部落学序説

<常・民>の視点・視角・視座から見た<非常・民>である<穢多・非人>の歴史的真実の探求

理解されざる西光万吉と平野小剣の部落解放思想

2007年03月15日 | 別稿

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【第5章】水平社宣言批判
【第1節】史料としての「水平社宣言」
【第B項】理解されざる西光万吉と平野小剣の部落解放思想

朝治武氏は、「全国水平社宣言の思想的特徴」として、「人間主義」「部落民意識」をあげています。

「人間主義」は、「水平社宣言」の共同執筆者である西光万吉の思想であり、「部落民意識」は、もうひとりの共同執筆者である平野小剣の思想であるといいます。

西光万吉のそれが「主義」であり、平野小剣のそれが「意識」なのか・・・、筆者は、少しく疑問に思っていましたが、「主義」と「意識」ということばで両者の思想を区別することへの違和感は、朝治武氏自身も当初から感じられていたようです。

朝治武氏は、「全国水平社創立宣言の執筆部分を特定するために、私の叙述は西光と平野をあまりにも対比させ過ぎた嫌いがある。」と述懐していますが、「西光も部落民意識をもち、また平野も人間主義であったことを否定するものではない・・・。」といいます。西光と平野における「人間主義」「部落民意識」の区別は、「強弱もしくは程度の問題」である・・・といいます。

朝治武氏は、「水平社宣言」の本文批評のために両者の思想の違いを先鋭化したけれども、西光と平野の「人間主義」「部落民意識」は、「対立的」なものではなく「相乗的」なものであった・・・、といいます。

さすれば、平野小剣の「人間主義」とは何であったのか・・・。朝治武氏は、このように記しています。「部落に生まれ育った自分たちこそは最も人間らしい人間であるという人間主義の宣言であったが、この人間主義は平野の場合には同時に自らは差別されるはずもない誇り高き部落民であるという、いわば部落民意識ともいうべきものを前提にしてこそ成立する・・・」。

筆者は、このような説明を目にするごとに、どことなく違和感を感じてしまいます。

なぜ、近代日本の国家・政府が採用した差別表記である「特殊部落」・・・に生まれ育ったという現実に立って、なおかつ、「自分たちこそは最も人間らしい人間である」「誇り高き部落民である」と主張することができるのか、筆者にはなかなか理解することができません。

当時の権力は、民衆支配の道具として「特殊部落」という極めて差別的な概念を導入しますが、それは、あくまで当時の「被差別部落」の人々を貶めるためのものであり、どこをどうとっても、普遍的な「人間主義」の立場から評価されるべき側面を含むことはありません。だからこそ、全国水平社の「決議」の中で、「特種部落民等の言行によって侮辱の意志を表示したる時は徹底的糺彈を為す」と宣言されたのではないでしょうか・・・。

「部落民意識」こそ、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての誇り高き「穢多意識」から、その「誇り」が剥奪され、近代身分制度の「天皇・皇族・華族・士族・平民・新平民」の最下層の身分として貶められて生きなければならなかった「旧穢多」の被差別の状況と苦悩を象徴的に表現しているものなのです。

「部落民意識」は、当時の権力によって、最下層の身分に貶められ、持つことを余儀なくされた被支配者・被抑圧者の意識でしかないのです。「部落民意識」は、当時の「被差別部落」の人々が、受け入れると否とにかかわらず、それを持つことを国家権力と社会から明に暗に強制されたものでしかないのです。

「水平社宣言」は、「特殊部落」と「特殊部落民意識」を解体すること、そこからの解放を通して、人間解放を勝ち取ろうとして宣言されたものです。

朝治武氏は、平野小剣は、「自らの先祖が差別されるべき無意味な人間であるという歴史的認識を「独創と創造力を有し、尊き人間性を完全に有し」ているという歴史的認識に逆転させる・・・」と表現しますが、「無」から「有」をしぼりだすような、到底不可能な発想に、平野小剣はほんとうに身をゆだねていたのでしょうか・・・。

トランプのマイナスの札ばかりを集めることで、いつのまにか、それがプラスに逆転する・・・というのは、現実の世界では起こり得ないことです。部落差別をめぐる、「差別」・「被差別」の恐ろしさは、それがいつまでたっても、歴史的に「差別」・「被差別」の役回りを変えることがないという点にあります。

『部落学序説』の筆者である私は、平野小剣は、朝治武氏がいう、「自らの先祖が差別されるべき無意味な人間であるという歴史的認識」を持ち合わせてはいなかった・・・と考えます。それは、平野小剣の依って立つところである「穢多意識」を無視して、権力によって圧し着せられた「部落民意識」しか見ることができない朝治武氏の自己理解を「重ね合わせた」結果、朝治武氏によって捏造された平野理解でしかないのではないでしょうか・・・。

平野小剣は、こどもの頃から、「俺の父は武士だ。武士の血を享けて生まれた俺は武士の子に違いないのだ・・・。」と思い続けてきました。それは、平野小剣の「心の底で叫ぶ声、微かな声」でもあったのです。

平野小剣が、「水平社宣言」に、あるいは、「水平社運動」に託したもの、それは、「旧穢多」の歴史が正しく認識され、近世幕藩体制下の司法・警察官である「非常民」としての歴史であったことが確認され、「特殊部落」あるいは「特殊部落民」という差別的ラベリングから解放されることにあったのではないでしょうか・・・。

平野小剣は、「然るに恐ろしき悪魔の手、白き手は祖先の肺腑を抉った。戦慄すべき政策は頭蓋骨を砕いた。」といいます。平野小剣のいう、「おそろしき悪魔の手」・「戦慄すべき政策」は、近世幕藩体制下の「権力」に向けられたものではなく、思想・言論統制下の近代中央集権国家・明治天皇制国家の「権力」にアナロジー的に向けられたものです。

平野小剣は、『殉教者殉教者たれ』(雑誌『水平』第1巻第1号)という文章の中で、「想起するは尊大なる祖先の歴史それである。祖先の歴史は美しき郷土の華である。純真なる人間の生活それであったのだ。」と主張していますが、平野小剣が「想起するは尊大なる祖先の歴史」とは、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「祖先の歴史」でなくしてなんの歴史であるというのでしょうか・・・。近世幕藩体制下300年間に渡って、「法」に忠実な「法」の執行者として、「純真」なる生きかたをまっとうしてきた「非常民」としての「穢多」の歴史理解でなくて、なんの歴史理解であるというのでしょうか・・・。

平野小剣は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」の歴史は、近代中央集権国家の施策によって、「涙の歴史」・「悶え悩みの歴史」に書き換えられた・・・と抗議しているのです。「旧穢多」自らがその歴史を綴ったのではない、権力によって綴らされたのだ・・・、「穢多」の真正なる歴史を剥奪され、「血を吐く悶え悩みの歴史」を押しつけられたのだ・・・、と主張しているのです。

平野小剣は、「俺達は社会生活の祖先と同じようなレベルに復活せしめなければならぬ。俺達は精神生活においても祖先の歴史の一頁目に復旧せしめなければならぬ。」といいます。

「奪われた人間を取り返さなければならないのだ。いはれなき伝統的屈従と虐待、侮蔑、擯斥に唯々諾々として鞭打つ膝下に躓づきて因果律として、忍び耐えて居られようか。・・・卑屈と怯懦とによって自らの人間性を閑却してはなるまい。祖先の霊は決してそれを喜ぶものではない。自らの良心を偽ることは最も大きな罪悪である。子孫に残す不道理の罪は免れない」。

『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からみますと、これらの平野小剣のことばは、日本の歴史、歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を取り除き、「穢多」の本当の歴史にたちかえれ、「穢多」であることを恥じ、卑屈と怯懦に生きることは、祖先を辱めることに等しく、先祖と子孫に対する罪悪である・・・、と熱と祈りとをこめて語りかけているように思われます。

平野小剣の「穢多」の歴史への回復宣言とその訴えは、戦前の水平社運動においても、戦後の部落解放運動においても、ほとんど評価されることはなかったのです。

「水平社宣言」の共同執筆者のひとり、平野小剣の「部落解放の姿」(吉田智弥)を描くことに失敗した学者・研究者・教育者は、平野小剣だけでなく、共同執筆者のもうひとり、西光万吉の「部落解放の姿」を描くことにも失敗するのです。

吉田智弥氏は、宮崎芳彦氏の「西光万吉がどういう部落解放の姿を・・・構想しようとしたのか・・・私にはわからない」ということばを紹介しつつ、「私としては、これに付け加える言葉はありません。・・・西光万吉はどういう部落解放の姿を構想したのか?」「まさにそれが私たちの課題だということです。」といいます。

「水平社宣言」が、西光万吉と平野小剣による共同執筆であることをあきらかにし、その両者の背後に「人間主義」と「部落民意識」があることを指摘していながら、「水平社宣言」がどのような「部落解放」を訴えているのか・・・、それすら解明することができない、「水平社宣言」の研究、部落史研究とはいったい何なのでしょうか・・・?

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西光万吉と平野小剣の霊を呼び起こすひとたち・・・

2007年03月15日 | 別稿




【第5章】水平社宣言批判
【第1節】史料としての「水平社宣言」
【第A項】西光万吉と平野小剣の霊を呼び起こすひとたち・・・

『部落学序説』の執筆の初期の段階で、読者の方々の要望で、『部落学序説』の執筆に際して使用する史料・文献の一覧表を公開しました。

そのことがよかったのか、悪かったのか・・・、筆者は、いまだに結論を出すことができません。

「馬鹿ほど、すぐ手の内を見せたがる・・・」、そういう内容の御指摘をいただいたこともありますが、筆者が、この章・節で使用する文献は、その一覧表を見れば、大体、推測することができます。雑誌・論文集の場合、収録されています個々の論文の著者・論文名は列記していませんが、部落研究・部落問題研究・部落史研究に少しでもかかわってこられた方々にとっては、筆者が、十分、手の内を見せていることになるのでしょう。

戦前の水平社運動、戦後の部落解放運動・・・。

その運動は、「被差別部落」の人々だけでなく、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者、そして、政治家・運動家をも、場合によっては、一般民衆をも巻き込んで、展開されてきました。そして、戦前・戦後を通じて、その運動は、多くの足跡と実績を残してきたことは否定すべくもありません。

しかし、33年間・15兆円の同和対策事業費・同和教育事業費が投じられたにもかかわらず、その事業は、十分には、初期の目的を達成することができませんでした。

事業終了と共に、明確になっているはずであった問い、「部落とはなにか」、「部落民とは誰か」という問いに対して、ほとんど満足のいく解答を入手することができないでいることが明らかになってきました。

「部落とはなにか」、「部落民とは誰か」・・・、その問いに対して、「被差別部落」のひとびとも、また、その一部の部落解放運動に従事したひとびとも、「被差別の立場」ではないけれども「被差別の側」に立つという、分かったようで分からない・・・、そんな、「被差別部落」の周辺を生きるひとびとも、十分な解答を手にすることができませんでした。いまだに、「部落とはなにか」、「部落民とは誰か」・・・、その問いを前にして試行錯誤の状態にあります。

しかし、答えることができない問いは、そのふたつだけではありません。

「水平社宣言とはなにか」・・・、その問いに対しても、十分な解答を得ることができないでいるのです。「水平社宣言」は、戦前の水平運動、戦後の部落解放運動にとっても、その運動を担う人々にとっては、極めて重要な精神的拠りどころでした。しかし、今、「水平社宣言」は、既存の一般的・通俗的見解に固守するひとびとと、「水平社宣言」を見直そうとするひとびととの間で、少なからず、せめぎあいが続いているのです。

さらにいえば、「部落解放運動とはなにか」・・・、その問いにすら、十分な解答をすることができなくなっているのです。「似非同和行為」を含む、同和対策事業の様々な問題点、行政や運動団体の破綻や崩壊・・・、戦前・戦後を通じて展開されてきた水平運動・部落解放運動は、深刻な運動の行き詰まりを経験しつつある・・・、といってもよいでしょう。

部落解放運動の「理論」と「実践」がひとつであった時代をなつかしみ、それにしがみつくことで、現代の部落解放運動の苦境・試練に耐えようとする人々もいれば、部落解放運動の「理論」と「実践」の歪みに失望・落胆して部落解放運動に参加し続けることを放棄・離脱していく人々もすくなくありません。しかし、多くの人々は、同和対策事業・同和教育事業による「利権」のあまい汁を吸うことができなくなって、同和対策・同和教育かた撤退していきました。部落解放運動に「動員」された、「被差別部落」内外のあわれな現実の姿です。

部落解放運動の「理論」と「実践」の間の亀裂を修復し、あらたな「理論」と「実践」の関係を構築すべく、1980年代後半から、「部落とはなにか」・「部落民とはだれか」・「水平社宣言とはなにか」・「部落解放運動とはなにか」・・・、という、基本的な問いがあらためて問われるようになりました。しかし、その新たな取り組みの中で、基本的な問いに対して、根本的な解答を入手し得た・・・、のではなく、その問いの前に、差別的・反差別的な説が群雄割拠を絵に画いたように、様々な恣意的な説が展開され、基本的な問いに対する答えを入手することが極めて困難な状態に陥ってしまたのです。

筆者の『部落学序説』は、これらの基本的な問いに対して、より根本的な答を得るべく、無学歴・無資格、百姓の末裔・常民の末裔である、「部落解放運動」からみると「差別者」と断定される立場から執筆されたものです。

『部落学序説』の執筆に際して使用する史料・文献の一覧表・・・、そこに記載された限りの、貧しい史料・文献しか持ち合わせていない筆者は、部落研究・部落問題研究・部落史研究の既存の成果を取捨選択・批判検証してこの『部落学序説』を執筆してきましたが、筆者の姿勢は、基本的には、部落解放運動の基本的テーゼを題目を唱えるように復唱することではなく、テキスト批判に基づき実証的に批判検証を徹底するというものでした。

その姿勢は、「部落とはなにか」、あるいは、「部落民とはだれか」という問いに答えを求めて試行錯誤するときだけでなく、「水平社宣言とはなにか」、「水平社運動とはなにか」という問いに対する答えを入手する場合にも該当します。

筆者には、「部落解放運動」に利するような研究を提示する・・・、といった姿勢に欠けます。「部落解放運動」がどのように展開されていっても、筆者は、目の前にある有限の資料を駆使してテキスト批判を遂行するのみです。

「水平社宣言」を解明するために、戦後の部落解放運動から見捨てられて顧みなかった、あるいは、歴史的実像を剥奪され、現代の部落解放運動が押しつけた一般説・通説の装いでしか登場してこなかった、西光万吉と平野小剣を、ある種の宗教家がそうしているように、彼らの霊を呼び起こして、彼らに、現代の部落解放運動の再生のために都合のいい説をまたぞろ語らせる・・・ということは、『部落学序説』の筆者にはもはやあり得ないことです。

<水平社宣言共同執筆説>に立って、平野小剣を、忘れ去られた歴史の彼方から現代に呼び戻そうとするひとびとは、平野小剣の書き記された言葉の解釈を通して、平野小剣の霊をして語らしめるのではなく、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者自身の霊を語らしめているのです。

《歴史的記憶としての「水平社宣言」》の著者・朝治武、『忘れさられた西光万吉』の著者・吉田智弥、《悲しくも愛しき故郷-水平社活動家・平野小剣の原風景を福島に追う-》の著者・朝治武、《第9章水平線上の赤と黒 アナ・ボル対立と平野小剣・高橋貞樹》(『近代の奈落』)の著者・宮崎学・・・、彼らは、西光万吉と平野小剣を、今日的状況の中によみがえらせ、かれらを傀儡のようにして、西光万吉と平野小剣に彼らの霊のことばを語らせているのです。

朝治武氏は、《悲しくも愛しき故郷-水平社活動家・平野小剣の原風景を福島に追う-》の中で、このように記しています。

「平野の足跡から見える新たな水平運動史像を描くため、さらには自らの生育や現在の意識と重ね合わせつつ平野を通して部落民の意識や生き方の一つに迫る・・・」。

無学歴・無資格、百姓の末裔・常民の末裔である、「部落解放運動」からみると「差別者」と断定される立場にしか立つことができない筆者にとっては、朝治武・吉田智弥・宮崎学・・・各氏のように、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として、その精神に歴史の真実が刻印されている平野小剣の故郷、福島の信夫の阿武隈川畔での生い立ち、そして、小剣の父や、村の古老から聞かされた彼らの歴史を、筆者のそれと「重ね合わせる」ことはできないのです。

『部落学序説』執筆のきっかけとなった、山口県北の寒村にある、ある「被差別部落」の古老の聞き取り調査のとき耳にした彼らの語る「物語」(歴史と伝承)は、筆者が、決して、「重ね合わせる」ことができないものです。

山口県北の寒村にある、ある「被差別部落」の古老は、その村にあった牢屋の牢番の末裔・・・。そして、平野小剣もまた、阿武隈川畔の「被差別部落」にも牢屋があり、その村の住人は牢番を担当していたことを記しています。

彼らは、山口県と福島県との、離れた地域に身を置きながら、同じことを証言しているのです。「私たちの先祖は、武士でした・・・」。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての職務を遂行していた彼らの出で立ちは、「武士」階級のそれと同じでした。彼らは職務上、帯刀していたのです。

平野小剣は、『思ひでのまゝ』の中でこのように綴っています。

「俺の父は武士だ。武士の血を享けて生まれた俺は武士の子に違いないのだ。その武士の子を捕まえて、この恐ろしい怖い虐めかたは一体どうしたわけなんだ?」

『部落学序説』の筆者である私は、平野小剣は、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老と同じように、こどものころだけでなく、おとなになり、水平社運動に参加するようになったときも、その意識を持つ続けていた・・・と、思わされるのです。つまり、平野小剣も、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」(武士支配の側の役人)であるという父祖の歴史・伝承と、「特殊部落民」として差別されることの間に大きなギャップを感じていたのです。

平野小剣は、朝治武氏のいう「部落民意識」(被差別民としての意識)だけでなく、それよりもっと強烈に「穢多意識」(武士身分としての意識)を持っていたと思われます。

朝治武氏も吉田智弥氏も、そして宮崎学氏も、「自らの生育や現在の意識と重ね合わせつつ平野を通して部落民の意識や生き方の一つに迫る・・・」姿勢の中で、平野小剣の「穢多意識」を無視するか、過少評価して、捨てて顧みないのです。そして、「重ね合わせる」ことができる「部落民意識」のみを強調・力説します。

平野小剣にとって、「誇り高き・・・」なのは、「特殊部落民」として差別されているおのれではなく、牢番頭(長吏頭)の末裔としての「穢多」としてのおおれなのです。

吉田智弥氏は、「「部落民」であることに「誇り」をもってきた・・・」といいます。朝治武氏は、平野小剣の主張は、「誇り高き部落民であるという、いわば部落民意識ともいうべきものを前提にしてこそ成立する・・・」といいます。宮崎学氏は、「宣言の誇りある部落民意識・・・平野の手によるものなのは、まちがいない」といいます。彼らは、平野小剣の「部落民意識」を全面に押し出すことによって、平野小剣の「穢多意識」を意識の外に追いやり、視野から遠ざけてしまうのです。

平野小剣は、『水平運動に走るまで』(沖浦和光編『水平人の世に光あれ』)の中でこのように語ります。

「俺の心の底で叫ぶ声、微かな声は、労働自治の新社会、新社会主義、共産主義、そんな社会の出現を望むものではなかった」。

『部落学序説』の筆者である私は、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の語ることばと、平野小剣の語る「心の底で叫ぶ声、微かな声」を「重ね合わせる」ことで、『部落学序説』執筆のきっかけをより強固にしていったのです。

「水平社宣言」創作時の平野小剣の関与・・・、『部落学序説』の筆者は、「我々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。我々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。」ということばの中に見出すことができると考えます。

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「我々」資料と「吾々」資料

2007年03月15日 | 別稿




【第5章】水平社宣言批判
【第1節】史料としての「水平社宣言」
【第9項】「我々」資料と「吾々」資料

「水平社宣言」の原文をどこに求めるか・・・。

そのことによって、「水平社宣言」のどの部分が西光万吉によって書かれ、どの部分が平野小剣によって書かれたのかが大きく別れてきます。

朝治武・吉田智弥両氏は、「崇仁小学校所蔵のビラ」の「水平社宣言」を原文として採用します。

しかし、西光万吉は、水平社創立大会の時には、「水平社宣言」は印刷物としては配布されていないといいますので、筆者は、雑誌『水平』の「水平社創立大会記」に収録されている「水平社宣言」を原文として採用することにしたのですが、両者は、使用している言葉が大きく違う場合があります。

「兄弟よ。我々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であった。」(雑誌『水平』)
「兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であった。」(崇仁小学校所蔵のビラ)

両者を比較すると、すぐに分かりますように、一人称複数の代名詞「われわれ」という言葉は、雑誌『水平』に収録された「水平社宣言」では「我々」が使用されているのに、崇仁小学校所蔵のビラの「水平社宣言」では「吾々」が使用されています。

「我々」を使用しようが、「吾々」を使用しようが、どちらも「われわれ」なので大した意味の違いはない・・・、と主張されたり、「我々」は製版時の誤植に過ぎない・・・、とその違いを過少評価する人々も少なくありませんが、「水平社宣言」の共同執筆者としての西光万吉と平野小剣の文章を比較してみますと、「われわれ」をどちらの漢字で表現するかについては明確に2分されます。

西光万吉は「吾々」のみを使用し、平野小剣は「我々」のみを使用する・・・、という明確な文章表現上の違いがみられます。

この違いに注目するとき、「水平社宣言」執筆において、西光万吉と平野小剣の言葉と思想のどちらがより強く反映されることになったのか、一目瞭然になります。雑誌『水平』に収録された「水平社宣言」は、その文章の大半が平野小剣によるものであると推定することもできるようになります。

雑誌『水平』に収録されている「水平社宣言」では、「われ」ないし「われわれ」という言葉は、全部で9回使用されています。第1番目から第8番目までは「我」ないし「我々」が用いられ、第9番目だけに「吾々」が用いられています。

9番目の「吾々」は次の文の中に出てきます。

「そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである」。

「我々」と「吾々」が文体的特徴をしめしている、言葉の刻印であるとしますと、西光万吉は、平野小剣の「我々」文書を引用、再構成しながら、最後に、「そうして・・・」という文章を、自分の言葉と文体で表現したのではないかという推測も成り立ちます。

「そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。
水平社は、かくして生れた。
人の世に熱あれ、人間に光りあれ」。

雑誌『水平』第1巻第1号に収録された「水平社宣言」の最後のくだりこそ、浄土真宗の僧侶の息子、宗教家の息子であった西光万吉の人となりを伝えている文章になります。そして、「水平社宣言」の末尾のこの言葉こそ、水平運動に携わった人々の心奥に、あるいは、脳裏に深く刻み込まれ、朝治武氏の指摘される「歴史的記憶としての「水平社宣言」」として、「被差別部落」の人々のこころのよりどころ、部落解放運動の「原点」・「起点」になっていったのではないかと思われます。

そうしますと、「水平社宣言」の2資料説を色分けしますと次のようになります。

■「吾々資料」(西光万吉の文章)
■「我々資料」(平野小剣の文章)

宣言

全國に散在する我が特殊部落民よ團結せよ。

長い間虐められて來た兄弟よ。

過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によってなされた我等の爲の運動が、何等の有難い効果を齎らさなかった事實は、夫等のすべてが我々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されてゐた罰であったのだ。そしてこれ等の人間を勦るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際我等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。

兄弟よ。

我々の祖先は自由、平等の渇迎者であり、實行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへクダラナイ嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そうして我々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。

我々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。

我々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。

そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。

水平社は、かくして生れた。

人の世に熱あれ、人間に光りあれ。

大正十一年三月三日 全國水平社

西光万吉は、闘争的な「平野小剣」の運動家としての言葉・文章を引用、再構成しながら、「水平社宣言」の本文を綴り、最後に、浄土真宗の門徒・宗教者に相応しい、祈りの言葉を付加したのではないかと思われます。

「水平社宣言」の西光万吉と平野小剣による共同執筆説・・・、どの言葉と文章が「西光万吉」のものであり、どの言葉と文章が「平野小剣」の文章であるのか・・・、それを確定することは、非常に困難なものがあります。

西光万吉の文章の中には、「私どもは、吾々は、・・・あまりに遅く生まれてきた、等とは云わない。」という表現もみられます。「私ども」という言葉を地の文であるとしますと、「吾々」は引用文に用いられていることになります。

西光万吉は、「水平社」の「宣言」を執筆したのであって、この「宣言」でみずからの思想・信条を綴ったのではないからです。

それに、平野小剣は、「2月26日夜・・・、宣言は西光君が筆をとった。決議もみなで決定したが・・・」と、「水平運動に走るまで」という文章の中で明言しています。西光万吉が、「水平社宣言」の原案を作成し、阪本清一郎・米田富・駒井喜作・桜田規矩三・南梅吉と平野小剣で「協議」されて確定されているので、「水平社宣言」に使用されている言葉や文章の分析は、さらに複雑化、混迷状態に陥らざるを得なくなります。

朝治武氏は、西光万吉と平野小剣の言葉・文章・文体より、両者の思想性を視野に入れて、第7項・「水平社宣言」の2資料説で色分けした「水平社宣言」のように、西光万吉と平野小剣の思想が滲みでている箇所を特定します。

朝治武氏は、その思想性を西光万吉の「人間主義」、平野小剣の「部落民意識」として表現します。次回、「西光万吉と平野小剣」と題して、朝治武氏の主張する「人間主義」・「部落民意識」を批判・検証しながら、『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座から、朝治武説の問題点を明らかにしていきたいと思います。


朝治武・歴史の記憶としての「水平社宣言」説

2007年03月15日 | 別稿




【第5章】水平社宣言批判
【第1節】史料としての「水平社宣言」
【第8項】朝治武・歴史の記憶としての「水平社宣言」説

筆者が、第1節・史料としての「水平社宣言」で、原文として紹介したのは、水平社創立後、その機関誌『水平』(第1巻第1号)で、「全国水平社創立大会記」に収録された「宣言」です。

水平社は、創立大会から第16回の最後の大会まで、全11の宣言が採択された・・・(朝治武)、といいます。それは、いずれも「宣言」として採択されますが、一般的には、第1回の創立大会の「宣言」を指して、「水平社宣言」という名称が用いられています。

この「水平社宣言」の原文とは何か・・・

筆者が、朝治武氏の「水平社宣言」に関する論文にはじめておめにかかったのは、1999年2月発行の雑誌『現代思想 特集・部落民とは誰か』(青土社)に収録されていた、朝治武著《歴史的記憶としての「水平社宣言」》でした。

筆者の「史料としての「水平社宣言」」という表現は、朝治武氏の「歴史的記憶としての「水平社宣言」」という表現を相当強く意識したものにほかなりませんが、朝治武氏は、「歴史的記憶という言葉は一般的に使われているわけではなく、私がそう呼んでいるものである。」と説明しておられます。

彼にとって、「歴史的記憶」は、「日常に埋没している時には歴史を振り返ろうともしないし、体験や歴史的な事柄は過ぎ去った単なる過去でしかない。」といいます。「しかし時として、生活・仕事や生き方で何かにぶつかったり、課題に直面したりすると、歩んできた道を辿ってみることがある。その時に蘇るのが・・・歴史的記憶」であるといいます。

「被差別部落」のひとびと、あるいは、「部落解放運動」に従事してきた「被差別部落」のひとびとが、人生のいろいろな問題に挫折し途方にくれたときに、立ち返る場所としての「歴史的記憶」が「水平社宣言」であるというのです。

筆者の場合、同様の状況に立たされたとき、筆者が立ち返る場所、そこに立ち返って、現状を認識・克服して、あらたな希望に向かって旅立ちをすることができる場所は、キリスト教の歴史の中で「信仰告白」と呼ばれているもので、いかなる意味でも、「水平社宣言」ではありません。

朝治武氏は、「水平社宣言」の原文の可能性として、今日、部落解放同盟全国大会・都道府県連合会・支部大会で採用されている「水平社宣言」のテキストは、「1982年時点で全く新しく作られたもの」であると主張します。

今日、多くの学者・研究者・教育者が「水平社宣言」として引用しているものは、この「1982年時点で全く新しく作られた」「水平社宣言」でしかないのです。25年前の部落解放運動団体、それと連動していた部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者が合同で、公的に認定した「水平社宣言」が、今日、一般的に「水平社宣言」として流布されているのです。

それ以降、「水平社宣言」は、当時の部落解放運動の要請から再解釈されて、各種、現代語訳を生み出したきました。「水平社宣言」の歴史的原文からの逸脱的解釈、著しいものがあります。

朝治武氏は、「水平社宣言」の原文として可能性があるのは、次の3点であるといいます。

(1)京都市立崇仁小学校などに所蔵されているビラ
(2)全国水平社の機関誌『水平』第1巻第1号に収録されている「宣言」
(3)(2)の誤植を直して作成されたビラ

朝治武氏は、今日、一般的に流布されている1982年版「水平社宣言」は、「原文」として評価することはできないと断定しています。

朝治武氏は、(1)のビラに印刷された「宣言」を、「全国水平社創立宣言は創立大会に提出された可能性が高い、もしくはすくなくとも最も早く作成されたビラを原テキストとすべき」であるといいます。「一歩譲っても・・・」、上記の(2)と(3)に「とどめるべき」であるといいます。

ところが、朝治武氏も指摘しておられる通り、美作修氏は、「全国水平社創立大会では印刷された宣言文があるかどうかについては全国水平社創立者の西光万吉と阪本清一郎はなかったといい・・・「いまとなってはたしかめるすべはない」といいます。

「水平社宣言」の起草者とみなされる西光万吉が、<全国水平社創立大会では、水平社宣言は印刷物としては配布されなかった・・・>と回顧している事実を最大限尊重すると、朝治武氏のように、(1)をあえて「原文」として選択することは大きなリスクを背負うことになります。

『部落学序説』の筆者としては、筆者自身、無学歴・無資格を十分自覚していますので、学的研究方法については極めて一般的・常識的であろうとしますので、(1)を捨てて、朝治武氏が、「一歩譲って・・・」原文として認めることをやぶさかとしない(2)の全国水平社の機関誌『水平』第1巻第1号に収録されている「宣言」を、「水平社宣言」の「原文」としたわけです。

「水平社宣言」の「原文」を、(1)にするか、(2)にするか、で「水平社宣言」の解釈は大きく影響を受けることになります。そのことに触れる前に、朝治武氏の、「水平社宣言」の西光万吉と平野小剣による「共同執筆説」・「合作説」をとりあげてみましょう。

朝治武氏は、「共同執筆説」を採用しているひとに、木下浩(「平野重吉(小剣)について」)・原田伴彦(『入門部落の歴史』)・渡辺徹(『部落問題事典』)がいるといいますが、村越末男(『部落解放のあゆみ』)・師岡佑行(『西光万吉』)によって、西光万吉単独執筆説が主張され、結局、「全国水平社宣言の執筆はあくまでも西光万吉のみである」とされるにいたったといいます。

朝治武氏は、「これは裏切者視さえするこれまでの平野評価の低さと、それを前提とした研究の蓄積の貧困さも関係していると思われる。」とその背景を推測しています。

朝治武氏は、「水平社宣言」の、西光万吉単独執筆説を捨て、西光万吉・平野小剣共同執筆説を採用します。

そして、西光万吉の思想の核心を、当時の日本の知識階級を席巻していた欧米の「人間主義」であるとし、平野小剣の思想の核心を、伝統的な「部落民意識」であるとします。朝治武氏が、西光万吉については「主義」とよび、「平野小剣については「意識」と呼びかえることにいささか疑問の思いを持ちますが、朝治武氏は、「この人間主義と部落民意識が全国水平社創立宣言の思想的特徴である」とし、「人間主義と部落民意識は部落問題および部落解放運動にとって必要不可欠な重要な要素」であるといいます。

朝治武氏は、従来の部落解放運動は、「人間としての平等を希求する・・・抽象的・理念的側面」を訴える「人間主義」が強調され、「部落民以外は信じるに足りない差別的存在であるとする部落排外主義につながる・・・」おそれがあり、「部落問題および部落解放運動にとって抹殺すべき有害なもの」としてみなされ、否定的に評価されてきた・・・、といいます。

今日、一般的に流布されている1982年版「水平社宣言」は、西光万吉単独執筆説を前提にしたもので、朝治武氏や『部落学序説』の筆者が採用している、西光万吉・平野小剣共同執筆説は、部落研究・部落問題研究・部落史研究上の「異端説」であるといえます。

朝治武氏は、「部落のアイデンティティ」・「差別-被差別という立場や関係のあり方」・「部落解放の展望」が揺らぎ、問われる中にあって、「この自己の存在に肯定的な部落民意識こそは、当時のみならず現在においても西光万吉に代表される人間主義に負けず劣らず重要なものである・・・」として、平野小剣のそれを評価します。それどころか、「部落民の団結と自主的運動が必要であった当時においてはむしろ部落民意識の方が心を打った・・・」と力説します。

朝治武氏は、「水平社宣言」におりこめられた、西光万吉の「人間主義」、平野小剣の「部落民意識」、それは、今日の頽廃と混迷を極めた部落解放運動に「貴重な示唆」を与えれくれる・・・といいます。

「水平社宣言」は、部落差別完全解消への闘いの途上、悩み苦しみ倒れているひとびとが、再び立ち上がってその闘いをたたかいぬくための「歴史的記憶」として機能します。

朝治武氏がいう「歴史的記憶」をよびさますこと・・・、平野小剣は、それを「想起」という言葉で表現します。平野小剣曰く、「想起するは、尊大なる先祖の歴史である。先祖の歴史は美しき郷土の華(はな)である。純真なる人間の生活のそれであったのだ。然るに恐ろしき・・・」権力は、「祖先の肺腑を抉った(えぐった)。戦慄すべき政策は頭蓋骨を砕いた・・・」。その結果、「涙の歴史を遺さしめられた。血を吐く悶え悩みの歴史に綴らしめられたのだ」。

『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、朝治武氏の平野小剣評価は、まだ浅きに失していると思われます。筆者は、朝治武氏の研究成果を尊重しながら、『部落学序説』の視点・視角・視座からより徹底した批判を展開していきたいと思います。


「水平社宣言」の2資料説

2007年03月15日 | 別稿




【第5章】水平社宣言批判
【第1節】史料としての「水平社宣言」
【第7項】「水平社宣言」の2資料説

1922(大正11)年3月3日、水平社創立大会で「宣言」として採択され、雑誌『水平』第1巻第1号の「全国水平社創立大会記」に収録された「水平社宣言」をもう一度、再掲します。

『部落学序説』の筆者としては、西光万吉が晩年に告白した、「水平社宣言」の、西光万吉と平野小剣の「合作説」を踏まえて、下記のように、西光万吉の筆になる部分を「S資料」、平野小剣の筆になる部分を「H資料」と呼ぶことにします。

「S資料」と「H資料」を区分するのは、朝治武著『水平社の原像』(解放出版社)の吉田智弥氏による引用を参考にしたものです。「H資料」は、「この部分は全部、平野小剣の文章ではないかと、あるいは平野の助言、添削によって書かれた文章ではないかと推量されています。」と吉田智弥氏が紹介している部分ですが、筆者は、「H資料」は、「平野小剣の文章」であると仮定して、これからの論述を展開していきます。

「仮説」・・・、というのは、今後、この部分の研究が進み、「S資料」と「H資料」の区分が見直されるようなことがあれば、筆者の論述の変更の可能性もある・・・、という意味です。

既存の研究の中では、朝治武著『水平社の原像』の論述に勝るものはないと思われますので、暫定的に「仮説」として採用します。

あらためて、「水平社宣言」を、「S資料」・「H資料」に色分けしますと、以下のようになります。

■S資料(西光万吉の文章)
■H資料(平野小剣の文章)

宣言

全國に散在する我が特殊部落民よ團結せよ。

長い間虐められて來た兄弟よ。

過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によってなされた我等の爲の運動が、何等の有難い効果を齎らさなかった事實は、夫等のすべてが我々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されてゐた罰であったのだ。そしてこれ等の人間を勦るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際我等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。

兄弟よ。

我々の祖先は自由、平等の渇迎者であり、實行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへクダラナイ嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そうして我々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。

我々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。

我々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。

水平社は、かくして生れた。

人の世に熱あれ、人間に光りあれ。

大正十一年三月三日 全國水平社

『部落学序説』の筆者は、「水平社宣言」の執筆者が、西光万吉ひとりではなく、西光万吉と平野小剣の二人であった・・・、ということは、「水平社宣言」の価値を貶めるものではなく、むしろ、「水平社宣言」の価値を高めることであると考えます。

「水平社宣言」の「合作者」が、ほかならぬ平野小剣であった・・・、ということは、「水平社宣言」に、多様性と、異なる精神の葛藤をもたらせることになるからです。

「S資料」の西光万吉と、「H資料」の平野小剣とは、水平社創立のために先陣をきって活躍した思想家・運動家であるといえます。言わば、西光万吉と平野小剣は、「水平運動」の東と西の両巨頭であるといえます。

平野小剣は、東日本の出身、西光万吉は、西日本の出身・・・。網野善彦説に従いますと、「東日本」の「穢多」と、「西日本」の「穢多」との間には、無視することができない、歴史と伝統、「穢多」の「役務」と「家職」に大きな違いがあり、それは、今日に至るまで、大きな影響を与えています。

「水平社宣言」は、西日本の「被差別部落」を中心に展開されたのではなく、最初から、東日本と西日本の「被差別部落」の人々の共闘作業として展開されていた・・・、のですから、「水平社宣言」の執筆に、西日本の西光万吉だけでなく、東日本の平野小剣も深くかかわっていたということは、『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、それは、「水平社宣言」の価値を貶めることではなく、逆に、「水平社宣言」の価値を高めることにつながると思われるからです。

「水平社宣言」は、水平社運動の西光万吉と平野小剣の両巨頭を通して、東西の旧「穢多」の歴史と文化、思想と信条が、ある種の緊張を孕みながら統合されていったとのではないかと思われるのです。

西光万吉と平野小剣という、縦糸と横糸が織りなす「水平社宣言」という布の、「表地」は、現代の部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者によって、「引用部分」・「剽窃部分」・「借用部分」と揶揄、非難中傷される、西洋の思想・信条・文化の影響を受けた<外来の思想>の部分が燦然と輝いて目に飛び込んできますが、しかし、筆者は、「水平社宣言」の「裏地」は、<外来の思想>によって駆逐されることのない、「穢多」の末裔として生きなければならない<古来の思想>、「穢多」の歴史と伝承、生活と闘いが織りなされていると思われるのです。

『部落学序説』第5章・水平社宣言批判は、「水平社宣言」という錦の「表地」と「裏地」の両方を批判・検証することによって、近世の「穢多」と、近代以降の「旧穢多」との間に、歴史的一貫性を描くことにあります。「近世」から切り離された「水平社運動」ではなく、「近世」の継承と延長線上に「水平社運動」を描くことにあります。

部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者があまり関心を持つことなく看過してきたテーマです。

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「水平社宣言」の草稿の解析

2007年03月15日 | 別稿




【第5章】水平社宣言批判
【第1節】史料としての「水平社宣言」
【第6項】「水平社宣言」の草稿の解析

『部落学序説』の筆者が参考にしている歴史学研究法は、今井登志喜著『歴史學研究法』(東大新書)と古島敏雄著『地方史研究法』(同)であることは、これまでも繰り返し述べてきたところですが、「史料批判」(外的批判と内的批判)を徹底するためには、多くの時間と労力を必要とします。

『部落学序説』は、既存の歴史学・社会学・民俗学・・・などの部落研究・部落問題研究・部落史研究の時代的制約と限界を突破すべく、歴史学・社会学・民俗学に限らず、すべての「学問」(科学)の学際的研究として、独自の研究対象・研究方法を設定したうえで、既存の文献の批判・検証を通じて独自の見解を展開してきました。

多くの場合、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」と、「賤民史観」を無批判的に継承する学者・研究者・教育者に対する批判を展開することになりましたが、日本の歴史学・社会学に内在する差別思想は、「賤民史観」だけでなく、「愚民論」や「優性思想」も存在します。

しかし、それらをすべて解明し、解体していくには、多くの時間と労力を要します。無学歴・無資格の筆者のよしとするところではありません。もし、筆者が、たったひとりで、「賤民史観」をはじめとする差別思想を解明・解体していこうとしているなら、それは、「狂気の沙汰」以外の何ものでもないでしょう。

そこで、既存の歴史学・社会学・民俗学の研究成果を尊重しつつ、「部落学」からのあらたな批判検証を展開するために採用したのが、ひとつのテーマに対して、相反する学説を展開する学者Aと学者Bを、『部落学序説』の解釈原理を適用、比較検証して、いずれかの説を「受容」し、いずれかの説を「排除」するという方法でした。

無学歴・無資格の筆者が、ほとんど「専門家」によってしか研究されていない部落研究・部落問題研究・部落史研究のテーマについて言及する際、当然予想される「批判」をできる限り排除するために、採用することにした苦肉の策でした。

『部落学序説』のどの部分も、その苦肉の策が織り込まれていますので、『部落学序説』の読者の方が『部落学序説』を批判しようとすると、筆者の論述の背景にある、相反する学説を展開する学者Aと学者Bの批判を余儀なくされます。学者Aと学者Bの両方の説を肯定するか、否定するか、それとも、学者Aの説を肯定し学者Bの説を否定するか、それとも、学者Aの説を否定し学者Bの説を肯定するか・・・、『部落学序説』の読者の方は、筆者に対する批判に先立って、そのいずれかを自分で確認する必要があります。

現在のところ、筆者が、苦肉の策として取り入れた「防塁」を突破して、筆者の論述を批判してこられる方々は、極めて少数です。「そういう書き方をすると、誰もコメントをつけることができなくなる・・・」と『部落学序説』の執筆方法に不満を寄せられる方は少なくないのですが・・・。

今日は、2007年3月1日です。

明後日は、3月3日は、水平社創立記念日です。3月3日は、「日本の最初の人権宣言」としての「水平社宣言」が出された日です。沖浦和光氏は、この日を、「かくして水平社は、被差別部落のみならず、全人類の完全解放をめざす運動として、その光輝ある長征の途についた・・・」日と記念します。

しかし、2007年3月3日・・・、1922(大正11)年3月3日に「水平社宣言」が朗読されてから満85年になります。

果たして、日本人のうち、3月3日に、この「日本の最初の人権宣言」を覚え、記念し、決意をあらたにするひとがどれほど存在しているのでしょうか・・・。

おそらく、『部落学序説』の筆者は、「希有」なひとりとして、この文章を書いているのではないでしょうか・・・。被差別部落出身者でも、部落解放運動の担い手でもない、彼らによって、「差別者」とラベリングされてきた多くの「差別者」のひとりに過ぎない筆者は、好奇の目でみられるに過ぎない存在かもしれません。

前置きが長すぎましたが、「水平社宣言」の草案の解析・・・について、話をすすめていきましょう。

昔も今も、「水平社宣言」は、水平社の創立メンバーのひとり、西光万吉の執筆によるものであるという認識が一般的でした。執筆者とみなされてきた西光万吉自身、繰り返し、「水平社宣言」の執筆者であると言明してきましたから・・・。

しかし、1967年、「西光が亡くなる3年前、72歳の時に」(吉田智弥氏)、このような文章を発表したといいます。「水平社を創立するについて、もとより大会宣言がいりますから、その宣言をつくるについて私は気になって前から幾度も書いたり消したりして居ました。それで当時平野さんに大添削をしていただいても、それ程に思わず忘れてしまったのでしょう。(略)ですから、平野様がそれほど添削して下さったことも忘れて、自分だけで書いたように思い込んでいました。平野様と皆様にお詫び申し上げます・・・」。

「水平社宣言」の「合作説」が、「水平社宣言」の執筆者とみなされていた西光万吉の口から証明された瞬間でした。

その後、「水平社宣言」における、西光万吉の思想の「オリジナリティ」が問題にされるようになり、西光万吉の部落解放思想の表出とみなされていた「水平社宣言」から、相当部分が、「引用」・「借用」・「剽窃」部分であることが明らかにされていきます。

剽窃」というのは、「他人の詩歌・文章などの説または文句をぬすみ取って、自分のものとして発表すること」(広辞苑)を意味しますから、「水平社宣言」の執筆者としての信用を著しくそこなう表現です。

「剽窃」は、現代的にいえば、著作権の侵害にあたるということでしょうか・・・。

『部落学序説』執筆にあたって、筆者は、作花文雄著『詳解・著作権法・第3版』(ぎょうせい)、約850頁を読破しました。『部落学序説』は、上記しましたように、学者Aの説と学者Bの説の比較・検証を必然的に含みますので、それらの学者の「引用」を避けることはできません。

また、『部落学序説』とその関連ブログ群の文章に対する読者の方々からの正当な「批判」、また「非難中傷」に対しても反論のため「引用」を余儀なくされる場合もあります。「著作権侵害」を理由に俎上におかれる場合は、裁判資料として自他の関連文書を確保する必要も出てきます(現在のところ、筆者の文章中の引用は、著作権法で定められている、「引用の要件」をすべてクリアしています)。

しかし、「水平社宣言」の場合は、「剽窃」ということが該当する可能性もあります。

「水平社宣言」を、「日本の最初の人権宣言」として標榜し続けていくためにも、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者は、「水平社宣言」の草稿にともなう諸問題を徹底的に解明していく必要があります。

とりあえず、吉田智弥氏の『忘れさられた西光万吉』に従って、「水平社宣言」の、その執筆者とみなされる西光万吉の「非オリジナリティ」部分を図示してみましょう。

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■平野小剣
_「民族自決団・檄」
■ゴーリキー「ドン底」
■「よき日の為に」追記一枚刷り
■相馬御風『ゴーリキー』

宣言

全國に散在する我が特殊部落民よ團結せよ。

長い間虐められて來た兄弟よ。

過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によってなされた我等の爲の運動が、何等の有難い効果を齎らさなかった事實は、夫等のすべてが我々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されてゐた罰であったのだ。そしてこれ等の人間を勦るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際我等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。

兄弟よ。

我々の祖先は自由、平等の渇迎者であり、實行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへクダラナイ嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そうして我々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。

我々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。

我々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。

水平社は、かくして生れた。

人の世に熱あれ、人間に光りあれ。

大正十一年三月三日 全國水平社

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上記の色分けした部分(■平野小剣・_「民族自決団・檄」・■ゴーリキー「ドン底」・■「よき日の為に」追記一枚刷り・■相馬御風『ゴーリキー』)が、西光万吉の創作でないとしたら、それ以外の部分は、西光万吉のオリジナリティといえるのでしょうか・・・。

「宣言・・・長い間虐められて來た兄弟よ。・・・我等の爲の運動が、・・・夫等のすべてが我々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されてゐた罰であったのだ。そしてこれ等の・・・自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。兄弟よ。・・・そうだ、そうして我々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。・・・・・・そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。水平社は、かくして生れた。人の世に熱あれ、人間に光りあれ。大正十一年三月三日 全國水平社」

学者・研究者・教育者が、西光万吉のオリジナリティを疑う箇所を取り除いた残りの部分を一読しますと、そこには、奇妙な「宗教混淆」的表現がみられます。

『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、それらの「宗教混淆」的表現が、西光万吉のオリジナリティであるという説は受け入れがたいものがあります。

吉田智弥氏は、「結局、「宣言」の大部分は西光の創作文章ではなくて、様々な人たちの書いた文句・語句の寄せ集めではないか、ごった煮ではないかという指摘が、最近になって様々な論者から出されるようになりました。」といいます。

しかし、吉田智弥氏は、西光万吉の筆になる「水平社宣言」の構成要素となった思想・信条について、さらに批判検証をすすめ、「水平社宣言」の総体と、それらの構成要素との間の有機的関連を明らかにするのではなく、それらの「水平社宣言」に対する本文批評をわずかなことばで切り捨ててしまいます。

吉田智弥氏は、「にもかかわらず、私はそれでも西光万吉が「宣言」を書いたと見なします。」と主張します。「内外の先人たちからの引用が多くあって、平野小剣からの助言や加筆があったのはその通りでしょう。であるとしても、それらを一つの文体で作品としてまとめたのは西光だった、ということを重視したいと思う・・・」といい、「若干26歳の青年」であった西光万吉の、「当時の部落の人たちの心の底に沈潜してきた思いを汲み出して、喉の奥から吐き出すような響きがある」文才を、「私はほとんど無条件に感服したい気持ちでいます。」と力説します。

「宣言文の文章の中に引用部分がある、剽窃部分がある、借用部分があるということは十分に承知しながら、なおかつ西光万吉をこの宣言の起草者としてもう一度位置付け直す・・・」といいます。

吉田智弥氏は、西光万吉を、「水平社宣言」の「執筆者」としてより「編集者」として認識し、その「編集」と文体の中に、西光万吉のオリジナリティを再発見しようとしているかのようです。

その場合、「水平社宣言」起草に関して、西光万吉の「執筆意図」ではなく、「編集意図」がクローズアップされてくるようになりますが、筆者には、西光万吉の「編集意図」への傾斜は、「水平社宣言」をめぐる本文批評上の問題を解決に導くどころか、さらに問題を複雑にしていくことに結果するのではないかと危惧の念を持ちます。

「水平社宣言」は、部落差別完全解消に向けた、「被差別部落」の人々の思想・信条、挫折と失敗、夢と希望・・・、種々雑多な流れが集約されていく場所であり、また同時に、「水平社宣言」以降の時代を生きる「被差別部落」の人々にとって、「水平社宣言」は常に「想起」の対象であり、「想起」することによって、今日の部落解放運動の置かれた現実を「改革」し、明日の部落解放運動のあらたな展望を切り開いていく拠り所になっていくべきものです。

そのためにも、「水平社宣言」は、徹底的に批判検証にさらされる必要があります。

吉田智弥氏のように、その批判検証を中断し、安易に、「水平社宣言」と、その起草者・西光万吉を擁護すべきではないと思っています。

『部落学序説』の著者である私は、被差別部落出身でもないし、部落解放運動の担い手でもありません。また、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者でもありません。無学歴・無資格の「ただのひと」です。「ただのひと」にして思うことですが、「水平社創立大会の宣言」としての「水平社宣言」は、「水平社」の「宣言」として、「水平社宣言」に対する徹底的なテキスト批判に耐えることができる内容を秘めていると思われます。

筆者は、「水平社宣言」をほんとうの意味で理解するためには、歴史の「中点」である「水平社宣言」に立脚して、そこに至る、「被差別部落」の人々の思想・信条、生活と闘いの諸相と継承を明らかにするとともに、「水平社宣言」が、それ以降の「被差別部落」の人々の部落差別完全解消の闘いに、常に「想起」されるべきものとして作用し、それぞれの時代において、部落差別完全解消への展望と希望を与えてきたことを明らかにしなければならない・・・と思います。

『忘れさられた西光万吉』の著者・吉田智弥氏は、「水平社宣言」を把握するに、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多・非人」の思想・信条、生活と闘いを、ごっそり欠落させ、削り落としてしまいます。吉田智弥氏の「水平社宣言」解釈には、近世と近代の通史的視点・視角・視座はありません。最初から最後まで、「近世」を切り離した「近代」以降の歪(いびつ)な解釈に終始していると、筆者には、思われます。

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「水平社宣言」の本文批評

2007年03月15日 | 別稿




【第5章】水平社宣言批判
【第1節】史料としての「水平社宣言」
【第5項】「水平社宣言」の本文批評

『忘れさられた西光万吉』の著者・吉田智弥氏は、「「水平社」創立大会「宣言」」である「水平社宣言」は、「厳密にいえば何種類もあります・・・」といいます。

「文章は基本的には一つですが、漢字にルビがあったりなかったり、そのルビの打ち方が異なっていたり、宣言主体の団体名が「水平社」であったり「全国水平社」だったり、微妙に表記の違うものがいくつもあります。」と指摘しています。そして、水平社宣言の本文批評の本格的な研究として朝治武著『水平社の原像』を紹介しておられます(筆者は買いそびれたまま読んでいない・・・)。

「水平社宣言」が複数存在しているということは、「水平社宣言」の原本と写本が存在している・・・ということを意味しますが、それでは、「水平社宣言」の原本がどれで、写本がどれなのかといいますと、部落史の学者・研究者・教育者、あるいは運動家の間では、定説・・・、というようなものは、いまだに確定されていないようです。

吉田智弥氏がとりあげる「水平社宣言」は以下のとおりです。

(1)1922(大正11)年3月3日の創立大会でまかれた「水平社宣言」(原文?)
(2)水平社パンフレット「よき日のために」に収録されている「水平社宣言」
(3)『西光万吉著作集』第1巻に掲載されている「水平社宣言」
(4)雑誌『部落』31号に掲載された西光万吉の自筆の宣言原稿の写真版
(5)上記写真版を井上清が『部落の歴史と解放理論』で活字化して紹介した「水平社宣言」
(6)雑誌『水平』第1巻第1号の「全国水平社創立大会記」の中に収録されている「水平社宣言」
(7)崇人小学校所蔵のビラ

吉田智弥氏によると、「水平社宣言」の原文を確定することの困難さは、代々の部落史に関する学者・研究者・教育者が、誰ひとりとして、「水平社宣言」の原文の保存について関心をもっていなかったことに起因します。吉田智弥氏は、「実をいうと、当日の会場で宣言文を印刷したビラが撒かれたかどうか・・・」と、(1)の「水平社宣言」(原文?)の存在すら疑わしい・・・といいます。無為に時は流れて、「80年前にそこに立った人たちに改めて証言を求めることもすでに不可能」な時代に突入している現在、「水平社宣言」の原文を明らかにすることは難しいといいます。

それにしても、部落史の学者・研究者・教育者の、「水平社宣言」の原文に関する関心度が極めて薄く、原文を忘却の彼方に追いやってしまったことは、無学歴・無資格の筆者にとっても「残念」の極みです。

しかし、歴史上の直接の史料・伝承がない場合でも、それで、「水平社宣言」の原文が、永遠に歴史から抹殺されてしまったわけではありません。部落史の学者・研究者・教育者は、彼らの歴史研究者としての、意地と自負心にかけて、歴史学的に「水平社宣言」の原文を推定・確定する作業を遂行する責任があります。

『部落学序説』の筆者としては、まだ、目を通さなければならない文献があるので、「水平社宣言」の原文に関する論述は、今後の課題にすることにして、『部落学序説』執筆に際して使用する「水平社宣言」を、(6)雑誌『水平』第1巻第1号の「全国水平社創立大会記」の中に収録されている「水平社宣言」を<原文>として見立てて論述していくことにします。

吉田智弥氏が、「水平社宣言」を「「水平社」創立大会「宣言」」として認識していることを踏まえれば、全国水平社創立後の、雑誌『水平』第1巻第1号の「全国水平社創立大会記」の中に収録されている「水平社宣言」を「水平社宣言」として認識することが最も妥当であると判断するからです。

沖浦和光氏は、『水平・人の世に光あれ』の解説の中で、「大会前日の3月2日」「京都の東七条」「全国水平社仮事務所」で、「西光が起草にあたった」「宣言草案」「原案に対して各人が意見を述べて、最終案が決定された・・・」と記しています。

その「最終案」は、水平社創立大会によって、「宣言」として採択されたわけですから、大会後の記録である「全国水平社創立大会記」に収録されている「水平社宣言」をもって原文とみなす方が自然であると思うのですが、戦後の部落解放運動、部落史研究の中では、上記の(2)水平社パンフレット「よき日のために」に収録されている「水平社宣言」の方が採用されてきたようです。

吉田智弥氏は、「水平社宣言」の本文批評をそこそにして、その関心を、西光万吉が作成した「水平社宣言」の「草案」・「原案」に移していきます。西光万吉が「水平社宣言」を起草したときの執筆意図・編集意図の解明をはかろうとします。

吉田智弥氏は、「水平社宣言」を、「水平社」の「宣言」としてではなく、それを執筆・編集した、西光万吉の部落解放思想の表出物として認識しようとします。「水平社宣言」の中から、西光万吉固有の部落解放思想を抽出しようとします。


「水平社宣言」の本文批評の背景

2007年03月15日 | 別稿




【第5章】水平社宣言批判
【第1節】史料としての「水平社宣言」
【第4項】「水平社宣言」の本文批評の背景

「水平社宣言」の研究史に関して、筆者の手元にあるのは、ごくわずかです。

その中でも、参考になるのは、吉田智弥著『忘れさられた西光万吉』(明石書店)です。

吉田智弥氏は、「私はこれまで水平社宣言を批判したり・けなしたり・貶めたり、というような評価は聞いたことがありません。」と記していますが、「水平社宣言」を、<史料として>また<文献として>、本文批評の対象にする・・・、ということは、つい最近のことのようです。

彼は、また、このようにも記しています。「水平社宣言は、部落解放運動のバイブルのような扱いになっていますから、今日、これを正面から批判した文章にはなかなかお目にかかれません」。

「水平社宣言」は、戦前・戦後を通じて、部落解放運動に関わっていく人々にとっては、バイブル(聖書)に等しい存在であって、多くの部落解放運動家は、この「水平社宣言」を無条件に受け入れ、それに依拠してきたと思われます。

「水平社宣言」には、近世・近代における「穢多」の末裔にとって、歴史の「中点」のような側面があります。戦前戦後の水平社運動・部落解放運動は、1922(大正11)年3月3日に明らかにされた「水平社宣言」を絶えず「想起」しながら、それぞれの時代の部落差別撤廃のための闘いを続けてきたのです。

「水平社宣言」は、部落差別撤廃のために闘う「被差別部落」の人々にとって、彼らの父祖たちが作成した「宣言」を「想起」することによって、そこから、常に、部落解放運動の基本的な精神に立ち戻り、水平社運動に関わった人々の「熱と光」に触れることで、新たな息吹と反差別闘争への意欲をくみとってきたのです。

「水平社宣言」と、それぞれの時代が直面した状況との間を、「想起」の形で往復することは、「水平社宣言」そのものと、「部落解放運動」との間に相乗効果をもたらし、「水平社宣言」は、「部落解放運動」に基本的な方向と運動のあり方を指し示し、「部落解放運動」は、「水平社宣言」を単なる、「水平社」の「宣言」ではなく、「今でも思想的に十分通用する日本発の世界的な人権宣言」にまで高めることに結果しました。

戦後の「部落解放運動」は、日本の社会に存在する部落差別を世界にしらしめ、その運動のバイブルともいえる「水平社宣言」を「日本発の世界的な人権宣言」にまでおしあげてきたのです。

しかし、吉田智弥氏は、現代の部落解放運動は、「部落問題の不幸」に直面しているといいます。

「部落問題の不幸」というのは、同和対策事業によって「達成されつつある平等」は、必ずしも、「被差別部落」の人々にとって、その部落差別からの「解放」に直結してこなかった・・・、国家や地方行政が、同和対策事業の名目で「被差別部落」の人々に提供してきた「平等」のための施策は、「被差別部落」の人々がこころから願う「部落差別」の完全解消に直結してこなかったという亀裂のことです。

吉田智弥氏は、両者の間には「千里の径庭がある」といいます。「質的な落差がある」といいます。

そして、深刻なことには、「そこのところは当初は部落の人たちの大衆的な認識としても、運動側の理屈としてもまったくわからなかった。まして同伴者においてをや。・・・」という状況があったといいます。

吉田智弥氏は、自らをどの立場に置かれてこの文章を書いているのか、筆者には、知るよしもありません。大衆的な部落民、部落解放運動家、それと連帯する学者・研究者・教育者・政治家・企業家・労組・・・。

吉田智弥氏は、「部落問題の不幸」に、「同和対策事業」に内在する問題に加えて、「同和教育事業」にも大きな問題があったといいます。

多くの時間と費用をかけて実施されたにも関わらず、「同和教育事業」は、部落差別問題の基本的なことがらも解明することはできなかったというのです。「「部落とは何か」についての定義ができていません・・・・」。また、「「部落民とは何か」の定義も曖昧です・・・」といいます。

そして、「部落問題認識の大きな躓きの石」である、「士農工商・えた・ひにん」の枠組みから基本的にはまだ自由になっていない・・・、といいます。「士農工商・えた・ひにん」の小手先の変更では、「躓きの石」を取り除くことはできません。

部落解放研究第40回全国集会(2006年度)においても、『福岡発!今Dokiの部落史学習-部落史学習の新構想』(福岡市同和教育研究会・大谷和弘、原田雅秀)の中で、福岡教育大学の石瀧豊美氏の「武士・町人・浦人・宗教者・かわた(穢多)など」という新たな図式が紹介されていますが、吉田智弥氏は、「そうした歴史学者の研究に沿った物のいい方では、なおさら「部落民」という規定が難しい。」といいます。

吉田智弥氏は、いいます。「事実」「理論」がどこかで食い違ってきている・・・。そして、その食い違いの発端は、「「水平社宣言」ではないか・・・」というのです。

吉田智弥氏は、「水平社宣言」を、「今でも思想的に十分通用する日本発の世界的な人権宣言」であると確信しながら、そうであるにも関わらず、戦前における国民総動員体制下の水平社運動の変節、また戦後の同和対策事業・同和教育事業下の部落解放運動の変節を防ぐことができなかったのか・・・、と自らにといかけ、そして自らその問いに答えます。水平社宣言の中にその原因が内在しているはずだと・・・。その変節の「予兆」は、「すでに「水平社宣言」のどこかで垣間見ることができるはずだ」と。

吉田智弥氏は、その「仮説」を証明するために、「水平社宣言」のテキスト批判をはじめるのです。

吉田智弥氏は、「すでに発表されている研究者の文章を寄せ集めて転記しているに過ぎない・・・」といいますが、現時点での、「水平社宣言」の本文批評に関する研究の網羅的紹介であると思われますので、吉田智弥氏の文章をてがかりに、「水平社宣言」の本文批評(テキストクリティーク)に挑戦してみましょう。


水平社の宣言としての「水平社宣言」

2007年03月15日 | 別稿




【第5章】水平社宣言批判
【第1節】史料としての「水平社宣言」
【第3項】水平社の宣言としての「水平社宣言」

1992年・・・、その年は、水平社創立70周年の年でした。

その年、水平社創立70周年を記念して、住井すゑ原作の小説『橋のない川』が制作、上映されました。

映画『橋のない川』は、映画館で一般上映されると同時に、映画館のない地域においてもこの映画を観賞することができるよう、全国津々浦々で『橋のない川』上映運動が展開されました。

そのとき、部落解放同盟山口県連の要請で、日本基督教団の山口県諸教会も、『橋のない川』上映運動に参加することになりましたが、柳井地区の上映運動に参加したのが、日本基督教団柳井教会でした。

そのとき、『橋のない川』の上映運動に積極的にかかわってくださったのが、日本基督教団柳井教会の当時の牧師でした。彼は、解放同盟大阪府連の池田支部で書記を担当されていたとかで、部落解放運動の集会のもち方については、いろいろ経験があるということでした。

そこで、柳井地区の『橋のない川』上映運動をどのように展開するかは、その牧師に一任することになりました。その結果、彼は、映画『橋のない川』を上映する前に、なぜ、上映運動に参加することになったのか、「観客」にその趣旨を説明したあと、「水平社宣言」を朗読することにしたい・・・と、いうのです。そして、その朗読を筆者にしろ・・・、というのです。

日本基督教団柳井教会が主体となって、映画『橋のない川』の上映運動をするのは、そんなに簡単ではなく、いろいろ障害があると思われたし、その中にあっても、上映運動に参加してくれたことを考慮すると、筆者は、「水平社宣言」朗読を無碍に断ることはできませんでした。

そして、映画上映の当日、筆者は、柳井市労働者会館のホールの「すり鉢状の底」に立って、観客を前に、『橋のない川』の上映運動の趣旨を説明したあと、観客の視線が、スポットライトをあてられた筆者に注がれる中、水平社宣言を朗読しはじめたのです。

「全國に散在する吾が特殊部落民よ團結せよ!」

最初の一声で、静まりかえった会場が、さらに静まりかえったように思われました。筆者の耳元には、ホールの壁に反響して、「全國に散在する吾が特殊部落民よ團結せよ!」という自分の声が、こだまのように返ってきました。

そのとき筆者は、思ったのです。この宣言は、誰が、誰に対して、何のためにしている宣言なのか・・・、と。

筆者は、「水平社宣言」をただ単に朗読していただけなのですが、ホールの壁に反響して返ってくる、「水平社宣言」の言葉と音声は、単なる朗読ではなく、「宣言」として、響いきたのです。

昔、日本基督教団神奈川教区の開拓伝道に従事していたとき、信者の方から、筆者の説教は、説教ではなくアジ演説である・・・と批判されていましたが、「さもありなん・・・」と思われるほど、「宣言」を読み上げるアジ演説として響いてきたのです。

「兄弟よ、吾々の祖先は自由平等の渇仰者であり実行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であった。ケモノの皮を剥ぐ報酬として生々しき人間の皮を剥ぎとられ・・・」、読みすすめるに連れて、筆者の顔が赤くなっていくのが分かりました。

そして、こころの中で、こう思っていたのです。

「なんなんだ、この宣言は・・・」。

「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によって、祖先を辱かしめ人間を冒涜してはならぬ」。

この言葉にさしかかったとき、上映運動に参加してくださった方々の視線が、「水平社宣言」を朗読する筆者に集中的に向けられるような気がしました。その視線は、「連帯と決意」に溢れたまなざしではなく、「差別と排除」に満ちたまなざしではないか・・・、と驚愕の思いを持たされたのです。

「水平社はかくして生まれた。人の世に熱あれ、人間に光あれ。」と最後の言葉を読み終えたとき、柳井市労働者会館のホールは、更に静まりかえっていました。

1922(大正11)年の水平社創立大會のとき、「水平社宣言」を朗読したのは、駒井喜作でした。月刊雑誌『水平』第1巻第1号には、そのときの情景がこのように記されています。

「駒井氏の一句は一句より強く一語は一語より感激し来たり、三千の会衆皆な声をのみ面を伏せきょきの声四方に起こる、氏は読了ってなほ降壇を忘れ、沈痛の気、堂に満ち、悲壮の感、人に迫る、やがて天地も震動せんばかりの大拍手と歓呼となった・・・」。

「水平社宣言」を読み終えたとき、筆者は思ったのです。「この宣言は、わたしが朗読すべき宣言ではない・・・」、と。

筆者は、「水平社宣言」を朗読しながら、「この宣言は、それを朗読するものが、大衆の前に自分の身をさらすことなくして語ることができない信仰告白のようなものである・・・」と感じたのです。

キリスト教における「信仰告白」は、閉じられた世界である教会の礼拝堂の中で語られることばではありません。信仰者が、その全存在をかけて、自分の身をこの世の中に曝しながら告白することばこそ、真の「信仰告白」に値するのです。

「水平社宣言」は、「水平社」の「宣言」であり、「水平社」を創設していった「特殊部落民」、および、「穢多」と自らを称する人々の、身を曝して語る告白ではないのか・・・。筆者は、そのとき、キリスト者として、筆者の全存在をかけて、その信仰を告白することはできても、「水平社宣言」は、筆者にとって同等の意味をもっていない、というより、筆者とは無縁の世界の告白である・・・、と感じたのです。

それ以来、それまで、筆者が観念的に受け止めていた、「水平社宣言は人権宣言である」という命題をそのまま承認することはできなくなりました。「水平社宣言」が、一般的な意味での「人権宣言」であるなら、すべての人の唱えることのできる宣言であるはず・・・、しかし、「水平社宣言」は、すべての人のための「人権宣言」ではなく、「水平社」にかかわった人々の「宣言」に過ぎない。それは、彼らによる、彼らのための「人権宣言」に過ぎない・・・、と認識するようになったのです。

部落解放同盟大阪府連池田支部の書記をしていたという柳井教会の当時の牧師の要請で、『橋のない川』上映運動のときに、見ず知らずの観客を前に、「水平社宣言」を朗読した、その経験は、映画『橋のない川』を筆者をして、別様に見させることになりました。

孝二「そんなら七重さん、結婚式は」
七重「する。あの人なしでも、結婚式するの、うち」
孝二「え?」
七重「あの人はうちの旦那さんやけど、もうひとり、旦那さんいてるもん、うち」
孝二「もう一人?」
七重「うち、水平社宣言と結婚するんやもの。」

『部落学序説』の筆者である私は、「水平社宣言」について言及するとき、七重のように、愛と思いをこめて「水平社宣言」を告白することは不可能です。「水平社宣言」に対して言及する可能性は、<史料としての>「水平社宣言」でしかありません。

筆者の「水平社宣言」に対する距離のとり方を理解できない方は、筆者と同じように、見ず知らずの不特定多数を前にして、「水平社宣言」を朗読されてみたら分かります。「密室」で何の躊躇いもなく朗読できる「水平社宣言」も、多くの群衆の集まる「広場」で公然と朗読することは、非常に困難なことになります。なぜなら、被差別部落出身でないものが、「水平社宣言」を朗読(告白)することは、「精神的似非同和行為」という愚を犯さずしてなし得ないからです。

『橋のない川』上映運動のとき、筆者に、「水平社宣言」を朗読させた、部落解放同盟池田支部の書記をされていた牧師は、ほんとうは、部落解放とは何なのか、その本質を理解できていなかったのではないか・・・、と考えるようになりました。彼が、たとえ、部落解放運動の経験者であり、プロであったとしてもです。

もし、私が彼の立場であったとしたら、被差別部落出身ではない、部落解放運動に対して「生半可」な、中途半端な知識しか持ち合わせていない牧師に、「水平社宣言」を朗読させたりしないで、部落解放運動に参加し、それでメシを食ったことのある存在として、自ら「水平社宣言」を朗読したことでしょう・・・。


なぜ、史料としての「水平社宣言」なのか

2007年03月15日 | 別稿

【第5章】水平社宣言批判
【第1節】史料としての「水平社宣言」
【第2項】なぜ、史料としての「水平社宣言」なのか

前回、「水平社宣言」を紹介するにとどめましたが、筆者にとって、「水平社宣言」は、日本の近代史・現代史における史料のひとつに過ぎません。

その史料を、『部落学序説』の非常民論・新けがれ論などの解釈原理によって、明らかにするのみですが、これまでにも、『部落学序説』執筆の筆者の視点・視角・視座については、繰り返し言及してきました。

筆者は、近世幕藩体制下の「百姓」身分の末裔であり、いかなる意味でも、「武士」身分とは関わりがありません。「戦時」において「軍事」に携わる「武士」だけでなく、「平時」において「司法・警察」に関与する奉行・与力・同心・目明し・穢多・非人・・・とも一切関わりがありません。

筆者の先祖は、常に、「被支配」の側に身を置いていたのであって、いかなる意味でも「支配」の側に身を置くことはありませんでした。

戦後の部落解放運動の当事者、あるいは、彼らと連動して言動を繰り返した、部落研究・部落問題研究・部落史研究に携わる学者・研究者・教育者の目からみると、典型的な「差別者」の側に位置づけられる存在です。「被差別者でなければ差別者である」という強引な命題を強制されると、筆者は、間違いなく、「差別者」の側に立たされてしまいます。

『部落学序説』(「非常民」の学としての部落学構築を目指して)は、戦後の部落解放運動の中で、運動家・学者・研究者・教育者によって、「差別者」としてラベリングされ批難の対象にされる立場に身を置いていることを明言した上で、近世・近代・現代を通じて、「支配」の側ではなく「被支配」の側に身を置き続けてきた「常民」としての「百姓」の末裔の視点・視角・視座から、近世幕藩体制下の司法・警察として「支配」の側に身を置いてきた「非常民」としての「穢多」とその末裔を論じたものです。

いわば、「民衆史観」からみた、「穢多」とその末裔の姿を描こうとしたものです。

2005年5月14日に『部落学序説』の執筆を開始して以来、大量の文章を排出してきましたが、『部落学序説』の研究対象・研究方法・非常民論・新けがれ論・・・などにつきましては、運動家・学者・研究者・教育者による批判はほとんどありませんでした。

兵庫県の丹波篠山の「被差別部落」出身の政治家から、罵詈雑言をあびせられたのみです。

彼は、筆者の『部落学序説』とその関連ブログ群をほとんど読まれることなく、表層的に通り一遍の非難・中傷を展開しているのみで、『部落学序説』とその関連ブログ群に対する正当な批判とは到底認識することはできません。

『部落学序説』執筆開始以来、20カ月に渡って、筆者に、その執筆を許し続けているものはなになのでしょうか・・・。

団塊世代に属する筆者が、団塊世代が最も苦手とする情報リテラシーの知識・技術を駆使して、ネットワーク上で、『部落学序説』とその関連ブログ群を執筆しているためでしょうか・・・。

20カ月、20万の累計アクセス件数・・・、というのは、『部落学序説』とその関連ブログ群が、ネットワーク上でもほとんど無視されているという証拠に過ぎないという同世代の、運動家・学者・研究者・教育者からの批判は、的を得ているのかもしれませんが、『部落学序説』が、「差別者」のたわごとに過ぎないとうのであれば、徹底的に批判してネットワーク上から葬り去るのがよろしかろうと思うのですが・・・。

『部落学序説』の第5章・水平社宣言批判について言及をはじめるにあたって、最初にとりあげることにしたのは、史料としての「水平社宣言」でした。

<史料としての>という、「水平社宣言」に対する筆者のスタンスのとり方は、上記の、戦後の部落解放運動をになってきた運動家・学者・研究者・教育者から「差別者」とラベリングされる立場に立たされる筆者の唯一の語りの場であるように思われます。

筆者は、無学歴・無資格をかえりみず、<史料としての>「水平社宣言」に拘泥していくのみです。

<史料としての>というスタンスのとり方以外に、「水平社宣言」に対してどのようなスタンスのとり方があるのか・・・、筆者があえて語る必要もないほど、一般化したものがあります。

それは、<人権宣言としての>「水平社宣言」を評価する、戦後の部落解放運動をになってきた運動家・学者・研究者・教育者などのスタンスです。

「水平社宣言」を、「人権宣言」として認識するのは、「水平社宣言」執筆前後にすでに存在しています。『部落の歴史と解放理論』の中で著者の井上清が言明しているところですが、近世幕藩体制下の長州藩の支藩である徳山藩の東穢多村の末裔たちは、当時の「徳山新聞」の差別記事に抗議して、このようにその理由を記したといいます。「吾等の目的とすべき処は人権主張の為なれば、主義の徹底するまでは止めず捨てず進行すべく・・・」。井上清は、この、徳山藩の東穢多村の末裔たちの言葉は、「「人権主張」という原理原則」に基づく「権力機関に対する闘争宣言」であったといいます。

井上清は、「ここには、差別されて憤慨するというだけのものではなく、その憤激を理性的認識にまで高め・・・ている」といいます。そして、「ここからあの水平社の創立宣言までは一直線であった。」といいます。

「水平社宣言」が、被差別の側の精神的葛藤の中から沸き起こった「人権宣言」であることは、否定すべくもありません。「水平社宣言」に対する、この修辞は、「水平社宣言」の本質を語ってあまりあると思うのですが、その認識は、戦前の水平社運動、戦後の部落解放運動の中で、繰り返し主張されてきました。しかも、<人権宣言としての>「水平社宣言」は、単なる人権宣言から、「日本における人権宣言」(井上清)、「日本の人権宣言」、「世界の人権宣言」として、その認識は高まる一方です。「水平社宣言の思想をもって、世界の差別撤廃運動に連帯する・・・」、全国水平社創立70周年を祝う、部落解放同盟中央本部執行委員長・上杉佐一郎のことばです。

しかし、「水平社宣言」をめぐっては、部落解放運動の更なる展開を願う人々の「水平社宣言」に対する熱き思い入れとは別に、「水平社宣言」のテキスト・クリティークを徹底しようとしている人々も存在します。「水平社宣言」の歴史的評価を不問に付して、現代の部落解放運動の理想・理念を逆に読み、「水平社宣言」を、ポスト同和対策事業・同和教育事業の運動理念足らしめようとする流れから身を引いて、「水平社宣言」を批判検証し、その歴史的再評価を獲得しようとする人々も存在します。

従来の部落解放運動の中では、部落解放運動の当事者、また彼らと連動する学者・研究者・教育者からは、「差別者」とラベリングされる一般民衆のひとりでしかない筆者は、「水平社宣言」を論ずるに、前者の立場に立つことはできず、後者の立場に立たざるを得ないのですが、無学歴・無資格の筆者は、更に、後者の立場からも身を置いて、<史料としての>「水平社宣言」について語ることしかできません。

筆者が、<史料としての>「水平社宣言」・・・、という表現を用いるようになったには、ある体験があります。(続く)


水平社宣言(原文)

2007年03月15日 | 別稿 史料としての水平社宣

【第5章】水平社宣言批判
【第1節】史料としての「水平社宣言」
【第1項】水平社宣言(原文)



宣言

全國に散在する我が特殊部落民よ團結せよ。

長い間虐められて來た兄弟よ。

過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によってなされた我等の爲の運動が、何等の有難い効果を齎らさなかった事實は、夫等のすべてが我々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されてゐた罰であったのだ。そしてこれ等の人間を勦るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際我等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。

兄弟よ。

我々の祖先は自由、平等の渇迎者であり、實行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへクダラナイ嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そうして我々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。

我々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。

我々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。

水平社は、かくして生れた。

人の世に熱あれ、人間に光りあれ。

大正十一年三月三日 全國水平社


決議

一、吾々に對し穢多及び特種部落民等の言行によつて侮辱の意志を表示したる時は徹底的糺彈を為す

一、全國水平社本部に於て我等團結の統一を圖る為め月刊雑誌『水平』を発行す。

一、部落民の絶對多数を門信徒とする東西兩本願寺が此際我々の運動に對して抱藏する赤裸々なる意見を聴取し其の回答により機宜の行動をとること

右決議す

大正十一年三月三日 全國水平社創立大會



『部落学序説』第5章・水平社宣言批判で使用する文献としての「水平社宣言」とその「決議」は、「決議」の中にうたわれている月刊雑誌『水平』第1巻第1号、27~28頁に収録されている上記「水平社宣言」とその「決議」を使用します。

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好井裕明著『「あたりまえ」を疑う社会学』を読んで・・・

2007年03月15日 | 付論

部落学序説付論
好井裕明著『「あたりまえ」を疑う社会学』を読んで・・・

筆者は、筆者が住んでいる下松市の書店で本を買うことはほとんどないのですが、数日前、久しぶりにその書店を尋ねました。

そのとき、目に入ってきた1冊の新書版があります。それが、好井裕明著『「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス』(光文社新書)でした。

著者紹介をみますと、「1956年大阪市生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程・・・。現在は筑波大学大学院人文社会科学研究科教授・・・」とあります。

20年ほど前、解放社会学会の鐘ヶ江晴彦先生から送っていただいた本に『被差別の文化・反差別の生きざま』(明石書店)があります。その編著者に、福岡安則・好井裕明・桜井厚・江嶋修作・鐘ヶ江晴彦・野口道彦の名前がみられます。そのとき、好井裕明氏は、広島修道大学助教授と紹介されていますから、20年の歳月の間に、好井裕明氏は、西日本の大学から東日本の大学に在所を移されていたようです。

好井裕明氏は、『被差別の文化・反差別の生きざま』に先立って、その本の内容である、奈良県小林部落の聞き取り調査について、解放社会学会の紀要『解放社会学研究1』で、「ある被差別部落の共同心性」という論文を公表しています。

筆者は、好井裕明著『「あたりまえ」を疑う社会学』を読みながら、社会学者としての好井裕明氏は、この20年という歳月の間にどのように「変化」(当然、成長・発展という方向での変化ですが・・・)したのか関心をもちはじめました。

好井氏は、「本書は、社会学における社会調査、特に質的なフィールドワークをめぐるものである。」といいます。「「世の中を質的に調べる」うえで、基本であり大切だと考えるセンスについて、好きに語ったものである。」といいます。

好井氏は、「社会学的な調査研究では、使用する概念を設定し、定義を明らかにし、論理的に現象を説明しようとする」といます。社会学的な調査研究だけでなく、およそ「学」と名のつくものは、同種の手続きを踏んで学的研究を遂行していきます。無学歴・無資格の筆者ですら、『部落学序説』執筆に際しては、その基本手続きは踏襲せざるを得ません。

好井氏は、社会学的調査を十全なもとのするためには、「調査する技法、方法、装置」だけでなく、「世の中を質的に調べるセンス」が必要であるといいます。それをより万人向けにやさしく表現すると、「日常への〃まなざし〃」であるといいます。「世の中を調べようとするときには、日常を生きている人間が何をどのように調べようかと発想し、さまざまな違いを生きている人間を調べるという営みがある。すなわち、調べる私も含めた他者が普段から暮らしている日常への〃まなざし〃が基本にある。」といいます。

専門的な知識と技術だけでなく、調査する側、調査される側の「日常への〃まなざし〃」の共有は、「相手との相互行為のなかで、研究者もまた、さまざまに変貌していく可能性を持つ・・・」といいます。

「どうしたら、語りだされる力を受けとめ、語る人間と向き合うことができるのだろうか。どうしたら人々が生きてきた現実や、人々の語りや営みと出あうことができ、それらを彼らの「場所」から解釈することができるのだろうか・・・」と自ら問いかける好井氏は、その問いに対してふさわしい解答を提示していきます。

他者に対して聞き取り調査を実施していく中で、聞き取り調査を実施する側も、「相互行為」による、相手からの問いかけにさらされ、調査を実施する側のありようが問われることによって、共有しているはずの「日常への〃まなざし〃」が危うくされるといいます。「それまで聞いたことのなかった、壮絶な、しかし豊かな、誇りに満ちた人生の語りと出会い、感動し、自分の背後にある自明性のどこかに亀裂が入り、崩れた部分が新たなパーツに取り替えられていくような感覚」を持つようになるといいます。

好井氏は、「こう書いていて、いつも思い出すシーンがある。」といいます。

そのシーンとは、「大学院生時代、奈良の被差別部落へ聞き取りにいったときのシーン」であるといいます。少し引用が長くなりますが、そのシーンを紹介します。

「そこでは上水道が長い間ひかれず、ずっと水の苦労があったという。生活のためにためていた水を濾過するタンク。その狭いタンクの中を掃除しているとき、あやまって道具の柄が目にあたり失明した母のことを、ある男性が語ってくれた。

「いま、朝起きてもね、顔洗うのに、栓ひねったら、水ピヤッと出まんねん。なんで、これ、母親が生きているあいだに、いっぺん、これをキュッとひねったら、お母さんが、『ああ、ありがたいな』て言うて、死んでほしかったということだけは、私の心にあります」

上下水道を利用できる喜び。母親に一度でいいから水道水の栓をひねってきれいな水を使ってほしかったという思い。蛇口をひねり、冷たい水が流れ出て、それを両手いっぱいにすくおうとするしぐさ。男性はこうしたしぐさをしながら、喜びを前身で現すように語ってくれた。

私は講義でこのときの経験をよく語るが、男性の語りやしぐさを鮮明に思い出し、」いまでも思わず鳥肌が立つ。

差別はいかに人々の暮らしや生きていく思いを侵食してきたのか。人々はいかに差別と向き合って生きてきたのか。差別とはこのようなものだと、なかば自明のものとして私の中にある理解。それがいかに薄っぺらなものであるかを思い知らされ、崩れていく。そして、男性の語りや思いが、差別を考える新たな現実の手がかりとして、私の中で〃生き始める〃のである。

また、想像したこともないような世界や暮らしのありようを体験したとき、それまで研究者をとらえて離さなかった常識が一気に崩れさり、そのあとを新たな価値や知識が埋めていくこともある」。

ほんとうの聞き取り調査は、聞き取り調査をするものの、ものの見方や考え方を変えていく力をもっている・・・。

好井裕明氏が、大学院生時代、奈良県小林部落の聞き取り調査で経験した出会い・・・、その出会いは、好井裕明氏の「原体験」として、20年後の、筑波大学大学院人文社会科学研究科教授としての学究のいとなみの中にも影響し続ける・・・、その出会い、「原体験」は、筆者が、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老に対する聞き取り調査の中で経験した出会い、「原体験」と大概において共通するものです。被差別部落の人々に対する聞き取り調査が、一般説・通俗説の確認にとどまらず、それらを根底から見直し、発想を逆転させるほどの衝撃を受けた・・・、という点では、著しく共通したものであるといえるでしょう。

学歴・資格の持ち主である好井裕明氏にとっても、無学歴・無資格の筆者にとっても、その出会い、「原体験」は、等しく襲ってくるもののようです。

好井裕明氏は、「「聞き取る」という営みは、目の前にいる相手の「生きた歴史」「いま生きている固有の経験を知りたく思い、そうした語りを、他でもない目の前にいる自分に語ってほしいと相手に要請することである」といいます。彼は、「そのような要請がある場で、自分が「透明人間」」になることはできないといいます。

好井裕明氏にとって、社会学とは、自らを透明にして学者としての本分を全うすることではなく、社会学者である自らを曝け出しながら、聞き取り調査の対象になってくれる相手と生きた格闘をすることである・・・、というのです。彼は、彼のライフワークであるエスノメソドロジー(対話的構築主義)を、「相手と向き合って話し合い(「対話」し)、何かをつくりあげる(「構築」する)こと。」であるといいます。

無学歴・無資格の筆者は、何度聞いても、エスノメソドロジー(対話的構築主義)がどんな学問であるのかさっぱり理解することはできませんが、『部落学序説』は、広い意味では、その実践事例ではないかと思わされます。

好井裕明氏は、「おさえきれない思いのわきあがり」の小見出しのもと、このように綴ります。

「それにしても、なぜ人は、自分の人生のできごとを単に記憶としてとどめておくのではなく、文字で「人生の物語」を残そうとするのだろうか。・・・人生で起こるできとごとの意味を、どこから、どの視点から語るのか。できごとを経験した当事者が、自らの記憶、自らの思いをてがかりとして、自分の言葉で語りだす。世の中のきまりやものの見方、標準的な理解では、おさまりきらないような生きる意味があるからこそ、人は、語り、書くのではないだろうか・・・」。

学歴・資格、無学歴・無資格を問わず、「おさえきれない思いのわきあがり」という熱い思いなくして、学的追究はほとんど不可能であるといえるでしょう。

好井氏は、「本書が主張する社会学。それは、常識的なものの見方に絡めとられている私たちを解放しようとする。・・・「あたりまえ」を常に疑い、「普通であること」に居直らない「ものの見方」が、いかに「わたし」という存在を・・・<ひと>にまっすぐ向き合」う存在たらしめることになる・・・」といいます。「<ひと>の生と出あう社会学。それは〃学ぶ〃ものではなく、自分なりに〃生きる〃ものだ。これだけは、まちがいない。」と言い切ります。

筆者のこの文章・・・、好井裕明著『「あたりまえ」を疑う社会学』を紹介するためではありませんでした。

20年前の《ある被差別部落の共同心性》、『被差別の文化・反差別の生きざま』、そして、20年後の『「あたりまえ」を疑う社会学』を合わせ読んで、好井裕明氏が、奈良県の被差別部落の聞き取り調査で経験された、「出会い」・「原体験」・・・、「水」についての話の中で、好井裕明氏が、いまだに気づいておられないと筆者には見える視点・視角・視座について、批判的に言及するつもりでした。しかし、筆者は、抜きかけた批判の刃を鞘に収めることにしました。

というのは、筆者があえて指摘しなくても、好井裕明氏が指向する「日常への〃まなざし〃」は、やがて、筆者が言わんとすることを明らかにしてくれるでしょうから・・・。小林部落の方々との出会いを、自分のうちに反芻していく中で、筆者が言わんとしていることがらは、やがて、自らを開示することになる・・・、と確信することができたからです。好井裕明氏による、小林部落の方々に対する聞き取り調査、想起のうちに、いまだに途上にある・・・、と思われるからです。


読書案内

2007年03月15日 | 部落学序説 読書案内



「部落学序説」とその関連ブログ群(2005年5月14日開始)の累計アクセス件数 3346936


【読者の皆様へ】

●『部落学序説』とその関連ブログ群の内容は、部落研究・部落問題研究・部落史研究の一般説・通説・俗説である、近世幕藩体制下の「穢多非人」を「賤民」とみなす「賤民史観」を批判し、「人間に貴賤はない」との自然法的人間観のもとで、近世・近代・現代の部落差別問題を見直したものです。

●しかも、戦後の部落解放運動の担い手の視点からみると「差別者」として烙印を押される立場から、部落差別問題を見直したものです。

●どんな目的のもとで、どのような方法を使用して『部落学序説』を執筆しているかについては、最初から詳述していますので、それをご確認の上お読みいただければ幸いです。

●なお、『部落学序説』とその関連ブログ群では、部落差別についてとりあげてはいても、部落差別を助長するような記述は一切ありません。『部落学序説』とその関連ブログ群が単なる差別情報、差別文書にならないように、最善の注意を払って執筆しています。


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『部落学序説』は、部落差別の完全解消への新しい提言です。

従来の部落史研究があえて言及しなかった部落差別の起源と成立につて、「部落学」という独自の研究方法によって明らかにします。

「権力史観」ではなく「民衆史観」に立脚して、「常民」(百姓)の視点・視角・視座から、近世幕藩体制下の司法・警察である、「非常民」の一翼を担った「穢多」・「非人」の歴史の実像に迫ります。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に立脚する部落史の学者・研究者・教育者の論文を比較検証しながら論をすすめることになりますが、筆者、無学歴・無資格、学問とはまったく縁のない存在で、被差別部落出身であろうとなかろうと、部落史の学者・研究者・教育者と一面識も師弟関係もありません。

部落史の学者・研究者・教育者が執筆・公開されている論文のテキスト批判を通じてのみ批判検証を展開します。

 

『部落学序説』とその関連ブログの最新の文章だけをご覧になりたい方のための目次です。『部落学序説』は、固有の研究対象・研究方法を前提に論述を展開していますので、はじめて『部落学序説』をお読みになる方がここから入られるとご理解いただけない場合が多々あります。

●「
部落学序説」の最新の文書
作業中・・・

はじめて『部落学序説』をお読みになられる方は、最初から丁寧に読まれることをおすすめします。この『部落学序説』は、「部落学」の基本的な研究対象・研究方法について言及しています。

●まえがき
●序文
●第1章 部落学固有の研究対象
●第2章 部落学固有の研究方法
●第3章 「穢多」の定義
●第4章 太政官布告批判
●第5章 水平社宣言批判
●第6章 同和対策審議会答申批判
●第7章 部落差別完全解消への提言

●付論
●別稿
●著者紹介

この目次は、書籍の一般的な目次です。『部落学序説』の全体を一望することができます。『部落学序説』全体を一読されたあと、精読するために使用されることをおすすめします。

INDEX(目次)

この目次からアクセスすると、『部落学序説』の文書すべてを執筆順に表示することができます。ロースペックのパソコンを使用してアクセスされている場合、ダウンロードするのに時間がかかる場合があります。場合によっては、ハングアップの原因になりますので、全文を表示される場合はご注意ください。

●『部落学序説』(全文) 


『部落学序説』のアクセス数ベスト20文章

以下の文章は、過去1ヶ月間、アクセス数の多かった文章のベスト30です。
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『京都府下人民告諭大意(第2編)』-王政復古から欧化政策へ

2007年03月15日 | 第4章 太政官布告批判




【第4章】太政官布告批判
【第3節】拷問制度とキリシタン弾圧
【第4項】
『京都府下人民告諭大意(第2編)』-王政復古から欧化政策へ(見落とされた史料3)

『京都府下人民告諭大意』(第1編)は、「皇国の外国に勝れし風儀を守り、広く皇威を世界に輝かさん」と、「下民」・「民間」を説諭します。

それに引き換え、『京都府下人民告諭大意』(第2編)は、「往昔」と異なり、「世界万国」が互いに和親を結ぶ時代であるから、「下民」・「民間」もこのごとを十分に理解して、「天地間の大道理」である「世界万国公法」に準拠して、日本にやってきた諸外国・「礼儀正しき国」とその人民に対して、「不法粗暴を仕掛る」ことは決してあってはならないというのです。

もし、「下民」・「民間」が、明治新政府の開国政策に反対して、諸外国とその人民に危害を及ぼすことで、明治新政府の支配が徹底していないということが諸外国に知られるようなことになれば、「神州の耻辱となる」というのです。その結果、「東国辺鄙」に見られるように、朝廷に逆らった結果、「人民」は、「塗炭の苦しみに陥し」入れられることになるとういのです。

「東国辺鄙」と違って、「京都は千有余年来の帝城」であり「御宗廟の御地」であるから、天皇は、京都を「別して御大切に」思っておられるというのです。「京都府下人民」は、これまで、天皇に「間近く住居して深き恩露に浴し、尊き叡慮も仰ぎ知る」ことを許されてきたのであるから、近代天皇制国家が、「外国のために見透され、其侮りを受る基」となるような「振廻」を慎み、「諸事の御沙汰違背なく謹て相守り・・・神州の御為に相成べき心掛肝要たるべき」というのです。

『京都府下人民告諭大意』(第1編)が「王政復古」を主眼に置いた説諭であるとすると、『京都府下人民告諭大意』(第2編)は、明治新政府の「欧化政策」を主眼に置いた説諭であるといえます。筆者は、『京都府下人民告諭大意』(第2編)は、『京都府下人民告諭大意』(第1編)の「否定」として打ち出されたものであると考えざるを得ないのです。

『戊辰戦争から西南戦争へ』の著者・小島慶三は、明治維新は、一挙に行われたのではなく、三段階で行われたといいます。王政復古・廃藩置県・明治6年政変による岩倉・大久保による「建国」。明治新政府は、平和裡に近代天皇制国家を樹立したのではなく、むしろ、逆に、血で血を洗うような政争を経て、近代天皇制国家を建設していったのです。

王政復古・廃藩置県・明治6年政変の都度、日本の国民は、時代の流れに翻弄され続けたのではないかと思います。皇族・華族・士族・平民・・・そのすべての階層が、王政復古・廃藩置県・明治6年政変によって、大きくその人生の転換を余儀なくされていったと思うのです。

この『京都府下人民告諭大意』は、京都府下だけでなく、日本全国に配布されていきます。『京都府下人民告諭大意』を読んだ国民は、その真意をどの程度把握することができていたのか・・・、こころもとないものがあります。「王政復古」・「王政復古」・・・と叫んでいたら、突然と、「王政復古」の古代律令的諸制度は解体され、明治新政府は、あれよあれよというまに、日本を西洋的な近代国家に変貌させていくのですから・・・。その急激な政策変更を十分理解して、明治新政府の国家建設の方向性を把握することができたひとは、極めて、少ないのではないかと思うのです。明治新政府の「政治的意図」を把握することに失敗した人々は、やがて、明治新政府の中枢から弾き出されてしまいます。

明治新政府に対して、諸外国がまず要求したのは、「草莽」による外国人襲撃を抑えるということでした。「草莽」とはどのような人のことを指すのか・・・。イギリスの外交官、アーネスト・サトウは、「草莽」「乱暴な両刀階級」と呼んでいます。彼の目からみると、「両刀階級」は、元藩士であって、イギリスの「紳士」に相当する社会層であるというのです。それにひきかえ、「一刀階級」(筆者の表現)は、イギリスの単なる「兵士」に過ぎないといいます。

諸外国の外交官が恐れをなした「草莽」というのは、「一刀階級」ではなく「両刀階級」のことなのです。アーネスト・サトウは、「草莽」というのは、「日本人の一種不可思議な階級」で、イギリスの「紳士」の範疇に入るけれども「紳士」として理解しがたい存在であるというのです。「草莽」は、「大名へ仕官をせずに、当時の政治的な攪乱運動へ飛び込んできた」人物であるというのです。この「草莽」「二重の目的を有していた」といいます。ひとつは、「天皇を往古の地位に復帰させること」、もうひとつは、「神聖な日本の国土から夷狄を追い払うこと」でした。「草莽」は、これらの使命を達成するため、手段と方法を選ばす、外国人を襲撃・暗殺してくるというのです。諸外国の外交官は、明治新政府に、なによりもまず、この「草莽」を鎮圧することを要求してくるのです。

明治新政府の「外国人殺傷や草莽層の動きへの対応」(山川出版社『詳説日本史史料集』)として、「五榜の掲示 第四札」があげられます。『詳説日本史史料集』は、高校生用の参考資料ですが、第4札と第5札については、全文掲載せずに一部が省略されています。高校の歴史教育においては、触れて欲しくない個所なのでしょうか。高校生用の参考資料において割愛されている言葉は、「一旦御交際仰せ出され候各国に対し、皇国の御威信も相立たざる次第、甚だ以て不届き至極につき、その罪の軽重に随い、士列のものといえども、士籍を削り、至当の典刑に処せられ候条、銘々朝命を奉じ、みだりに暴行の所業これなき様、仰せ出され候事」という文章です。

問題は、「士列のものといえども、士籍を削り、至当の典刑に処せられ候」という一文です。明治新政府は、「草莽」の暴挙を抑えるために、この告示を出したというのです。

イギリスの外交官・ミットフォードは、この布告を次のように受けとめています。「この布告が大きな反響を巻き起こしたことは当然なことであった。士分を剥奪することは切腹する権利をも奪うことになる。普通の罪人と同じく、首斬り人に首をはねられ、晒し台にその首を晒しものにされて、財産は没収となる。人間の屑同様の扱いを受けて一家断絶を命ぜられ、抹殺される。何世紀もの間、子孫代々勇気と礼節を重んじて、家柄を誇りにしてきた武士にとって、これが何を意味するか、いうまでもないことである」。「五榜の掲示 第四札」は、日本全国の「武士(藩士)」に対して出されていたのです。

ところが、高校生用の参考資料である山川出版社『詳説日本史史料集』は、武士(藩士)に対して出されたことをうたった部分を割愛しているのです。『詳説日本史史料集』の「五榜の掲示 第四札」では、「草莽」は、一般化される傾向にあります。「五榜の掲示 第四札」は、武士だけを対象にしたものではなく、「士族」・「平民」、すべての「下民」・「民間」を対象にしていることになります。より正確にいえば、山川出版社『詳説日本史史料集』の史料の扱い方は、「草莽」である武士の免罪を図っている・・・と言えなくもありません。山川出版社『詳説日本史史料集』は、「両刀階級」「草莽」が幕末・明治初頭においてなした外国人や日本の政府要人に対する襲撃・暗殺を故意に隠す営みであるといえるでしょう。「百姓の末裔」である筆者は、山川出版社『詳説日本史史料集』は、著しく偏向しているように思われるのです。

イギリスの外交官・ミットフォードは、この「五榜の掲示 第四札」について、明治新政府との間の交渉内容をこのように記しています。「彼らは、近く書き上げられる新しい法律に、それを載せるまでは、告示の公布を延期することについて、私を一生懸命に説得しようとした。これに対して私は、断固として同意を断った・・・ついに政府に国中の町や村や集落に有名な布告を掲示させることに成功したのである」。日本の全国津々浦々に「五榜の掲示 第四札」が掲示された背景に、諸外国の「外圧」が存在していたのです。

最近、文庫本で出版される史料の中には、この種の史料が相当数含まれています(岩波文庫・講談社学術文庫等)。明治新政府の要職は、国内の「人民」(下民・民間)に対しては、徹底して、「よらしむべくしてしらしむべからず」という方針を貫きます。

外交官が「普通の罪人と同じく、首斬り人に首をはねられ、晒し台にその首を晒しものにされて、財産は没収となる。人間の屑同様の扱いを受けて一家断絶を命ぜられ、抹殺される。・・・」と言い切る背景には、明治新政府が近世幕藩体制下の「刑法」を集大成して暫定的に出した『仮刑律』の「藩臣処分」「士道を失ひ或は廉恥を欠に係るは、奪刀・奪録・・・」という条文に依拠します。この暫定的な明治新政府の「仮刑法」は、「人民」(下民・民間)には公開されませんでした。しかし、諸外国の外交官には、親しく閲覧させていたのです。

国内の「人民」(下民・民間)には、明治新政府の政策に服従させるのみで、その政治的意図を明らかにしませんでした。それに反し、明治新政府は、諸外国に対しては、日本の国政・外交に関する様々な情報を積極的に提供していたのです。

明治4年来日したオーストリアの外交官は、「岩倉具視」「日本の運命に非常に大きな影響力を行使する」「政府部内で最も重要な人物と目される」といいます。彼は、「岩倉とその仲間たち」から、明治新政府が直面している「大改革の紀元・性格・重要性に関するきわめて興味深い情報」を直接入手することができるといいます。「岩倉が私との3、4回の階段において語ったことは、後になって政府の公認計画となった」といいます(『オーストリア外交官の明治維新』)。

「岩倉とその仲間たち」は、「3年後には完了する」(明治6年の政変を含む期間)、明治新政府の長期的な展望さへ外交官に情報を提供するのです。岩倉はこのようにいうのです。「私の目標は、外国と友好関係を保ち、国内の大改革を完遂することです」。

明治新政府の「政治的意図」を正確に知るためには、明治期の「外交文書」及び外交官の残した文書の解析が必須です。国内の「人民」(下民・民間)に対しては、徹底して、「よらしむべくしてしらしむべからず」という方針を貫き、その真意をあからさまに伝えることはあり得なかった現実を考慮するとき、筆者は、近代史は、最初から検証し直す必要があると思うのです。明治新政府の施策の結果だけを追究するのではなく、そのような施策を選択した明治新政府の「政治的意図」が重要だと思うのです。

山川出版の、高校生向け資料・『詳説日本史史料集』は、この明治新政府の「政治的意図」を覆い隠す役目を果たしているのです。武士身分を限りなく救済して、逆に、「穢多・非人」を、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」の枠組みの中に限定しようとします。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「同心・目明し・穢多・非人・村役人・・・」は、「一刀階級」です。「両刀階級」の正規の武士・藩士ではありませんが、「同心・目明し・穢多・非人」は、すべて武士身分であるといえます。「同心」は一刀差しの武士ですし、「目明し」は、藩によっては帯刀を許されていました。また、穢多・非人もその職務の内容に応じては帯刀を義務づけられました。「同心・目明し・穢多・非人」は、「一刀階級」に属する武士であると言っても、あながち間違いではないのです。

明治新政府は、本来の「草莽」「両刀階級」の武士を寛大に処遇し、その体制の中に取り込んでいきます。しかし、明治政府は、それとは逆に、近世幕藩体制下にあって司法・警察に従事していた「同心・目明し・穢多・非人」、そして、「村役人」に対して、スケープゴート(身代わりの犠牲)として、「草莽」の名を押しつけていくのです。明治4年の太政官布告第61号は、明治新政府の「国辱」を取り除くため、「穢多・非人」に「草莽」の名を押しつけ排除していく、明治新政府の「政治的意図」によって作り出されたものです。王政復古をとく『京都府下人民告諭大意』(第1編)から、王政復古の廃棄、西欧化された明治近代国家の創設へのつながる『京都府下人民告諭大意』(第2編)への政治的飛躍の中で、天皇によって創設された司法・警察である「穢多・非人」は、「国辱」として排除されていくのです。明治新政府、近代天皇制国家による、短期間における、「穢多・非人」の「高挙」(高く挙げる)と「卑下」(卑しみ下げる)・・・、それが、「被差別部落」の歴史を分かりにくいものにしているのです。


被差別部落と天皇制(見落とされた史料2)

2007年03月15日 | 第4章 太政官布告批判




【第4章】太政官布告批判
【第3節】拷問制度とキリシタン弾圧
【第4項】被差別部落と天皇制(見落とされた史料2)

筆者が所属している教団の教区の同和問題の委員を担当させられていたとき、「先進地視察」と称して、大阪・京都・奈良の被差別部落の中で、同和対策事業が推進されているモデル地区を尋ねたことがあります。同和問題の委員をおりたあとは、そのような「先進地視察」に同行することは少なくなりましたが、同和対策事業が終了したあとは、ほとんどその機会はなくなりました。

「先進地視察」に同行して、遭遇したことのひとつには、被差別部落と天皇制との問題があります。戦前の融和事業は、被差別部落と天皇制が複雑にからんだ問題ですが、ある被差別部落の住人は、「部落解放運動が進展すると、戦前の融和事業の記念碑は取り除く話に発展するが、しばらくすると、被差別部落の有志によって、せっかく埋めた記念碑が掘り起こされて元の位置に建てられる」といいます。被差別部落の古老の中には、「明治天皇の聖断によって、被差別部落の人々は、その差別から解放された・・・」と信じきっている人が相当数おられるということでした。

筆者が所属する教団の同和担当部門のトップが、広島・山口・島根管轄の教区に赴任してきたとき、筆者を同和担当部門から排除する理由のひとつとして、筆者が「天皇制について批判的な発言をする・・・」という点をあげられていました。「天皇制を批判しないのなら、一緒にやってもいい・・・」。教区の同和担当部門のトップを兼任することになった彼は、大阪・京都・奈良の部落解放運動の先進地である被差別部落の古老の中に見られる、天皇制に対する「追慕」の姿勢を明確に保持しています。

筆者と天皇制の関係の問題ですが、筆者には、天皇制をことさら批判する意図はありません。

しかし、天皇制の側は、筆者を視野におさめることは決してありえないでしょう。なぜなら、天皇制というのは、近代身分制度の上に乗っかって成立しているため、皇族・華族・士族・平民・・・という序列の中では、天皇制と身分制度の上位に位置する身分ほどその関係が強くなる傾向があります。士族・平民・・・ということになると、「下民」・「地下」扱いになってしまいます。「下民」・「地下」は、一生、天皇に相まみえる場所に立つことはできません。天皇制を衛る警察・機動隊の楯によって排除される側にたたされます。

筆者の父が、倒産の上、病気の貧困の繰り返しで、人生の憂き目にあった末、なくなったあと、遺品を片付けていて、驚いたことがあります。それは、父親が大切にしていた書類の入った小さなタンスに、「明治天皇」・「大正天皇」・「昭和天皇」に関する新聞記事や写真、日清・日露の戦争のときの記念切手や絵はがきが多数でてきたことです。

筆者が高校2年生のときのことですが、父親から、大正天皇の即位の話を聞かされたことがあります。大正天皇即位の際に、用いられた屏風に描かれた富士山は、静岡県の富士山ではなくて、香川県の富士山であるというのです。しかも、父親の生家(香川県観音寺市室本)の別荘からみた「讃岐富士」の絵であるというのです。祖父が、絵師に、「讃岐富士」の見える離れを貸した・・・というのです。

父は、若いとき、母親が逝去したあと、吉田家に養子に入りますが、曾祖父にあたる吉田向学は、明治初年代長野県庁に勤めていた人です。父がなくなったあと、仏壇の引き出しの中から、その辞令が出てきました。祖父にあたる吉田永学もまた公務員をしていたようですが、明治・大正・昭和・・・と、どちらかいうと没落していく家にあたります。極めつけは、私の父親の破産であったのでしょう。

筆者の幼いときの記憶は、この倒産のできごとからはじまります。

曾祖父・祖父・父、そして筆者・・・。その足跡は、天皇制から「離反」していく過程ではなく、天皇制によって見捨てられていく過程であったのです。学歴も資格もなく、高校を出てすぐ病気の父と家族の生計のために、人生の一番大切な部分を犠牲にしなければならなかった筆者は、曾祖父・祖父・父がこころから慕っていた天皇とはまったく無縁の存在であると認識するようになったのです。

批判はしないが、「無縁」である・・・、それが筆者と天皇制の関わり方です。

筆者の「ふるさと」(旧児島市)に、下津井という湊があります。現在、瀬戸の大橋の橋脚が建っている場所です。戦後、その下津井に関する映画が作成されました。それは、『拝啓天皇陛下樣』という映画です。昔、一度みただけですが、映画の最初の部分に、天皇が乗った船が瀬戸の海を日の丸を掲げて航行する場面が出てきます。そのとき、下津井の漁民が、港の岸壁で、土下座して、天皇の乗った船を見送るという場面です。

中学校の社会科の教師であった「下津井メバル」(あだ名しか覚えていません)は、当時、下津井の漁民は、治安維持法違反にひっかかり、ほとんどすべての公式行事から締め出されていたというのです。ですから、天皇の乗った船が下津井沖の瀬戸内海を航行するとき、それを見送るために土下座することは許されなかったというのです。中学生の筆者は、そのとき、天皇制の枠組みの中で、天皇制から排除されている人々が多数いることを知らされたのです。

岡山県の戦後の民主教育に採用された教育方法に、「視聴覚教育」があります。1年に数回、児童・生徒を映画館に連れて行って映画を鑑賞させることで、社会的な視野を育てていったのです。筆者が見た映画のほとんどは、社会問題をとりあげたものです。在日朝鮮人の子供の姿を描いた「綴り方教室」や被差別部落の問題を取り扱った「破戒」等、戦争と平和、差別と貧困、愛と罪・・・をテーマにした映画が大半でした。

筆者は、学校の教育だけではなく、父親から、天皇制に対する敬慕の念を植えつけられました。しかし、そんな父親が、「倒産」のあと、貧困と病気の繰り返しの中、世の中から見捨てられ辛酸をなめている姿をみながら、そんな父親に救いの手をさしのべるものが誰もいない現実を見て、父親が抱いていた天皇制(天皇)に対する期待は、単なる幻想でしかない・・・と思うようになったのです。国民が天皇をどんなに慕おうと天皇は国民に関心を持つことはありえない・・・(マスコミで報じられる「作られた関心」はあるかもしれませんが・・・)。

戦後、日本は、日本国憲法の下で、象徴天皇制国家になりました。戦前とはかなり、異なる天皇制になりました。今の天皇が、皇太子のとき、「天皇サラリーマン説」を主張されました。そのとき、筆者は、妙に納得したものです。「天皇」という、普通の人と異なる神格を持っているなら、「国民」が苦しんでいるときに、そのこころを「国民」に向けないということについては、批判的な思いと寂しさの両方をもたざるをえません。しかし、「天皇サラリーマン説」が、天皇の真意なら、天皇が「国民」の実態を知らなくてもなんら不思議ではありません。「天皇」は、日本株式会社のエリートサラリーマンでしかなかったのか・・・、当時の皇太子の言葉に妙に納得したものです。青年時代は時として暴走するものですが、この「天皇サラリーマン説」も暴走のひとつなのかもしれません。

今の皇太子が、その発言に際して暴走したとき、筆者の関心は、かつて、その発言を暴走させたことがある、今の天皇がどのように皇太子を見守るか・・・という一点にありました。「天皇制」を陳腐化した遺制から解放して現代化しようとする姿勢は、天皇・皇太子と受け継がれていっているのでしょう。女性天皇・女系天皇の出現は、当然の成り行きです。天皇の存続は「天皇制の歴史」・「天皇家の血筋」に基づくものではなく、「国民の総意」に基づくものでなければならないのですから・・・。天皇の変な神格化(男系の血筋)は一切必要ではありません。

筆者が所属する教団・教区の同和担当部門のトップは、筆者のそのような天皇制理解を、「天皇制否定」・「天皇制批判」と断定して、筆者を排除する理由のひとつにしたのです。

筆者は、ときどき思うのですが、なぜ被差別部落の人々は、「天皇制」にこだわるのだろうか・・・、と。山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老を尋ねる前、立ち寄った浄土真宗の住職は、被差別部落の人々に伝わるこんな「伝承」を話してくれました。被差別部落の人々が迷っていたとき、夢の中に「白馬に乗った人」が表われて、その村を出て行くように言われたというのです。「白馬に乗った人」、それは、明治新政府によって、軍事・警察の頂点に立つ「非常民」として訓練され、西洋の軍服を身にまとった明治天皇のことです。

多くの場合、被差別部落に伝わるそのような伝承の背後にあるのは、明治4年の太政官布告第61号、日本の差別思想である「賤民史観」がいう「身分解放令」・「賤民解放令」・「賤称廃止令」・・・であるといいます。戦前の融和運動・水平社振動、戦後の部落解放運動にたずさわった人々の中にある、天皇制擁護の思想は、この布告を「明治天皇の聖断」と認識するところにあるのでしょう。この「聖断」に基づいて、かつて、水平社運動は展開されましたし、水平社運動の戦後のにおける継承として受け止められた部落解放運動も、この天皇制理解に立脚したものでした。

しかし、筆者は、被差別部落の人々の天皇制に対する「追慕」の念は、明治4年の太政官布告第61号に先立つ、明治元年の『京都府下人民告諭大意』に由来するのではないかと思います。嵯峨天皇が軍事と司法・警察を分離し、独立した制度を設けて以来、古代・中世・近世という時代の政治的変化を越えて、その司法・警察制度は、日本の社会の平和的安定のために大きな役割を果たしてきました。『京都府下人民告諭大意』でいう、全国津々浦々に配置された公的「番所」に、公的「番人」(近世幕藩体制下の番人は穢多・非人のこと)によって、私的「番人」を雇って己が身と財産を守ることができない一般の民も、社会の法的安定の中を生きることができたのです。明治新政府は、近世幕藩体制が終焉を迎え、明治の近代天皇制国家が新しく創設されるときに、近世幕藩体制下の「司法・警察」であった「番人」の存続と継承を『京都府下人民告諭大意』という形で公式に認めたわけですから、「同心・目明し・穢多・非人」は、大いに喜んだのではないかと思います。

諸外国からの圧力がなければ、『京都府下人民告諭大意』で説かれた通り、「穢多・非人」は、政治的変革を越えて存在する司法・警察として、明治新政府の枠組みの中に深く組み込まれていったことでしょう。『京都府下人民告諭大意』の中には、「番人」とはして、当然含まれているであろう「穢多・非人」に関する批判的な言葉、彼らを貶めるような言葉は出てきません。筆者は、『京都府下人民告諭大意』は、明治新政府が近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」に属する「同心・目明し・穢多・非人」、そして、「庄屋等村方役人」を、明治新政府の司法・警察として組み込むことになるという宣言であったと思うのです。諸外国の外交官も、「日本の警察は探偵能力に優れ、優秀である」と評価していたのですから、当然と言えば当然です。

山口県立文書館の元研究員の北川健が発掘した、長州藩の穢多村に伝わる伝承は、穢多が「せいとう」(制道)に生きたことを高らかに歌います。また、『京都府下人民告諭大意』も、その背後に、天皇による「御威光の御制道」があったことを歌います。

しかし、日本が直面する外交上の諸問題は、明治新政府を混乱と窮地へ追いやっていきます。そして、明治元年(1967)10月に『京都府下人民告諭大意』が出されて半年もたたないうちに、『京都府下人民告諭大意』(第1編)とは、その内容をまったく異にする『京都府下人民告諭大意』(第2編)が出されるのです。朝令暮改とはこのことか・・・、と思われるほど、内容の異なるものが「告諭」の形で公布されるのです。

明治新政府による、近世幕藩体制下の司法・警察である「番人」の継承から、「番人」の廃棄へと、流れが大きく変わってしまうのです。この流れは、穢多・非人の頂点にあった団弾左衛門も、十分におのれの立たされている位置を把握できないほど、押し流してしまうのです。ふと気がつくと、近世幕藩体制下の司法・警察であった「番人」(穢多・非人)は明治新政府によって「賤民」・「棄民」扱いされることになっていたのです。