部落学序説

<常・民>の視点・視角・視座から見た<非常・民>である<穢多・非人>の歴史的真実の探求

警察と遊女と部落と はじめに

2006年04月28日 | 第4章 太政官布告批判

【第4章】太政官布告批判
【第9節】警察と遊女と部落と
【第1項】はじめに

第9節の主題を考えていましたが、結局、一番短いことばで「警察と売春」としました。

筆者が書くことができるのは、「警察と遊女」であって、「遊女と警察」ではありません。「警察」が先か、「遊女」が先か、その順序にこだわる必要がないのかもしれませんが、筆者は、『部落学序説』において、穢多と遊女について言及するときに、「穢多と遊女」としてきました。その際、「穢多と遊女」であって、「遊女と穢多」ではありませんでした。

この『部落学序説』は、「非常民の学としての部落学」ですから、とりあげる主題は、「常・民」より「非常・民」を優先させることになります。

第9節を書きはじめるにあたって、『部落学序説』の関連箇所を読み直してみましたが、「随分、大変なことをはじめてしまった・・・」という気持ちが沸いてきました。明治4年の太政官布告第448号・第449号は、多くの場合、「明治天皇による有り難いお言葉・・・」として受け止められ、「批判」の対象というより、「信奉」の対象として認識されてきたように思われます。

2つの太政官布告は、近代以降の「部落史」をひもとくときの、批判すべからざる「前提」として機能してきました。被差別部落の内外を問わず、通称「部落解放令」は、明治憲法と同じように「不磨の大典」のように扱われてきました。今日の部落史研究者や教育者は、ことばに意識するとしないとにかかわらず、「部落解放令」の意義は信じて疑うことはないのではないでしょうか・・・。

『部落学序説』の筆者は、通称「部落解放令」を単なる歴史学上の解釈に過ぎないとして、2つの太政官布告を、「批判の対象」として取り扱ってきました。2つの太政官布告の背景には、「天皇の聖旨」のようなものは存在せず、あるのは、明治政府の内政と外交に関する施策だけ・・・と考えてきました。

その「批判」行為は、大軍を相手にたったひとりで戦う戦い・・・のような側面があります。ほんとうに最後まで、ひとりで戦い続けるのか・・・、自問自答してみましたが、ひとりで戦い続けるしか、『部落学序説』を完成させる方法はない・・・と、あきらめの思いを持たざるを得ません。ひとりではじめた戦い・・・。最後までひとりで戦い続けよう・・・、そう決心しながら、新しい「節」に着手することにしました。

主題は、「警察と遊女」・・・。

もっとましな主題はないのか・・・。自問自答してみるのですが、なぜか、今回、頭の中が空回りします。「警察」も「遊女」も、筆者には、直接関係のない世界の話です。「警察官」に聞き取り調査をしたわけでも、「遊女」に聞き取り調査をしたわけでもありません。そのうえ、筆者の手元には、「警察」と「遊女」に関する、史料や伝承、研究論文はほとんどないのです。

ごくわずかな史料を用いて、大胆な結論を出すことに、なにとなくためらいがあります。

『部落学序説』の筆者にとって、「警察」も「遊女」も、「非日常」と「非常」の世界のことがらです。ほとんど毎日、「日常」と「常」の世界に身を置いている筆者には、どちらかいうと無縁の世界です。

しかし、「警察と遊女」という主題を取り上げることなく、『部落学序説』を先にすすめることはできそうにありませんので、微力を省みず、この主題に挑戦してみることにしました。論理のきれが悪くなる場合もあろうかと思いますが、筆者の精神世界の狭さであると、読み過ごしていただければさいわいです。


十手と少年

2006年04月22日 | 第4章 太政官布告批判

【第4章】太政官布告批判
【第8節】こどもの目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第7項】十手と少年

長州藩萩城下の「穢多町」の末裔である古老の『隠語について』という文章によりますと、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常・民」であった「穢多」と、「常・民」であった「百姓」との関係を示すことばにいくつかの系列があったようです。

① 「エタ」-「ネス」系
② 「コゥシク」-「リョウマル」系
③ 「キンマル」-「リョウマル」系

古老によりますと、②と③はほぼ同じで、③は②に吸収される傾向にありますから、「非常・民」と「常・民」の関係を示す用語の対は、①と②ということになります。

①について、「エタ」は説明するまでもなく「穢多」のことです。「ネス」は、漢字で書けば「素人」という字が割り当てられるのが普通ですが、萩の「旧穢多町」の古老は、あえて、「ネス」ということばに「素人」という漢字を用いていません。萩の古老によると「ネス」の説明は次のようになります。

【ネス】 部落外一般。ネスとは、一般あるいは一般人を指す「ネスゴロウ」という言葉があるが、この言葉は、差別を受けた部落民が敵意を強く表すときに、よく使う言葉である。

部落解放同盟新南陽支部発行『学習会資料』によると、その当時の新南陽支部の支部長をされていた方は、「エタ」といわれて差別されたとき、どのように対応したのか・・・という、一般の参加者の質問に、「ネス」と答えていたと回答しています。長州藩だけでなく、徳山藩のおいても、近世幕藩体制下の司法・警察であった「非常・民」としての「穢多」の共通用語であった可能性があります。「穢多」の中には、「郡廻り」、また、藩全体を廻ってその職務を遂行した人々もいますので、萩の古老が語り伝えている「隠語」は、長州藩本藩だけでなく、その枝藩・支藩の「穢多」の間でも使用されていた「共通語」としての「隠語」である可能性があります。

【リョウマル】 一般の人。ネスと同義語であるが、特に、私ども部落仲間の間では、この言葉の方をよく使う。

「リョウマル」「キンマル」(コゥシクに同じ)の対の言葉として使用されています。「ネス」という言葉から「敵意」を取り除いた言葉が「リョウマル」になります。筆者は、古老が収集したその他の言葉を斟酌しながら総合的に、司法・警察である「非常・民」の目から見て、このましい「常・民」は、御法度に抵触していない普通の「常民・」(百姓)のことを指しているのではないかと推測します。「穢多」の自称語としての「コゥシク」は、「リョウマル」と対をなします。

『部落学序説』の筆者は、「穢多」(非常・民)と「百姓」(常・民)という対の言葉は、「非常」の場合と「常」の場合では、異なる言葉が用いられたと推定するのです。「非常」の場合、「穢多」と「百姓」の関係は、「エタ」と「ネス」の関係で先鋭化されて把握されます。しかし、御法度に違反するような状況に置かれていないときは、「穢多」と「百姓」の関係は穏健で、その関係も、「非常」時の緊張感のない「コゥシク」と「リョウマル」が用いられたのではないかと思います。

「穢多」と「百姓」の関係は、ほとんどは「常」の世界にあって、お互いの信頼関係の中、御法度を守りながら生活していたと思われます。しかし、例外的に、「御法度」に違背するような、放火・強盗・殺人・窃盗・一揆などが発しますと、「穢多」と「百姓」の関係は、「非常・民」と「常・民」の関係に先鋭化され、「穢多」と「百姓」は、「取り調べる側」と「取り調べを受ける側」に分かれることになったと思われます。

萩の古老の話では、「あの子は、被差別部落出身か?」というときに、「あの子はキンマルか?」とか、「あの子はキンマルでないのか?」と仲間内で話すそうです。かなり年輩になりますと、「キンマル」ではなく「コゥシク」という言葉を使って同じ会話をするそうです。「あの子はコゥシクか?」とか、「あの子はコゥシクでないのか?」とか・・・。

「被差別部落」の中で、語り伝えられてきた「隠語」・「伝承」・「史料」は、保存されているというよりは、忘却の流れに身を任せている・・・というのが現実のようです。

筆者の部落史の、たったひとりの師である、山口県立文書館の研究員をされていた北川健先生は、「被差別部落」の人々に、「本当に、先祖が語り伝えてきた地名、伝承、歴史を捨てていいのか、「被差別部落」の人々にとって、マイナスだけでなくプラスの面も含んでいると詰め寄ったという話をときどき耳にしますが、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に身を漬けている「被差別部落」の若い世代は、「被差別部落」の先祖が伝えてきた地名、伝承、歴史を捨てて省みないようです。「大切なのは、昔のことではなくて、今の部落をどう変えて行くかだ」と、同和対策事業の復活と継続を望むひとが多いようです。

『部落学序説』の筆者は、「被差別部落」の今を変えるためには、「被差別部落」の昔を変えなければならないと考えます。

旧部落解放同盟新南陽支部の主催する「部落史研究会」の座長をされている福岡秀章氏は、その生涯を、部落解放のためにささげた、そして、いまなおささげているひとですが、山口県の被差別部落を尋ねて集めた伝承や史料は、貴重なものを数多く含んでいます。「部落史研究会」は、やがて、筆者の『部落学序説』を越える、あるいは包含する理論と証拠を携えて登場してくるでありましょう。『部落学序説』の筆者は、その露払いみたいなものですが、今回、自己規制を破って、山口県固有の被差別部落の伝承資料をもとに論述しました。

萩の古老は、「被差別部落」の若い人々に、「サンショウもズカンのか」とよく語りかえけるといいますが、筆者は、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老が、その伝承を次の世代に語り継いでいるように、長州藩の「旧穢多町」・「旧穢多村」の末裔によって、どこかで語り継がれていっている、そして、時がきたとき、それが明るみに持ち出されて、部落差別の完全解消に貢献する・・・、と確信しています。

筆者は、小学生のころ、一番背がひくく、やせて、病弱であったためか、よく、いじめの対象になっていました。私はよく、泣かされていましたが、同じようにいじめられて、決してなかない同級生もいました。彼が、いじめられて悔しい思いをしたとき、よく言っていたのが、「十手を持ってきてぶってやる!」という言葉でした。悪ガキたちは、「そんなものあるわけねえ。あるんなら、ここへもってけえ。」と、彼をからかっていました。そんなある日、彼は、ほんとうに、十手をもってきて、悪ガキたちを威嚇しました。そこへ、彼の父親が入ってきて、「十手を持ち出してはだめだと何回もいったやろ。この馬鹿たれが!」と、彼の手から十手をとりあげて、彼のあたまをボカスカ殴っている光景を目にしたことがあります。60近い年になると、同級生の名前はほとんど忘れてしまっているのに、彼の名前は今も覚えています。十手を持った少年の姿が、筆者の目に焼きついているからです。山口の地にきて、渋染一揆をしらべていたとき、彼の在所は、「被差別部落」(同和地区)のひとつであると知りました。彼の在所は、筆者の家から、小学校を通りすぎて反対の方角にありました。そんな彼も今は60才。子どもいるし、孫もいることでしょう。あの十手と、十手にまつわる、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」としての物語・歴史を子や孫にどのように語り継いでいるのだろうか・・・、筆者は想像をたくましくします。今も、十手は、「家宝」として、磨きをかけられ、彼のレーゾン・デートル(存在理由)になっているのではないかと思います。


穢多と言語と誇りと・・・

2006年04月22日 | 第4章 太政官布告批判

【第4章】太政官布告批判
【第8節】こどもの目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第6項】穢多と言語と誇りと・・・

「誇りうる人間の血は、涸れずにあった」。

水平社宣言の1節です。このことばに出てくる「誇り」とは何だったのでしょう。

筆者は、『水平社宣言』を過剰評価することはありません。水平社宣言は、様々な矛盾と破れを内蔵しています。水平社宣言は、それが持っている歴史的価値を再検証する必要があります。「検証」とは、従来の価値判断に追従することなく、学問的に、その歴史的意味を問い直すことを意味します。問い直すことによって、既成概念を承認することもあれば、否定することもあります。

筆者は、『部落学序説』第5章において、「水平社宣言批判」を展開するときに、「水平社」とその運動について、従来の既存の説とは、かなり異なる説を展開することになるでしょう。それは、全面否定でも、全面肯定でもなく、歴史資料と、長年に渡って蓄積されてきた歴史学者の研究論文の比較研究によって達成されます。筆者は、「水平社宣言」をみなおすことで、それを根拠に、『部落学序説』第6章において、「同和対策審議会答申批判」を展開します。

水平社宣言の「誇り」ということばは、「人間」にかかるのか、「血」にかかるのか・・・、中学生の国文法レベルで発想してみますと、発想した瞬間、戸惑ってしまいます。「誇りうる人間」「誇りうる・・・血」。水平社宣言は、「人間」を誇っているのか、「血」を誇っているのか・・・。これは、1例に過ぎませんが、水平社宣言は、ひとことひとことを精査していくと、解釈にあいまいさがあることに気付かされます。

しかも、『忘れさられた西光万吉 現代の部落「問題」再考』の著者・吉田智弥によると、水平社宣言は、2つの資料の編集されたものです。浄土真宗僧侶の西光万吉が、最初から最後まで書き下ろしたものではなくて、複数の人によって執筆された文書の複合体であるというのです。筆者は、吉田智弥説は、水平社宣言の解釈に彩りを添えるもので、部落史の見直しにとって、きわめて有益な研究成果であると思っています。

吉田智弥は、『水平社の原像』(解放出版社)の著者・朝治武の説を紹介しながら、上記の「誇りうる人間の血は、涸れずにあった。」ということばは、西光万吉の手になることばではない・・・といいます。「誇り」ということばの真意を理解するためには、学問的な手続きが必要なようです。それは後日触れることにして、「誇りうる人間」、「誇りうる・・・血」ということばについて、いままで多くの人々が解釈を積み重ねてきていますので、筆者は、アド・ホック(作業上の間に合わせのことば)として、「誇りうる存在」ということばを採用することにします。

当時の福島県の「旧穢多」の末裔・栃木重吉は、「新平民のこの俺は、深い<人間生存>の道について悩まずにはいられなかった」と述懐していますが、栃木重吉のいう<人間生存>ということばを、簡略化して<存在>と呼ぶことにしたわけですが、栃木重吉によると、「社会」は、栃木重吉の<存在>を「冷遇」するといいます。貧困と無学歴は、その「冷遇」に拍車をくわえます。筆者は、栃木重吉は、水平社運動に、彼の「旧穢多」の生きる試行錯誤、苦悩を乗り越えて、<存在>の否定ではなく、<存在>の肯定の理論を携えて、それを、「水平社宣言」の文言の中に組み込んだのではないかと考えています。「穢多の子らよ、みずからを卑しめるな、うなじをあげて、その存在に誇りをもって、生きよ・・・」、栃木重吉は、そのような思いをこのことばに託したのではないかと、筆者は推測するのです。

「旧穢多」の末裔をして、その<存在>の「誇り」を感じさせてきたものは何か・・・。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の話を耳にしたときから、「旧穢多」の末裔が、「誇り」をもって生き抜いてきたその要因とは何なのか考えるようになりましたが、徳山市立図書館で史料を探索していたある日、筆者のなぞに答えを与えてくれるような資料が、筆者の手元に舞い込んできたのです。

それを持ち込んでくれたのは、部落解放同盟元新南陽支部の書記、現在部落史研究会の座長をされている福岡秀章氏でした。その資料には、「旧穢多」の末裔が、「人間としての誇り」を失うことなく生きてきた要因がなんであるかが記されていました。

その資料は、『隠語について』という表題が付されたもので、長州藩萩城下の穢多町の「穢多」の「末裔」である、ある古老が執筆したものでした。わずか10ページ足らずの短い文章ですが、その文章の冒頭にこのようなことばが記されていました。

「専制政治の幕藩時代は勿論
明治以降における 今日の政治政権下
官憲の圧迫一般民衆の迫害
喜び 悲しみ 憤り 恐怖に曝されながらも
尚私共部落民は人間としての 誇りを失わんが為の糧である」

萩城下の穢多町の末裔である古老は、「人間としての誇り」を失うことから免れさせたのは、「ことば」・「言語」であったというのです。被差別部落固有のことば・言語が、「旧穢多」が、近世幕藩体制下の「穢多」であったことの誇りを忘れさせなかったというのです。

京都府宇治郡山科の「旧穢多村」の小学校教師が、その生徒から、体罰をもってしても取り除こうとした「転訛」・「ことば」・「言語」を、萩城下の穢多町の末裔である古老は、「人間としての誇りを失わんが為の<糧>」であったというのです。ここから、推測できることは、「旧穢多」のこどもに「通語」を教えようとして小学校教師が失敗したのは、その転訛(ことば・言語)が、「旧穢多」の親と子にとって、その存在と深く結びついていたからではなかったかということです。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」として、法の下で、その職務(役務)に誇りを持って従事してきた「穢多・非人」の歴史を刻み込む、彼ら固有の「ことば」・「言語」は、明治以降、近代中央集権国家建設のため、その組織を解体され、その職を解雇されたとはいえ、彼らの旧「穢多・非人」としての精神的支柱を構成したのではないかと思います。「旧穢多」に対して浅薄な発想と理解しか持ちえなかった、京都府宇治郡山科の小学校教師にとっては、永遠に理解することができない類の話なのかもしれません。

「旧穢多」の歴史を忘れさせず、その誇りを、今日の時代においても伝えさせているもの、それは、「旧穢多」の歴史をきざむ「旧穢多」の言語だったのです。

長州藩萩城下の穢多町の「穢多」の末裔が伝承してきた「ことば」・「言語」を列挙してみましょう。

「ビリタ・ジヨゥセ・モクセ・フケタ・アオクナ・アオイタ・ハナエル・ホヤク・バレ・シクタレ・キンマル・スリコ・ヒンタ・コゥヒン・ネス・ゲソ・ツナゲ・ツナガレン・ハクイ・グスネタ・アオク・カマッタ・ヒツジカイ・ガチ・ギタ・ゲンサイ・デシ・ハマン・ギラレタ・リョウマル・カマレ・テンゴ・コゥシク・ハム・デテン・ガリ・エラ・グラマカス・オシカネー・ビラ・オノケ・ゲンゴ・キス・オビイ・サンショウ・ズカン・アオタ・アゲタ・ズイトル・・・」

古老の『隠語について』という文章には、それらのことばの詳しい説明が掲載されています。その説明を読みながら、筆者は、それらのことばは、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常・民」がその職務を遂行するときに使用した、司法・警察関係者のみに通用する「隠語」であると判断しました。被疑者・容疑者には、その会話をさとられないで、「穢多・非人」間だけで通用する「業界用語」ではないかと思います。

萩城下の穢多町の末裔である古老がいう「人間としての誇りを失わんが為の糧」としてのことばは、「穢多」の先祖たちが、「非常・民」としての誇り高き職務についていたときに使用したことばでもあったのです。

萩城下の「穢多町」の「穢多」は、自らのことを「コゥシク」と呼んだそうです。「穢多」の自称語といってもいいかもしれません。筆者の推測では、「郷夙」の訛ったものではないかと思います。「郷の夙」、つまり、「村境を守る番人」の意。萩城下のはずれにあって、萩城下に出入りする人々を監視していた街道の「衛手」(エタ)を指していたのではないかと推測します。山口県の小さな教会に赴任して20数年、「被差別部落」のひとびとが、自らのことを「コゥシク」と呼んでいる場面に遭遇したことは一度もありません。

自らを「コゥシク」と呼ぶ「穢多」は、いかなる御法度も犯していない、「農・工・商」を指して、「リョウマル」(良の字を○で囲んだもの)と呼んでいました。

古老は、『隠語について』の最後に、「今尚この様な言葉を用いなければ生きていけない人間が居ることを理解して欲しい。」と結んでありました。「被差別部落」の名前(実名)を添えて・・・・。

古老は、萩の「被差別部落」の若い人々に対してこのように話すことが多いといいます。「サンショウもズカンのか」と。「サンショウ」(近世幕藩体制下の司法・警察である非常民の隠語)も「ズカン」(知らない)のか・・・。そのことばには、「穢多」の、本当の歴史が忘れられていくことへの古老のさびしさが込められているように思われます。

「旧穢多村」の住人にとっては、「よそもの」でしかなかった、京都府宇治郡山科の小学校教師は、「通語」をおしえるのみに汲々としていて、「転訛」の陰に隠れた、「穢多」の「人間としての誇り」につながる「隠語」(警察用語)の存在に気がつかなかったのかもしれません。筆者は、日本全国の「旧穢多村」は、長州藩の「穢多町」や「穢多村」と同じ、固有の言語的特徴がその記憶の中に刻印されているのではないかと思います。『壬申戸籍』や『地名総鑑』より、より強力に刻印された、「旧穢多」のしるしが・・・。

中江兆民の「新民世界」の文章に対して、ことばの「転訛」を捉えて、「旧穢多」の人種起源説的説明をする漁客に対して、兆民は、漁客に対して、「頑冥不霊の人」と断じ、「おおよそ人を正さんと欲せば、まずみずから正さざるべからず。・・・漁客請、慣習の悪鬼に捕捉玩弄せられざらんことを。」と激しく抗議しています。この論争のあった明治22年、「旧穢多」の「人種起源説」は萌芽の段階にあったとはいえ、日本人民の「良識」をもってすれば、現代の部落差別に直結するような差別を雑草のごとく、蔓延させないですんだかもしれないと、筆者は思わされるのです。「人種起源説」を捏造していった歴史学者・教育者・運動家・政治家は、「犯罪的」であるとさえ考えさせられるのです。

*疲れたので校正しないでアップします。


教育・言語・差別 その2

2006年04月21日 | 第4章 太政官布告批判

【第4章】太政官布告批判
【第8節】こどもの目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第5項】教育・言語・差別 その2

「余は・・・旧穢多の塊肉にして、すなわち新平民の一人物なり。」

明治22(1889)年2月14日、「大円居士」の筆名で『東雲新聞』に「新民世界」と題する文章を投書したのは、土佐藩の「下級武士」(足軽身分)であった中江兆民でした。「士族のために打たれ、踏まれ、軽蔑されて、憤発することを知らざりし旧時の民(新平民)」の境涯を我が身に引き受けて、「新平民」「異類視」(「新平民」を異民族の末裔とみなす説)することに敢然と反論していく様は、中江兆民の言動に批判的な論敵さへ、「然りといえども、余は大いに居士の人となりを愛す。」と言わしめる程です。

この当時、まだ、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に直結する「特殊部落民」というあきらかな差別用語はまだ登場してきていません。「部落」という概念すら、まだ、一般的に使用されていない時期です。「旧穢多」を表現するに、「新平民」という概念が一般的にもちいられていた時代、中江兆民は、当時、次第に芽生えつつあった「旧穢多」の「起源」に対する「人種起源説」に、明白な「否」を突きつけるのです。

中江兆民は、その妻の出自である「旧穢多」身分が、近代中央集権国家、明治天皇制国家のイデオロギーによって、非日本人的・非臣民的存在として排除されていく様を、黙って容認することができなかったのでしょう。「穢多の起源の問題はどうでもいい。旧穢多の置かれた社会的地位の改善こそ、旧穢多の緊急の課題だ」とはいいませんでした。兆民は、「吾らの家系のゆえを以て、吾らを異類視し、吾らを下等視すると謂うか。吾らの先祖はインド人なるか、支那人なるか、ペルシャ人なるか・・・、さらにその先祖のまた先祖に遡るときは・・・。吾らこれを記憶せざるなり。」として、台頭しつつあった「旧穢多」に対する「人種起源説」を全面否定するのです。

中江兆民という「大変人」に対して、対極にあるもうひとりの「大変人」・鷗村漁客が『大円居士に答う』と題して、「旧穢多」の「人種起源説」を擁護・証明しょうとするのです。

中江兆民が、図らずも、歴史に、「被差別部落」の「人種起源説」萌芽の時代の状況を、文字に刻印して残すことになったのは、「被差別部落」の淵源をたどる人々にとって、かけがえのない道標を設定したことになると、『部落学序説』の筆者は、中江兆民を評価します。

筆者は、すでに、中江兆民についてはいくつか文章を残していますので、ここでは、中江兆民の論敵、鷗村漁客の教説をとりあげてみましょう。

漁客は、中江兆民が、「新平民」が社会から排斥されつつあることを熱心に説くが、排斥されつつある、その理由については一考だにしないことを批判します。漁客は、「新平民」が社会より排斥される「その原因は種々」あると指摘します。そして、「種々」ある中でも、主な理由を「列挙」します。

かれらが言語の転訛なり、
かれたが行状の乱暴なり、
かれらが根性の剛愎なり、
かれらが衣服の奇怪なり、
かれらが身体の臭穢なり、
かれらが飲食の粗悪なり、
最もはなはだしきものはすなわちかれらが気力と知力に貧なるにあり。

漁客は、「新平民」が社会的に排斥される理由を箇条書きに列挙したあと、その理由を展開していきます。漁客は、漁客がそう確信する「証拠」を提示します。

漁客が証拠としてとりあげる最初のものは、京都宇治郡山科にある「旧穢多の小部落」の中に設置された小学校の教師の語る証言です。その「旧穢多村」にある小学校の校舎は、「風に吹かれ雨に打たれ、半ば欹斜する」状況にあるといいます。その小学校教師として、「旧穢多」のこどもの教育に携わっている人が、漁客を尋ねてきてこのように話していったというのです。

彼は、長年に渡って、「屠家の子弟を教育」してきたというのです。その中で、いちばん、教育・指導に「困難」を覚えたのは、「旧穢多」のこどもが話す「言語の矯正」であったというのです。

たとえば、山科の「旧穢多村」のこどもは、「子供」を「ころも」と発音し、「めでたし」を「めれたし」、「釣瓶」を「つぶれ」と発音するというのです。その小学校教師は、「旧穢多村」のこどもが、そのような発音をするとき、「抱腹して絶倒するに堪えたり」というのです。

当時の文部省の要職・西潟訥は、日本の社会には、「風土」・「習俗」の違いによる方言の存在を認めていますが、その小学校教師の「方言」理解は、異常なものです。彼は、「方言」を使う、「旧穢多村」のこどもをみて、「憐れみ」の思いを持つというのです。

その小学校教師は、高みにたって、低き立場にある「旧穢多」のこどもの、文化的低位、文明開化の遅れを「憐れみ」「心を尽くし力を竭せり」というのです。その小学校教師は、彼の言葉の通り、小学校教師の良心をかけて、「旧穢多村」のこどもたちの教育にあったであろうことは想像に難くあいません。しかし、彼は、努力のかいなく、「一つもその効応を見」なかったというのです。小学校教師である彼の努力に対して、「旧穢多村」のこどもたちから思ったほどいい成果がかえってこないことを知った、この小学校教師は、「今やまさに鞭を擲たんとす」と、体罰をもってしても、「旧穢多村」のこどもの方言を矯正して「通語」を話せるようにしようというのです。

山科の「旧穢多村」の小学校の教師からこの話をきかされたとき、「これ言語の転訛にあらずや」とつぶやくのです。「転訛」は、「なまり」のことで、「方言」のことです。「方言」というのは、生まれ育った地に深く根ざしているものですから、山科の「旧穢多村」のこどもならずともなかなか取り除くことは容易ではありません。それに、そもそも、「なまりはおくにの手形・・・」、それを取り除く必要があるのかどうか・・・。

当時の文部省要職の西潟訥は、「陸羽ノ人ノ薩隅ノ民ニ於ケル、其言語全ク相通ゼザルガ如シ」といいますが、東日本(陸羽ノ人)と西日本(薩隅ノ人)との間で、言語(方言)が通じないだけではありません。日本全国津々浦々、この言語(方言)による意志伝達の困難さは、明治を遠く隔たった今日においても存在しているのです。それを、当時の文部省は、公教育において、全国津々浦々に共通し通用する「通語」(標準語)を採用しようとします。

しかし、文部省の趣旨を間違って解釈する小学校教師は、山科の「旧穢多村」のこどもの転訛を、体罰をもって矯正しようとします。彼の所作は、山科のこどもたちが生まれながらに身につけてきた言語・ことばを奪うことにつながってしまいます。教育効果が十分に発揮できない、その小学校教師は、「旧穢多村」のこどもたちの天来の学力に低さの性として、こどもたちに低い成績をつけてしまったと思われます。そして、山科のこどもたちの「智力」・「気力」の少ないのは、彼らが、本来「日本人」ではないからだと・・・、こころの中で理由付けをしていきます。

漁客は、小学校教師に大いに賛同し、文章の末尾でこのように語るのです。「ああかれらは社会がこれを排斥するにあらずして、すなわちかれら、おのおのみずから社会より排斥せらるるの種を下すものなり」。

そして、山科の「旧穢多村」のこどもたちの、「通語」(標準語)を習得することの難しさを前に、かれらの「無気力、無智力」は、「支那・朝鮮にて智恵もなく、身代もなく、生計を成すにあたわざる者が・・・はるばる波濤を越えて、日本にきた」、そういう、「無気力、無智力」の末裔であると断ずるのです。

漁客は、西潟訥がいう、「風土」・「習俗」の違いから生ずる「方言」を、それにとどまらず、「人種」・「民俗」の違いにまで普遍化するのです。

既述の内藤素行は、愛媛県の教育官吏として、学制頒布に基づく小学校設置に尽力していきますが、内藤は、伊予・松山藩の「旧穢多村」のこどもたちの「転訛」についてはいちども言及していません。あえていえば、「旧穢多村」の親も子も、「威張る」ということが、「平民」からの排除に結びついていったと思わされます。内藤の場合、明治13年までの経験談です。明治31年の漁客の時代になると、「旧穢多」に対して、その起源の「人種起源説」的傾向が一段とすすみ、あることないこと、「旧平民」と「新平民」の違いに「人種起源説」的説明が付加されていったと思われます。

漁客が、中江兆民に、「旧穢多」の社会的排斥の理由として提示した「転訛」「異類視」は、まったくの虚妄・虚説であるといわざるを得ません。

京都府宇治郡山科の「旧穢多村」だけでなく、日本全国津々浦々の「旧穢多村」が同じような、「異類視」に曝されていったのではないかと思います。中江兆民の「旧穢多」に対する「異類視」への全面否定と反論は、日本の部落史を見直し、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を批判・検証、とりのぞいていくときの、重要は史料になると思わされます。この中江兆民の提言、部落解放史においても、適切な評価がなされてきたとは言えない状況にあります。


教育・言語・差別 その1

2006年04月21日 | 第4章 太政官布告批判

【第4章】太政官布告批判
【第8節】こどもの目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第5項】教育・言語・差別 その1

筆者は、明治新政府の教育行政に関して、ほとんど資料らしい資料を持ち合わせていません。

既に入手しているごくわずかな史料や研究論文の精読・解析によって、この論文を執筆していますが、なかなか困難がともないます。

筆者は、無学歴・無資格であるがゆえに、自己の能力については十分認識しています。無学歴・無資格に相応した学力しか持ち合わせていないことは、他者からの指摘をまたず、認めざるを得ません。しかし、筆者は、従来の部落史研究者の研究事例を前に、「ほんとうにそうなのだろうか・・・」、といつも疑問の思いを持ってしまいます。

前項で紹介した内藤素行は、伊予・松山藩の「穢多」について、近世幕藩体制下において「穢多と平民を区別する事はこれ我国一般の風習であります。」といいますが、「朝廷に於いて同等に取扱へといふ御沙汰」が出た以上は、「穢多と平民を区別する」ことなく、同じ「平民」として教育を受けさせようとするのです。

しかし、なかなか両者がお互いを受け入れる状態には達しません。その理由として、筆者は、近世幕藩体制下の数百年間に渡る両者の関係の葛藤があるように思います。すでに、繰り返し述べてきた通りですが、「旧穢多」は「非常・民」であり、「旧百姓」は、庄屋等の村方役人をのぞいてそのほとんどは「常・民」でしかありません。明治になってからも、「旧穢多」と「旧百姓」との間の関係は継続していたのですから、一片の布告(「穢多非人等ノ称廃止」の布告)が出されたとしても、両者の関係はおいそれとは改定することはできませんでした。

その理由は、明治政府が、近世幕藩体制下の司法・警察機構の解体に際してとった、政策のあいまいさに原因があります。明治4年の布告によって、近世幕藩体制下の「旧穢多」身分が完全に、近代中央集権国家の「新平民」に移行することができていたとしたら、「旧穢多」は「非常・民」から解放され、「新平民」・「平民」としての天下の道をまっすぐに歩むことができたことでしょう。しかし、明治政府は、「試験」を実施し、優秀な者には、近代中央集権国家の「非常・民」として、その職務を継続する余地を残していたのです。正規の「警察官」になることができなかった「旧穢多」は、「警察の手下」として「探偵」に従事することになったのです。当時の「探偵」は、現代警察の「私服刑事」のようなものですが、彼らの職務は、「密偵」として、人の秘密をあきらかにすることによって、その報酬を得るというところが、人民の間で問題視されていきます。当時の「警察権」を背景に「悪辣」な「犬」として社会的批判をあびることも度々ありました。

明治13年発行の『司法省蔵版・全国民事慣例類集』は、あまり史料として採用されているのをみかけません。筆者の推測では、『全国民事慣例類集』は、近世と近代とが意図的に併存させられているからです。どの箇所が近世で、どの部分が近代なのか容易に判定し難いからです。

しかし、『部落学序説』の命題を踏まえると、渾然とした状態から、近代の「穢多村」の近代的情報を入手することが可能になります。

「専ラ官ノ警察ノ手先ヲ為ス」
「専ラ警察探偵ノ事ヲ任ス」
「番非人ハ村々ニ居住セシメ捕盗警察ヲ業トシ・・・」
「番非人ハ民間捕盗警察ヲ為シ・・・」
「穢多ノ宗門改ニハ村役場ニ呼ビ爪印セシム」
「穢多・非人ノ戸籍ハ・・・役場ニ於テ関係スル事ナシ。」
「非人ハ専ラ官ノ警察ノ手先ヲ職トスル・・・\
「穢多ハ別ニ宗門改ヲ為シ近傍村役場ノ管轄ニ属ス。」
「穢多ハ長吏ト唱ヘ・・・警察ノ手先ヲ為ス」
警察ノ手先ヲ為シ些少ノ給料ヲ受ケ・・・」

『全国民事慣例類集』のこれらの表現は、従来の部落史研究においてはあまり重要視されてこなかったものです。「警察」という概念は、明治以降において使用されるようになった言葉ですが、調査にあたった明治政府の「司法省」及び「地方官」の間では、近世幕藩体制下の「穢多・非人」は、近代「警察」と同等の存在として認識されていたように思われます。と、同時に、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告のあとも、近代警察の「探偵」・「手先」として、近代警察システムの中に組み込まれていたことを示しています。

「旧平民」(旧百姓)の目からみると、確かに、「穢多・非人」は、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告によって、近世的身分から、他の「士・農・工・商」身分と同じように解放されているけれども、その一部は、近世に引き続き「非常・民」として、従前の警察業務に関与しているので、「旧平民」の間からは、「旧穢多」を「非常・民」として、引き続き警戒する雰囲気があったように思われます。

近世幕藩体制下の「穢多」は、明治4年以降、「旧平民」の「外」にではなくて、「旧平民」の「内」に存在するようになったのです。「旧平民」は、近世幕藩体制下において「安寧警察」・「宗教警察」であった「旧穢多」に対して、警戒の思いをもち続けたのではないかと思います。

筆者は、「旧穢多」・「新平民」に対して、「人種起源説」的見解が芽生えだすのは、明治30年代に入ってからのことであると考えています。明治20年代までは、「穢多・非人」に対して、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として見方が後退し、「人種起源説」的見解がかもしだされていきます。「人種起源説」の発生場所になったのが、当時の小学校に於ける教育現場であったと考えます。なぜ、近代教育の現場から、「新平民」に対して、「人種起源説」的見解が生み出されていったのでしょうか・・・。


明治5年学制の隠された意図 その3

2006年04月20日 | 第4章 太政官布告批判

【第4章】太政官布告批判
【第8節】こどもの目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第4項】明治5年学制の隠された意図 その3

明治新政府は、維新後の日本に、近代中央集権国家を確立するために、短期間の間にさまざまな施策を打ちだします。

その施策は、岩波の日本近代思想体系の各巻の表題にもあらわれていますように、「天皇制、官僚制、警察、軍隊、宗教、教育、法制度、経済、憲法制定、学問、言論、新聞、出版、歴史学、科学、翻訳、芸術、都市計画、村制度、民衆支配、風俗、性の管理」等、多分野に及びます。明治新政府の官僚・役人総動員したとしても、複雑多岐に渡る国政の多分野に、日本の近代中央集権国家に相応しい施策を計画し実施していくことは、多くの困難に直面したであろうことは想像に難くありません。

それぞれの分野、単独で、立案すればこと足りるわけではありません。統一された近代中央集権国家に適う施策にするためには、そのほかの関連する施策との綿密な摺り合わせが必要になります。明治新政府がそのためにとった政治的手法は、PLAN・DO・SEEではないかと思います。

PLAN・DO・SEE というのは、情報処理の世界では、情報処理システム構築の技法として採用されているもので、その作業の効率化を図るため、PLAN・DO・SEE、つまり、計画・実行・評価が実施されます。

明治新政府の個々の施策を批判・検証するとき、日本の歴史学者の多くは、「DO」のみに関心を集中させる傾向があります。しかし、『部落学序説』の、無学歴・無資格の筆者は、明治政府がどのような施策を実施したかという「DO」だけでなく、「DO」がどのような意図のもとにどのような設計・「PLAN」をもって実施され、実施されたあとは、どのように批判検証・「SEE」がなされたか・・・、という一連の流れの中に明治政府の「DO」を捉えようとします。

明治5年の「学制」実施に際して、明治政府が具体的に遂行した「学制」の「DO」を見るだけでなく、「DO」の背後にある「PLAN」を明らかにしようとして、木戸孝允の《普通教育の振興につき建言書案》や、伊藤博文の《国是綱目》をとりあげました(岩波日本近代思想大系『教育の体系』に集録されているのでだれでも読むことができます)。

「DO」の背後にある「PLAN」を見たからには、「DO」の後に続く「SEE」を見ないほうはありません。明治政府が、明治5年に「学制」頒布を実施したあと、その「DO」をどのように「SEE」したのか、明治政府中央からは、文部省の要職にあった西潟訥が、東北・北陸諸県の巡回視察をもとに、教育のあり方についての考え方を述べた文書」《巡視巧程説諭》と、地方からは、明治5年から13年まで、愛媛県の学事(学区取締)に従事していた内藤素行の文章をとりあげてみましょう。

『教育の体系』の解説者・山住正己によると、《巡視巧程説諭》の著者・西潟訥は、「新潟出身の官僚。1838~1915。明治4年文部省に出仕、学制制定準備にも加わる。5年文部省少丞、6年文部中督学。4年に大隈重信に宛てて、「天下ノ大計ハ先ズ学校ヲ設ルニアルノ説」を建白、「富国開明其施多端ナリト雖モ、遂ニ一学ニ帰ス」と述べるなど、一貫して普通教育の重要性を説いた」人物だそうです。西潟訥は、「欧米の教育論・教育事情を紹介、啓蒙的役割」を果たしたといいます。

「巡視巧程」というのは、山住によると、「学制試行後、各地の学事の進渉状況を巡視し、その結果をまとめた報告書」のことで、文部省要職である西潟訥がこの報告書を読んで批評した記録が、《巡視巧程説諭》なのです。

西潟訥の《巡視巧程説諭》は、まさに明治政府の、明治5年の「学制」頒布のPLAN・DO・SEE(計画・実行・評価)のSEE(評価)にあたるもので、西潟訥の「評価」の仕方から逆に辿っていきますと、明治5年「学制」の PLAN(計画)・DO(実行)がより明確になってくると思われます。DO(実行)段階で伏されていたことがらが、PLAN(計画)とSEE(評価)をあわせ検討することで、その姿が明らかになる可能性を秘めています。

西潟は、「人皆小学ノ教育ヲ受クベキ事」という文章の中で、国語教育の重要性を説いています。中央から地方へ、地方から中央への情報伝達は、「言語」を伝達手段として行われます。文書においては、文字を通して、口頭においては、音声を通して伝達されます。

しかし、日本で使用されている言語は、「風土ニヨリテ基調ヲ異ニシ、習俗ニヨリテ其辞ヲ別ニス」というのです。「風土」(地理的・自然的環境)と「習俗」(文化的・歴史的環境)によって違いがあり、「一国ノ中猶且ツ東西ノ言語通ゼザルモノアリ」というのです。西潟はい一例として、「陸羽ノ民ニ於ケル薩隈ノ民ニ於ケル、其言語全ク相通ゼザル例を取り上げています。

東北の陸奥・出羽の人々と、九州の薩摩・大隅の人々の使う言葉は、同じ日本語とはいえ、「全く相通ぜざる」異国のことばのようであるというのです。「言語通ゼザレバ情実審カニシ難ク、猶外国ニ至ルガ如シ。其不便モ亦以テ知ルベキノミ」。西潟は、明治5年の「学制」頒布以降、小学校でなされる国語の授業は、「其不便」をとりのぞくために実施されているというのです。

西潟のこの言葉は、重要な意味を持っていると解釈されます。「風土」・「習俗」による「言語」の違いは、同じ日本の中にあっても、「外国に至るが如し」と受け止められるというのです。幕末・明治初頭にかけて、日本が諸外国に対して開国し、日本に外国人を受け入れるに及んで、まさに、外国人を外国人として認識する最も大きな要素は「言語」だったのです。居住の自由によって、自分の郷(くに)を離れて、異郷の地を旅することができるようになったことで、日本人は、「内なる外国」を認識するようになったのです。

西潟は、各地からの巡回視察の報告に目を通しながら、とくに、「辺陬僻遠ノ小学ニ在リテハ、必十分会話ノ課ヲ授クルヲ要スベシ」といいます。小学校生徒に、「正韻通語」(日本の東西で通用する、現代でいう標準語)を習得させることが極めて重要であるといいます。

筆者は、「正韻通語」の学習によって、日本の近代中央集権国家における徴兵制によって召集された「兵士」は、日本全国一律の命令、軍事情報の一元的管理が可能になると、明治政府が考えたのでではないか想定するのです。

西潟は、「土音土語ヲ脱セザル」「土人」の小学校教師を排除して、「通語ヲ能クスル他国ノ教員」を雇用することをすすめるのです。「此、日進開化ノ大関係ニシテ、忽カセニスベカラザル所ナリ」という言葉に出てくる「日進開化ノ大関係」の中に、明治政府の「学制」と「軍制」の密接な関係の認識が含まれていたと推定するのです。

四国・讃岐の徴兵反対一揆の際、讃岐の「旧平民」(旧百姓)が、「血税反対闘争」の枠組みの中で、新設されたばかりの小学校48校を襲撃、放火、棄毀の暴挙に出たのは、小学校教育が「学制」と「軍制」の密接に結びついていることを見抜いた、賢明なる「旧平民」(旧百姓)の明治新政府に対する批判・抗議があると思われます。

一方、四国・松山(愛媛県)で、「学区取締」に従事していた内藤素行は、明治5年の「学制頒布」当時の「穢多」と「小学校」について、速記録の形で、その記憶を残しています。

内藤は、「松山藩に於ける穢多の制度並に明治以後に於ける取扱の実歴」という「口伝」を残しています。その内容は、『部落学序説』がこれまで説いてきたところを援用すれば、これまでの誤解が氷解することになります。

内藤は、松山藩9郡における「村々には大概穢多が住んで居った」といいます。「穢多」と「穢多以外の者」の関係は、「親しみ深い」ものがあったというのです。日頃、穢多と顔を見合せながら生活している「武士」・「百姓」は、「穢多」に親近感を抱いていたというのです。しかし、長州藩もそうですが、すべての村に「穢多」が在住するわけではありません。ある場合には、事件や取締があるときにだけ、「穢多」が姿をみせる村もあるのです。そのような村は、「穢多」に親近感を持つことなく、権力の末端機関に対する恐れをもって「嫌う傾き」があるというのです。

つまり、四国・松山藩の「百姓」にとって、顔見知りの「穢多」には親近感を抱くが、見知らぬ「穢多」に対しては嫌悪感が先立つというのです。この「百姓」と「穢多」の関係は、現在の「市民」と「警察」に関係とたやすく類比して考察することができます。

内藤は、松山藩の「穢多頭」は、「大きな屋敷を構へまして、塀を以て廻らして一寸望んでも大きな住居に驚きます。」と証言していますが、当時の「藩の役所」の一般的な建物であった瓦葺き屋根を持つ「穢多屋敷」であったと思われます。現代の「警察署」を想定すれば、よろしいかと思います。「穢多頭」は、「半右衛門」と呼ばれ、大小の両刀差しを許されていたといいます。両刀差しは、「藩士」にのみ許されたもので、松山藩の「穢多頭」は与力以上の藩士階級であったと思われます。その「役務」は司法・警察に関することで、司法・検察・法務・警察・刑務など多岐に渡ったと思われます。その「役務」に対する藩からの報酬・「家職」は、死牛馬処理に伴う皮革に関する利権で、「穢多頭の年中の収入は巨額なもの」といいます。内藤は、処刑についても詳述しています。近世幕藩体制下の死刑執行人・刑務官として、プロとしての知識と技術を持っていたといいます。

内藤は、明治5年の「学制」頒布についてこのようにのべています。

「私共の県に於きましても小学校設置といふことが起こりましたが・・・、小学校を設けるには中々苦情があった、・・・私も学区取締を命ぜられ・・・松山城下の近傍を受持って皆廻りました。所が小区内の町村吏員に於きましては此学校を設けることついてはあまり奮発をしない。」

「平民」も経済的理由で消極的であり、その他に、「旧平民」の子どもと「新平民」の子どもを一緒に教えることに問題とみなす「旧平民」が増えていったといいます。

「旧平民」の親にとっては、「旧平民」の子どもと「新平民」の子どもが共に同じ小学校で学ぶことによって、旧「常・民」である「旧平民」の様々な情報が、旧「非常・民」である「新平民」に流れ、将来不都合なことになるのではないかという不安や警戒心が広がっていったためではないかと思います。中には、「穢多の席」を別にする小学校も出てきます。内藤は、問題解決のために東奔西走したといいます。「穢多の席」を嫌がる「新平民」の親と子は、「穢多のみの小さい学校を造って教育する」場合もあったということです。

注目すべきは、内藤素行の、この速記録は、大正2年に、「穢多」と「穢多村」を懐古するという形で、口述筆記されたものです。「旧穢多」に対して「特殊部落民」という、官製の差別用語が投げかけられていた時代に、内藤は、「特殊部落民」という概念を一度も使用しないで、「新平民」として呼び続けていることです。「特殊部落民」という視角・視点・視座に毒されていない人々は、「旧穢多」(新平民)のほんとうの姿を、どこかで、評価しているようです。

明治31(1867)年2月27日、「海南新聞」に掲載された「愛媛県の被差別部落の美風」を伝える記事は、浄土真宗門徒の倫理観を身につけ、日々、農作業に勤しみ、農産物の加工品を商い、財をなして、教育費の支出をおしまず、正式の校舎を「旧穢多村」に建築して、資格をもった小学校の教師に「旧穢多村」の児童の教育にあたらせたという話が紹介されています。その記事は、「普通人民の設立せる学校に比して就学数決して遜色なきなり。」と伝えています。「旧穢多」の親たちは教育熱心で、その子どもも、「皆熱心に愉快に学校に従事せり。」というのです。筆者は、その「旧穢多村」は、よき小学校教師にめぐまれたからであると思います。

讃岐と伊予、四国の隣接する2つの県は、「旧穢多」の末裔に対して、異なる環境を提供していたのかもしれません。

次回、「教育・言語・差別」をテーマにして論述を続けます。


明治5年学制の隠された意図 その2

2006年04月20日 | 第4章 太政官布告批判

【第4章】太政官布告批判
【第8節】こどもの目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第4項】明治5年学制の隠された意図 その2

明治政府の「学制」制定の動きは、戊辰戦争終結と共にはじまっているといっても過言ではありません。

明治元年12月、長州萩藩士・木戸孝允は、近代中央集権国家の「兵制」を視野にいれつつ、近代中央集権国家に相応しい「学制」を提言していきます。

木戸は、戊辰戦争終結後の「一大急務」として、「一般人民」を近代中央集権国家の国民に相応しい存在足らしめんために、先進諸外国の教育制度を取り入れ、「全国に学校を振興」し、「一般人民」の教育の機会を提供することを建議するのです。筆者は、木戸の「兵制」・「学制」に一貫する精神は、「国の為に尽くすの心」の育成にあったのではないかと思っています。

木戸は、「一般の人民、無識・貧弱の境を離るあたわざるときは王政維新の美名もとうてい空名に属す」と言い切るのです。もし、明治政府が、人民を、近代中央集権国家の国民に育成する教育に失敗したとすると、それは明治維新そのものに失敗したことになるというのです。

「学制」を考えるに際して、「兵制」をあわせて考えるのは、木戸孝允だけでなく、明治2年1月、当時兵庫県知事であった伊藤博文についても同じでした。伊藤は、「版籍奉還後の国是(国の施政方針)として構想」した『国是綱目』において、「万民ヲ視ルニ上下ノ別ヲ以テ軽重ス可ラズ」として、近世幕藩体制下のすべての身分(役務と家職)を解放し、住居移転の自由と職業選択の自由を保障し、「全国ノ人民ヲシテ世界万国ノ学術ニ達セシメ、天然ノ智識ヲ拡充セイム可シ」というのです。人民に、「有用ノ学業」を提供すべきであると主張するのです。

福沢諭吉の『学問のすすめ』は、明治5年2月から明治9年11月までに執筆された17編の小冊子の合本のことであって、その内容は、すでに、明治政府の「学制」論議の中で、趣々論議されてきた内容なのです。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」ということばは、福沢諭吉発案のことばではなく、同種のことばは、長州藩の枝藩である岩国藩の藩士の教育理念のなかにも登場してきます。福沢自身、「「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず<と言えり>」と、そういう説があると言っているのですから、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」を福沢諭吉のことばとして生徒に教えるのは好ましいことではありません。

筆者は、伊藤博文と福沢諭吉の「教育理論」を比較検証した結果、伊藤博文のそれに深い共感を覚えると共に、逆に、福沢諭吉のそれに限りない嫌悪感をもたざるを得ないのです。

福沢は、「無学」ということについて、著しい偏見を振りまきます。「無学なる者は貧人となり下人となるなり」と断言するのです。「凡そ世のなかに無知文盲も民ほど憐れむべくまた悪むべきものはあらず」。福沢諭吉の軽佻浮薄な論法は、明治政府の教育行政の中で迷惑がられ、時として、否定される場面もあるのです。

福沢諭吉は、やがて、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」、人間みな同じである、富める者も貧しき者もみな同じ人間である、そうなら、富める者の子弟を集めて教育してどこが悪い・・・、と居直って、エリート教育を開始するのです。福沢は、教育も一種の「事業」とみなして、「元来学問教育も一種の商売品」であるというのです。「商売品」だから、「其品格に上下の等差ある可きは誠に当然」として、教育に、「上等・中等・下等」という値段付けをするのです。福沢は、「慶応義塾」という「上等の教育」を購入するものには、「学歴」を保障し、それを購入することができないものに対しては、「愚民」というレッテルを貼って省みないのです。福沢は、明治20年頃には、当時の国立大学の民営化を主張し、「高等教育を私学の手に委ねる」ことを主張するようになっていったのです。福沢は、高等教育の機会を、「上等の教育」を相応の値段で購入することができる「社会の「富裕層」に限定的に与えよう」(天野郁夫著『学歴の社会史 教育の日本の近代』平凡社ライブラリー)と画策するのです。

一部の富裕層に対する「エリート教育」ではなく、日本のすべての人民に対する「一般教育」こそ、近代中央集権国家建設の最優先課題であると主張した木戸孝允や伊藤博文の見解・施策とは似ても似つかぬ、下劣・通俗極まりないものだったのです。明治25年の慶応義塾の授業料は、「年額30円」、「東京で下宿生活をする費用」を加算すると、最低でも、年間130~140円が必要であったといいます。月額10円以上必要になります。明治24年の警察官の初任給は8円。明治19年の小学校教員の初任給は5円。消防士は臨時職員で出場一回につき10銭。地方の公務員(教育職・警察職)の収入では、子弟に「上等の教育」を買ってやることなど不可能だったでしょう。福沢は、「上等の教育」を「銭」で購入することのできない人々に、「憐れむべくまた悪むべきもの」・「愚民」として蔑視のまなざしを向けていきます。「無学なる者(愚民)は貧人となり下人となるなり」という見解を強固にしていきます。

明治新政府の打ち出した「学制」を、福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という言葉で評価することは、歴史の事実をまったく無視した虚妄であるとしか思えません。

高校の参考書に、福沢諭吉の思想を、「天賦人権思想に基づいたもの」という説明がなされたり、「1872(明治5)年の学制の「被仰出書」がどのような理念を打ち出しているかを読み取ってもらいたい。そして、その立身出世主義・実力主義・平等主義の基礎になったのが福沢諭吉の思想であることに注目したい。」(『詳説日本史史料集』山川出版社)という説明がなされたりしているのは、歴史の事実に著しく反するように思われます。「被仰出書」は、「教育は銭なり」という、教育者としてあるまじき妄語に帰結する福沢諭吉ではなく、真剣に、日本の近代中央集権国家に相応しい教育・学制を提唱した、木戸孝允・福沢諭吉・箕作麟祥・西潟訥・内田正雄・瓜生寅・辻新次・河津祐之等によって形つくられていったのです。

「兵制」確立のために「学制」の確立は避けて通ることはできませんでした。近世幕藩体制下の諸藩の軍事力のように、諸藩で通用するくにのことばだけでは不十分でした。3府41県に渡って、それぞれのくにの言葉が共存している状態では、近代中央集権国家にふさわしい行政組織や軍事・警察組織をつくりあげることは不可能でした。3府41県すべてに渡って通用する「通語」(西潟訥著「巡視功程説諭」岩波日本近代思想大系)の導入が必要でした。「学制」は、その背後に、小学校教育によって日本全国に「通語」を普遍化させ、「通語」をもって、統一的人民支配の装置にしようとしたのです。小学校の教育でなされる「通語」の教育は、「国民皆兵」による軍人養成の重要な機関でもあったのです。

「讃岐の徴兵反対一揆」が、48にのぼる建設されたばかりの小学校を襲撃、放火、棄毀に及んだのは、讃岐の「旧百姓」が、「学制」の背後に、「国民皆兵」のための教育装置としての小学校の存在に気づいたからに他なりません。「讃岐の徴兵反対一揆」は、讃岐の懸命な「旧百姓」の懸命な判断、抗議行動だったのです。

日本の全国津々浦々の小学校で展開された「通語」の教育・・・、それは、やがて、「旧百姓」の上だけでなく、「新百姓」・「新平民」になった「旧穢多」の上にも、深刻な影響をもたらすことになるのです。(続)

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明治5年学制の隠された意図 その1

2006年04月18日 | 第4章 太政官布告批判

【第4章】太政官布告批判
【第8節】こどもの目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第4項】明治5年学制の隠された意図 その1

『部落学序説』は、「被差別部落」の人々がその運動の中で「差別者の立場」といわれる「旧百姓」と視点・視角・視座から執筆されています。

「差別者の立場」といっても、「被差別部落」の人々をいたずらに差別しておとしめる(たとえば、2ちゃんねる上で部落問題を揶揄して楽しんでいる人々の)立場という意味ではありません。「被差別部落」の部落解放運動の中で、個々の中身を問わずに「被差別者」ではないから「差別者」であると問答無用で断定されている側に身をおいてこの『部落学序説』を執筆しているという意味です。

兵庫県神戸市で部落解放運動に従事されている田所蛙治氏は、筆者の『部落学序説』の内容をほぼ「了解」してくださっておられるようですが、筆者は、田所蛙治氏のような、異なる立場の見解を包み込むことができるようなひとは、非常にめずらしいと思っています。そのひとつの理由に、田所蛙治氏の先祖が、『部落学序説』でいう、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」の末裔であるという理由だけでなく、「穢多」の末裔としての自己理解・歴史理解に極めて精神的な柔軟性を持っておられることがあげられます。

筆者が所属している教団の教職・信徒の多くは、「部落史」の一般常識に深くとらわれていて、そこから1歩もでようとはしません。部落差別問題について、2、3冊の関連書籍を読んで、部落差別問題をすべて知り尽くしているかのような、錯覚に陥っておられる場合がほとんどなので、その「常識」を、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に汚染されていると筆者から指摘されると、それを放棄すると、彼らは、依拠するものが何もなくなるので、「一般的に認められている」、「歴史家の○○も認めている。門外漢のあなたより、有名で世の中にも認められている○○の見解の方を信じる」と、一般説や通説、場合によっては俗説にしがみつく傾向があります。

要するに、部落史に関しては、精神的自由とか、学問の自由とか・・・、そういうことがらには無関係に、主体的に、責任を持って、部落問題に関与するということを避けるために、一般説・通説に従っているに過ぎません。

これまで、『部落学序説』で検証してきた範囲では、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」の「人種起源説」を証明するような史料には遭遇しませんでした。「穢多」は、「日本人」と異なる人種ではなく、まさに「日本人」的な「日本人」であると認めざるを得ない状況にあることがはっきりしてきました。

しかし、現在の部落史研究においては、もう一度、被差別部落の「人種起源説」が復活するような傾向がみられます。網野善彦の論文にもその傾向がみられます。「人種起源説」は、部落差別を、日本の歴史の中に、時代を超えて存続させるのに有力な理論的武器になります。「人種」というのは、時代と共に変わることのない不変の属性だからです。「部落差別」が「人種」による差別だとすると、「部落差別」は、その「人種」が「人種」である限り、永遠に、時代を超えて存続することになります。つまり、同和対策事業は、「人種」が存続する限り、時代を超えて継続する必要が出てきます(観念的には、「人種」差別がなくなるとき、「部落差別」もなくなりますが・・・)。

『部落学序説』の筆者としては、「人種起源説」はもっと後の時代のことであると思っています。明治30年代後半以降、「特殊部落民」という官製用語が一般化される時代と平行して作り出された、比較的新しい理論であると思っています。「旧穢多」の末裔が、近代中央集権国家・明治天皇制国家によって「棄民」扱いされることによって、事後処理として、政府の「棄民」政策を合理化し、理論付けするために考え出されたのが「人種起源説」であると思っています。

明治新政府反対一揆は、王政復古を唱えていた明治政府が、朝令暮改よろしく、王政復古を破棄し、返って、近代日本国家の政治・社会・文化を近代化・欧米化しようとしたところに端を発します。

明治4年9月、「服制改革の詔」によって、明治天皇は、「風俗ナル者移換以テ時ノ宜シキに随」うことをよしとします。それまでの皇室の伝統であった「衣冠ノ制」を「中古唐制ニ模倣」した「軟弱ノ風」と強烈に批判します。そして、明治天皇は、「朕はなはだこれを歎く」というのです。そして、明治天皇は、「祖宗以来尚武ノ国体」に相応しい、西洋風の軍服を身にまとって衆庶の前に姿をあらわすというのです。

明治天皇が、人民の前に、軍服を身にまとった「元帥」として姿をあらわしたのは、明治5年5月23日のことでした。

天皇は、もともと「日本人」でしたが、時勢にあわせて、「日本人」に相応しい様相ではなく、近代化・欧米化された装いでその姿をあらわすのです。明治新政府反対一揆は、そのうちに、天皇の著しい、人民にとっては信じがたい変節に対する抗議が含まれていたと思われます。明治新政府反対一揆の打ちこわし、攻撃対象になった、明治新政府の仮想機関となった、当時の地方行政機関に対しても同じことがいえます。「小学校襲撃、放火、棄毀事件」も、「旧穢多村襲撃事件」も、明治天皇や明治政府に抱いていたのと同じ理由で襲撃の対象にされたのです。

民衆は、「旧穢多村」と「旧穢多」が、近代化・欧米化することを阻止しようとしたのではないでしょうか。適切なことばかどうかはわかりませんが、「日本人なれば日本人たれ」と、「旧穢多」に詰め寄ったのではないでしょうか・・・。明治政府が遂行しようとしている司法・警察の近代化・欧米化された「非常民」より、日本古来の司法・警察である「非常民」、昔の村落においては「旧穢多」の方を好ましいと考えていたのではないでしょうか・・・。

明治新政府反対一揆において、通称、「部落解放令反対一揆」において、「旧穢多」に対する攻撃理由として、「旧穢多-異人種説」など、入り込む隙間などつゆもなかったのです。すでに記述してきたように、近世幕藩体制下の司法・警察は、近代初期の司法・警察ともに、「日本的法体系」と「日本的法制度」に依拠した極めて「日本的」なシステムでしかなかったのです。そのシステムの担い手であった、「非常民」のヒエラルヒーの最下層である「旧穢多・非人」層も、極めて日本的な存在だったのです。

その「旧穢多」は、やがて、「旧平民」によって、「新平民」として排除されるようになっていきます。近代日本の歴史の中で、「旧穢多」の末裔が、「旧平民」から「新平民」として区別・排除されるようになる現場は、明治初期の「教育」の現場でした。とくに、学制によって、全国津々浦々に建設されていった小学校という教育現場であったと思われます。明治初期の「小学校」という教育現場で、「新平民」の末裔を「新平民」として排除する施策が採用されていったのです。その教育に従事した小学校教師の、当時のカリキュラムに基づく偏見と予見が、近代差別思想(部落差別)の温床を形づくっていったのです。

当時のこどもが、「小学校」でどのような教育を受けることになったのか・・・。

その当時の「旧平民」は、明治新政府の学制の『被仰出書』に基づいて、自分たちの町や村に、自分たちのために、自分たちの手で、小学校を喜々として作っていったにもかかわらず、なぜ、作ってまもない小学校を、自分たちの手で、襲撃、放火、棄毀しなければならなかたのでしょうか。

小学校の中で行われている教育の実態をみた「旧平民」は、思いもよらぬ教育現場の実態に、小学校教育の隠された意図に激怒して、血税反対一揆の当然の帰結として、小学校の襲撃、放火、棄毀に走ったのではないかと思います。問題になった教科は「国語」です。

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田所蛙治に関する一考察(2の2)

2006年04月15日 | 付論

田所蛙治に関する一考察(2の2)

田所蛙治氏は、神戸市で、長年に渡って部落解放運動に従事してこられました。彼は、研究者ではなく、運動家であったといいます。

筆者は、田所蛙治氏に一度もお会いしたことはありませんが、彼がインターネット上で公開している文章を読んで想像する人物像にこころあたりがない訳ではありません。田所蛙治氏に類似した人に、部落解放同盟山口県連新南陽支部の福岡秀章氏がいます。

彼も、自らを研究者ではなく運動家であるといいますが、その言葉と違って、彼の書斎には、部落解放運動に関する貴重な資料が多数並べられています。時々、貴重な蔵書をお借りして読ませていただいたことがありますが、研究者ではなく運動家に過ぎないという言葉と違って、その研ぎ澄まされた感性は、部落史研究者のとうてい及ぶところではないと思っています。ただ、彼を評価する人が、解放同盟の中には少なかったようで、随分誤解されているようです。

たとえば、「血統的にはサラブレッドのような「賤民の後裔」」と自称する、被差別部落の「おぼっちlゃま」である灘本昌久氏は、彼をこのように批判します。

「侮辱する意志の有無」を問わずに、特定の言葉を差別語として指摘しだすと、差別であるかないかの基準が、「被差別者に痛みを与えるか与ええないか」というところに安易に置かれがちとなり。その結果、最近では、水平社時代であれば絶対に糾弾されなかったことまで問題視されるようになってきた。例えば、山口県新南陽市では、同和対策事業の執行に必要なため、従来の市営住宅に関する条例を改正し、入居資格に、従来「寡婦、引揚者、炭鉱離職者」という制限があったところへ、「その他の社会的に特殊な条件下にある者」という条項を付け加えた。これが、部落民を特殊なものと差別しているということになり、市当局者は「結果的に同和地区の人々にとって痛みを感じるような表現になったのは遺憾」として陳謝し、条例を改正したという。「特殊」という言葉に、これほどこだわるとは驚くほかはない。「特殊」の代わりに「特別」とでも書いておけばよかったのだろうか。これを差別事件として麗々しく取り上げた『解放新聞』の記事は、運動史上の汚点のひとつである。

灘本昌久氏によって、部落解放「運動史の汚点のひとつ」であると断定され、ありもしない濡れ衣をきせられた部落解放同盟山口県連新南陽支部の運動の担い手こと、山口県における数少ない筆者の友人である福岡秀章氏です。

筆者は、灘本昌久氏の論文《「差別語」といかに向きあうか》(『部落の過去・現在・そして・・・』)を読んで、はじめて、同じ、部落解放運動に携わっている人々の意識の多様さと水準のばらつきに気付かされたのです。大阪・豊中の高級住宅街に身を置く灘本昌久氏は、山口の地方の小さな被差別部落に身を置き運動を展開している、ひとりの運動家の置かれた状況と闘いの課題をつゆも理解していないと思わされたのです。灘本昌久氏の文章に目を通したときの筆者の、素朴な感想は、「なんだ、部落のおぼっちゃまのたわごとか・・・」というものでした。失望感に満ちたため息でした。

日頃、解放同盟に批判的な新南陽市の共産党議員でさえ、市議会で、市の住宅条例の文言は差別的であると指摘していたのですから・・・。部落解放運動の中央から地方を見るとき、何ら、部落解放同盟新南陽支部の運動の姿勢と内容を検証することなく、いとも簡単に、「運動史上の汚点のひとつ」と言ってのける灘本昌久氏の浅はかさにはあいた口が塞がりませんでした。

田所蛙治氏は、筆者の『部落学序説』に対する評として、「一つひとつの問題点は、具体的に取り上げられるべきであり、さすれば、その解答も具体的に浮かび上がってくるはずであり、「同和利権の真相」のようなペテンで全体を全否定するようなことにはならないはずなのです。」といいますが、地方にあって、真摯に部落解放運動に従事している運動家の「一つひとつの問題点は、具体的に取り上げられるべき」ところを、いとも簡単に「運動史上の汚点のひとつ」と切って捨てられる感性こそ問題であると筆者は考えます。

『部落学序説』は、いかなるイデオロギーにも依拠せず、筆者が遭遇した史料・伝承を具体的に精査することで展開しています。『同和利権の真相』でとりあげられているさまざまな事件に類したものは、この山口の地でも多々耳にしてきました。被差別部落を離れて久しい人が、同和対策事業の利権にあずかるために被差別部落に舞い戻り、同和事業に参入したという話や、同和対策事業の資格を得るために、離婚して、被差別部落出身の女性と再婚、部落解放運動に参画したという話を聞いたことがあります。筆者は、そういう、同和対策審議会答申の精神にそぐわない事業を容認したのは、田所蛙治氏が指摘する同和「行政」であると思っています。同和「行政」に対して批判してはならないのではなくて、同和「行政」は、批判されるまえに自らを総括しなければならない責務があると筆者は確信しています。ひとつひとつの具体的な同和対策「事業」を検証することで、同和「行政」の実績を総合的に批判・検証しなければならないのです。部落差別の解消は「国民の課題」として、国民を動員した同和「行政」の当然の責務です。

同和対策「事業」終了と共に、同和「行政」も、なにも問われることなく、闇から闇に葬り去られていくことは決して許されるものではありません。部落解放同盟新南陽支部は、紆余曲折を経て、部落解放同盟の中央の力によって、事実上、組織を解体されてしまったのです。部落解放同盟新南陽支部の福岡秀章氏をはじめとする被差別部落の人々は、それをあまんじて受け入れているようですが、門外漢の筆者は、組織の論理で支部を切るのも問題だが、切られるのも問題である、「切らない」・「切らせない」という姿勢が大切であると、彼らを説得してきましたが、結局は、彼らは、部落解放運動の前線から離れてしまいました。

筆者は、田所蛙治氏の文章を読みながら、田所蛙治氏ももしかしたら、新南陽支部の方々と同じ立場に置かれているのかもしれない・・・と、思われたのです。

筆者は、田所蛙治氏が、高校生のとき、芥川龍之介の小説『河童』を読んで、「蛙」といわれてショックを受けた「河童」の中に、自己の姿を見いだし、逆説的に居直って、自らを「蛙」(他称語)と自称していきはじめたくだりには深い感動を覚えました。ローマ帝国のキリスト教迫害に時代、キリスト教の信者は、ローマ帝国の一般の市民から「クリスティアノイ」(クリスチャン)として揶揄され、中傷されて生きてきました。そして、「他称語」としての「クリスチャン」という言葉を「自称語」として採用し、その言葉を、「差別語」ではない別な意味内容に転換させて行きました。田所蛙治氏が、自分を「蛙」(他称語)と自己表現したことは、筆者には、ローマ帝国のキリスト教迫害時代のクリスチャンと同等の精神的高揚を見いだしたのです。「蛙」と間違えられるのが嫌で、この世から姿を隠してしまう「河童」と違って、「河童」のまま、「そうだ、おれが、あんたのいう蛙だ」と居直って生きることができた田所蛙治氏に拍手喝采したい気持ちになりました。かって、新南陽支部に人々に抱いてのと同じ気持ちです。

筆者の『部落学序説』は、そのような田所蛙治氏にとって、適当に茶を濁して、通り過ぎることのできない問題提起を含んでいると考えられます。田所蛙治氏が、これまで、避けて通ってきた問題、「部落」・「部落民」の定義、近世史と近現代史の連結方法、穢れと宗教、明治維新と「解放令」のとらえ直し、部落史の限界と克服・・・(田所蛙治氏の文章を解析した結果)等について、部落解放運動の門外漢が、無学歴・無資格を省みず、識者に笑われるのを覚悟して、学際的研究の成果を詳述していることについて、素通りすることはできないはずだと筆者は考えています。

筆者と違って、田所蛙治氏は、「江戸期の藩の治安部隊として位置づけられていたと思われる」「穢多村」の末裔なのですから、自分のルーツを徹底的にたどることで、『部落学序説』の「常民・非常民」論、「気枯れ・穢れ」論を超える理論を展開できる可能性を秘めておられます。20年といわず、30年40年生き抜いて、部落差別完全解消のための提言をしていただきたいと思います。『部落学序説』の筆者にとっては、部落差別問題は、所詮他人事でしかありませんから・・・。田所蛙治氏が、『部落学序説』の論理を包み込んで、田所蛙治氏独自の解放理論を構築してくださるよう願ってやみません。そのためにも、『部落学序説』は徹底的に批判していただければと思います。筆者も真剣勝負でこの『部落学序説』を執筆していますから(年輩の方に対する失礼の数々お許しください)。


田所蛙治に関する一考察(2の1)

2006年04月14日 | 付論

田所蛙治に関する一考察(2の1)


以前、田所蛙治氏からいただいたメールに、「想いを同じくする」という言葉がありました。長年に渡って、兵庫県神戸市で部落解放運動に従事してこられた田所氏と、部落解放運動の門外漢である筆者と、どこで、どのように、「想いを同じくする」ところがあるのか、少しく検証してみることにしました。

武部良明著『漢字の用法』には、「おもう」という和語に、「惟・憶・懐・思・想・念」という6つの漢語が割り振られています。「思」という漢語は、「頭の中で感じること。そのように考えること」という意味です。一方、「想」という漢語には、「全体の形や状態を頭の中に浮かべること」という説明がほどこされています。田所氏が、『漢字の用法』の線にそって、ただしく「想う」という言葉の意味を選択・使用しておられると仮定しますと、田所氏は、筆者の『部落学序説』の全体の目的、構想、論理の展開の仕方・・・、という概観的な側面において、「おもいを同じくする」と感じられているということになります。つもり、筆者の『部落学序説』は、長年に渡って、兵庫県神戸市で部落解放運動に携わってこられた運動家・田所蛙治氏によって、「総論」的に容認されていると判断されます。

しかし、田所氏の「想いを同じくする」という表現の背後には、言葉として表現されていませんが、「各論」的には、必ずしも、すべてが容認できるものではなく、「各論」的に問題となる箇所を明らかにして、『部落学序説』の本質を明らかする・・・、という、田所氏の「批判」が留保されているように想われます。

その後、田所氏は、そのブログ『蛙独言』で、筆者の『部落学序説』をこのように評されました。

「吉田さんの「問題意識」についておおよそ「了解」ということになりますが、また「大きな違和感」もあります」。

筆者は、「総論」的には「了解」であるが、「各論」的には「了解」できない部分があると指摘されたのだとうと推測します。しかも、その「各論」的に了解できない部分、「大きな違和感」を感じる部分というのは、それほど多くはなさそうです。なぜなら、「何回かに分けて、整理」できる範囲にとどまるからです。田所氏は今回、まず、次のような点を問題として指摘されます。

「まず第1に、吉田さんにはそんな想いはないようですが、その「意図」に反して表現から受ける印象として「同和行政は全くの無駄だった」と受けとめざるを得ないような話になっている」。

田所氏がいわれるように、「そんな想いはない」という言葉の通り、筆者は、「同和行政は全くの無駄だった」というような論説は一度も展開していません。日本基督教団の牧師の中には、体制批判・社会批判に長けた人が少なくありませんが、筆者は、彼らと列座することはほとんどありません。よく、「おまえの発想は、右か左かわからい」といわれ、右からも左からも疎外・排除されるのが常でしたから・・・。

筆者は、田所氏が、「同和対策事業」という表現を避けて、「同和行政」という表現を採用されることにすこしく懸念します。同和対策「事業」と同和「行政」とは、どこにたって何をみているかによって、いずれを選択するかが異なってきます。同和対策審議会答申のもとづく同和対策事業は、日本国憲法下の市民的権利の当然の要求にもとづくもので、筆者も「批難」の対象にすることはありません。しかし、その「同和対策事業」が、各「行政」によって、どのように実施されてきたかは、当然、一市民としても批判検証の対象になります。すべての同和対策事業が終了を宣言され、数年が経過したいま、同和「行政」の内容についてなんらかの総括がなされなければならないと思います。

田所氏は、筆者が、直接、同和「行政」について批判していないことを認めつつ、「その「意図」に反して表現から受ける印象として「同和行政は全くの無駄だった」と受けとめざるを得ないような話になっている。」と主張されます。田所氏に、そのような「印象」を与えたことについては、『部落学序説』を読む側の視点・視角・視座が反映するので、筆者としてはなにともいえないのですが、筆者が、『部落学序説』でくりかえし指摘しているのは、「33年間15兆円という膨大な歳月と費用を注ぎ込みながら、なぜ、部落差別を解決することができなかったのか」という問題提起です。「同和対策事業終了間際になって、あらてめて、「部落とは何か」、「部落民とは誰か」、同和対策事業の根底をひっくり返すような議論をなぜするのか・・・」という問題提起です。

筆者は、日本基督教団が部落解放同盟から糾弾を受けた際に、全国の教区に設置された部落差別問題特別委員会の委員として、具体的取り組み(被差別部落・運動団体との接触・交流)をもとめられました。それから四半世紀という長い間、「国民的課題」の名目のもとに、部落差別問題に関与させられてきました。筆者の人生の何分の1かは、部落差別問題の解決のために費やしてきたのです。時間と経費だけでなく、多くの人材を湯水のように投入させてきたわけですから、「行政」も「運動団体」も、それまでの「同和対策事業」・「同和行政」につい、自己検証と総括を実施し、それを公にする必要があると思うのです。それを踏まえて、部落差別は解消するのかしないのか、展望と、今後の課題を明確にすべきであるという趣旨で、『部落学序説』の中で論述を展開してきたのです。

2番目、3番目の、田所氏の「各論」的批判については、まだアップロードされていないので、なにとも申し上げようがありませんが、インターネット上で公表されている田所氏のさまざまな文章を拾い集めて、整理し、批判検証作業をすすめた結果、田所氏の視点・視角・視座から見た、筆者の『部落学序説』の問題点は容易に推測が可能であることがわかりました。

田所蛙治氏は、筆者より、すこしく年配で、1945年生まれです。筆者は、1948年生まれ。田所氏には、すでにお孫さんがあって、お孫さんを授かったことを記念して神社に参拝されたという、ほのぼのとした報告がなされています。田所氏は、晩年は、「部落差別をなくすことはできるのか」、「自分に可能なことは何か」を追究されながら日を過ごされるということですが、筆者は、大いに賛同するところです。「部落差別をなくすことはできるのか」、「自分に可能なことは何か」ということを考えられるということは、田所蛙治氏が、部落解放運動家としての自分の取り組みとその生涯を、時代の流れの中に忘却に身をゆだねさせないで、「総括」し、記録にとどめ、おこさんやお孫さんに伝えていくということですから・・・。

問題を抱えて、ただひたすら前に向かって進んでいるときには、なかなか、ちいさなことまで配慮することは、現実問題として、できません。しかし、晩年になって、時間が与えられて、自分の歩んできた道を振り返り、総括できる精神的ゆとりを持つことができるようになりますと、それまで、こころならずも忘れてきた課題・問題を再度とりあげ、その核心に触れる機会にめぐまれます。

日本基督教団の部落解放センターのトップは、東岡山治牧師ですが、彼に、『部落学序説』で彼をとりあげる・・・、と宣言したところ、彼は、「ぼくも長く部落差別問題と取り組みすぎた。批判されるのも止むを得ない。すきなだけ批判したらいい・・・」と言っておられました。そのとき、筆者は、「さすが、部落差別の完全解消を願って心血を注いできたひとは違う。」と感動しました。

『部落学序説』は、部落差別完全解消のための、あらたな提言です。しかも、「常民・非常民論」、「気枯れ・穢れ」論という、誰でも一度はその脳裏をかすめたことがある、しかし、それをとらえることができず見逃してしまった、極めて常識的な理論を携えての、学際的・体系的は論述です。『部落学序説』は、「差別・被差別」の関係を社会システムの中で先鋭化して明らかにします。そして、そうすることによって逆説的に、「差別・被差別」の関係を無化し、差別なき社会の構築の可能性を提言します。筆者は、筆者に対する批判は、これらのことについての直接的批判でなければ批判足りえないと思っています。

田所蛙治氏は、筆者の『部落学序説』について、「これでは反発を喰らうのは当然でしょう。」といいますが、筆者は、だれによって、どのような「反発を食らう」ことになっているのでしょうか。部落解放同盟山口県連新南陽支部の福岡秀章からの筆者に対する批判は、『部落学序説』の地名・人名が「相対座標」で実名が付されることへの批判です。『部落学序説』の基本理念からすると、地名・人名を実名記載して後続の研究者の便宜をはかるべきであるというのが彼の筆者に対する批判です。「反発」ではなく「過剰な後押し」なのです。

それ以外、『部落学序説』に対して批判らしき批判はありません。2チャンネルでの批判は、「一言居士」的な批判が多く、批判の名に値しません。ただ、田所蛙治氏からメールをいただいたときから、筆者は、田所氏の「批判精神」をおもしろいと感じていました。(続く)


明治5年学制頒布当時の『被仰出書』

2006年04月12日 | 第4章 太政官布告批判

【第4章】太政官布告批判
【第8節】こどもの目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第3項】明治5年学制頒布当時の『被仰出書』


『部落学序説』の重要な資料にひとつに、山川菊枝著『わが住む村』(岩波文庫)があります。

この書は、山川菊枝が、日本の民俗学の父である柳田國男から、当時山川が住んでいた鎌倉郡村岡村のことを書いてみたらすすめられたことに端を発します。いわば、山川菊枝は、民俗学者・柳田國男の弟子であると言ってもよいでしょう。

山川は、柳田國男のすすめに従って、「眼前の事物つまり現象を取っ掛かりとして、だんだんにその奥にひそむ原理を解きあかしてゆくという方法」(狩野政直)を採用します。山川は、「私は知る知らぬを問わず、誰でも彼でも勝手に先生に見立てて、知りたいこと、分からないことは片はしから教わることにしました」といいますが、「聞き取り調査」を徹底して行います。

狩野政直は、『わが住む村』を評して、このようにいいます。「著者の住む村岡村、文中の表現を借りれば、「昔の東海道の南側の村で、藤沢の宿場を出はずれたところ、松並木を2里足らず東へ行けば戸塚」という場所に、カメラを据えっぱなしにして、遠い過去から現在へと歴史を、いわば接写で撮った作品となっている」。

筆者は、山川菊枝の「民俗学研究法」から、大きな影響を受けています。山川菊枝も、柳田國男の研究にならって、「常民」を研究します。しかし、山川自身は、『部落学序説』でいう「常・民」ではなく、「非常・民」に属します。山川は、「非常・民」でありながら、その研究方法を駆使して、「常・民」の世界を研究していきます。つまり、山川は、「常・民」・「非常・民」の両方の立場を視野にいれながら、民俗学的調査・執筆をすることができたわけで、「常・民」・「非常・民」を考察する上で、その研究は、筆者にとっては重要な資料のひとつです。

明治5年8月の学制頒布が出されたあと、各地で急速に小学校が建設されていきます。明治6年6月の「讃岐の徴兵反対一揆」に際して、一揆勢によって、襲撃・放火・破毀された小学校は48に及びますが、1年もたたない間に、それらの小学校が設立されたと見ることができます。

山川菊枝が聞き取り調査をした鎌倉郡村岡村での、小学校建設はどのようにすすめられたのでしょうか。山川は、村岡村では、明治5年8月の学制頒布の布告が出されたあとも、近世幕藩体制下から継承されてきた「寺子屋」が続けられていたといいます。村岡村に、「ささやかな小学校ができる」のは「明治10年」のことです。しかも、開校時、生徒となったのは50人程度。山川は、「現在の土着戸数と就学年齢の児童との割合から当時を推定すると、就学したものは約1割」であったといいます。『被仰出書』は、「男女の別なく」就学をすすめているが、女児は、「大家の娘ばかりでごく少数」であったといいます。「旧穢多村」だけでなく、「旧百姓」の小学校就学も極めて低調であったようです。

『被仰出書』とは、何だったのでしょう。明治政府は、「日本の学校教育を欧米流の近代的な形に組織するために・・・公布した、学校制度に関する最初の総合的な規定」である「学制」(公布当初は全109章から構成、公布直後から改正・追加が繰り返され最終的には213章にまとめられる)の「序文」として作成されたもので、「学制序文」とも言われます。

本当なら、『学制』にすべて目を通してから言及しなければならないのでしょうが、時間的ゆとりがありませんので、筆者の手元にある資料だけで論述していきます。この『被仰出書』において、小学校建設の目的はどのように認識されているのでしょうか。『被仰出書』は、「学校ノ設アル所以」として、「人々自ラ其身ヲ立テ其産ヲ治メ其業ヲ昌ニシテ以テ其生ヲ遂ル」ために「学」が必要であることと説いています。「学問ハ身ヲ立ルノ財本共云フベキ者ニシテ、人タル者誰カ学バズシテ可ナランヤ」といい、家が破産し、飢餓に陥り、浮浪のみとなり、身を持ち崩すのは、「畢竟不学ヨリシテカカル過チヲ生ズルナリ」と断定します。

要するに、『被仰出書』のいわんとすることは、「学制」は、日本人民の自立のための国の支援である・・・、ということです。明治政府の「学制」制定の目的は、ひとえに日本人民のためにあるというのです。

『被仰出書』の中核は、次の文章です。「学制ヲ定メ、追々教則ヲモ改正シ布告ニ及ブベキニツキ、自今一般ノ人民(華士族農工商及婦女子)、必ズ邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス」。明治政府は、地方行政に対して、「辺隅小民ニ至ル迄洩レザル様便宜」を図ることを命じています。

明治政府による小学校建設の目的と、小学校建設の時間的猶予を考慮するとき、「讃岐の徴兵反対一揆」に際して、小学校48校が襲撃・放火・破毀した「旧百姓」の側の理由は、理解できないものになってしまいます。「血税」という文字の誤解だけでなく、小学校襲撃事件に関しても、明治政府の方針を誤解した「旧百姓」の側の落ち度によって、小学校襲撃事件が発生したことになります。

「讃岐の徴兵反対一揆」が、明治政府の近代化・欧米化政策に対する「旧百姓」の反対を主な理由にするとしても、讃岐の「旧百姓」が、自分たちの費用で、一端、小学校を建設したあと、襲撃・放火・破毀した、納得できる理由とはなりません。明治政府の、「日本の学校教育を欧米流の近代的な形に組織するために」学制に反対したというなら、讃岐の「旧百姓」は、小学校を建設すること、それ自体に反対行動をとったのではないかと思うのです。

筆者は、明治政府の『被仰出書』の表向きの意図とは別に、明治政府の隠された意図が、讃岐の「旧百姓」にしられるところとなったことが、「旧百姓」の心血を注いで作った小学校48校の襲撃・放火・破毀に「旧百姓」を走らせたのではないかと思います。

明治政府の『被仰出書』の背後にある、隠された意図について、少しく検証を重ねてみましょう。

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小学校炎上・・・

2006年04月11日 | 第4章 太政官布告批判

【第4章】太政官布告批判
【第8節】こどもの目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第2項】小学校炎上・・・

上杉聡は、その論文《新段階をむかえた「解放令」反対一揆研究》(『明治初年解放令反対一揆』明石書店)の中で、明治6年5月に、岡山(北条県)、明治6年6月に、福岡(福岡県)、香川(名東県)において、「部落解放反対」を叫ぶ「旧百姓」によって、小学校が「放火」、「焼毀」されたことを指摘しています。

小学校は、こどもにとって、欠かすことができない生活の場所ですが、なぜ、明治4~6年の、上杉が指摘する「部落解放反対」一揆において、小学校が多数、襲撃され、放火、焼毀されなければならなかったのでしょうか。

筆者は、関連文書に目を通してみて思うのですが、「部落解放反対騒擾」(上杉の言葉)と、常軌を逸した小学校の襲撃、放火、焼毀事件との直接的な連関に、かなり疑問の思いを持ちます。そもそも、上記3つの一揆を、「部落解放反対騒擾」として認識していいのかどうか疑問があります。上記3つの一揆にともなう、小学校の襲撃、放火、焼毀事件は、「部落解放反対」というよりは、「明治新政府反対」の文脈の中で生じたできごとではないかと思っています。

小学校炎上・・・。

筆者はそういう場面を見たことはありませんが、それに類した経験があります。それは、筆者が、小学校に入学する前の年のことです。筆者が入学することになっていた小学校、琴浦町立琴浦西小学校が、火事で焼失するというできごとがありました。

夜、消防のサイレンがけたたましくなり、町内の消防団も出動していきました。筆者がすんでいるところから小学校まで2キロほど離れていましたが、暗い夜空の中、小学校がある北東の方角が明るくなり、そちらの方から、火の粉が飛んでくるのです。

町内のおじさんもおばさんも、みんな、通りに出て、小学校のある方の空を見上げています。近所のおばさんは、「あなたたちが入学する小学校が燃えているんよ・・・」といいます。小学生の女の子たちは、「おばさん、ほんまか? うちらの小学校燃えてなくなるんか?」といったり、「うち、そんなのいややわ」と泣きだす子も出てきます。

「いつまでたっても消えんな・・・。若いの、ちょっといって見てきてくれんか・・・」というおじいさんの声に促されて、数人の男のひとたちが駆け出しました。

「小学校が火事で燃えてしまったら、校長先生も責任とって辞めんといかんようになるな・・・」とだれかがぽつり。すると、おばさんのひとりが、「そら、気のどくやな。みんなで、署名集めて、校長先生辞めんでええようにしてあげよ・・・」といいます。「坂田校長先生、みんなのために一生懸命働いてくれてるからな・・・」ということで、飛んでくる火の粉を見ながら、小学校の校長先生が引き続き校長にとどまることができるように嘆願運動の相談がはじまってしまいました。そのせいかどうか知りませんが、筆者の小学校6年間、校長はずっと、坂田校長先生でした。小学校の入学式の坂田校長の訓示は忘れてしまいましたが、卒業式の訓示はいまだに覚えています。60歳に手がとどこうという年齢になっても、その訓示を忘れないでいます。坂田校長先生は、余程みんなに好かれていたのでしょう。筆者は、その火事で、誰よりも先に校長先生の名前を覚えました。

筆者は、他の子供たちと一緒に、焼け落ちた小学校を見に行ったことはありませんが、翌年、入学するときには、もう、琴浦西小学校は、新しい校舎になっていました。

小学校炎上・・・。

その言葉を目にするとき、筆者の脳裏を去来するのは、こどものころに体験した、小学校が焼けた事件です。上杉聡の「明治初年の部落解放反対騒擾年表」の小学校の襲撃、放火、焼毀事件を見ても、火事の発生件数までは記されていません。

その事件はどのようなものであったのか、知ろうとしても、筆者のてもとには十分なまとまった資料があるわけではありません。しかたなく、手元にある資料の中から、関連記事を抽出して総合的に判断する以外に方法はありません。

さいわい、岩波近代思想大系『民衆運動』の中に、「讃岐の徴兵反対一揆」に関する史料が集録されていました。この史料は、明治6年6月に起こった「讃岐の豊田・三野・多度・那珂・阿野・鴨足・香川の7郡で、徴兵告諭のなかに「血税」という文字があるのに疑惑をいだき、暴動状態になった」事件を書き記したものです。

この史料に記載された、小学校、襲撃、放火、焼毀事件を拾い集めてみましょう。

「明治6年・・・6月26日午後10時・・・72区73区の・・・小学校・・・を焚き・・・27日午前6時、86区小学校を放火し・・・同8時・・・和田浜・・・学校・・・を放火す。同時、85区姫浜小学校・・・を焚き、・・・午後2時、78区・・・学校・・・放火、類焼合わせて18戸に及ぶ。同2時、74区三野郡新名村・・・学校・・・を焚き、・・・箱浦へ移り・・・該所学校(香蔵寺)を焚く・・・午後4時、栗島へ渡り・・・学校(梵音寺)を焚く。・・・77区詫間村へ・・・同6時、70区・・・学校を焚き・・・夜に入て56区・・・学校一時に放火し・・・所在放火炎焔天を焦がし・・・那珂郡に於て放火す。・・・学校・・・」。

小学校の襲撃、放火、焼毀事件は、翌日も続きます。記録によると、この一揆で、実に48の小学校が、襲撃、放火、焼毀されたのです。上杉聡のいう、「部落解放反対騒擾」は、想像を絶する大惨事を引き起こしていたのです。

「讃岐の徴兵反対一揆」は、小学校の襲撃、放火、焼毀にとどまりません。区の事務所・邏卒屯所・戸長家宅・村吏家宅・祠官家宅・士族家宅・・・等々、計595箇所が、一揆勢の「旧百姓」によって、襲撃・放火・破毀・類焼されているのです(放火504箇所、破毀23箇所、類焼72箇所)。わずか数日の間に、香川県内に、「新政府反対一揆のすさまじい勢い」によって、明治新政府の代行機関としての地方行政関連機関が一揆打ち壊しの対象になっていったのです。

最近の部落史研究では、これらの一揆を、「新政府反対一揆」としてではなく、「部落解放反対一揆」あるいは「部落解放反対騒擾」として認識する傾向がありますが、これら、48校の小学校襲撃事件と、「部落解放反対」とは、どのような関係があるというのでしょうか・・・。筆者は、両者を結びつけるのは非常に難しいと考えます。「部落解放反対」のために、「旧百姓」が、できたばかりの小学校48校を自らの手で襲撃、放火、焼毀したとは、とても考えることはできないのです。

岩波近代思想大系『民衆運動』の解説者のひとり、深谷克己は、その論文《世直し一揆と新政府反対一揆》の中で、近世幕藩体制下の百姓一揆と、明治に入ってからの新政府反対一揆を分析して、両者はその性質を著しく異にするといいます。深谷は、近世の百姓一揆をこのように説明します。「近世の百姓一揆にともなう打ちこわしの作法は、微塵に打ち壊すということであって、その現場に残された微塵ぶりこそが民衆の怒りの度合いの表現方法なのである。百姓一揆でも焼討ちを呼号することはあるが、それはあくまでも脅かしとしての、それだけに抜かれざる伝家の宝刀としての圧力を持ち続けてきた。」といいます。そして、深谷は、「明治にはいると、それは威嚇の手段から、実行される手段になった」というのです。

深谷がいう、「威嚇の手段」から「実行される手段」への移行は、近世幕藩体制下の「旧百姓」より、近代中央集権国家の「平民」の方が、国家権力による賦役と収奪により曝されたことを意味します。「新政府反対一揆」は、明治新政府に抱いていた夢が打ち破られ、幻想でしかなかったことを知った「旧百姓」がその存在をかけて、明治新政府に抗議したできごとだったのです。明治新政府にとっても、大きな政治的挫折であった、これらのできごとは、事実に反して、歴史上過少評価されていきます。明治4年から6年の新政府反対一揆を、「部落解放反対一揆」として矮小化してしまうことは、本当の歴史を喪失してしまうことに結果することになるでしょう。すべての原因を負うことになる「旧穢多」にとって、はなはだ迷惑であるだけでなく、「旧百姓」にっとも極めて迷惑な話になります。明治新政府の施策に否をつきつけた「旧百姓」の権力との戦い(明治新政府の末端機関としての地方行政に対する戦い)が闇から闇に葬りさられてしまうことにつながりますから・・・。

明治6年6月、讃岐の豊田・三野・多度・那珂・阿野・鴨足・香川の7郡で起こった、徴兵告諭に端を発する、小学校48校の襲撃、放火、焼毀事件の本当の意味は何だったのでしょうか。

深谷はこのように綴ります。「この一揆は、小学校48を焼討ちしている。「学校を厭ひ」と当時の記録に書かれたが、それ以前の民衆社会はすでに読み書き算盤の習得をけっして拒まない状態になっていた。しかし、新政の学校運営は住民の負担が大きく、常時子供を学校に通わせ、それも男女すべての子供を通わせるというもので、幕末の学習の仕方とはなお距離が大きく、きっかけがあれば破壊をともなう反発を引き出す」可能性があったといいます。深谷は、一揆に参加した「旧百姓」は、小学校運営に伴う「経済的負担」に大きな原因があるというのです。

しかし、深谷の説は、即、矛盾を抱え込むことになります。それほど、経済的負担が重すぎて、文字通り、「旧百姓」が心血を注いで、自分たちの手で作り上げた小学校なら、なぜ、その経済的犠牲を反古にするように、自らの手で放火し、焼毀に及んだのでしょうか。近世幕藩体制下の百姓一揆のように、「微塵に打ちこわした」のではありません。放火し、焼毀し、小学校そのものの存在を否定しようとしたのです。深谷の「学校運営費の住民の負担の重さ」が原因とする説明では、ことがらの本質を説明しきっているとは言えません。

『部落学序説』の筆者である私は、この場面においても、「常民・非常民」理論を適用します。

讃岐の豊田・三野・多度・那珂・阿野・鴨足・香川の7郡の「旧百姓」たちは、「徴兵告諭」が公布さあれたことによって、明治の新しい時代に入って、自分たちが「平民」とされた本当の意味を知ることになったのです。近世幕藩体制下の「旧百姓」は、近世だけでなく、中世末期においても、人を殺戮する武器を返上して、軍事・警察の賦役から解放され、「農・工・商」の民事にのみ関与する存在でした。徳川300年間において、軍事・警察に関与することのない「常の民」・「常・民」・「常民」として生き続けてきたのです。ところが、明治新政府は、王政復古を約束したにもかかわらず、次から次へと、近代化政策・欧米化政策を打ち出します。日本の美風である「常民・非常民」の別を廃棄し、「国民皆兵」の制を実施し、すべての成人男性を「非常民」化しようとします。なぜ、「旧百姓」が「旧武士」(軍人)や「旧穢多」(警察)のように「非常・民」とならなければならないのか・・・、その激しい抵抗が、「讃岐の徴兵反対一揆」に発展したのではないかと思います。

その一揆の中で、「旧武士」、「旧穢多」、「旧村役人」等、「非常・民」の家宅が襲撃されているのです。どこをとっても、明治6年6月の讃岐の豊田・三野・多度・那珂・阿野・鴨足・香川の7郡の「旧百姓」による一揆は、「新政府反対一揆」・「徴兵反対一揆」であって、明治新政府に対する「旧百姓」による激しい抵抗なのです。いたずらに、「部落解放反対一揆」として矮小化すべきではありません。明治6年6月の讃岐の一揆は、たとえ、明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」の太政官布告が出されなかったとしても、必然的に一揆として発展せざるを得なかったと推測せざるを得ないからです。

明治新政府が出した「学制」反対の風潮は、なぜ短期間に醸しだされていったのでしょうか(次回、検証します)。


こどもの目・・・

2006年04月10日 | 第4章 太政官布告批判

【第4章】太政官布告批判
【第8節】こどもの目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第1項】こどもの目・・・

高校生のとき読んだニーチェの本の中に、「人間は、15歳の少年の熱心さ(精神)を取り戻したとき本当の大人になる。」という意味の言葉がありました。

どの本のどの箇所にあった言葉なのか、忘れて久しくなりますが、ときどき、ニーチェのこの言葉を思い出しては、本当の大人になろうとしているかどうか、自問自答します。

15歳というのは、ニーチェによると、人生の大切なことがらのすべてのことを知る時代であるといいます。そのときを境にして、人間は、徐々に、人生にとって大切なことを忘れて行ってしまう・・・、というのです。

昔、15歳は元服の年で、こどもの世界に別れを告げて、大人の世界に入る年です。すべてのこどもが、元服を境に、大人に相応しい言動を要求されます。もちろん、こどもから大人へ、世代の壁を乗り越えるとき、ひとそれぞれ、さまざまな課題に挑戦しなければならなくなります。乗り越えることができる壁もあれば、乗り越えることができず、破れ傷つき、その壁の前で呻吟させられる場合もあります。しかし、遅かれ早かれ、ひとは、こども時代に別れを告げ、大人として生きる季節を迎えなければなりません。

しかし、大人の世界は、決して理想的な世界ではなくて、むしろ、理想からほど遠い現実があふれています。

大人の世界は、限りなく、悪しき病的社会を内包しています。必要以上の過当競争と弱肉強食社会の現実・・・。いつのまにか、大人の世界に、浸潤され、身も心も、こどものころの純粋さを失ってしまいます。こども時代の理想を退け、現実の中でうまく立ち回って、他者や隣人を踏みつけてでも、自己の利益追究に走りがちになります。他者から批判されないために、他者を批判し続けるひともいます。

そのような中にあって、ニーチェがいう、人間が本当の大人になるために、「15歳の少年の熱心さ(精神)」を取り戻すにはどうしたらいいのでしょうか・・・。

ニーチェがいうように、「人生のすべてを知ることになる」15歳は、突然とやってくるわけではありません。15歳は、徐々にやってくるのです。14歳、13歳、12歳・・・。どこまでおりると、こどもが、自分の人生を真剣に考えてはじめている年齢に到達することができるのでしょうか・・・。

「こどもは、こどもだよ。そんな、人生のことなど考えている子はいないよ。」、筆者の知っている教師はそのようにいいます。本当にそうでしょうか・・・。

最近、青少年の刑事事件が多々報道されます。そして凶悪犯罪が徐々に低年齢化していると杞憂する声があふれています。少年事件の低年齢化は、15歳、14歳、13歳、12歳・・・と、低年齢化をたどる一方です。

少年犯罪事件が発生するつど、現代青少年のこころの闇が問題にされます。現代の大人が、犯罪を犯した青少年のこころの中を覗き込むと、真っ暗な闇・・・だというのです。その闇が視野に入るとき、彼らはただ恐れおののき、問題解決に自信を喪失するのです。そして、常識的な「対象」にその原因を押しつけていきます。「その子を育てた母親が悪い・・・」、「父親が厳し過ぎた・・・」、「教育現場の腐敗・・・」、「文部行政の失策・・・」。しかし、もともと責任転嫁するだけの批判からは、問題解決にいたる生産的な知恵はでてきません。

昔、東京で牧師になるための勉強をしていたとき、ある1冊の文庫本を読んだことがあります。それは、岡真史の『ぼくは12歳』。12歳で自殺してしまったその男の子の手記を読んでいて、ちいさな胸に、大人の世界の矛盾や破れをすべて引き受けて、考えに考え、悩みになやんでいる「大人の姿」を見るような思いがしました。筆者はそのときから、精神的な大人の芽は、15歳よりもっとずっと前に育ちはじめていると認識するようになりました。そして、「こども」に接するときも「こども」としてではなく「おとな」として、敬意を持って接するようになりました。

それと同時に、こどもは、そのこどもが生きている社会の歴史や状況を色濃く反映しているとも認識するようになりました。社会が病んでいるから、こどもの世界にも病んだおとなの世界が浸潤してくる・・・。社会が、自らの病巣を取り除くすべを知っていたとしたら、こどもたちの世界にもそれはおのずと伝わっていくことになるでしょう。現代の社会は、大人の精神の破れや躓きが、そのまま、こどもの世界に波及することを許しているのです。

「こども」は、いつの時代にも存在しています。「こども」は、すべてのひとが通過することになる人生の季節です。その季節をどのように過ごすことができるか、それは、その子の人生に大きな影響を与えます。現代の東京は、百数十年前の歳月をさかのぼって、近代を超えて、近世幕藩体制下の時代に舞い戻っているようなところがあります。一部の富める特権階級と、その他の絶対的多数の貧しい階級とに、二分化される傾向にあります。小泉首相は、ひとごとのように、まるで日本の国の首相ではないかのように、「格差も必要」といいます。あえて「格差は必要」といわなくても格差は現実にあるのだから、その格差の是正の姿勢こそ、日本の首相が首相として発言しなければならないことがらなのではないでしょうか・・・。日本の政治から見落とされた「こども」は、その生涯においてさまざまな悲惨を抱え込むことになります。小泉首相の他人事、ひとごとのような政策は、確実に将来のこどもたちの悲惨、ひいては日本の社会の悲惨につながってきます。

この文章の題は、こどもの目から見た「穢多非人等ノ称廃止」・・・という題をつけました。近世幕藩体制から近代中央集権国家へ、そして、太政官布告「穢多非人等ノ称廃止」以前から以後へ、時代が大きく変わる中、さまざまな問題に直面したのは、大人の「穢多非人」だけではありませんでした。当時の、「旧穢多」のこどもであった人々も、「旧穢多」の大人と同じように、太政官布告第448・449号公布と、明治新政府反対一揆にともなう「旧百姓」による「旧穢多村」襲撃により、いろいろなことを経験させられているのです。中には、命すら奪われたこどもも存在しているのです。

この『部落学序説』第4章第8節は、そのような「こども」の視点・視角・視座に立って、太政官布告「穢多非人等ノ称廃止」と、それにともなう政治的混乱に注目してみたいと思うのです。

もちろん、筆者の手元には、幕末から明治初期の時代を生きていた「旧穢多」の末裔であった「こども」の書いた手記や資料が存在している訳ではありません。日本の歴史学会には、「書かれていなければ、何もなかったとするような、とんでもない歴史認識がまかり通っていた」というのは、『エゾの歴史 北の人々と「日本」』の著者・海保嶺夫ですが、その当時の「こども」が、太政官布告「穢多非人等ノ称廃止」や、明治新政府反対一揆に付随して発生した「旧穢多村」襲撃殺害事件について、何の記録も残していないという理由で、その当時の「こども」とその時代との関わりを否定することは許されないのです。

「おとな」が社会から切り捨てられると、同時に、「こども」も社会から切り捨てられるのです。

小泉首相は、日本の大企業を救うために、国家財政から膨大な資金を銀行に注入し、銀行は自らを守ることに汲々として中小企業にまわるべき資金をストップし、多くの中小企業を廃業・倒産に追い込みました。そのようにして切り捨てられていった「おとな」たちの陰に、「こども」たちの陰が見え隠れしています。

明治4年の、「穢多非人等ノ称廃止」という太政官布告は、近世幕藩体制下の司法・警察であった「役人」(公務員)が、国内問題・外交問題の都合によってリストラという切り捨て政策を実施されたしるしでした。それが、どのような事態を引き起こしていったのか・・・、それは、近代日本が実施した巨大な実験でした。

現代社会において、もし、同じようなこと(警察の解体・リストラ・民営化)を政府が実施したら、同じような差別を再生産することができるでしょう。市民にやさしいおまわりさんならともかく、日頃から威張って市民を威圧しているおまわりさんは、「元おまわり」になり、呼び捨てにされ、やがては、社会の下積みへと追いやられてしまうでしょう。筆者は、日本の社会の安定を考えるとき、「警察機構」の解体、リストラ、民営化はあってはならないことだと思います。もし、それを実施しようとするひとがいるなら、筆者はそのひとに「売国奴」とうレッテルを貼るようになるかもしれません。

明治4年の「穢多非人等ノ称廃止」という太政官布告によって、ほとんどの「旧穢多」は、「新しき綿服」を身にまとい、腰には「博多おり」の帯を締め、左腰には「黄鞘の脇差」し、右腰には、「黒緒巻柄に黒総」のついた「鉄刀」(十手のこと)を差した、「旧穢多」の晴れ姿(喜田川守貞著『近世風俗志(1)』(岩波文庫))を身にまとう機会を永遠に失うことになったのです(近代警察に吸収された「旧穢多」も少なくありませんが・・・)。旧身分あらため、「新百姓」となった「旧穢多」の「こども」たちは、リストラされ、その職を奪われた「おとな」と同じ運命を背負わされることになるのです。

降る雪や明治は遠くなりにけり・・・、という中村草田男の句ではありませんが、もう誰も、その当時の「こども」について、第一人称で語ることができるひとはいません。被差別部落出身者ですら、遠く、忘却のかなたに追いやってしまっていることでしょう。・・・それでは、その時代の「旧穢多」の「こども」たちの遭遇した時代を明らかにしようと思えば、私たちは、どうしたらいいのでしょうか。かすかに残された史料をもとに、「想像力」を働かせ、これまでの「部落学」の研究成果を踏まえて再構成する以外に他に方法はなさそうです。


網野善彦説の限界(続)

2006年04月04日 | 第4章 太政官布告批判

【第4章】太政官布告批判
【第7節】「旧百姓」の目から見た「穢多非人ノ称廃止」
【第7項】網野善彦説の限界(続)

Img013b_2東日本人と西日本人・・・。

この言葉に最初に接したのは、網野善彦著『日本社会と天皇制』です。この小冊子が、私と私の妻に与えた影響は少なくないものがあります。

網野は、日本人を「東日本人と西日本人」に分けた上で、両者は「きわめて異質なところをもっている」と指摘するのです。「種と差」を明らかにすることは、アリストテレス以来の学問の常套手段ですから、網野が方法論的に日本人を「東日本人」と「西日本人」に分類して、その「差」(異質性)を明らかにすることは何の問題もありません。

網野は、その著『日本中性の民衆像』において、それまでの個別科学が明らかにした、「東日本」と「西日本」の自然的・地理的・歴史的・文化的差異を収集、整理して、網野独自の「東日本人」説・「西日本人」説を展開していきます。網野は、晩年に近づけば近づくほど、この「東日本人」説・「西日本人」説を後退させ、「東西の地域差」(『「日本」とは何か』)に収斂させていく傾向があるからです。

ともかく、網野善彦の「東日本人」説・「西日本人」説は、私と私の妻の間では、学問的な仮設の用語としてではなく、日常生活の言葉として入ってきました。網野は、「イギリス人とドイツ人・・・の差異と同じくらいか、いやそれ以上のちがいが東日本人と西日本人との間にはある」といいます。

私の先祖は、父方が四国讃岐の出身、母方が四国阿波の出身です。私の妻の先祖は、父方が、東北会津の出身、母方は、東京の中野区の出身。つまり、私は、「西日本人」の可能性があり、私の妻は、「東日本人」の可能性があります。

網野善彦は、日本人を「東日本人」と「西日本人」に分ける根拠として、「東日本人と西日本人の結婚の比率は10パーセント以下」であることをとりあげ、「東日本人」と「西日本人」の交流は少なく、その「社会の差異は、きわめて古くまでさかのぼり、社会の根底から違っていた・・・」といいます。

私と私の妻は、網野善彦の説に驚きの思いを持ったのですが、いつのまにか、「東日本人」・「西日本人」という言葉は、私たちの日常生活の中に定着してしまいました。夫婦の間で意見が対立したりすると、妻は、「これだから、西日本人は・・・」と露骨に私を批判してきます。旧会津藩出身でありながら長州藩に身を置く妻は、夫の私だけでなく、たくさんの「西日本人」に囲まれて生活しているのです。妻にとっては、「西日本人」という概念は、文字通り集合概念なのです。だから、「西日本人は・・・」という言葉に批判的な響きがともなうことがあるのですが、私にとって、「東日本人」は妻ひとりですから、妻とけんかをするときに、「東日本人は・・・」と言って応酬することはできません。

この20年近く、私と私の妻は、「東日本人」と「西日本人」という言葉を意識しながら、その日常生活の中で、この言葉の信憑性を確かめてきたといえます。網野善彦が、歴史学研究上の仮設として採用した概念を、生活の場で確かめてきたわけです。

結婚届けを出すとき、どちらの家の籍にも入らず、結婚してふたりが住んだ神奈川県相模原市を本籍にしたのです。網野善彦は、食べ物などにも、「東日本人」と「西日本人」の差異が見られるというのですが、新婚時代、何を食べるか・・・、ということで、私と妻との間でいろいろ折衝しなければなりませんでした。私は、「讃岐のうどん」を主張し、妻は「会津のそば」を主張します。結局、どちらがいいのか結論がでず、「名古屋のきしめん」を食べることにしました。4、5年、うどんやそばを食べないで、ただひたすら、きしめんを食べていました。

しかし、東日本人の国・山口にきて24、5年・・・。私は、うどんよりそばが好きになり、妻は、そばよりうどんが好きになりました。妥協の産物であったきしめんはほとんど食べなくなりました。食事の嗜好が入れ代わってしまったのです。うどん・そばに限りません。私は、山菜や高原野菜が好きになり、妻は、瀬戸内海の魚が好きになりました。食事だけでなく、衣食住すべてに渡って、「東日本人」と「西日本人」の要素が、融合するのではなく、入れ替わってしまったのです。

しかし、いつまでたっても、入れ替わることがないものがあります。私と妻の実家が所属している寺は、どちらも真言宗です。「真言百姓・・・」と言われますが、どちらも、先祖代々百姓の末裔です。福島の会津白虎隊と岡山の忠義桜。東と西で似ているところがあります。戦前、両者とも、戦意高揚に利用されたとかで、戦後GHQから、なんらかの「禁止」措置をとられているのです。しかし、たとえGHQの命令であったとしても、そこまでは受け入れることはできないと、会津白虎隊を顕彰し続け、忠義桜を歌い続けたのです。私も妻も、薩長によってつくられた近代中央集権国家の軍国主義に宣伝する愛国心ではなく、日本の東西の民衆に根ざしている素朴な愛国心の保持者なのです。

この20年近く、「東日本人」と「西日本人」を意識しながら、妻と一緒に生きてきて、あらためて思うのですが、その両者の差異というのは、本当に網野善彦が主張するような類のものなのだろうか・・・、という疑問です。

確かに、自然・地理・歴史・文化・民俗・風俗・産業・経済・・・、そのいずれをとっても、「東日本人」と「西日本人」の間には少なからず差異があるには違いありません。しかし、網野善彦が、「東日本人」と「西日本人」、「東日本」と「西日本」の社会的差異を示すメルクマールとして、「部落差別」の存在の有無をとりあげるのはいかがなものかと思うのです。

「被差別部落」は、「東日本」には少なく、ほとんどは「西日本」にある・・・、という主張は、近代中央集権国家建設の過程でつくられた「特殊部落」の末裔としての「被差別部落」のことを指摘しているに過ぎないなら、確かに、網野善彦がいうように、「東日本に少なく、西日本に多い」と断定することも許されるかもしれません。

しかし、明治の「特殊部落」という概念と実態を、明治を超えて、近世・中世・古代に及ぼすことは、歴史家として、あってはならないことだと思います。部落差別完全解消の道筋をつくるために必要なのは、今日の価値判断を下に歴史の事実を都合のよいように再解釈していくことではなくて、そのような解釈を極力しりぞけて、歴史の事実をより明らかにしていかなければならないということです。

日本の教科書検定のときには、文科省(国)の意向にどれだけ忠実に従うか・・・、によって合否が決められる可能性が高いと言われます。つまり、国家の方針にあうものが、歴史の事実とされ、それに反するものは、学校の教育現場から、教師や生徒・学生から遠ざけられて行くということです。教科書の分野だけに留まらず、大学の研究にもそのような枠組みが、それとなく実施されているとしたら、歴史学は、歴史の真実を追究してやまない学問であると信じている民衆を大きく裏切ることになります。

「虚構の日本史」によってつくり出される愛国心は、「虚構の愛国心」でしかありません。本当の愛国心は、自分の手で守るときに生まれてくるもの、自然や社会の中でいきていくときの人間関係によって作りだされていくものであると考えられます。

少しく脱線してしまいましたが、「東日本人」である妻と、「西日本人」である夫の私と、共通している要素、「百姓」・「真言宗」をとりあげましたが、網野善彦がいう、「東日本」と「西日本」の差異の代表的なものである「被差別部落」のあるなしは、私も妻も、「関係がない」問題です。「常・民」である私と妻は、いかなる意味でも「非常・民」である「穢多」と「穢多の末裔」の歴史・文化・民俗・産業等についてはまったくの門外漢なのです。妻は、「東日本人」であるから・・・。私は、「西日本人」にもかかわらず・・・。

しかし、私が説いている「非常・民」は、近世幕藩体制下の「東日本」と「西日本」の枠組みを超えて、すべての近世幕藩体制下の幕府支配の及ぶところに存在していたと考えられます。近世幕藩体制下の司法警察として、「安寧警察」・「宗教警察」・「衛生警察」・「風俗警察」・「営業警察」・「港湾警察」・「道路警察」・「建築警察」・「田野警察」・「漁猟警察」・・・の機能を多角的に担っていた「穢多」なる存在は、近世幕藩体制下では、「安寧警察」(公安警察)と「宗教警察」の突出したものに外ならないのですが、この司法・警察制度は、北は松前藩(北海道)から南は琉球藩(沖縄)まで存在していたのです。「穢多」概念の外延と内包は、地方によって大きくことなるとはいえ、同等の存在を全国津々浦々確認することができるのです。

『部落学序説』に筆者である私は、網野がそうするように、「被差別部落」を「西日本」にのみ固有のものとすることは大きな誤りであると思っています。「東日本」・「西日本」に渡って、北海道・沖縄を含む全国に存在していた「穢多」が、「特殊部落民」として、「西日本」に限定さるようになっていったきっかけは、「近代における屠場の変遷」の著者・中里亜夫の指摘する、明治5年から明治6年にかけて全国で流行して、5万頭から6万頭の牛が死んでしまった「牛疫」問題に端を発すると思っています。このことについては、網野善彦はとりあげることがありません。その予防と感染後の処置をめぐるさまざまは葛藤が、明治4年の太政官布告、「穢多非人ノ称廃止」に関する布告に見られる明治政府の意図とは別に、むしろその意図を否定するような形で、「旧穢多」に対して、「牛疫」にともなう「死牛馬処理」との関わりを強制さるようになっていった・・・と考えています。

中里は、「近代における差別は、このような事件から新たに増幅された可能性が高い・・・」と記しています。

通称「解放令反対一揆」は、21件が数えられるのみですが、『地域史のなかの部落問題』の著者・黒川みどりは、「それが現三重県域で起こった形跡は見当たらない。しかしながら、田村の場合にみたような対立は、表面化しないまでも各地に存在していたに違いない。」といいますが、「各地」とは、「東日本」・「西日本」全域を含む各地ではなくて、明治12年(1879)の「郡区別牛馬分布図」に「東日本」と「西日本」を分ける「牛馬の分布境界線」の「牛」が飼育されている「西日本」の各地のことです。「東日本」は、牛の存在は希薄であり、北海道と沖縄にはほとんどいません。「牛疫」で死んだ牛の火葬と、生きている牛の屠殺・・・、「旧百姓」にとって、恐るべきことがその身に起こった「西日本」の「各地」だったのです。

岐阜は、牛の産地の北限に位置していました。黒川みどりがとりあげた例は、「牛馬の分布境界線」上の実に希有な例であったのです。今後、「解放例反対一揆」の22番目、23番目・・・が、仮に発掘されると想定して考えられるのは、それは、「牛馬分布境界線」より西の地域、つまり、「西日本」、沖縄をのぞく「西日本」ということになります。「東日本」からでてくる可能性はほとんどないといっても差し支えないと思います。

網野善彦は、「被差別部落」存在の有無を、「東日本」・「西日本」を区別するメルクマールとして考えているようですが、それは、「東日本」と「西日本」を区分するためのものではなく、「牛馬分布境界線」の単なる指標でしかありません。