部落学序説

<常・民>の視点・視角・視座から見た<非常・民>である<穢多・非人>の歴史的真実の探求

『部落学序説』とその関連ブログ群のアクセス解析

2007年12月24日 | あとがき



(1)アクセスの全体的傾向

Graph0711_3

統計・・・

とかく、統計上の数字は、都合のいいように解釈される傾向があります。

今回、それを懸念しつつ、ココログの「アクセス解析」の統計上のデータを使用して、『部落学序説』とその関連ブログ群を解析してみたいと思います。

上のグラフ「月別アクセス数」は、ココログの「アクセス解析」のデータをもとに、EXCELLのグラフ機能を使用して作成したものです。期間は、ココログの「アクセス解析」のデータが保存されたはじめた、2006年6月から2007年11月までの月単位の「アクセス数」と「訪問者数」です。

『部落学序説』とその関連ブログ群は、いくつかのブログで構成されていますが、どのブログも上記グラフと同じように描画されますので、サイト全体のデータのみを掲載しました。

元のデータは、右表に掲示しました。 Grp007121
   

上のグラフは、EXCELLのグラフの種類の「対数」を使用したものです。このグラフによると、『部落学序説』とその関連ブログ群のアクセス件数は「微増」を続けています。

有名サイトのブログと比べますと、『部落学序説』とその関連ブログ群は、ほとんど認知されていないブログに入ります。内容が内容ですし、社会的には、「誰でもが避けて通りたい問題・・・」ですから、当然といえば当然なのですが、今後も、マイナーからメジャーに移行することはほとんど可能性がないと思われます。

上のグラフをみると、「微増」している部分と「停滞」している部分がありますが、「停滞」している部分は、『部落学序説』に新しい文章を掲載していない時期と重なります。次から次へと新しい文章を掲載していけば、「停滞」状態を脱出して「微増」を続けていくことができるのではないかと思われます。

やはり、書き続けていくことが大切であると思われます。

ココログの上記統計期間の間、『部落学序説』とその関連ブログ群に対して、罵詈雑言・非難中傷が浴びせられた時期がありますが、その影響は、通常のグラフ上でははっきりと確認することができます。しかし、グラフの種類を「対数」とすることで、それらの影響は極小化することができます。

川の流れの中の小さな岩でしかなかったということでしょうか・・・。筆者にとってなすべきことは、『部落学序説』の執筆計画通りに執筆を継続していくことでしょう。


(2)訪問者の地域的傾向


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『部落学序説』とその関連ブログ群の訪問者の地域的分布・・・、まず大域的にみてみましょう。右の円グラフは、東日本と西日本のアクセス数を比較したものです。東日本は東京を含みますので、速断はできませんが、西日本より東日本の方がアクセス数・訪問者数が多いのは意外です。

「被差別部落は西日本に多い・・・」と言われますが、『部落学序説』の訪問者ついていえば、東日本と西日本の間で、地域的なかたよりはなく、全国からのアクセスがあります。『部落学序説』の解釈原理、「新けがれ論」・「非常民論」は、日本全体を視野に入れての論述であるため、当然の結果といえば当然です。部落差別問題を、西日本、特に、大阪をはじめとする近畿に特化して考えるのは間違いであると思われます。

07122_2県別のアクセスデータは、左の表の通りですが、上位15位までと下位5位を掲載しました(統計対象は、ココログの「過去4カ月間」のデータ・・・)。

なぜ、上位15位までに限定したのか・・・、それは、中国地方(広島・岡山・島根・鳥取・・・)からのアクセスが予想以上に少ないということを強調するため。

最近、中国地方の某県の<同和教育研究協議会>で、明治初期のキリシタン弾圧で、「穢多」が宗教警察機能をになっていたことを証明する資料の存在が明らかにされたとか。問題の深刻さから一般公開しづらい資料のようですが・・・。

中国地方(広島・岡山・島根・鳥取・・・)からのアクセスが少ないのは、『部落学序説』とその関連ブログ群を無視した結果ではなく、部落研究・部落問題研究・部落史研究に取り組んでおおられる学者・研究者・教育者の数の少なさに由来するようです。

山口県内からの訪問者は、既に限定されて久しくなります。あまり訪問者数は増加していません。


(3)アクセス数増加に協力してくださったサイト

ココログの「アクセス解析」から、『部落学序説』とその関連ブログにリンクして、『部落学序説』とその関連ブログ群のアクセス数の増加に協力してくださったサイトは以下の通りです。

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全アクセス数の6.5%に達します。ココログの「アクセス解析」過去4カ月間のデータを手作業で集計しました(上位7位まで)。

この7サイトは、過去4カ月間だけでなく、それ以前に大量のアクセス者を出してくださったサイトです。

筆者は、来年早々60歳になりますが、あまり、2チャンネルの世界には足を踏み入れることはありません。また、ネットサーフィンを楽しむ年代でもありません。しかし、通算しますと、2チャンネルサイトからの『部落学序説』とその関連ブログ群に対するアクセスは決して少なくありません。最近は、というより、当初から、『部落学序説』とその関連ブログ群に対する批判はほとんどありません。まして、罵詈雑言・非難中傷といった類の言葉も少なかったように思われます。最近、2チャンネルについての筆者のイメージが<変質>しはじめています。

全アクセス数の93.5%は、『部落学序説』とその関連ブログ群からのアクセスです。

一般的に、ブログのアクセス数を増やすには、トラックバックを利用した方がいい・・・、と言われますが、筆者は、あまりトラックバックを利用することはありません。

なにしろ、『部落学序説』の内容が内容ですから、恣意的にトラックバックを設定することでかえって迷惑をおかけすることもあるかもしれないと、自粛している次第です。

ついでに。アクセス数を増やすためには、文章題を適切なものにする必要があります。最近の『部落学序説』の「水平社運動史の批判的研究(その1)」、「・・・(その2)」というような題名の付け方は、アクセス数増加を無視した付け方です。


(4)ブログ別アクセス件数

071252005年5月14日に執筆を開始して以来の『部落学序説』とその関連ブログ群の累計アクセス件数です。

開始直後は、ブログの操作方法、ブログを論文執筆ツールとして転用する方法が分からず試行錯誤していましたので、アクセス件数は何度かリセットされています。実際のアクセス件数はもう少し増えます。

ブログ「被差別部落の地名とタブー」と「ある同和対策事業批判」は、『部落学序説』第6章を先取りして執筆したもので、本来、『部落学序説』の一部です。

ブログ「紀州藩城下町警察日記を読む」は、筆者が、『部落学序説』の執筆を優先させるため、部落解放同盟新南陽支部部落史研究会の方々と執筆分担して、筆者が手をひいたためです。『部落学序説』執筆が完了しましたら、『部落学序説』の研究方法を駆使して、「紀州藩城下町警察日記」を体系的に批判検証したいと思っています。

その他は、「遊女と穢多」、「教会の怪奇現象」、「実験動物教育学」、「被差別部落の詩人・松本淳の旅(写真集)」などのブログを立てたときの残滓です。現在は、削除されていますが、『部落学序説』のあと、執筆を再会する予定です。

ときどき、すべてのブログのリアルタイムのアクセスを計算して、『部落学序説』の累計アクセス件数と数字が合わないと指摘される方々がおられますが、『部落学序説』の累計アクセス件数の数字は、適当な時に(アクセス数が1000件増えるごとに)、ココログの「アクセス解析」の「サイト全体(合算)」の数字を手作業で転記しています。


(5)読者によってよく読まれる文章


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まず、『部落学序説』の文章を取り上げることにしましょう。

文書単位でみますと、一番訪問者数の多いのは、「白山信仰と穢多」です。

そのあとに続く文章は、すべて「白山信仰と穢多」の問題に光をあてることになる文書群です。

『部落学序説』とその関連ブログ群が、西日本の人々より東日本の人々によって、より多く読まれている秘密は、この「白山信仰と穢多」が、読者の方々に何事かを語りかけているためではないかと思われます。

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この4カ月間、訪問者数が一番多いのは、『被差別部落の地名とタブー』の文書群です。

「禁忌」(タブー)についての文章が、読者の方々に何らかの問題提起をしているようです。

このブログは、『部落学序説』第6章で取り上げる予定のものを先取りして文章化したものですが、『部落学序説』・・・、歴史学の書ではないにもかかわらず、時間系列で文章を書いています。近世から近代、近代から現代へと、論点がシフトしていくに従って、アクセス数・訪問者数が増加していく傾向にあります。

より、現実的な部落差別問題に、より実践的な解決を提供していく可能性があるからではないかと思っています。

「差別戒名」についても、新しい視点・視角・視座から論じる予定です。

07128ある同和対策事業批判』、『部落学序説』とその関連ブログ群の読者の方々にとっては、関心があるようでない・・・、というか、食傷ぎみではないかと思われます。

過去の同和対策事業を批判するより、これからの部落解放運動へに可能性を模索する読者の方が多いような気がします。

『部落学序説』第6章・同対審答申批判で、あらためて、根源的にとりあげる予定ですが、過去は過去のことがらとして、きっちり批判・検証していくつもりです。しかし、今日一般的に行われている過度な批判に組みすることはありません。あくまで、史料・論文に対するテキスト批判としてとりあげる予定です。

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ブログ『田舎牧師の日記』は、『部落学序説』とその関連ブログ群に対する、読者の方々からの批判を直接反映させることを防ぐため、質疑応答の場として設定したものですが、最近は、『部落学序説』執筆がすすまない理由を並べ立てるような文章が多く、その内容については反省することしきり・・・。中には、筆者の<差別・被差別>についての本心を綴った文章も含まれているのですが・・・。

『部落学序説』とその関連ブログ群の読者と『田舎牧師の日記』の読者は、必ずしも一致していないような気がします。


(6)「誤解された渋染一揆」・・・


『部落学序説』とその関連ブログ群の読者の方々から、「一度、公表した文章は、読者に内緒でリライトしない方がいい・・・」との助言を受けました。

それぞれの文章には、執筆したときの状況が反映されていますので、あとからリライトして合理化しますと、「気の抜けたサイダー」のようになる・・・、というのです。

筆者もその通りであると思いましたので、リライトは、中止しました。

被差別部落の地名・人名をめぐる、部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々との論点の相違も、そのままの形で温存しています。論点の相違をどのように克服していったか、行間から読み取っていただければ幸いです。

数日前、部落解放同盟新南陽支部部落史研究会の方から、FAXをいただきました。それは、「部落解放・人権研究所歴史部会1月例会のご案内」という文書です。

日時:2008年1月19日
場所:大阪人権センター
主題:渋染一揆、被差別民衆が柿渋染を拒絶した思いを正しく認識するために
講師:久保井規夫(桃山学院大学非常勤講師・元中学校教師)
要旨:渋染一揆に関わって、一部、「渋染の色は人をはずかしめる色か」との節があるが、これは、史実をゆがめているとして反論したい。この節は、渋染・藍染の色の解釈、無紋の前提を無視し、特定の染めに限定された意味、中世からの習俗を否定、別段の意味などに正しく答えていない。何よりも、岡山藩被差別民衆が、別段の渋染強要に反対した思いと行動が無視されているからである。歴史教科書で、唯一、近世身分差別への抵抗として記載されてきた渋染一揆の意義が歪められることを危惧し、今回の報告を行う。


講師の久保井規夫氏は、1989年、今から約20年前、大阪府の中学校教師であったとき、「渋染・藍染は人間をはずかしめる色」という文章を書きました(『江戸時代の被差別民衆』)。

『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、久保井規夫氏の文章は、論理的矛盾と意図的な操作が内包されています。

その文章を、10年後の1998年、福岡県の高校教師の住本健次氏から、同じ学校教師の立場から、「渋染・藍染の色は人をはずかしめる色か 「渋染一揆」再考」という論文で批判されます。

それは、高校教師からなされた、小中学校に配布されている同和教育の教材に記された渋染一揆い関する批判でした。住本健次氏は、「歴史の事実をまげて教えてはならない」と厳しく、徹底的に批判を展開します。しかも、「渋染・藍染の色は人をはずかしめる色」という文章を書いた中学校教師・久保井規夫氏に対して、名指しで批判します。

筆者は、『部落学序説』執筆のための研究方法として、「学者のA説と反A説を比較検証して、いずれかの立場を取り込む形で論を展開する・・・」と宣言していますが、渋染一揆の渋染・藍染については、A説(久保井規夫説)・反A説(住本健次説)を比較検証し、住本健次説が正当であると判断しました。

そして、今回、さらに10年後の2007年・・・、元中学校教師・久保井規夫氏が、高校教師・住本健次氏の「反A説」を論駆するとの報に接したのです。

住本健次氏は、久保井規夫氏と論争するつもりはないのでしょうが、かって、高校教師に論調において敗北を喫した久保井規夫氏は、私立大学の非常勤講師の肩書のもと、高校教師の住本健次氏に対して、「リベンジ」するかのような姿勢で、かっての雪辱をすすぐというのです。

10年単位での論争・・・。

十年一日の如く、「渋染一揆の渋染・藍染の色は人をはずかしめる色」を主張する久保井規夫氏の執念・怨念・・・。動機は、「歴史教科書で、唯一、近世身分差別への抵抗として記載されてきた渋染一揆の意義」を死守することにあるようです・・・。

久保井規夫氏は、「差別に抗う素晴らしい闘い」として、渋染一揆を極度に美化しているように思われます。一見、「被差別民衆」を解放するように見えながら、その本質においては、「被差別民衆」を裏切り、「被差別民衆」を「被差別」という鉄鎖につなぎ止める思想を吹聴しているように見えます。その破れに、久保井規夫氏自身が気づいていない・・・、というところに問題の深刻さがあります。久保井規夫氏の『江戸時代の被差別民衆』が、いまもなお、小中学校の教育現場で教材として使用されていたとしても、それは、久保井規夫の歴史理解が正しいという保証にはなりません。

部落解放・人権研究所歴史部会の方々・・・、久保井規夫氏の「渋染一揆再考への反論」をすんなり通すことはないと思うのですが・・・。

『部落学序説』の筆者の目からみますと、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常民」としての「穢多・非人」が、その職務に誇りと責任をもって生き抜いていった事例は日本全国津々浦々に存在していると思います。久保井規夫氏が、見ても見ようとしない、聞こえても聞こうとしないから、問題の本質が把握できないのだと思います。

ココログのアクセスログを追跡していくと、いろいろなことが見え始めます。

部落解放・人権研究所歴史部会でどのような研究「報告」がなされるのか・・・、多くを期待しないで待つことにしましょう。元中学校教師・久保井規夫氏の「渋染一揆の渋染・藍染の色は人をはずかしめる色」という文章は、最初から、論理的に破綻しているからです。

しかし、アクセス解析はほどほどにして、『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆に力を注ぐことにしましょう。


(7)訪問頻度と訪問周期

ココログの「アクセス解析」には、「訪問頻度」と「訪問周期」があります。

「訪問頻度」というのは、「1人の訪問者が一日の間で何回ブログに訪れているか」を示したものです。

「集計対象訪問者数 41,418」のうち、「訪問頻度」が「1」は、34,648人、「2」~「11」は、16,037人、「12」~「23」は、662人、「24」~「47」は、85人、「48」以上、32人・・・。1日100回以上訪問される方は3人おられます。

「訪問周期」は、「1人の訪問者が何日に一回の割合で訪れているか」を示した数字ですが、「毎日」訪問してくださる方は、12人、「2日」~「7日」は、212人、「8日」~「2週間」は、390人、「3週間」~「1ヶ月」は、696人・・・。

『部落学序説』の閲覧、こころから感謝申し上げます。

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水平社運動史の批判的研究法(その2)

2007年12月04日 | 別稿



【第5章】水平社宣言批判
【第2節】「水平社宣言」の背景
【第2項】水平社運動史の批判的研究法(その2)

山口の地において、20数年交流の機会が与えられた部落解放同盟新南陽支部の当時書記長をされていた方が筆者のことをこのように表現されたことがあります。

「吉田さんは、すぐ人を信用する。その結果、人から裏切られたときに、人一倍ショックを受けることになる・・・」。

筆者が、「すぐ人を信用する・・・」という人は、日常生活の中で出会う人のことではなく、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者のことです。

その人の2、3の論文を読んで感激して、「この人の説は、部落差別完全解消に繋がる説かもしれない・・・」とすぐ期待を抱くけれども、更に、その人の論文を精読・解析したり、新たな論文を読んでいくうちに、筆者が期待していたのとは異なる<差別的>な側面に遭遇し、失望の思いに囚われる・・・、というのです。

当初は、まさに指摘される通りだったのですが、20数年の歳月の中で訓練されたのでしょうか、最近では、そのような傾向が少なくなりました。

その人の2、3の論文を読んでも、それで、すぐに、その人を、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者として信頼したり、希望を抱いたりすることは少なくなりました。その論文を評価するためには、筆者固有の<批判・検証>が介在するようになりました。

今回、水平社運動史のミクロ的研究の担い手である朝治武氏に対比する形でとりあげる、水平社運動史のマクロ的研究の担い手である藤野豊氏についても、筆者は、入手した、2、3の論文を読んで、藤野豊氏に対して、また、その論文に対して、過度な期待を抱くことはありません。

藤野豊氏を<革新的>と表現すれば、『部落学序説』の筆者は極めて<保守的>であると判断せざるを得ないからです。

藤野豊氏の《「水平社伝説」を超えて》というひとつの論文をとっても、「より実証的、より客観的、より学術的な水平社像・・・」を描くために採用されることになった批判的研究法は、基本的に<保守的>な手法に頼っている筆者と違って、極めてラディカルです。

「こんな発言をして、どこからもクレームがでないのだろうか・・・」と危惧せざるを得ないほどラディカルです。

藤野豊氏は、このようにいいます。

「これまで、水平社運動史研究を歪めてきたのは、日本共産党や部落解放同盟の「御用研究者」である。かれらは、いわゆる「部落史」という「蛸壺」に逃げ込み、日本近現代史研究という視点を放棄、党や運動団体に都合のよい水平社像、すなわち「水平社伝説」を描いてきた・・・」。

日本共産党のみならず、部落解放同盟参加の学者・研究者・教育者を「御用研究者」とラベリングして根源的に批判すしようとする藤野豊氏の学者・研究者・教育者としての姿勢に、ある種の痛快さを感じてしまう筆者ですが、既存の政治理念・運動理念を打倒・破壊して、「水平社伝説」を克服、「一介の歴史学研究者」として「実証的研究」に徹し、歴史学の一般史(「日本近現代史研究」)を視野にいれて、「水平社運動史研究」のあらたな地平を切り開くという宣言は、筆者をしてその言葉に拍手喝采せしめるものがあります。

藤野豊氏曰く、「運動団体がどのような路線を歩もうと、研究者は自己の研究に基づいて勇気を持って発言すべきである」。

藤野豊氏の言葉に対して、筆者は反論すべきなにものをも持っていません。「研究者」が、その学者・研究者・教育者としての良心と良識を持って、その研究成果を明らかにすべきであることは、あえていうまでもないからです。

しかし、日本の歴史学・・・。

不幸なことに、明治以降の近代中央集権国家・天皇制国家においては、歴史学は、国家の学、権力の学でした。国家・権力が、その存在理由を確固たるものにするために、国民教化の一環として歴史学を導入・援用してきたのです。こころある歴史学者の目からみますと、戦前・戦後を通じて、そのような歴史学の体質はほとんど何も変わっていないと思われます。

そのような、中にあって、藤野豊氏のような戦後生まれの学者・研究者・教育者が、歴史学の権力的枠組みを超えて(それが充分達成されているかどうかは別ですが・・・)、その良心・良識を下にその研究成果を明らかにされ、歴史の真実を追究されることは、学者・研究者・教育者として、当然といえば当然すぎることだからです。

藤野豊氏の「教条的な理解を実証的に乗り越える・・・」という言葉もそのことを物語っています。

藤野豊史の水平社運動史の批判的研究の目的は、「教条的な理解」の産物である「水平社伝説」を批判・打倒することです。

その「水平社伝説」・・・、「政党や運動団体に追随することをもって、かろうじて「研究者」としてのステイタスを維持してきた人びと」によって「描き続け」られ、捏造されてきました。彼らは、「水平社を聖域として被差別部落外からの批判を封じ込めようとする傾向が強く、一部では日本近現代史研究そのものへの無知に由来する暴言も飛び交っている・・・」といいます。

「日本共産党や部落解放同盟の「御用研究者」」からの、水平社の「聖域」を侵すものに対する罵詈雑言にみちた非難中傷を含む「暴言」は、1986年、部落解放研究所が、『水平社運動史論』を、解放出版社から公刊した当初から存在していたのでしょう。

受け止め方によっては、部落解放運動そのものに対する根源的批判に発展する可能性のある藤野豊氏の論文を、なぜ、『水平社運動史論』の第一論文として収録したのでしょう。

筆者は、その『水平社運動史論』が出版された時代の部落解放研究所に帰属する、あるいは参加する学者・研究者・教育者の中には、すべての批判を許容する、という精神的、学問的柔軟さが保障されていたのでしょうか・・・。

しかし、無学歴・無資格、差別者でしかない『部落学序説』の筆者の目からみると、藤野豊氏の論文の視点・視角・視座は、極めて、ラディカルな視点・視角・視座に映ります。

藤野豊氏は、このように語ります。「部落解放同盟は、・・・「同和」事業における既得権益を永久に維持するため、なりふりかまわず・・・部落差別の本質は「ケガレ」意識だなどと称し、意図的に現代の政治・社会の動向として分離して、差別の超歴史性・永続性を強調する」。

藤野豊氏は、「部落解放同盟」の、①部落差別完全解消より、同和対策事業・同和教育事業をはじめとする利権追求を優先する体質、②近代部落差別成立に対する国家・権力の責任を免罪し、抽象的な「ケガレ」意識に収斂させる問題解決能力の欠如、③部落差別の歴史性・時代制約性を否定し、「超歴史性・永続性」を主張することで、部落差別の温存に貢献するという矛盾性・・・、をえぐり出します。

「日本共産党や部落解放同盟の「御用研究者」」と藤野豊氏を類比してみるに、「日本共産党や部落解放同盟の「御用研究者」」は、いわば、ガンの宣告を受けた患者を前に、鎮痛剤を打つか、なすすべもなく患者に対する治療を放棄する、そして精神的ななぐさめだけを語る内科医にたとえられます。一方、藤野豊氏は、ガンを克服するためには、対象療法では効果なく、最悪の結果を迎えることになるので、血を流すことは見るにしのびないかもしれないが、切開手術をし、ガン組織をとりのぞかなければならないと考える外科医にたとえることができます。

無学歴・無資格、しろうと学でしかない筆者にとっては、「日本共産党や部落解放同盟の「御用研究者」」のことばより、藤野豊氏のことばの方がよりよく理解できます。「そうだ、その通りである・・・」、と。

藤野豊氏は、「部落差別の本質」「ケガレ意識にありとする主張」を、「歴史学研究とは無縁のもの」、「部落解放運動が獲得した権益を、被差別部落を取り巻く社会状況の変化に関係なく永続化しようとする、現実主義に立脚した運動の論理」でしかないと断言します。

そのような「主張の背景」には、「部落差別は政治や社会の変化とは関係なく超歴史的に存在するといる論理」があるといいます。・・・、このことは、部落解放同盟や、その「御用研究者」たちにとって、部落差別問題は、完全解消の対象ではなく、国家・権力・社会から既得権益を永続化させるための手段に過ぎないということを意味しています。つまり、部落解放同盟と、その「御用研究者」たちは、部落差別の継承を願いこそすれ、部落差別の完全解消などつゆも望んでいないということを意味します。

部落解放同盟は、近代中央集権国家によって、「特殊部落民」とラベリングされてきた被差別部落大衆にとって、反差別の共闘者ではなくて、差別の推進者に転落する可能性のあることを示唆しています。

藤野豊氏は、『部落学序説』の筆者が指摘する<賤民史観>(沖浦和光の主張する史観)という概念こそ使用していませんが、まさに、「日本共産党や部落解放同盟の「御用研究者」」によって、捏造・構築されてきた<賤民史観>を批判・否定していると思われます。

しかも、藤野豊氏は、「人権」という言葉すら批判的に言及します。

藤野豊氏は、「わたしたちは、「人権」の名のもとに、部落解放運動を美化し過ぎてきた。」といいます。

その後、「日本共産党や部落解放同盟の「御用研究者」」が、藤野豊氏に対して、どのように接してきたのか・・・、想像することは難しくありません。

藤野豊氏の水平社運動史研究は、<現実>主義に立脚した運動の論理」でなく、「社会<思想>史的研究」でしかないと・・・。それは、<現実>と<思想>を逆立ちさせた、藤野豊氏に対する非難・中傷でしかありません。

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水平社運動史の批判的研究法(その1)

2007年12月03日 | 別稿



【第5章】水平社宣言批判
【第2節】「水平社宣言」の背景
【第2項】水平社運動史の批判的研究法(その1)

無学歴・無資格、しかも、これまでの部落解放運動において「差別者」という烙印を捺されてきた一般民衆のひとりでしかない筆者にとっては、<水平社運動史の批判的研究法>という、このような主題で論ずることは至難の業に入ります。

自己の無力さを感じつつ、それでも言及しなければならないのは、『部落学序説』の筆者に見えている目的地にたどりつくためには、「前人」が残してくれた道(あるひとは、それをけもの道といいます・・・)をてがかりに、此岸から彼岸へたどりつく以外に方法はないからです。

『部落学序説』の著者として筆者が、<水平社運動史の批判的研究法>の「前人」として、私的に師として仰いでいる学者・研究者・教育者は、富山国際大学教授の藤野豊氏です。

といっても、筆者は、藤野豊氏の論文・研究書を全部読破している・・・、というわけではありません。むしろ、その論文・研究書を殆ど読んでいない・・・、といった方が正確です。

ただ、1986年に出版された部落解放研究所編『水平社運動史論』に収録されていた、藤野豊著《全国水平社の創立とその思想》に目を通したときから、いつか、藤野豊氏の論文・研究書を全部読んでみたいと思い続けてきました。

この論文次の構成から成り立っています。

はじめに
一、天皇制思想の影響
二、「民族自決」論の影響
三、融和政策・融和運動への対応
おわりに

彼は、その論文の「はじめに」で、「これまでの研究状況に大きな疑問を持っている・・・」といいます。「全水創立をめぐる研究史を外観してみると、大きな問題点が解明されていないことに気づく・・・」というのです。

1986年に藤野豊氏の論文・《全国水平社の創立とその思想》に目を通したあと、読んだことのある藤野豊氏の論文は、次のようなものです。

《戦時体制下の部落問題》(1989年)
《「水平社伝説」を超えて》(1998年)
《部落問題における婚姻忌避》(1999年)

筆者が、『部落学序説』執筆に際して、藤野豊氏から受けた影響は、相当大きなものがあります。

朝治武氏については、前項において、「朝治武著『水平社の原像』にみる部落史個別研究の限界」という表題のもとに取り上げてきましたが、朝治武氏の研究は、どちらかいいますと、水平社運動史のミクロ的研究であると認識しています。

しかし、筆者は、藤野豊氏の研究は、朝治武氏のそれと違って、水平社運動史のミクロ的研究にとどまらず、マクロ的研究にまで、広範な視野の下でなされている研究である・・・、との認識を強く持っていました。

戦前・戦後の部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者の努力にもかかわらず、<33年間15兆円>(ここではアナクロニズム的表現になりますが・・・)という、膨大な時間と費用、そして人材を投入してきたにも関わらず、部落差別問題の完全解消に至らなかったのは、ミクロ的研究の瑕疵ではなく、マクロ的研究に瑕疵があったためではないかと感じていました。

さらにいえば、マクロ的研究の背後にある、学問的枠組みや、それを批判検証しない学者・研究者・教育者の学者としての主体性や良心に問題があるのではないか・・・、そう分析していました。

そんなとき、筆者の目に飛び込んできたのが、藤野豊氏の上記の論文でした。

筆者は、藤野豊氏は、非常にすぐれた学者に違いない・・・、と思うようになりました。その第一印象は、《全国水平社の創立とその思想》(1986年)から今日に至る約20年間、決して色褪せることはありませんでした。

藤野豊氏の論文や研究が、部落研究・部落問題研究・部落史研究の、プロの、専門家である学者・研究者・教育者の世界でどのような評価を受けているのかは寡聞にして知りませんが、少なくとも、無学歴・無資格の素人学でしかない筆者には、藤野豊氏の論文や研究は、とても学問的刺激に満ちた魅惑あるものでした。

<水平社運動史の批判的研究法>の「前人」である藤野豊氏の歩まれた道をたどっていけば、『部落学序説』の執筆を計画している筆者も、<差別>の此岸から<反差別>の彼岸へたどりつくことができるのではないかと思われました。

筆者が理解する、現・富山国際大学教授・藤野豊氏の<水平社運動史の批判的研究法>とは何なのか・・・、上記の論文をひもときながらご紹介申し上げたいと思います。