか」

Cさんは、A教諭が、「被差別部落に住んでいることを自覚しているのか・・・」と尋ねられたと思って、頷きます。すると、A教諭は、ためらいの思いをもって頷くCさんに、更にこのように言ったといいます。

「お前の住んでいる所は部落だ。結婚はむずかしいぞ」。

A教諭の同和教育上の「部落民告知」という技法は、山口県以外の同和教育の<先進地>で同和教育を実践した経験のある教師によって、同和教育の先鋭的技術として、同和教育の<後進地>と認識された山口県の学校同和教育に適用されることになるのですが、兵庫県B市立B中学校と、山口県A市立A中学校とでは、同和教育が推進される、文化的・歴史的環境がまったく異なります。兵庫県B市立B中学校は、「過半数」が被差別部落出身の子どもたちであるのと比べて、山口県A市立A中学校は、被差別部落出身の子どもたちは、クラスの中の極めて少数者に過ぎません。

被差別部落出身の中学生たちに、「部落民告知」を行うにしても、学校教師によって、あえて「部落民告知」された子どもたちが、そのことで受ける衝撃の大きさと内容は、かなり違ったものになります。

中学1年生の1学期の成績に関する面接で、Cさんは、「突然、担任の教師から・・・「お前は、部落民だ。」と告知されるのです。しかも、成績とは何の関係もない、「結婚はむずかしいぞ」という言葉を付け加えて・・・。

中学1年生・・・、13歳のCさんは、A教諭の、同和教育の先進地・兵庫県B市立B中学校で身につけた先鋭的同和教育を実施されて、胸を突き刺されます。「家に帰った彼女は、泣きながら、母親に事実を伝えた・・・」といいます。

Cさんからその話を聞いた、Cさんのおかあさんは、「憤り」を覚え、Cさんのクラス担任のA教諭に抗議しようとしますが、Cさんは、おかあさんに「口止めをした」といいます。「これが表面化すると、学校でいやなめに合いそうで、つらい・・・」というのが理由です。

しかし、憤りを抑えられず、Cさんのおかあさんは、「地区の役員」にそのことを知らせます。「地区の役員」は、CさんとCさんのおかあさんに代わって、A市立A中学校の校長・同和主任に抗議します。そして、A中学校校長は、Cさんの住む被差別部落の隣保館で「地区の役員」にあい「謝罪」をします。

A教諭は、校長にそのことを聞かれて、「そんなことを言ったおぼえがない」と答えたといいます。

A教諭は、<記憶にない・・・>ということで、問題の責任は、A教諭の側ではなく、A教師が、「お前は、部落民だ」「結婚はむずかしいぞ」と言ったという、<ウソ>の証言をするCさんの方に問題がある・・・、とその責任を転嫁してしまうのです。

Cさんは、2学期・3学期と、A教諭に対する信頼感を失って、こころに傷をもちつつ、中学1年生を過ごすのです。

筆者、相次いで発生する、山口県の学校同和教育・社会同和教育での差別事件の「確認会」・「糾弾会」に、<第三者>として、<日本基督教団の牧師>として陪席させてもらったことがありますが、その中で、山口県の学校同和教育においては、同和教育主任ですら、その中学校の被差別部落出身のこどもの名前を知らされていない・・・、ということが繰り返し確認されていました。知っているのは、中学校校長のみ・・・。

しかし、A教諭は、Cさんに、単刀直入に、「お前は、部落民だ」と言ったといいます。

A教諭は、A中学校の校長しか知らないはずの、地区出身の子どもの名前を知っていたということになります。A教諭は、同和教育指定校であるA中学校の同和教育の中で、<先進地>の同和教育の知識と技術を持つ存在として、特別な評価を得ていたのでしょう。A教師をもっとも信頼していたのは、A中学校教師であったのかもしれません。国立山口大学教育学部の教授をしているA教諭の父親の「業績」が、そのことを可能にしたのかもしれません。

この事件・・・、結局、A教諭の管理者であるA中学校校長によって、握りつぶされ、事件の真相解明に至ることはありませんでした。

しかし、この事件・・・、中学1年生のCさんには、こころに深い傷を残し、教え子Cさんのこころに深い傷を残した担任のA教諭は、ある<確信>を持つにいたります。同和教育における<失言>に対して、被差別部落の側から抗議があっても、<知らぬ、存ぜぬ、記憶なし>を言い張ればうやむやにできるという・・・(筆者の推測に過ぎませんが・・・)。

教育上、用意周到に計画された「部落民告知」でないと、<似非・部落民告知>は、差別発言に堕してしまいます。

A教諭の被差別部落出身の子どもたちに対する差別発言・差別行為は、これだけで終わりませんでした。・・・、そして、それは、やがて、「某中学校教師差別事件」に発展していきます。


教育界における、ある中学校教師の評価・・・

2008年08月04日 | 付論

部落学序説付論 某中学校教師差別事件に関する一考察
2.教育界における、ある中学校教師の評価・・・

問題の差別事件は、1980年12月10日、山口県A市立A中学校で起きました。その差別事件の当事者となったA中学校教諭A氏は、どのような人物であったのか・・・。

戦前戦後を通じて、学校教育の現場は、時として、部落差別事件の現場になりました。今回、部落解放同盟新南陽支部部落史研究会の方々が作成した『論文と資料』にもとづいて、A中学校教諭A氏の差別事件を検証していきたいと思いますが、この差別事件・・・、全国的にみますと、決して特異な事例ではありません。

日本全国、同和教育が実践されていた学校教育の現場で起こり得た事例です。

筆者、日本基督教団西中国教区の小さな教会に赴任すると共に、組織されたばかりの、西中国教区部落差別問題特別委員会の委員に、西中国教区総会において指名されました。当時の部落差別問題特別委員会の委員長・宗像基牧師は、筆者に、「具体的に被差別部落に入って取り組むをするように・・・」指示していました。

といっても、筆者、部落差別問題あるいは同和問題については、ほとんど門外漢にひとしく、自らの意志で被差別部落に入っていって、部落解放運動に参加する・・・、内的要因をまったく持ちあわせていませんでした。

しかし、筆者が牧師をする教会を事務所にして、山谷の日雇労働者の闘いを描いた映画『やられたらやりかえせ』の映画上映運動をしていたとき、映画を鑑賞に来てくださった、部落解放同盟新南陽支部の方々との出会いが与えられました。そのときから、今日に至るまで、筆者、その部落解放同盟新南陽支部の方々と交流を続けています。

今回、とりあげる、「ある中学校教師による差別事件」をとりあげた『論文と資料』は、かなり早い時期に、部落解放同盟新南陽支部の、現在の部落史研究会の方々から、その複写をいただいたものです。

「ある中学校教師による差別事件」も、教育界における他の差別事件同様、「差別事件」としての認識すら十分もたれることなく、「差別事件」ではなく、「同和教育の熱意ある実践者」の単なる「失言事件」として闇から闇へ葬り去られて行きました。

しかし、『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座から考えるに、その、山口県A市立A中学校で起きた教諭A氏による「差別事件」・・・、その背景には、山口県における学校同和教育の組織的体質があります。否、山口県だけではなく、他の都道府県の学校同和教育が何であったのかを物語る側面を持ちあわていると考えています。

「ある中学校教師による差別事件」の「差別事件」を具体的にとりあげる前に、教育界において、A中学校教諭A氏が、どのように評価される人物であったのか、確認しておきたいと思います。

A中学校教諭Aは、1947年生まれ。

筆者は、1948年生まれの団塊第一世代ですが、もしかしたらA氏も同世代・同学年であったかもしれません。小中高及び大学において、「同和教育」なるものを正式に受けた可能性のほとんどない世代に属します。A教諭の最終学歴となった、国立山口大学教育学部のカリキュラムに同和教育が取り入れられたのが1977年ですから・・・。

A中学校A教師は、山口県B市出身です。彼の父は、国立山口大学教育学部の教授です。その<口利き>は、山口県の教育界に大きな力を持っていたといわれています。当時、「教員免許さえとれば、あとはなんとかなる・・・」とささやかれていた<コネ採用>が横行していた山口県の中学校教師にならなかったのか、分かりませんが、彼は、卒業と同時に、兵庫県の中学校教師として採用されます。任地は、兵庫県B市B中学校・・・。

『論文と資料』によりますと、兵庫県B市B中学校についてこのように説明されています。

「この学校は、校区に大きな被差別部落をもち、学校生徒の過半数が地区の子どもたちでしめられている状態であった。その地区では、全国的に・・・部落大衆が差別から目覚め立ち上がる動きをうけて、地区大衆自らが立ち上がっていた。それを背景にして、B中学校は全校あげて同和教育に取組みつつある状態であった」。

後に、山口県のA市立A中学校の教諭になるA氏は、「そこで、はじめて・・・同和教育(解放教育)の目標と実践にふれた」といいます。「子どもたち自らがかかえていた現実(非行・長欠・低学力等をふくめたもの)と差別に立ち向う子どもたち自身の姿にもふれた」といいます。

A中学校教諭A氏は、山口県内の小中高・大学などで知り得なかった同和教育の生きた実践事例を、兵庫県B市B中学校で学んでいったと言われます。「差別の事実、実態の中で苦悩し立ち上がる地区大衆の動き。子どもが抱えている現実にぶつかり、家庭を知り、地域を知り、家庭訪問にあけくれながら、子どもたちの成長につき合い続けようとする教師たちの反応、動き。そして行政(教育行政も含めて)施策の動き等」。

同和教育の先進地の兵庫県B市B中学校で、3年間教諭として勤務し、同和教育の理念と実践を経験した教諭A氏は、1973年山口に帰郷、同和教育の実績を携えて、山口県A市において、同和教育の取り組みが開始された1976年の次の年、A教諭は、A市A中学校に赴任するのです。

A市A中学校は、1976年、山口県の同和教育指定校になります。A教諭が、A中学校に赴任した1977年、A中学校には「同和加配教諭」が配置されます。

しかし、注意しなければならないのは、山口県のおける「同和加配教諭」は、他の都道府県と「同和加配教諭」とちがって、その枠に、被差別部落出身の教師が優先的に割り当てられたというわけではないのです。「同和加配」という制度をつかって、A中学校の教師がひとり増えた・・・、という意味でしかないのです。しかも、「同和加配教諭」の指導科目も特別指定はありませんし、「同和加配教諭」として採用された教諭は、自分自身が「同和加配教諭」である・・・、ということを知らされませんので、「同和加配教諭」としての意識はほとんど皆無です。

その中で、A中学校にA教諭は、「技術」の教師として採用されたにもかかわらず、「理科」の教師として、同和教育指定校のA中学校で教鞭をとることになるのです。

筆者が、山口県の小中高の教育関係者から聞いた話しでは、山口県において、「同和教育」の担当者になることは、「教育界における立身出世の最短の道・・・」であるとの共通認識があったということですが、A教諭が、「同和教育に熱意をもって」かかわっていた動機がなんであったのか・・・、『論文と資料』の中には言及されていません。

A市A中学校A教諭が、同和教育推進校で、同和教育に熱心にかかわっていた背景には、A教諭の、同和教育の先進地である兵庫県B市B中学校で学習し吸収した「同和教育の知識」と、自分の息子を、山口県の教育界の中枢へと後押しする、山口大学教育学部教授である「父親の業績」が存在していた・・・、と思われます。

筆者、同時期の類例を多々知っています。ある場合は、教諭本人から聞かされて・・・。

山口県教育委員会・A市教育委員会・A中学校校長・・・、彼らのA教諭に対する評価は、絶大なものがあります。「同和教育の熱意ある実践者」「同和教育の推進者」・・・。A中学校校長は、A教諭は、「この先生は、新採以来、同和教育に対しては熱心に勉強している。本校でも、3年生の同和教育研究会の授業研究も率先して引き受けたことが証明するように、校内でも同和教育に対し熱意を持っている。」と絶賛します。

その「同和教育の熱意ある実践者」であるA教諭が、なぜ、「同和教育の中で差別教育を行った」として、被差別部落の側から指摘されるようになったのか・・・、同和教育・人権教育をかかげる学校教師たちによって、<同和教育という名目の中で行われる差別教育>・・・、『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からとりあげてみましょう。


ある中学校教師による差別事件・・・

2008年08月02日 | 付論

部落学序説付論 某中学校教師差別事件に関する一考察
1.ある中学校教師による差別事件・・・

西中国教区の小さな教会に赴任してきてすぐ、西中国教区部落差別問題特別委員会の第1期の委員を担当させられました。

部落差別問題特別委員会は、2年毎に、西中国教区総会で改選されますので、筆者は、4期8年、西中国教区の部落差別問題特別委員会の委員をしていたことになります。

しかし、部落差別問題特別委員会の委員として、部落差別問題に関われば関わるほど、筆者が所属している西中国教区山口東分区の諸先輩牧師との間でトラブルが発生するようになりました。特に、徳山教会の加藤牧師などは、筆者を徹底的に排除、その批判と攻撃は、筆者が、山口東分区の牧師会から離脱(そのことで、西中国教区の組織上、西中国教区の宣教活動そのものから排除されることになります・・・)するまで続きました。

京都教区から西中国教区に転任してきた、日本基督教団の部落差別問題特別委員会の委員長・東岡山治牧師は、西中国教区の有力牧師の助言を入れて、筆者をその取り組みから排除しました。「それは正解であった・・・」という東岡山治牧師は、筆者に代えて、加藤牧師が、東岡山治牧師が主催する、西中国教区部落解放現場研修会に参加するようになったと諸手をあげて喜んでおられました。

筆者の目から見ると、<差別者>と思われる加藤牧師と手を握り、山口の地で、困難な状況の中、部落差別問題と取り組む筆者を切り捨てる、日本基督教団部落問題特別委員会委員長・・・。その理由を、東岡山治牧師は、筆者に、「君と手を結んでも、献金のアップにつながらない。君に反対する牧師や信徒を受け入れると献金アップにつながる・・・」と語っていました。

通常なら、そういう状況に置かれますと、部落差別問題の取り組みから後退し、2度と関わらなくなるのが普通です。

それにも関わらず、筆者が、西中国教区部落差別問題特別委員会の委員を辞退したあとも、部落差別問題にかかわり続けたのは、それまでに出会った、部落解放同盟新南陽支部の<部落史研究会>の方々の、部落差別をなくしたいという真摯な取り組みがあります。

今週、『部落学序説』第5章以降の執筆を再開するために手持ちの史資料を整理していて、1980年代、<部落史研究会>の方々が作成された「某中学校教師差別事件」に関する論文と資料集が出てきました。

某中学校教師は、兵庫県の某中学校で同和教育を経験してきた人です。その成果を背景に、山口県の某市某中学校でも同和教育を担当されていたのですが、その取り組みの中で発生した、某中学校教師による差別事件です。

筆者が、まだ、日本基督教団の牧師になるために神学校で勉学していた、最終学年の1980年12月に発生した差別事件です。

同和教育に深く関わり、自他共にその実践者として評価される中学校教師が、なぜ、教室の授業の中で差別事件を起こすのか・・・、<部落史研究会>の方々が作成された「某中学校教師差別事件」に関する論文と資料集は、冷静で緻密な分析をもとに、部落差別問題を無くすためにていねいな提言をしています。

この、某中学校教師による部落差別事件・・・、筆者が山口の地に来てはじめて、新聞等のマスコミを通してではなく、差別される側の「文書」を通して、はじめて知ることができた差別事件でした。

その論文・資料・・・、四半世紀たった今、読み直しても、問題の深刻さを思わされます。

ひとりの中学校教師の差別的体質の背景には、山口県の同和教育の体質があります。父を、山口大学教育学部の教授を持つ、その中学校教師・・・、彼を管轄する教育委員会は、「差別事件」ではなく「失言事件」である・・・、と擁護します。

『部落学序説』とその関連ブログ群の著者である筆者に向けられた、岡山県の某中学校教師による誹謗中傷・罵詈雑言の一連の言説・・・、朝令暮改のように書いては消され、消しては書き込まれるそのBBSの記事を、筆者、もらすことなく、記録に留めてきました。人権問題・同和教育に関わっていると宣言する、岡山県の中学校教師と、四半世紀前に山口県の某中学校で差別事件の当事者である某中学校教師と、ほとんど<同体質>であることに、筆者、唖然とさせられます。

筆者が、部落差別問題に、自主的・主体的に取り組む一因となった、「某中学校教師差別事件」と部落解放同盟新南陽支部・部落史研究会の批判・検証・・・、『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座から見直すことにしましょう。

部落差別の完全解消は、差別事件の<忘却>ではなく、徹底的な<知解>によってもたらされると信じるが故に・・・(『田舎牧師の日記』に掲載しているものと同じ文章です)。