部落学序説

<常・民>の視点・視角・視座から見た<非常・民>である<穢多・非人>の歴史的真実の探求

付論 山口県で部落民宣言をした人々

2005年11月30日 | 付論

【山口県で部落民宣言をした人々】

山口県で、部落民宣言をした学校の教師は、非常に少ないと思われます。

筆者がまだ、所属する教団・教区の同和問題担当委員をしていたころ、山口県同和教育研究協議会から、「教団の同和問題の取り組み」について報告を求められたことがあります。

その報告のため、資料を収集していたとき、山口県同和教育研究協議会に所属する某公立小学校の教師から、別な依頼がありました。それは、筆者の報告の中で、「部落民宣言をさせてほしい・・・」というのです。その教師は、山口県同和教育研究協議会に再三、部落民宣言をしたい旨、要望していたそうですが、時期早尚ということで許可が降りないということでした。それで、思い余って、筆者の社会同和教育の実践報告の時間を彼のために割いてほしい・・・というのです。

その当時、筆者は、被差別部落の教師が部落民宣言をすることの意味を十分に把握することはできませんでした。それが、どれほど大変なことなのか、ほとんど何も知らなかったのです。

山口県同和教育研究協議会が徳山市の市民館で行われたとき、社会同和教育の報告者は2名でした。筆者の他に、もうひとり九州の隣保館の館長が報告することになっていました。会場の雛壇に、その隣保館の館長と筆者、そして、部落民宣言をしたいという小学校教師が席に着きました。

すると、机がカタカタ、カタカタ音がするのです。筆者の右隣にいた、隣保館の館長が、「この音と揺れは何なのか・・・」と、筆者の耳元でささやくのです。私は、「私の左隣にいる人は、小学校の教師です。今日、私の報告の中で、部落民宣言をするのですが、緊張で震えているみたいです・・・」と答えました。すると、その隣保館の館長は、「そうか、それなら、私も協力しよう・・・」というのです。

最初報告をした、その隣保館の館長は、部落民宣言をすることの意味と、そして、その館長が部落民宣言をしたときの話をされました。当初、予定になかった話を、その小学校の教師の部落民宣言を勇気づけるためにしてくれたのです。

筆者の話も、筆者が所属している教団・教区の同和問題の取り組みの報告というよりは、その小学校教師の部落民宣言の伏線となるような話に終始しました。

筆者が話を終えるころには、その小学校教師の震えはおさまり、彼は、山口県の教育委員会関係者、校長や教頭が数多く出席している前で、堂々と部落民宣言をやってのけたのです。会場は、シーンと静まり、彼の声が市民館に響きわたっていました。

それからしばらくして、筆者は、転勤の話が出てきました。前任者が自害したとされる宗教施設での布教活動は難しい、5年も頑張ったのだから、そろそろ転任をした方がいいのではないか・・・、とすすめられたのですが、小学校教師が、意を決して、戦後はじめて、部落民宣言をした・・・、その声がまだ耳元に残っているときに、この山口の地を離れて他の宗教施設に転任するのは、何となくためらいを感じました。それで、その転任を断ったのですが、それ以降、筆者には転任話がどこからもこなくなりました。

筆者が住んでいる市の二つある被差別部落の住人の中にはこのようにいう人が出てきます。「あそこの坊さんは恐ろしい。部落のもんに部落民宣言をさしよる・・・」。筆者が、その小学校教師に部落民宣言をさせたわけではないのですが、良心的で無垢な被差別部落出身の小学校教師をそそのかして部落民宣言をさせた恐い坊主・・・、筆者はそんな目で見られ出したのです。被差別部落出身の小学校教師の部落民宣言に協力したときから、筆者の廻りから被差別部落の人々の姿が消えてしまいました。そして、誰ひとりとして礼拝に参加することはなくなったのです。

筆者は、その小学校教師を影で何か支えることができないかと日々思案しましたが、これといった明暗は浮かばず、結局、何もすることもなく、今日に至っています。部落民宣言をしてから今日まで、その小学校の教師がどのような歩みをされてきたのか、尋ねることもなく、いたずらに日を過ごしてきたのです。

ただ、一度、筆者が企画した「穢多村と穢多寺を尋ねるツアー」に参加されました。そのときには、筆者は既に、『部落学序説』の基本的な構想を抱いていましたので、尋ねた「穢多寺」の住職に対する質問は,より核心に迫ったものでした。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老と同じ歴史を担って生きている人々はいないのか・・・、尋ねることにしていました。長州藩の「周防国東穢多寺」の住職は、地名と人名をあげながら、「武士の末裔である被差別部落の家」を列挙してくれました。そのときは、何も問題なく終わったのですが、あとで、住職が名前をあげた被差別部落住民の中に、その小学校教師の実家の名前が含まれていたということを、他の人から聞かされたのです。

彼は、あるとき、彼のおとうさんとおかあさんの3人で、その実家のあった地区を尋ねたそうです。

その小学校教師も、長州藩の被差別部落の歴史を研究していますので、筆者の「差別者」の側からの「部落学」研究ではなく、「被差別者」の側からの「部落学」研究の成果を提示してこられるのではないかと思います。筆者の、「差別者」の側から「被差別者」の側へ向かう「部落学」と、その小学校教師の「被差別者」の側から「被差別者」自身を問う「部落学」を突き合わせれば、部落差別の謎をより深く解明できるのではないかと思います。そのためには、筆者はまず、自分の『部落学序説』を完成させなければなりません。

部落民宣言をした小学校教師がもうひとりいます。

山口県同和教育研究協議会の集会で配布された資料の中に、その小学校教師が勤務する小学校の「学校通信」に、「部落民宣言」と思われる文章が掲載されていました。その文章題は、「故郷(ふるさと)」です。全文を転載します。

「中学校の卒業証書を手に、学校の坂を下りた時、私は二度とこの坂を登ることはないと感じた。ふるさとから逃げる第一歩なのだと思い決意を抱き、9年間通った長い坂を振り返ることなく後にした。同和地区に生まれ、育った私にとって、ふるさとの風は決して心地のよいものではなかった。小学校高学年から中学校にかけ、自分の将来を考えるようになるころふるさとの風は、冷たく、厳しく私を厚い壁に打ちつけた。偏見と差別という壁は、自分には、とうてい越えられそうにない高い壁のように見えた。いくどとなく壁にぶつかり、ぶつからされるうち自分が幸せになるには、ふるさとを捨て、ふるさとから逃げ出すことだと考えるようになった。自分の前に立ちはだかる壁にぶつかり、血を流すことからもう逃げたかった。自分の手で壁を壊そうという気力も越えてやろうというエネルギーもふるさとの風は、奪い去ってしまっていた。高校、大学そして就職、少しずつふるさとの風があたらないところへ逃げていった。でも、逃げることが自分の幸せにつながらないと思い知らされた時、私はふるさとに帰ろうと思った。つらい思いでしか残っていないはずなのに、無性にふるさとが懐かしかった。恋しかった。私は、ふるさとに戻ってきた。悔しさで血がにじむほど唇を噛んでじっと見つめた土も、悲しみであふれる涙がこぼれないように仰いだ空もあの頃のままの私のふるさと。自分から捨てたはずのふるさとなのに、戻ってくるものを受け入れてくれた。暖かく、優しく。今、風がどんなふうに吹くのかそれは、私自身の生き方に自分自身にあるのだと思いながらもふるさとに吹く風は、誰にも優しくあってほしいと思う。大好きなふるさとは、大切なふるさとに吹く風は・・・・・」。

筆者が、『部落学序説』の中で、「人間の偉大さは、所与の人生を引き受けて生きていくところにある・・・」と繰り返し説く生き方は、この小学校教師の生き方にも通底していると思われます。「故郷(ふるさと)」の文書を読むごとに、筆者は、目頭が熱くなります。被差別部落の青年をここまで追い詰める部落差別とは何なのか、差別者の側にたちながらも、筆者は、「部落差別完全解消」は、万難を排して取り除くべき課題であると思いを新たにさせられるのです。

小学校教師である彼や彼女の上に、あのときに吹いていた風は今も吹いているのでしょうか。暖かく、優しく、「死したものを生かす」力として吹き続けていてほしいと心から願っているのです。

小学校の教師ではないけれど、ある被差別部落の青年はこのように語っています。

「多くの人は苦しみを胸に秘めて生き、そして死んでいく。わたしが部落解放運動に飛び込んでから13年、「お前が何をしようが差別はなくならん」と言い、差別の苦しみを一切語ろうとしなかったおじいちゃん、・・・差別の話を聞こうとすると・・・話をいつもはぐらかしていたじいちゃんも、そうして死んでしまった。中上健次が『紀州-木の国・根の国』の序文に、「私が知りたいのは、人が大声で語らないこと、人が他所者に口を閉ざすことである」と書いてあるが、わたしの知りたいことは、わたしの先祖たちがどのように生きどのように死んでいったかである。自ら歴史を抹殺し、口を閉ざして死んだかのように見える彼らの存在は、『市史』において特殊民という蔑称で一カ所登場するだけであり、まさに抹殺されている。そして現在の同和対策の対象としてのみ『市史』に登場するのである。うちの部落のほとんどの家の過去帳は寺の火事で燃えてしまった。そのうえ、寺の住職に、手元にある先祖の位牌をみんな持ってこいと言われ、持っていくと目の前で燃やされた家もある。部落が卑しくて、忌まわしいだけの存在であるならば、それは消さなければならないものなのだ。位牌を焼いたその住職にとって、差別の中を生き抜いてきた部落民の記録は、残してはならない忌まわしいものでしかない。今も差別があるからこそ燃やすのである。「差別はもうない。部落はない。」と常にどこかで言われ続けているが、「寝た子を起こすな」と言い続けている部落内外の多くの人々によって、部落民の生きてきたあかしは消されていく。被差別者の歴史は常に否定される。ならば、わたしたちは常に言い続ける必要がある。「わたしたちの先祖は差別に負けずちゃんと生きてきた。部落は存在し、部落差別もある。」と。」

「部落民」宣言は、同和対策事業や同和教育事業の恩典にあずかるためにする宣言ではないと思われます。山口県で、「寄留の民」として筆者が耳にした「部落民」宣言は、被差別部落の人々が、自分自身の歴史、所与の人生の物語(Geshichte=史観)を語る場のことなのです。「部落民」宣言をすることは、その先祖の歴史を振り返り、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」によって押しつけられた「けがれ」を洗い落とし、「穢多」の末裔としての本当の歴史に立ち帰ることなのです。

小学校教師の書いた「故郷(ふるさと)」を目にしてから10年の歳月が経過した今、筆者が、「差別者」の立場に身を置きながらも、部落差別完全解消のために執筆しているこの『部落学序説』は、あなたの「故郷(ふるさと)」に、「優しい風」・「暖かい風」として届いているのでしょうか。それとも、身を守らなければならないほど、「厳しい風」・「冷たい風」のままなのでしょうか・・・。

あなたの「故郷(ふるさと)」は、筆者が尋ねた、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老が語ったのと同じ歴史を担っているのです。筆者には、部落差別完全解消のための本当の風は、被差別部落の外からではなく、被差別部落の中から、吹きはじめると思われるのです。 

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