部落学序説

<常・民>の視点・視角・視座から見た<非常・民>である<穢多・非人>の歴史的真実の探求

士は「上下通用」の身分・・・

2008年03月26日 | 付論

部落学序説付論 百姓の目から見た渋染・藍染
(48)士は「上下通用」の身分・・・

「岡山藩」の御用学者・熊沢蕃山は、近世幕藩体制下の日本の身分制を、<天子(天皇)・大樹(将軍)・諸侯・卿大夫・士・庶人>の5階層に区分しますが、それぞれの階層に属する人々は、その世界で交流を深めていくことになります。

近世幕藩体制下においては、<天子(天皇)・大樹(将軍)・諸侯・卿大夫・士・庶人>の5階層は、それぞれ別の社会を構成していたと思われますが、そこには、今日の部落史の学者・研究者・教育者た指摘するような、「士農工商穢多非人」という<極度>に差別化された、がんじがらめの身分制は存在していなかった・・・、と思われます。

熊沢蕃山は、5階層の中で、「士」は、「上下通用の位」・・・であるといいます。

熊沢蕃山によると、近世幕藩体制下の「士」は、「士一等」より「貴」にあたる「天子・諸侯・卿・大夫」の世界とも接触・交流することができ、また、「士一等」より「賤」にあたる「農・工・商」とも接触・交流することができる身分である・・・、というのです。

熊沢蕃山は、「士といふものは、小身にて徳行のひろきもの」であるといいます。<武士というものは、たとえ身分が低いといっても、学問をおさめることによって、貴賤の枠組みを越えて、<ひろく>活躍することができる>という意味でしょうか・・・。

「士」は、学問をおさめ、人を教るようになれば、「上は天子・諸侯・卿・大夫の師と成、下は農・工・商を教へ治るもの・・・」になることができるというのです。近世幕藩体制下の身分制の枠組みを越えて、他の身分とも接触・交流することができる、封建的身分制の中の希有な身分であるというのです。

それだけではありません。「秀れば諸侯・公卿ともなり、くだれば庶人ともな」る・・・、というのです。

他の身分に対して、学問をおさめて教師としてかかわることができるだけでなく、治世者としてのすぐれた才覚をもっていれば、自ら、諸侯・公卿になることもできる・・・、というのです。そして、その逆もありうる・・・、というのです。

<くだれば庶人ともなる・・・>。

本来の出自は「士一等」でありながら、「庶人一等」に属する、農・工・商として生きる場合もあるというのです。なかには、「才徳ありながら隠居して庶人と同じく居る処士」のようなかたちも存在します。近世幕藩体制下において、「農」となった「士」・・・、「工」となった「士」・・・、「商」となった「士」・・・、いずれも決してめずらしくはなかったと思われます。

それに、「士」が、農・工・商の娘を嫁にすることによって、「士」の家柄と血筋に、「庶人」の家柄と血筋が組み込まれることも決してめずらしくはなかったと思われます。江戸幕府の御用学者・新井白石の母になるひとは、「染屋の娘」であったことは有名な話しです。

すでに論述していることですが、長州藩においては、「武士」身分が「百姓」身分になるための合法的制度である「新百姓」制度がありましたし、また、逆に、「百姓」身分が「武士」身分になるための合法的制度である「はぐくみ」制度がありました。実際に、その制度を使って身分間を移動した人々が僅少であったとしても、常にその可能性があったということは、不問に付してはならないことがらであると思います。

長州藩の支藩・岩国藩では、「穢多」身分が「武士」身分に養子となって跡目を継いだ・・・、という話は決してめずらしくありません。

「岡山藩」の御用学者・熊沢蕃山がいう、「士といふものは・・・上下通用の位」という表現は、近世幕藩体制下においては、「特定の資料に出てくる例外・・・」ではなく、誰でも、少しく、近世幕藩体制下の史資料を自分でひもとけば、いたるところで確認することができるたぐいの話しです。

将軍、天下を一統・・・、諸藩の藩主、藩を一統・・・、そのために、「士」は、近世幕藩体制下のすべての身分に浸透して、それぞれの藩民(「士一等」・「庶人一等」)をたばねるための役割の補佐を担うのです。

それでは、「庶人一等」に属しながら、その職務の性格上、「士一等」に加えられた、「庶人の官にあるのたぐひ」・・・、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「同心・目明し・穢多・非人・村方役人・・・」などの「上下通用」は、どのようなものだったのでしょう。

司法警察官としての職務の性格上、法に仕える役人として公務に携わるため、できるかぎり、私情を排除して、日常生活においても、司法警察官としての職務生活上においても、常に身を律して、道をふみはずすことがないように、その職務に励んでいたであろうことは想像に難くありません。法規範からの逸脱者の探索・捕亡に際しては、「上下通用」の一種、<上下無用>が存在していたと思われます。犯罪を犯したものもは、身分の貴賤にかかわらず捜索・逮捕する・・・、当然といえば当然すぎることが近世幕藩体制下においても行われていたのです。

「岡山藩」の御用学者・熊沢蕃山、藩主・池田光政に、徳川幕府の当時の武士の軟弱ぶりを嘆いています。「武士、農を別れてよりこのかた、身病気に手足弱く成ぬ。心ばかりはいさむとも、敵にもあはで疲るべく、病死すべし・・・」。<武士身分が、「農」から離れて久しくなるが、そのため、武士は軟弱になり、いざというとき何等軍用の役には立たない。動員しても、戦場につくまえに、疲労で病死するのがおち・・・、なんと嘆かわしいことか・・・>。

「岡山藩」を「武国の名に叶う」藩に、そして、「岡山藩」の「庶人の官にあるのたぐひ」を含む「士一等」「武勇格別つよく」たらしめんとすることを提言する熊座蕃山は、藩主・池田光政に、「地なし高」(石高のもあって土地の所在しない)の「士一等」をなくし、兵農分離以前の「農兵の昔に返すべきは此の時なり。」と進言します。

「岡山藩」の治安維持の役目をになう、「庶人に官のあるたぐひ」に属する「穢多」(皮田)に対しても、「岡山藩」は、「武国の名に叶う」藩にふさわしい、司法・警察官としての、「武勇格別」すぐれた非常民にするために、<農地>をあたえるのです。「岡山藩」の「渋染一揆」に参加した「岡山藩」の「穢多」が耕していた<農地>は、「庶人一等」のそれではなく、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民の職務・役務遂行のための反対給付として、他の「士一等」がそうであるように、藩主から貸与されたものです。

「岡山藩」の「穢多」は、「平百姓」が田を耕すのとは異なる精神・自覚・使命をもっていたことは想像に難くないのです。

「岡山藩」の御用学者・熊沢蕃山が、「士一等」「庶人一等」の間に位置づけた「庶人の官にあるのたぐひ」の一部を、意図的に切りとって、「庶人一等」の更に下の、熊沢蕃山がいう「遊民」という身分外身分に同一視するは、歴史の大きな曲解、悪しき誤解です。

『部落学序説』の筆者の目からみますと、「岡山藩」の御用学者・熊沢蕃山の藩政理念に照らしても、戦後の岡山県の、「渋染一揆」の過大評価に端を発する学校同和教育・社会同和教育は、根本的に間違っている・・・、としかいいようがありません。

「被差別部落」のひとびとの前身である近世幕藩体制下の「穢多・非人」を「賤民」として教え続けることは、同和教育・人権教育に名を借りた悪しき差別教育・反人権教育の何ものでもありません。

「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々のなかには、「岡山藩」の「穢多」を「賤民」として死守しようとする方々もおられるようですが、「被差別部落」のひとびとを「賤民」の末裔として位置づけて、なんの人間教育ができるのでしょうか・・・?

熊沢蕃山、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多」を、<天子(天皇)・大樹(将軍)・諸侯・卿大夫・士・庶人>という5階層の身分制の枠外の「遊民」に数えることはありませんが、「人民を教へ治る役者にて、何の弁へもなく、かへりて下をしへたげ、しぼり取て己が奢と・・・する者」は、「是又遊民也」と断定しています。熊沢蕃山、場合によっては、「学者」・「史官」も、熊沢蕃山がいう、禁制幕藩体制下の5階層の身分制の枠外、部落史の学者・研究者・教育者が愛用するところの「身分外身分」のそのほかの民、「遊民」に数えています。

極言しますと、「被差別部落」のひとびとの祖先である「穢多」を、近世幕藩体制下の「身分外身分」・「賤民」としておとしめる、部落史の学者・研究者・教育者こそ、「岡山藩」の御用学者・熊沢蕃山のいう当時の身分制の枠外の身分、「遊民」(「その他」・「賤民」・「最下層の身分」)そのものにほかならないのです。


熊沢蕃山における「百姓」身分と「武士」身分・・・

2008年03月26日 | 付論



部落学序説付論 百姓の目から見た渋染・藍染
(47)熊沢蕃山における「百姓」身分と「武士」身分・・・

「岡山藩」の御用学者・熊沢蕃山に関する文献・・・。

筆者は、ほとんどもちあわせてはいません。岩波日本思想大系の『熊沢蕃山』一書を読んでいるのみです。

しかも、筆者は、無学歴・無資格、歴史学の門外漢にすぎません。「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者のように、歴史学について、とくに、部落史について、広くて深い洞察を持っているわけではありません。

しかし、「学問」というのは、部落史研究の、学者・研究者・教育者の独占物ではありません。だれでも、その気になれば、柳田国男のいう「史心」、宮本常一のいう「史眼」を持って、「常民」(国民・庶民・民衆)の立場から、その歴史をひもとくことができます。

ただ、昨今の時代と、これまでの時代の大きな違いは、ひもといた歴史を、ただちに、インターネット上でパブリッシングできるということでしょう。従来、「本」という印刷物の形をとってしか出版することができなかった著作物が、何時でも何処でも誰でも公開できる・・・、ということです。書いた文章には、公開と同時に、著作権が発生します。そして、その文章は、衆目監視の中で、その著作権が保証されます。

さらに、大きな違いとして、公開された文章が、何時何処で誰によって読まれているのか、アクセス件数や読者数によって、その概略を知りうることができ、読者層の関心とニーズを知って、あらたな執筆計画に着手することができる・・・、という点があげられます。

<「被差別部落」の人々の先祖は、「賤民」かどうか・・・>、その問いに対する、部落史研究の学者・研究者・教育者の方々の見解の大勢は、<「被差別部落」の人々の先祖は、「賤民」である・・・>と主張します。近世における犯罪者も犯罪をとりしまる司法・警察官も同じ「賤民」であるという「賤民史観」的仮説を、歴史の事実として主張されます。

しかし、筆者は、限られた史資料と、数少ない、「被差別部落」の古老とのであい、聞き取りを通して、部落史の一般説・通説・俗説を否定して、<「被差別部落」の人々の先祖は、「賤民」ではない・・・>と主張しているのです。今日的意味で、「賤民」とされだしたのは、明治以降の近代中央集権国家・天皇制国家においてであると・・・。

筆者、戦前・戦後のこころある歴史学者、国民統治の機関としての歴史学者、あるいは政治思想の担い手としての歴史学者の研究ではなく、実証主義的な歴史学者の研究の成果を大胆に受け入れつつ、<「被差別部落」の人々の先祖は、「賤民」ではない・・・>と主張しています。

いったん、<実証主義>的な歴史研究にめざめますと、多くの場合は、硬直化した教科書風の歴史理解の粗雑さと無理解さを認識し、ほんとうの歴史は、もっと多種多様な世界であった・・・、と気付かされることになります。筆者の、『部落学序説』とその関連ブログ群の記述は、その、歴史資料における<多義性>、<多様性>の認識の発露でしかありません。

筆者、必要な時間と環境があたえられたとしましたら、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」の担い手である、部落史研究の学者・研究者・教育者のすべての論文を批判検証し論破していくことになるでしょう。

なぜなら、日本の社会から、<部落差別をなくしたい・・・>、という思いは、筆者にとっては、<異郷>でしかない、山口(周防国・長門国)に身をおくようになって出会った、山口の「被差別部落」の方々との出会いに起因するものです。山口県宇部市の同和会系被差別部落の青年と老人が筆者に語ったのは、「同和対策事業はなくていい。差別のない社会がほしい・・・」ということばでした。

筆者は、そのことばの背景には、「同和対策事業」、あるいは、「部落解放運動」の歴史的な根拠付けに、部落史の学者・研究者・教育者によって編み出されてきた「賤民史観」という差別思想への<民衆>からの批判の思いがある・・・、と認識してきました。

すこしく話が脱線してしまいましたが、無学歴・無資格、歴史学の門外漢である筆者が、その、差別思想である「賤民史観」的枠組みを越えて、歴史の真実にたどりつくためには、読むことができる史資料を、自分の目で読む・・・、そして、読んだ内容をもとに、その歴史の真実を綴る・・・、いとなみが不可欠でした。まったくの<独学>の実践です・・・。

そんな筆者にとっては、「岡山藩」の御用学者である熊沢蕃山の著作物は、「岡山藩」の藩政の基本的な<理念>を知りうるための基本的な史資料に数えられます。熊沢蕃山の『集義和書』・『大学惑問』などの著作物は、ややともすると、硬直化しがちな、日本の歴史教育で指導されている、がんじがらめの「士農工商」という身分制度とは違って、かなり、融通性のある、多種多様な姿で、近世幕藩体制下の政治理念が描かれています。

従来の、「岡山藩」の「渋染一揆」研究において、熊沢蕃山の藩政の理念が不問に付されてきたのは、戦後の部落史研究の動向・・・、「穢多」を「士農工商」の一段下の被差別民として認識してきた、筆者がいう差別思想である「賤民史観」となじまないものを多く内包していたからでしょう。

戦後の部落史研究は、「賤民史観」になじまない史資料、現在の「部落解放運動」の利益に直結しない史資料を、すべからく、部落史研究の例外として切り捨ててきたのです。

「岡山藩」の御用学者・熊沢蕃山の、近世幕藩体制下の身分制理解、衣類統制理解など、考察の対象外だったのでしょう。

しかし、熊沢蕃山の著作物・・・、<非常民>の学としての部落学構築をめざす、『部落学序説』筆者にとっては、極めて魅力ある史資料です。

熊沢蕃山は、<天子(天皇)・大樹(将軍)・諸侯・卿大夫・士・庶人・遊民>という、熊沢蕃山理解する、近世幕藩体制下の日本の身分制において、「士一等」「庶人一等」との間に、今日の、「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々が考えておられるような硬直的な身分間の隔絶の認識はありません。

熊沢蕃山は、「士一等」(武士身分)と「庶人一等」(百姓・町人身分)との間にある、両身分入り交じった社会層である「庶人の官にあるのたぐひ」について言及したあと、「さて庶人一等と云ふは・・・」として、このように綴ります。「農が本にて、工商は農をたすくるものなり。・・・農のうちより工・商出して、天下の万事備」る・・・、と語ります。

【工】

「工とは工匠ばかりにあらず、鍛冶・白がね屋・塗師屋・小細工師、すべて何にても職をする者を云ふ」。

【商】

「商はあき人にて、居ながらあきなひするも、国々ありけて有所の物をなき所へ通ずるも、手に所作なくて、金銀を以て世を渡る分は、をしなべて商なり」。

熊沢蕃山によりますと、これらの「工」・「商」は、その「本」なる「農」の補助的な存在に過ぎないといいますが、「農」から派生して出てきたのは、かならずしも「工」・「商」のみではない・・・、といいます。

「農」は、日本の政治の基本的な枠組みであり、そこでは、「惣」(「一村全体の自治組織」)が存在し、「談合」「惣」の公的会議)によって、様々なことが計画実施され、「惣」で決めたことは、村民にあまねく「指図」(布告・施行)されます。

その「惣」の枠組みの中で、「惣」の治安維持のために、「裁判」人を選び分かち、その任にあてるため、「其人の農事をば寄合てつとめ」ることになったのが、「士」であった・・・、というのです。

熊沢蕃山は、「農」の中から、「士」も生れた・・・、というのです。熊沢蕃山は、「寄合てつかねと」するもの・・・、その役を担うものが、「諸侯一等」であるというのです。

「つかね」は、「束ね。一つにして締めくくり統率するもの。」を意味します。

柴田一著『渋染一揆論』の中に出てくる、「岡山藩」の藩主・池田光政の「穢多も一統わが百姓」ということばの背景にも、熊沢蕃山の藩政理念、<寄合てつかねとする>思想が存在しているのでしょう。藩主・池田光政は、「農」からでた「士」・「諸侯」として、藩内の「惣々」(村々)の推挙と指示で藩主のつとめについているに過ぎない・・・。その委託にこたえ、藩内の「士一等」(武士身分)・「庶人一等」(百姓町人身分)を「つかねて」(束ねて)統率することをもって己が本分とする、と考えていたのでしょう・・・。

「岡山藩」の藩主・池田光政が、「名君」・「賢君」として藩民に慕われた所以でもあります。

岡山藩主・池田光政は、御用学者・熊沢蕃山の藩政理念に基づき、「重農主義」(農に重きを置く政治)を徹底していきます。

「岡山藩」の初期の藩政の政治理念の中には、「士一等」(武士身分)と「庶人一等」(百姓身分)を極度に区別する・・・、戦後の学校同和教育・社会同和教育で、学者・研究者・教育者によって、国民・民衆に教え込まれて、注入されてきた、「士・農・工・商・穢多・非人」間の身分的な<過酷な区別>・<過酷な差別>を容認する思想は存在していなかったものと思われます。

熊沢蕃山は、近世幕藩体制下の身分制を理解するために、「上下通用」という概念を導入します。


「岡山藩」の御用学者・熊沢蕃山と「穢多」身分・・・(続き)

2008年03月21日 | 付論



部落学序説付論 百姓の目から見た渋染・藍染
(46)「岡山藩」の御用学者・熊沢蕃山と「穢多」身分・・・(続き)

備前藩の御用学者・熊沢蕃山は、近世幕藩体制下の武士身分である「士一等」について、次のように記しています。

「其内ことにしなじなおほしといへども、徳行の同じき故なり」。

「士農工商」の「士」の中の階層は決して少なくありませんが、その「士」に属する人々の職務の性格はほとんど同じものなので、「士」という概念で表現される・・・、というのです。

熊沢蕃山は、「士一等」は、「上士」・「中士」・「下士」の3階層からなる・・・といいます。

【上士】

熊沢蕃山によりますと、「士一等」の<第一階級>は「上士」という範疇に入りますが、この「上士」「番頭并一人立の歴々」をさします。「番頭」というのは、「城主側側近護衛小姓組の頭」のこと。近世幕藩体制下の諸藩の、軍事・警察をつかさどる「非常民」の頂点に位置します。

【中士】

「士一等」の<第二階級>「中士」は、「物頭・組頭・組付にても、千石以上の人」「物頭」・「組頭」は、「徒士組・弓組・鉄砲組などの頭」のことで、「組付」は、「副物頭・副組頭」のことです。

【下士】

「士一等」の<第三階級>「下士」は、「千石以下の平士」をさします。

筆者、熊沢蕃山のこの説明を目にして、ただただ驚愕の思いを持ちます。「下士」は、1000石以下・・・。1000石以下といいますと、近世幕藩体制下の身分制における「士農工商」の「士」の大半を含んでしまいます。

長州藩の支藩である徳山藩の《徳山藩士卒階級表》によりますと、徳山藩の二人の家老(在所家老・江戸家老)の祿高は、藩創設時にして「千石」に過ぎません。しかし、その後、家老の祿高は、減額され、「後四百石ないし六百石」になったといいます。3万石の徳山藩の<武士身分>は家老から下々の武士に至るまで、すべて「下士」ということになります。

熊沢蕃山は、近世幕藩体制下の司法・警察の要職についた「江戸・大阪の町奉行」について、このように記しています。「江戸・大阪の町奉行は中士の位にて、威勢は今の上士よりもをもきものなり」。江戸の南町奉行・北町奉行は、「士一等」の<第二階級>「中士」にぞくするとはいえ、<戦時>が遠のき<平時>が続く時代にあっては、司法・警察の職務の重要性が認識され、「上士よりもをもきもの」・・・、すなわち「諸侯」に並ぶ評価を得ているというのです。

熊沢蕃山は、それにひきかえ、「国々の町奉行は大かた下士より出ぬ。」といいます。石高の大きな藩においては、「中士にして兼ねるもあり。」とありますが、おそらく、江戸町奉行の「威勢」にならう例外的な存在であったのでしょう。

さらに、熊沢蕃山は、「物奉行はおほくは下士より出るもあり。」とします。「岡山藩を例にとれば、船奉行・学校奉行・寺社奉行など」の職務は、「士一等」の<第三階級>「下士」から抜擢されます。

近世幕藩体制下の史資料に出てくる「下士」ということばと、近代以降の歴史学の学者・研究者・教育者が使用する「下士」ということばとでは、その意味内容が大きくことなっているということです。明治維新の担い手は「下士階級」であったといわれますが、たとえば、吉田松陰にしても、その給録はわずか数十石にすぎません。「士一等」の<第三階級>の中でも、最下層に近い階級ということになります。

熊沢蕃山は、「士一等」「上士・中士・下士」の三階層に区分してその説明をおわるのかと思いきや、「それよりもひききは庶人の官にあるのたぐひもあり。」といいます。熊沢蕃山のいう「庶人の官にあるのたぐひ」・・・、近代以降の歴史学の常識、特に、部落史の学者・研究者・教育者がとく身分制における諸身分の理解を越える内容のようです。

「中小姓と云には、大身の子も小身の子もあれば下士の内なり」。

「中小姓」とは、「江戸時代、小姓組と徒士衆の中間に位するもの。」だそうですが、徳山藩の「中小姓」は、約80人ほどいて、祿高は、「高二十五石以上五十石未満」です。徳山藩では、「下士」(平士)の「最高の階級」は、「馬廻」で、約150人ほどいて、「高五十石以上二百五十石未満」です。徳山藩においては、「中小姓」は、「馬廻」につぐ、「下士」(平士)の「最高の階級」の次の階級ということになります。平士の最高の階級の次の階級・・・、といっても、近世幕藩体制下の身分制においては「下士」以外のなにものでもありません。

【庶人の官にあるのたぐひ】

熊沢蕃山は、「諸侯一等」につてい言及するとき、「公・候・伯・子・男」だけでは、近世幕藩体制下の「諸侯」身分を網羅することができないとして、「附庸」という概念を導入します。この「附庸」、本藩に帰属する支藩・枝藩のことですが、長州藩本藩に対する、支藩としての徳山藩などはこの「附庸」に入ります。徳山藩主は、徳山藩主だけではありません。全国に多数存在していた小藩の藩主は、この「附庸」に入ります。「諸侯一等」の最下層の「男」より、さらに下の最下層に位置づけられていたひとびとです。

熊沢蕃山は、「諸侯一等」におけるのと同じ理由で、「士一等」について語るときも、「上士・中士・下士」という概念だけでは把握することができないとして、あらたに、「庶人の官にあるのたぐひ」という概念を導入します。

そして、この「庶人の官にあるのたぐひ」を、「庶人一等」の項目においてではなく、「士一等」の項目において論じるのです。

熊沢蕃山のいう、近世身分制の枠組みの中で「庶人」身分に属しながら、「官」(役務)を与えられて、「士一等」に属するものとしてその職務を担う人々とは誰なのでしょうか・・・。

熊沢蕃山は、その具体的な例として、「物よみ医者など」をあげています。「物よみ医者などは、町よりおこりたるは、庶人の官にあるのたぐひと云ふべし」「官」についていない、「町医者は、庶人の内、工・商のたぐひたるべし。」といいます。

熊沢蕃山の説では、同じ「医者」であっても、藩主から「官」を命じられている「医者」は、「士一等」に属し、「官」とは無縁の「町医者」は、「庶人一等」に属する・・・、のです。

熊沢蕃山は、そのほかに、「禰宜」「神官」のこと。「神主の下で祝部上に位する職務」)・「神職」・「天文道」・「楽道」・「医業」・「史官」をあげています。

しかし、この中に、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての、「同心・目明し・穢多・非人」は出てきません。

備前藩の御用学者・熊沢蕃山、このように記しています。

「歩士は庶人の官にあるのたぐひなり」。

「歩士」は、「徒士衆」のことです。近世幕藩体制下の身分制においては、「徒士衆」は、「士一等」「士一等」でも、「上士・中士・下士」には入らない、「庶人に官のあるのたぐひ」でしかないのです。

長州藩の支藩・徳山藩の「徒士」は、約60人、給録「高二十石」です。

察するに、その下の階層である陣僧・持弓・蔵本付・細工人・船手・小膳部・検断・足軽・足軽・中間・猟方・時方・舸子・厩之者・煮方之者・飯炊之者・諸細工人・小人・挟箱之者・傘之者・駕籠之者・道具之者・荒仕子・・・など、すべて、「庶人一等」に属しながら、「官」を与えられているがゆえに、「士一等」の枠組みに位置づけられていると考えられます。

極論しますと、近世幕藩体制下の身分制上「庶人一等」に属するといっても、藩政府から「官」を与えられていることによって、「士一等」に帰属するものとしてその職務を遂行することを求められているのです。つまり、「庶人に官のあるのたぐひ」は、<武士身分>、<武士階級>に位置づけられるものです。

熊澤蕃山は、『集義和書』の中で、軍需産業に従事する「すべての武具の細工人」をして、「兵を足す」職務であるとして重宝しています。部落史の学者・研究者・教育者が主張してやまない、「穢多」の「賤業」としての、皮革を中心とする軍需産業・・・、熊沢蕃山には、そのような意識も認識もありません。

熊沢蕃山の発想では、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「同心・目明し・穢多・非人」は、「庶人の官のあるのたぐひ」なのです。「士一等」「上士・中士・下士」には与せざるも、「士一等」の中に位置づけられて、その職務・役務を遂行する人々です。

熊沢蕃山は、非常民の末端に位置する「辻番」(岩波日本思想大系『熊沢蕃山』の注では、「江戸時代における市中警備の駐在巡査」のこと)について、このように記しています。「盗賊いましめのために、夜廻りを出し、辻番をおかれ候ことは、常人のためには悦にて候」。

「夜廻り」・「辻番」は、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民、「穢多・非人」の重要な職務のひとつ・・・、熊沢蕃山は、彼らも「庶人に官のあるたぐひ」に数え、彼らに与えられた職務内容を正当に評価しているのです。

備前藩の御用学者・熊沢蕃山・・・、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多・非人」を、身分制の「天子・大樹・諸侯・卿太夫・士・庶人」の図式の枠外の「遊民」に数えることはありません。「穢多・非人」は、「庶人一等」から引き上げられて、「士一等」に属する者として、司法・警察の職務を与えられた存在で、決して、「庶人一等」の更に下の、身分制の枠外の「遊民」に数えられることはなかったのです。

少しく、説明が詳細になりすぎましたが、近世幕藩体制下の身分制に関する史資料・・・、熊沢蕃山だけが例外ではありません、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」から自由になってながめれば、いたるところに、近代以降の歴史学者が見失ってきた・・・、より正確には、その存在を意図的に否定してきた記述にあふれています。筆者にとっては、それが新井白石であったり、貝原益軒であったりしますが・・・。


「岡山藩」の御用学者・熊沢蕃山と「穢多」身分・・・

2008年03月19日 | 付論



部落学序説付論 百姓の目から見た渋染・藍染
(45)「岡山藩」の御用学者・熊沢蕃山と「穢多」身分・・・

備前藩主・池田光政に少なからぬ影響を与えたという、その御用学者・熊沢蕃山の理解する近世幕藩体制の身分制度を下記に図示してみました。

この図の根拠は、熊沢蕃山著『集義和書』の、中国の「周代の社会組織」を物語る「孟子の言葉」を参考にしながら、熊沢蕃山が「日本の様相」を述べた文章から、筆者が再構成したものです。

「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々からは、またまた、「岡山藩」の「穢多」の身分を論じるのに、「岡山藩」の史資料の範囲を逸脱して、しかも、日本の諸藩の史資料どころか、中国の政治用語を用いて、「岡山藩」の「穢多」の身分を論じることに<非難中傷・罵詈雑言>が投げかけられることになるかもしれません。

しかし、近世幕藩体制下の身分制を表す言葉として一般的に使用されてきた「士農工商」という表現ですら、本来、日本固有のものではなく、中国の政治用語からの借用でしかありませんので、筆者が、備前藩の御用学者・熊沢蕃山の言葉を介して、近世初期の備前藩身分制、特に、その身分制の中における「穢多」の位置づけについて言及することに対して、さほど問題にすることもなかろうと思われます。

<colgroup><col span="4" width="72" style="WIDTH: 54pt" /></colgroup>
          天子(天皇)
          大樹(将軍)
  諸候 公卿太夫 公卿
太夫
元士
附庸  
  士 上士
 (武士) 中士
  下士
  庶人の官にあるのたぐい
  庶人
 (百姓)
 
          遊民

備前藩の御用学者・熊沢蕃山は、近世幕藩体制下の社会層を「五等」に分類します。

「五等」「等」は、「種」という意味の言葉として使用されています。ですから、「五等」というのは、<五種類>・・・、という意味になります。

熊沢蕃山は、近世幕藩体制下の身分制社会は、「天子・諸侯・卿太夫・士・庶人の五階層」から成り立っているといいます。

もちろん、熊沢蕃山も、「士農工商」という表現を使用していますが、この「士農工商」ということば、近世幕藩体制下の階層・身分を網羅的に表現したものではないので、実際の史資料に出てくる、近世幕藩体制下のひとびとを分類しようとしますと、士・農・工・商、いずれの概念にもなじまない人々が出てきます。

特に、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」にとりつかれた、部落史の学者・研究者・教育者の多くは、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多・非人」を、士・農・工・商のいずれにも組することができず、「士農工商」の末尾に付加して、「士農工商穢多非人」と表現してきました。

しかし、「士農工商穢多非人」と表現したところで、近世幕藩体制下の人々を網羅的に表現していることにはなりません。

それにひきかえ、備前藩の御用学者・熊沢蕃山が採用する「天子・諸侯・卿太夫・士・庶人の五階層」は、近世幕藩体制下の階層・身分をより包括的に表現しています。

ただ、日本の政治の特性から、「天子・諸侯・卿太夫・士・庶人」という表現は、「大樹・諸侯・卿太夫・士・庶人」に言い換えられて使用されている場合もあります。

「天子」は「天皇」のことで、「大樹」「江戸幕府の将軍」のことです。「蕃山は五等の人倫を表現する場合、天子と大樹を交互に使用する」(岩波日本思想大系可『熊沢蕃山』の注)そうです。

熊沢蕃山は、「天子ばかり只一人にておはします」といい、「日本の<今>にては又大樹一人也」といいます。熊沢蕃山によると、時代の変遷にかかわらず、「天子」はおひとりだけ、それにひきかえ、日本の政治の頂点は複数の「大樹」の存在が前提されていますので、筆者は、「天子・諸侯・卿太夫・士・庶人」「大樹・諸侯・卿太夫・士・庶人」の二つの図式をひとつにして、「天子・大樹・諸侯・卿太夫・士・庶人」にまとめたわけです。

しかし、熊沢蕃山は、「天子・大樹・諸侯・卿太夫・士・庶人」という表現でも、把握することができない人々を表現するのに、「遊民」という概念を導入します。

熊沢蕃山の『集義和書(補)』に、「遊民とは何々をかいふべきや。」という問いに対する、熊沢番山の答えがこのように記されています。

「びく・びくに・山伏は遊民の大なるもの也。其外色々の遊民多し。本民の中にも遊民あり。世のそこなひになるあきなひ所作をする者は工商の遊民なり。ただ工商のみならず、武士の中にも遊民あり。人民を教える役者にて、何の弁へもなく、かへりて下をしへたげ、しぼり取て己が奢とし、武芸武道も心がけず、事有ても何の役にも立まじき者は、国の警固にもならざれば、是又遊民なり。男女の目しゐはむかしは遊民にあらざりき。いつの代よりか遊民となりたり。くはしき事は一旦の議論に尽くすべき処にあらず。他日記し置たる事あり」。

熊沢蕃山は、『三輪物語』第8巻において、「遊民」を列挙して、「坊主・山伏・判はんじ・うらやさん・みこ・座頭・ごぜ・猿楽・あやつり・かぶき狂言・其外門々ありく乞食の類・・・」としています。

備前藩の御用学者・熊沢蕃山は、「天子・大樹・諸侯・卿太夫・士・庶人」「本民」の範疇に入らない人々を「遊民」と呼んでいますが、熊沢蕃山は、「遊民」の中に、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民であった「穢多・非人」を「遊民」に数えることはないのです。

熊沢蕃山の発想では、<常日ころから、武芸武道を心がけ、事有れば、役も立つことをこころがけ、城下や郡部の町村の警固にあたる>、「諏訪御用之節奉御忠勤尽身分」(「渋染一揆」に参加した「穢多」のことば)の「穢多・非人」は、最初から、「遊民」の範疇には入らないのです。

それでは、備前藩の御用学者・熊沢蕃山は、「天子・大樹・諸侯・卿太夫・士・庶人」の図式のいずれに、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多・非人」を位置づけるのか・・・、もう少し詳しく「天子・大樹・諸侯・卿太夫・士・庶人」の図式を検証・考察してみましょう。

【天子(天皇)】

近世幕藩体制下の身分制における最高位。筆者は、当時の天皇は、戦後の日本国憲法における象徴天皇制における天皇の位置づけと酷似していたのではないかと思っています。この問題に触れると、またまた脱線しそうなので、一応、「天子(天皇)」を近世幕藩体制下の身分制における最高位としておきます。

【大樹(将軍)】

「天子(天皇)」から、認証を受けた、近世幕藩体制下の権力の実質上のトップ。政治・経済・軍事のすべての権限を所有しています。

備前藩の御用学者・熊沢蕃山は、「天子(天皇)」・「大樹(将軍)」について、ほとんど説明していません。近世幕藩体制下の両者の位置付けは、あえて言及する必要がないほど自明の理だったのでしょう。

【諸侯】

熊沢蕃山は、「諸侯一等」の中に、「公・候・伯・子・男の五品あり」といいます。明治政府が構築した近代的身分制度の爵位に、「公・候・伯・子・男」というのがありますが、欧米からの影響というより、中国からの影響・・・、と言えるのかもしれません。熊沢蕃山、近世幕藩体制下においては、「公・候・伯・子・男の五品」だけでは表現するに難しいと判断して、「外に附庸の国あり」と付け加えます。

「諸侯一等」は、「公・候・伯・子・男・附庸の六品」ということになります。

【公・候】

熊沢蕃山は、日本においては、「公・候」をひとつにまとめて、「四五十万石の以上」の大名がこれに該当するといいます。熊沢蕃山が御用学者として仕えている備前藩は、31万石ですから、藩主・池田光政は、この「公・候」には該当しないことになります。

【伯】

熊沢蕃山によると、「三十万石の少し上・下」の大名は、この「伯」に該当するといいます。池田光政の、近世幕藩体制下の身分は、諸侯の中の<第一階級>ではなく、<第2階級>ということになります。

【子・男】

<第3階級>の「子・男」は、「十五万石の上・下」の大名。

【附庸】

熊沢蕃山は、「諸侯」は、「公・候・伯・子・男」だけでなく、「附庸」についても、「これ諸侯一等の内の品なり」として、「諸侯」に数えます。<第4階級>の「附庸」は、「十万石以下」の大名のことです。

長州藩の支藩である徳山藩は、3万石なので、「諸侯」の階級の中の最下位の「附庸」に該当します。

【卿太夫】

「諸侯一等」「卿太夫一等」の間の区別は、難しいものがありますが、熊沢蕃山は、「天子・諸侯・卿大夫・士・庶人」という序列をしばしば使用していますので、近世幕藩体制下においては、「卿大夫一等」より「諸侯一等」の方が身分が上・・・、ということにしておきましょう。

しかし、熊沢蕃山、「卿大夫一等」の中の階級を3つに区別します。「公卿・大夫・元士」のそれです。熊沢蕃山、「卿大夫一等」「公卿・大夫・元士」をそれぞれ説明するに、「諸侯一等」「公・候・伯・子・男」と類比しながら説明します。

【公卿】

「諸侯一等」「公・候」に類比。

【大夫】

「諸侯一等」「伯」に類比。

【元士】

「諸侯一等」「子・男」に類比。

熊沢蕃山は、近世幕藩体制下の「卿大夫一等」「国政」上の役割について、かなり詳しい説明をほどこしていますが、無学歴・無資格、歴史の門外漢である筆者、部落史に関する史資料において、この「卿大夫一等」について触れたことは一度もないので、紹介するにとどめます。

やっと、「士(武士)」にたどりつきましたが、『部落学序説』の中で、筆者が繰り返し言明していることですが、近世幕藩体制下の身分上の「貴・賤」概念は、関係概念であって本質概念ではありません。たとえば、「諸侯一等」の中で、備前藩・池田光政を中心に考えますと、池田光政にとって「貴」とは、「天子(天皇)」・「大樹(将軍)」・「公・候」・「公卿」のことであり、「賤」とは、「子・男」・「元士」・「士」・「庶人」・「遊民」ということになります。

近世幕藩体制下の「貴賤」の区別は、近世幕藩体制下の身分制というヒエラルヒーの頂点に近いほど厳しいものがあります。「諸侯一等」における近世幕藩体制下の身分制に対する逸脱行為は、藩主だけでなく、藩そのものが廃藩にさらされるほどの厳しい現実をもたらします。

「諸侯一等」の世界においては、池田光政といえども、「貴」に対しては、自らを「賤」として、ことばとふるまいに注意しなければなりませんでした。

部落史の学者・研究者・教育者の多くは、近世幕藩体制下の身分制の「貴・賤」の重圧は、その身分制の下層ほど厳しいものがあった・・・、と判断しがちですが、一般史の学者・研究者・教育者の中には、それを否定するものも少なくありません。筆者は、近世幕藩体制下の身分制の「貴・賤」を意識しながら生きなければならなかったのは、当時の社会の「下層」に属する人々ではなく、「上層」に属する人々であったと思っています。

(長文になりますと、編集作業が重くなりますので、続きは、次の文章で・・・)


藩主・池田光政の「彼らも我百姓なり」のことばの背景・・・

2008年03月19日 | 付論



部落学序説付論 百姓の目から見た渋染・藍染
(44)藩主・
池田光政の「彼らも我百姓なり」のことばの背景・・・

「岡山藩」の部落史に関する研究論文で、「優れた論文を2、3あげよ・・・」といわれたとしたら、筆者が列挙することになる論文の筆頭にあげるのは、横山勝英著《全体社会からみた部落 被差別部落の形成過程-備前藩の場合》です。

この論文、筆者が、「非常民の学としての部落学構築」を指向しはじめたとき、筆者がその根拠にした論文のひとつです。

『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、この横山勝英氏の論文、「岡山藩」の部落史に関する論文の中の珠玉中の珠玉として評価されるべき論文です。その理由は、横山勝英氏が、「岡山藩」の「穢多」を史資料をもとに論ずるとき、従来の「岡山藩」の「渋染一揆」研究にみられがちな、研究の前提となる歴史状況を、「近世中期以後」(柴田一著《徳川幕府の部落改宗政策と部落民衆の拒否闘争-幕府・岡山藩・部落民衆の関係》)に限定しない点にあります。

横山勝英氏は、「部落形成の歴史的背景」として、「中世後期以後の備前」から近世後期までを広範に視野に入れて、「岡山藩」の部落史を取り上げます。

「徳川幕府によって数度の転封・減封」にさらされた「外様大名」の池田光政が「備前三一万二五〇〇石」へ移封されたのは、寛永9年(1632)のことです。その居城は、「中世後期」の戦国大名・宇喜多秀家が構築した「岡山城」でした。宇喜多秀家は、「吉備沃野の中心であり、かつ海陸交通の結節点である岡山に」築城し、城下町を形成していきます。「文禄から慶長にかけて領内各地から有力な商工業者を城下に集めて町作り」が行われるのですが、城下町の形成にとって大切な課題のひとつに、城下町の治安維持の確保があります。

城下町の治安をどのように維持するか・・・、それは、城下町構築の青写真の段階から、すでに考慮されています。宇喜多秀家は、既に、司法・警察である「非常民」の職務について名を馳せその実力を認められていた「赤坂郡矢原村」「穢多」「岡山城下に近い御野郡国守村に呼び寄」せ、「国中穢多頭」に任命しているのです。

「国守村」といえば、「岡山藩」「渋染一揆」の担い手となった、「都市部五カ村」の「穢多村」ひとつです。この「国守村」には、真言宗の「常福寺」がありますが、横山勝英氏は、「慶長元年頃に宇喜多秀家によって国中穢多寺にされたのではないかと考えられる・・・」といいます。

宇喜多秀家は、岡山城下の「穢多」だけでなく、領内の司法・警察制度の重要な拠点に対して、既存の司法・警察である「非常民」を再編成して、領内全体の治安維持の体制を作っていきます。横山勝英氏によりますと、西大寺市久保の馬場、備前町香登の西奥、郷内村の林・・・、等は、宇喜多秀家の治世に、領内の治安維持のために、司法・警察官として配置された<穢多村>であった・・・、といわれます。

徳川幕府によって、備前に移封された池田光政は、その藩政においても、「岡山藩」の城下町と郡部の町・村の治安維持のため、<既存>の司法・警察制度を流用、組み込んで行きます。「岡山藩」にかぎらず、全国の諸藩は、移封・転封に際しては、藩の要職・指導者・キャリアは大幅に交代しますが、現場の司法・警察制度とそこで職務を果たす司法・警察官である「非常民」は、新藩權力の下でも継続してその職務をになっていくことになります。

徳川幕府を築いた徳川家康ですら、江戸に移るとき、それまで、関東で司法・警察の職務を果たしていた弾左衛門を司法警察として追認、幕藩体制に組み込んで行きます。

「岡山藩」の池田光政が、宇喜多秀家が構築した司法・警察システムを、制度・要員共に継承していったところで、なんら不思議はありません。

もちろん、既存の司法・警察システムを<再編成>するとき、中世末期の宇喜多秀家のそれと、近世初期の池田光政のそれとでは、「必ずしも同一ではなかった・・・」とする横山勝英氏の指摘は、当然すぎるほど当然なことです。しかし、『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からみますと、異質性より類似性の方が目立つ、極めて近似値的存在であったと思われます。

横山勝英氏は、「穢多と呼ばれていた人々を皮革生産者とした以外に、軍事的あるいは警察的な目的で使用しようとしたのかもしれない・・・」と推測しますが、横山勝英によると、宇喜多秀家が「国中穢多頭」に任命したという「赤坂郡矢原村」の「穢多」は、死牛馬処理・皮革産業等に従事していない「非カワタ」であったそうです。横山勝英氏が指摘する、「軍事的あるいは警察的な目的」のうちの「軍事的」・・・、という意味合いは、皮革を中心とした軍需物資の生産に関係するものであり、それは、司法・警察の職務遂行の反対給付として認められていたものであると解されるから、宇喜多秀家・池田光政によって継承されていった、中世以来の近世の「穢多」の職務は、「警察的な目的」にそったもの、むしろ司法・警察そのものであると推測できます(断言できると言ったほうが的確かもしれません・・・)。

横山勝英氏は、「備前藩」「穢多」・「非人」の配置形態を考察することによって、「備前藩における街道筋の部落は、自然発生的に形成されたというよりは、むしろ、宇喜多秀家の頃に一定の機能を持つように配置されたものをさらに備前藩が元禄頃から再び穢多身分の公認・固定化という形で編成し直そうとした形跡がある・・・」といいます。元禄期の「備前藩」「穢多」は、「藩社会のおいて警察的機能をもつものとして重きを置いていたいた・・・穢多と呼ばれた人々は、権力の発動における形式的側面をうけもつ役目を担わされていた・・・」といいます。

横山勝英氏によると、「備前藩」で再編成された司法・警察である「非常民」としての「穢多」「本格的に警備・警察の末端的役割を担わされるのは、元禄11年前後からである」といいます。「本格的に警備・警察の末端的役割を担わされる・・・」、つまり、「備前藩」の司法・警察の現場の本体として、完成された司法・警察システム機能しはじめるのは、藩主・池田光政が逝去した「天和2(1682)年以後」のことであるといいます。

横山勝英氏の、近世前半期までの、「部落史」に関する研究は、備前国における「穢多」の、極めて、優れた実証主義的研究であると思います。勝山勝英氏の論文、その論文名《全体社会からみた部落・・・》のことばにふさわしく、「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々が陥りがちな、「渋染一揆」研究の郷土史研究的視野と関心の狭さからくる偏狭性は希薄です。

ただ、近世後期の記述に入りますと、「岡山藩」の「渋染一揆」研究の学者・研究者・教育者の論文との整合性の問題から、「穢多」「身分として差別」されることについて言及されるようになります。

部落史研究の学者・研究者・教育者の方々の多くは、その研究によって、自分の足元、専門分野を照らし出すことはできても、少しく、自分の足元から遠ざかった世界は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」の暗闇の中にその足を浚われてしまうのでしょう。横山勝英の論文、《全体社会からみた部落 被差別部落の形成過程-備前藩の場合》・・・、『部落学序説』の視点・視角・視座からしますと、完璧ではありえないとしても、「備前藩」・「岡山藩」の部落史研究の、実証主義的研究として、珠玉中の珠玉であると思われます。

横山勝英氏は、「岡山藩」の藩主・池田光政が、「彼等(=穢多)も我百姓なり」と表現したことについて、このように記しています。

「光政の時代においては、「穢多」と呼ばれた人々が藩権力によって意図的に差別されていたという形跡はない。このことは、光政の「仁政」理念の実践によるのであるが、特に、天地万物の一体性を説く陽明学を光政に勧め、当時の社会の生産力の担い手たる百姓を重視し、貴賤の身分差別をむやみにすべきでないことを説いた熊沢蕃山の影響が大きかったと考えられる」。

現在の「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の多くは、その研究のほとんどを停滞させているような気がします。近世幕藩体制下の身分制度を「士農工商穢多非人」ということばで象徴的にとらえ、「岡山藩」の「渋染一揆」の本質は、「農」身分より一段低い「穢多」身分が、差別をはねのけ、「穢多」は、「穢多」身分ではなく「百姓」身分同然であると主張した運動である・・・、と解釈する人々が多いようですが、池田光政の「彼等(=穢多)も我百姓なり」ということば、ほんとうは、何を意味しているのでしょうか・・・。

池田光政の「仁政」の背後にあるといわれる、御用学者・熊沢蕃山の「身分制度と衣類統制」に関する「理論」を、熊澤蕃山の『集義和書』・『大学惑問』をてがかりに検証してみることにしましょう。

結論から言えば、「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者たちの、「渋染一揆」は差別された「穢多」たちが百姓同然であるとことを主張して引き起こした人権闘争である・・・、という解釈は、「岡山藩」の「穢多」の歴史を広範にとらえ得なおしたとき、あきらかに誤謬の説であると言えます。

それなら、「備前藩」の藩主・池田光政が、「彼等(=穢多)も我百姓なり」はどう解釈するのか・・・?

熊沢蕃山のことばを参考に検証していきます。


「渋染一揆」の時代の「木綿」の生産・流通事情・・・

2008年03月14日 | 付論



部落学序説付論 百姓の目から見た渋染・藍染
(43)「渋染一揆」の時代の「木綿」の生産・流通事情・・・

酒井一氏は、『兵庫県史』第3編「近世」・第6章「幕藩体制の解体」・第1節「商品経済の深化」の中で、このように記しています。

「幕藩制の危機は十九世紀はじめには広範に噴出しはじめた。ひとつは幕藩領主の財政危機の深化である。幕府の年貢収取量は、寛政の改革期以降も一貫して低下し、一段と財政の窮乏が進んだ・・・」。

その財政危機は、当時の物産の生産・流通機構にも大きな影響を与えたようです。

諸藩は、藩内の主要産物を「藩営専売」として、最大の利潤を追求しようとします。そのために、諸藩が採用したのは、「国産」の産物を原料として出荷するのではなく、付加価値をつけて出荷しようとします。そして、流通機構も、「問屋」による中間搾取を廃して、江戸などの巨大市場に直接出荷しようとします。

消費市場の物価の動向を見て、最大の利潤をあげるために、「藩営専売制による消費市場への国産品の直積み」をしようとします。

その結果、衰退と後退を余儀なくされたのが、「大阪問屋」でした。

天保13年(1842)大阪町奉行の調査では、「米・塩・木綿・実綿・繰綿・蝋・紙など14品目について減少」が確認されます。元文元年(1736)から化政期(1804~1829)まで、大阪市場での取引高は「上昇傾向」にあったのですが、「財政危機」に直面した諸藩は、「文政・天保期」(1818~1843)にかけて、藩内の主要物産を「藩営専売制」にすると同時に、大阪市場を敬遠し、直接、巨大市場・江戸へ「直積」していくのです。

「姫路藩」は、「文政6年」(1823)、「姫路藩国産木綿」(「姫路木綿」)の江戸市場への流通経路を確立した・・・、といわれます。姫路藩は、「姫路木綿」の藩専売制によって、「木綿・・・300万反では実に24万両の金子を江戸から姫路へ流入させる」ことになったといいます。

この時点の姫路藩の専売品としての「木綿」は、喜田川守貞のいう「もめん」(綿織物)のことで、その原材料としての「きわた」は専売の対象ではありませんでした。

しかし、姫路藩は財政基盤の強化をはかるために、「もめん」(綿織物)だけではく、「実綿」・「繰綿」(「きわた」)「篠巻」・「綛糸」(綿糸)をも専売の対象にします。姫路藩は、「木綿」(材料としての「きわた」、綿製品としての「もめん」)の生産・流通に関してすべての段階を管理下におき、「木綿」の藩専売制を確立していくのです。

当時の農学者によると、「海手にて作る綿は性よく、上品・・・」だそうです。

姫路藩は、藩全体で、「畑地と新田を中心に」「木綿」の栽培に取り組み、畑作の6~8割が「木綿」の栽培に充てられます。

近隣の諸藩での「木綿」の生産と流通の藩専売制の導入は、やがて「岡山藩」にも影響してくることは当然といえば当然でしょう。

ただ、筆者、無学歴・無資格故、「岡山藩」の木綿の生産と流通に関する史資料をほとんどもちあわせてはいません。一般資料、あるいは、「岡山藩」の近隣諸藩の木綿生産と流通に関する史資料から類推するにすぎませんが、「岡山藩」の藩民が、それまで着ていた「麻」の衣類にかえて、「木綿」の衣類を着るようになったのは、一般的には、元禄期(1688~)であるといわれています。

しかし、実際の木綿の栽培は、それに先立って栽培されます。「岡山藩」の記録では、天和3年(1683)に「木綿実」(種綿あるいは繰綿である「きわた」)に対して5貫目の運上金が課せられています。貞享元年(1684)には、「綿実」(「きわた」)出荷のための問屋組合(「座」)が結成され、元禄元年(1688)には、特定の問屋への独占が実施されます。

元禄9年(1696)には、「岡山藩」は、「藍玉」(藍染めのための染料)も統制の対象にして、「もめん」・「きわた」・「藍玉」に運上金を賦課します。

しかし、「木綿」(「きわた」・「もめん」)全般に対する「岡山藩」の統制が徹底されるとおもいきや、「岡山藩」は、元禄17年(1704)には、運上金の対象から「木わた」・「もめん」をはずします。

なぜ、「岡山藩」は、元禄期に盛んになってきた「木綿」(「きわた」・「もめん」)の生産と流通に関する奨励を抑えることになったのか・・・、「岡山藩」の史資料に乏しい筆者は、そこに藩政の意志を読み取ってしまいます。

「岡山藩」の御用学者であった熊沢番山は、「木綿」の栽培を、「田木綿」「畑木綿」「田作木綿」「畑作木綿」)に分類します。当時、「岡山藩」は、農地の不足に悩んでいました。「田」で、米にかえて綿を作ることを許可するかどうか・・・。熊沢蕃山が「岡山藩」の御用学者の隠退を申し出た明暦3年(1657)に執筆したといわれる『大学或問』の中で、藩内で有力になりつつある、「田作木綿」の奨励の輩とこのような問答をしています。

【問】世間に人多く成たる故に、田にも木綿(きわた)を作るなるべし。米を作るよりは木綿(きわた)にては百姓の勝手もよし・・・。

【答】近年は倹約の法きびしく、士已上歴々迄も木綿(もめん)を着す。農工商の富有人も木綿(もめん)を着する故に、木わたを多く作るなり。木わたを作りて年貢を出しよくば、いよいよ高免になりて畢竟民のためにならず。田木綿やめて、免少し下がるとも・・・つかえにはならず。・・・田に木わた作らず・・・」。

熊沢蕃山の「岡山藩」に対する影響は、少なくないものがあります。筆者は、「岡山藩」が、「木綿」(「きわた」と「もめん」)を運上金の対象から外した背景には、「岡山藩」が、「田」はあくまで「米」の生産場として認識し、その「田」を綿作りに転用することを断念したことがあると推測します。

「岡山藩」の「渋染一揆」の原因となったとされる「倹約御触書」に出てくる「木綿」(「もめん」)の藩民に対する強制は、熊沢番山没後150年後の、藩財政の危機に直面した姫路藩が、姫路木綿の生産・流通機構の改革によって、藩財政の建て直しを図った時代の潮流と深く連動していると思われます。

「岡山藩」が、姫路藩の「木綿」の専売化によって、藩財政再建に成功した事例を目の当たりにして、それに<追従>しはじめた理由のひとつに、姫路藩と違って、「畑作木綿」ではなく、「岡山藩」の「沖新田」をはじめとする広大な干拓地における「木綿」(きわた)の栽培、「田作木綿」に成功したことがあげられるのではないかと思われます。

「岡山藩」は、「木綿」(「もめん」・「きわた」)の藩専売制と流通革命に成功して藩財政を再建した姫路藩のあとを追うように、弘化元年(1844)「木綿」(きわた)の藩専売化、嘉永5年(1852)「繰綿」(「きわた」)の専売化、そして安政4年(1857)「藍」の専売制に踏み切ります。

「岡山藩」が、「渋染一揆」の原因となったとされる「倹約御触書」を発布した安政2年(1855)には、「岡山藩」は、児島湾干拓地における新田での綿栽培、また児島半島の機業地帯における、「姫路木綿」(「もめん」)にならぶ「備前木綿」(「もめん」)の生産と流通の専売化に本格的に着手するのです。

無学歴・無資格、歴史学の門外漢である筆者、「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者達の発想とは異なり、「岡山藩」の「木綿」(「きわた」・「もめん」)政策は、藩主・池田光政、その御用学者・熊沢番山の時代の「封建的身分制度の維持」を主眼とした木綿政策と、安政2年の「倹約御触書」が出された当時の「岡山藩」の「木綿」(「きわた」・「もめん」)政策とは、まったく異質のものであると認識します。

前者が、「封建的身分制度の維持」を目的としているものであるとすると、後者は、「封建的身分制度の維持」を一部断念しても、藩財政の危機的状況からの脱出優先のために採用された非常時の藩財政改革であったと認識します。


「木綿」は百姓の至宝・・・

2008年03月13日 | 付論



部落学序説付論 百姓の目から見た渋染・藍染
(42)「木綿」は百姓の至宝・・・

喜田川貞守著『近世風俗史』十九之巻(染織)に、「木綿」の項があります。

近世幕藩体制下の庶民においては、「木綿」は、どのように受けとめられていたのか、『近世風俗史』をてがかりに考察してみましょう。

喜田川によると、「天正・文禄頃」(1573~1595)までは、「木綿」の衣類は、一般的ではなかったようです。「木綿」が本格的に一般化するのは、江戸時代に入ってからです。

「木綿」が一般化する前、日本においてどのような衣類が用いられていたのか・・・。

喜田川は、身分の高い人は、「絹布」を用い、多くのそうでない民衆は、「麻布」を用いていたといいます。麻は、夏は涼しくていいのですが、冬には、寒すぎます。それで、冬用として、「麻布をもって製したる刺児」を着て、「厳冬を凌ぎし・・・」といいます。

しかし、それは、冬用としては十分ではなく、「難渋」すること多く、厳冬に耐えて弱った体に、春・夏に流行る疫病に耐えることができず、「幾千万人」の人が「大患に罹り死亡」したといいます。

江戸時代に、木綿が普及することにより、「綿布の温袍(どてら)を着するときは、寒威の慄烈なるといえども、これに傷はるるの患ひあることなし。」といいます。

民衆の衣類の中に、「木綿」が入ってきたことは、「衣料革命」・「衣類革命」という言葉が文字通り当てはまる出来事だったのです(近世幕藩体制が長期政権であった理由のひとつにこの木綿による衣類改革があげられるかもしれません・・・)。

喜田川貞守は、「木綿」は、庶民・百姓の「至宝」であるといいます。

「岡山藩」の「渋染一揆」の原因になったとされる、「木綿」の「渋染・藍染」・・・、その「木綿」をあらわすいくつかの用語があります。それらの用語が、現在の「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者達によって、どれほど正確に使われているのか、筆者の目からみるとこころもとないものがあります。

しかし、このような表現をしますと、「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々から、「岡山藩」の公式文書ではない、一般の庶民の書いた史料的価値のない文献を根拠に重箱の隅をつつくような議論をする・・・、と非難されるかもしれませんが、筆者、無学歴・無資格、歴史の門外漢であるがゆえに、「木綿」をあらわす多様なことばが気になります。

「木綿」・「種綿」・「繰綿」・「打綿」・「莚綿」・「小袖綿」・「きわた」・「わた」・「もめん」・・・、これらの言葉が何を意味するのか、定義の必要性に直面します。

「岡山藩」の「渋染一揆」が発生した時代、それらの言葉が具体的に何を意味していたのか、喜田川貞守著『近世風俗史』の説明を紹介することをもって、定義にかえたいと思います。

【木綿】「木綿」・「種綿」・「繰綿」・「打綿」・「莚綿」・「小袖綿」・「きわた」・「わた」・「もめん」の総称としての「木綿」。

【種綿】木綿の実を採りていまだ製さざる、これを種綿と云ふ。

【繰綿】繰りて種を去り除きたるを「くり綿」と云ふ。

【打綿】「くり綿」を製したるを打綿と云ふ。唐弓をもって打ち製す。

【莚綿】打綿を席(むしろ)のごとく延平したるを、京阪にて「むしろわた」と云ふ。

【小袖綿】「むしろわた」の小なるを三都とも小袖綿と云ふ。

【木綿・きわた】「種綿」・「繰綿」・「打綿」・「莚綿」・「小袖綿」を「木綿・きわた」と訓じ、蚕綿と別つ。

【わた】「きわた」を略して「わた」と云ふ。

【もめん】「木綿・きわた」を織りたるをもめんと云ふ。しかも「きわた」「もめん」とも木綿の字を用ふ。

喜田川貞守著『近世風俗史』によると、漢字の「木綿」は、三重定義のことばです。

【木綿】「きわた」と読み、綿織物になる前の段階の木綿の総称。
【木綿】「もめん」と読み、綿織物をさす。
【木綿】綿織物としての「もめん」と、その材料としての「きわた」の総称としての木綿。

『近世風俗史』の喜田川貞守曰く、「文意に因りてよろしく弁別すべし」。

「岡山藩」の「渋染一揆」の原因となったとされる「倹約御触書」、その第1条の「男女衣類可為木綿・・・」に出てくる「木綿」は、どのような意味合いの「木綿」として認識することができるのでしょうか・・・?

「倹約御触書」、その第1条の「木綿」は、衣類の材料としての「木綿」・・・? あるいは、「木綿」の反物・・・? あるいは、「木綿」製の手作りの衣類・・・? あるいは、「木綿」製の既製服・・・? 「岡山藩」の「渋染一揆」に関する史資料をたどっていきますと、そのいずれの解釈も可能になります。

『藩法集』によりますと、「岡山藩」が元禄9年(1696)に運上金を課した52品目の中に、「もめん」と「きわた」が出てきます。「木綿」という漢字表現は使われていません。原材料としての「木綿」と布反物としての「木綿」が、「きわた」・「もめん」と区別されてリストアップされているのでしょう。

「倹約御触書」の第9条(「在方え町方商人入込商ひいたし候義、三十一色之外ハ停止、三十一色之外之ものヲ商、又ハ無札之ものヲ及見候ハヽ荷物押置名元等相尋、早々御郡奉行え注進可申出候事」)に出てくる31色には、「木わた」のみ出てきます。「はただうく」(機道具)も出てきますが、反物としての「もめん」、衣類としての「もめん」は出てきません。


岡山藩の渋染一揆に関する<考証性>の問題・・・

2008年03月13日 | 付論



部落学序説付論 百姓の目から見た渋染・藍染
(41)岡山藩の渋染一揆に関する<考証性>の問題・・・・・・

筆者は、無学歴・無資格です。

歴史学や歴史学的研究についても、まったくのしろうと・門外漢です。その無学歴・無資格の筆者が、少しく歴史を学んでみようか・・・、という気持ちになったのは、今井登志喜著『歴史学研究法』・古島敏雄著『地方史研究法』という新書版にであったときです。

その『地方史研究法』の中にこのような言葉がありました。

「村・・・でおこっている問題を、研究になれない人が扱うとき、よくみる欠陥は、起こった事件だけを追求して、何故おこったか、原因となった条件は何々か、その条件から事件のおこるまでの結びつきかたはどういう形をとっているかの分析をかくことである。何故おこったかを調べる場合には、特定の事実のおこらなかった場合をも調べる必要があるのである」。

古島敏雄氏によりますと、「地方史研究法」としては、「二つの方法」があるそうです。ひとつは、「直接個別的に調査する方法」、もうひとつは、「既存の調査結果乃至は他の目的のために作られた多少なり関係ある事実に関する資料に多くをたよる方法」。

古島敏雄氏は、「第一の方法によるときは必ず第二の方法を合わせて用い」ることが大切であるといいます。

たとえば、「岡山藩」の「渋染一揆」に関する研究に関していえば、「岡山藩」の「渋染一揆」に関する史資料を「直接個別的に調査する方法」と、「渋染一揆」や「部落史」とは直接関係はないけれども、「多少なり関係ある事実」に言及している一般史の史資料に依拠する方法の、二つの方法を同時に駆使しなければならに・・・、ということを意味します。

そういう意味では、「岡山藩」の「渋染一揆」に関する研究において、「岡山藩」の関連史資料のみに拘泥するのではなく、「岡山藩」以外の諸藩の史資料にも目を通すということは、「岡山藩」の「渋染一揆」の本質を把握するためにも、欠かすことができない作業になります。

筆者は、「岡山藩」の「渋染一揆」の原因となった「渋染・藍染」を批判・検証するとき、「岡山藩」の「渋染一揆」に関する固有の専門的史資料だけでなく、他藩の関連史資料や一般的史資料を、縦横無断に駆使します。

古島敏雄氏の見解が、地方史研究の一般的方法であるかどうかについては、筆者は、語るべきものを何も持っていません。古島敏雄著『地方史研究法』は、筆者が所有している唯一の<地方史研究法>なので、いつも、その古島敏雄著『地方史研究法』に準拠しようとする意思が働きます。

「岡山藩」の「渋染一揆」の原因となったといわれる「倹約御触書」の衣類統制について言及するときは、「岡山藩」のそれに触れて満足せず、「岡山藩」の衣類統制と近隣諸藩の衣類統制の比較研究、また、近世幕藩体制下の衣類統制の一般的・全国的な傾向をも視野に入れて論ずることになります。

以前、『部落学序説』を読んでくださっている東洋史研究者の方からいただいた、膨大な文書量の『兵庫県史』をひもといてみますと、「岡山藩」の「渋染一揆」が発生した幕末当時の、一般的・全国的な、藩専売品としての、「木綿」「藍」に関する記述があります。

執筆者の酒井一氏によりますと、「幕藩制の危機は19世紀はじめには広範に噴出しはじめた。ひとつは幕藩領主の財政危機の深化・・・つぎに全国的な・・・幕藩制的流通」の動揺があげられるといいます。「年貢量の低下・停滞は全国的な傾向であり、県域にあった諸藩も例外ではなかった・・・」そうです。

『部落学序説』の筆者が、そのような発想で「岡山藩」の「渋染一揆」について言及しますと、「岡山藩」の「渋染一揆」に学者・研究者・教育者の方々の中には、「他藩の史資料や庶民の生活様態を憶測や推測で援用することは考証性に欠ける」と批判してきます。

しかし、筆者は、「岡山藩」で「渋染一揆」が発生した当時、「岡山藩」は、近世幕藩体制下の政治・経済システムから、切り離された、自己完結型の閉鎖的集団ではなく、近世幕藩体制下の政治・経済システムに深く組み込まれ、「岡山藩」も、諸藩と同じく、「全国的な傾向」を共有していた・・・、と推測します。古島敏雄氏のいう、「地方史研究法」の「二つの方法」のひとつ、「<既存の調査結果>乃至は<他の目的のために作られた多少なり関係ある事実に関する資料>に多くをたよる方法」を、『部落学序説』の筆者が採用しても、それは、「考証性に欠ける」ことには、なりますまい・・・。否、むしろ、「考証性」を高めることになるのではないでしょうか・・・。

まず、『兵庫県史』の酒井一氏の論文を参考にしながら、「岡山藩」の「渋染一揆」発生当時の、近世幕藩体制下の「木綿」・「藍」に関する、政治・経済システムの全体像を考察することにしまそう。そのあとで、「岡山藩」の「木綿」・「藍染」について言及することにしましょう。

古島敏雄氏は、「何故おこったかを調べる場合には、特定の事実のおこらなかった場合をも調べる必要がある・・・」と言われますが、藩から、衣類統制を通達されても、<渋染・藍染>を身にまとうことを嫌わなかった諸藩の「穢多」と岡山藩の「穢多」とを比較・検証することで、「岡山藩」の「渋染一揆」の本質をよりよく<考証>できる可能性もあながち否定することはできないと思われます。