部落学序説

<常・民>の視点・視角・視座から見た<非常・民>である<穢多・非人>の歴史的真実の探求

真の人生、真の学問を求めて

2005年09月02日 | 第3章 「穢多」の定義

【第3章】穢多の定義
【第9節】誤解された渋染一揆
【第5項】真の人生、真の学問を求めて



2005年5月14日、初めてブログ上で、『部落学序説』を書き始めました。約3ヶ月半に渡って、102個の文章を書き続けました。すべて書き下ろしの文章です。

短期間でこんなに長い文章を書くのは、筆者にとって、初めての経験です。

筆者が所属している宗教教団の教区の中では、ここ数年、年度報告の中に、『部落学序説』執筆の予告をしてきました。同和対策事業終了後、「ほとんどの人が部落問題あるいは同和問題から手を引いていく段階で、いまさら何の論文を書くのか・・・」、疑問の声を聞きましたし、私がこの『部落学序説』を書くことを期待しておられた方から、「早く書き上げたら、部落問題から手を引いてほかの研究をした方がいい・・・」と忠告の声も耳にしました。

1冊の本にすべく、何度も試作を繰り返していたのですが、今年に入り、ブログの存在を知り、ブログ上で『部落学序説』で書き下ろすことにしました。

筆者は、本来、文章を書くのが苦手で、原稿用紙10枚程度の文章を書くにも「七転八倒」していました。しかし、文章の長短はありますが、ふと気がつくと、作成した文書数は100を超えていました。もとより文芸作品を書く積もりはありませんでしたので、淡々と事実を伝えればそれでいいと、キーボードをたたき続けました。下手な文章ほど長くなる・・・という人もいますが、まさにそのとおりです。

新書版3冊分をはるかに超える文書量となりますと、個人出版は絶望的です。それなら、全部、ブログで読んでいただこうと思ったのが間違いのもとだったのかも知れませんが、文書量はさらに増えていきました。

しかし、文書量が増えれば増えるほど、伝えたいことの数パーセントもお伝えできていないもどかしさに、途中、気が焦って文章が乱れることがしばしばありました。

山口の地に赴任して二十数年間、同和問題や部落問題にかかわって、具体的に知った同和地区やその運動団体から、「わたしたちのことは一切触れないで欲しい・・・」といわれた時には、この『部落学序説』は流産の危機に直面しました。

しかし、筆者が、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の話から受けた衝撃が、歴史の真実に根ざすものなら、長州藩領の中から傍証を求めずとも、日本全国に散在する資料や伝承から証明すればいい・・・と思うようになりました。ある種の居直りの思いを持つことができるようになると、精神的にはかなり楽になります。歴史の真実は、民俗学者の柳田国男がいうように、決して隠されたままではいないのですから、どこかに、その真実のかけらが、文書や伝承の言葉の陰に隠れているはずだと、時間をかけて資料を漁ることにしました。

休日には、妻と二人でドライブして、山口県の被差別部落を訪ねました。といっても、個人的に誰かを訪ねて話をお聞きするというわけではありません。

同和地区の方から、「有名な学者の人が書いてくれるならともかく、無名のただの人に書いてもらっても何の役にも立たない」といわれたことが、学歴も資格も持ち合わせていない筆者の脳裏にはそのことばがいつのまにか刻み込まれていたからです。

筆者が所属している宗教教団の同和問題担当部門のトップ、被差別部落出身の彼は、「あなたが、部落の人から信頼されていない証拠だ」と強調します。

しかし、長州藩の「穢多村」の探索方法が自然に身についてくるようになると、歴史にその名を残す被差別部落の人々が生きた自然や村の姿をイメージすることができるようになってきます。

「この街道沿いに往還松があったはずですが、ご存知ないでしょうか」とたずねると、切り株のあったところに案内してくれます。草むらに隠れて、通りすがりには発見できません。しかし、往還松があることがわかると、この松の高さを○○メートルと推定して、それが二階の部屋から見える家は・・・、「ああ、あの家がそうだ」とその家の庭から南の方を見ると、文献に記載された通りの山が見える。近くを通りかかった人に、「あの山、何ていう山ですか」と尋ねると山の名前を教えてくれます。こんな方法で、歴史上の有名な被差別部落出身の実家を探し当てました。最後は、お墓の所在を確認すれば、この調査は終わりです。そして、春夏秋冬、晴れの日も雨の日も、その家の周辺を訪ねて、小さな種から結晶をつくるようにイメージを構成していきます。

筆者のなかにある潜在的な差別意識は消え去り、被差別部落の昔の記憶に1歩近づいたような気になります。

穢多の末裔たちは、直接、彼らの生きていた被差別部落の名前に触れなくても、さまざまな情報を発信し続けていたのです。「この人たちが黙れば、石が叫ぶ」(新約聖書)のです。石だけではありません。空も、雲も、山も、木々や草花も、そして、古い街道の町並みや辻も、いろいろなものが、「穢多村」の在所であることを、筆者に語りかけてくるのです。

川を挟んだふたつの被差別部落。ひとつは、同和対策事業がなされて立派な家が立ち並ぶ。川を挟んだ反対側の被差別部落は未指定地区で事業がほとんどなされなかったようで、昔ながらの家並みが立ち並ぶ・・・。なぜ、地区指定を受けて同和対策事業の恩恵に与らなかったのか・・・。一度、話を聞きたいと思いながら、そのときが訪れるのをじっと待ち続けます。

『部落学序説』を書くのに、長い時間がかかったのは、そのような時間の積み重ねをしていたからです。

長州藩の「穢寺」のひとつを尋ねたとき、その寺の住職は、「私たちのことを話す前に、あなたのことを知りたい」といわれました。その住職の寺のことについて話をお聞きするわけですから、私が所属する教会のことについても、ありのまま話をしました。

前任者が自害したと噂される教会で、信徒も、そんな教会に明日はないといって、教会を捨てて去っていってしまったこと、近所に人は気味悪がって教会に近寄らないこと、今は、それでも教会を離れず、教会を支えているごくわずかな人と礼拝を守っていること・・・、そんな話をしたとき、その浄土真宗の僧侶は、「そうですか、それで、あなたは被差別部落の人の気持ちがわかるようになったのですか・・・。浄土真宗の寺でも、僧侶が自害したと噂されたら、なりたちません。この寺は、近世に穢寺といわれていた寺が廃寺になり、その寺の歴史を引き継ぎました。それは、昔の話になりますが、あなたは今現在重荷を負わされているのですか。分かりました。あなたが聞きたいということは、全部お話ししましょう・・・」といって、話をしてくださいました。その浄土真宗の寺を訪ねてお話をお聞きしたのは数回ですが、その前に、1年間、春夏秋冬、その寺の立っている村や自然を訪ねました。お話を聞くことができたあとも何度となくその村と浄土真宗の寺を尋ねました。寺の境内から見る秋の夕日、初雪が舞う冬の境内・・・、村はずれで聞いたその寺の鐘の音・・・、筆者の「穢多村」や「穢多寺」のイメージは、頭で獲得したものではなく、足で獲得したものです。それらの風景は、「差別意識」をはねつける生きる力に漲っています。

フランスの小説家アンドレ・ジイドの『田園交響楽』の中で、幼いとき失明した女の子が青年になって手術を受け視力を回復する場面があります。その女の子は、記憶に間違いがなければ、このようなことを語っていました。「目が見えるようになったとき、ありとあらゆる光が目に飛び込んできました。自然は美しい・・・。しかし、同時に、人間の表情が湛えている悲しさも見えてきました・・・」。

ドイツの小説家ゲーテは、その著『ファウスト』の中で、「人生は彩られた影の上にある」と語りました。どのような人の上にも、七色の光が注がれているのです。それぞれの人生の季節にふさわしい光を浴びて生きているのです。

ニーチェは、無神論の代表的な哲学者のように言われます。しかし、筆者が高校生のとき呼んだ感想では、ニーチェは決してそのような言葉だけで表現できるような人物ではないと感じていました。彼はこのような言葉を残しています。これも私の記憶の中の言葉です。長い間に多分に変形されてしまっているかも知れません。

「この美しい夕暮れ時には、この世で最も貧しい漁師ですら黄金の櫂で舟を漕ぐことになる・・・。神の恵みを思ってさめざめと泣けてきた・・・」。

被差別部落の人々の差別の原因は、自然や村や、目に見える環境にあるのではない。差別は、人の表情の中にある・・・。人の表情は、その人の知・情・意識の凝縮したものがにじみ出てきたものだから、目は口ほどにものをいうのかも知れません。「視線」・「まなざし」から差別的なものがなくなると、被差別部落に伝えられた「伝承」がいろいろと昔の記憶を語り始めます。

最近読んだ文庫本の中に、このような言葉がありました。「ニーチェはわたしにとって一つの啓示でした。わたしがそれまでに教えられてきたのとはまったく異なる人がいるとわたしは感じたのです」。そう語ったのは、『自己のテクノロジー』(岩波文庫)の著者ミシェル・フーコーです。

彼は、《心理・権力・自己》という論文の中でこのように語ります。

「真の学問と偽りの学問との相違を、あなたはご存知でしょうか? 真の学問は自らの歴史を認めて受け入いれる・・・」のです。

「学問」をアドホック(間に合わせの言葉)として、ほかの言葉に置き換えてみると、いろいろな視座が見えてきます。

「学問」の代わりに、「部落史」・「部落民」等と置き換えてみてはどうでしょうか。

試行錯誤したら、「学問」の代わりに、あなたの名前を代入して読んで見られたらどうでしょうか。筆者が、このブログを読んで下さった皆様に一番訴えたいことが見えてくると思います。そうです。自分自身の「所与の人生」から逃亡してはいけないのです。「所与の人生」がどんなに暗い闇に閉ざされているように見えようとも、悲しみや苦しみに浸潤しているように見えようとも、生きる価値のない人生に見えようとも、決してそうではない、私たちが生きている人生は、誰でも、「色どられた影の上にある」のです。自分自身さえ気がついていない、「色どられた影の上にある」のです。その光を見つけるには、「所与の人生」から逃亡しないこと、「所与の人生」に立脚し、それを引き受けて生きていくことです。

次回から、第4章に入ります。 


渋染一揆(穢多が穢多であるための闘い)

2005年09月02日 | 第3章 「穢多」の定義

【第3章】穢多の定義
【第9節】誤解された渋染一揆
【第4項】渋染一揆(穢多が穢多であるための闘い)



柴田一著『渋染一揆論』は、何回となく精読しました。この書から、「部落学」に関する多くのことを学ばせていただきました。これからも、なお、多くの示唆を受けることになると思います。

柴田は、「幕藩制確立期の岡山藩主池田光政」の「穢多」についての施策を、かなり評価しています。しかし、残念ながら、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」を不問に付し、それを自説の前提としている関係で、彼の研究は、「通説」とあまり違いのない結論に達しています。

柴田は、岡山藩の「穢多」に関する施策について、「正徳3年(1713)のころを境に、手のひらをかえすように差別政策に転じた」といいます。正徳3年以前は、「穢多」の一部に「御徒格に準ずる厚遇」を与えたといいます。徳山藩で、「徒士」は、20石取りの藩士になります。それと同格というのですから、岡山藩は、さらに俸祿が上だったのではないかと思います。

ところが、柴田は、正徳3年以降は、「幕府・諸藩ともに部落差別を強化する方向に転じた時期」に、岡山藩も、それまでの善政と違って、「手のひらをかえすように差別政策に転じた」といいます。

部落史の研究者は、正徳年間の幕府の宗教政策について、あまり重きを置いていません。しかし、正徳年間は、新井白石が幕府の政務に関わっていた時代で、最後の宣教師、ヨハン・シロウテが日本に対するキリスト教布教のため、その偵察を兼ねて潜入するというショッキングな出来事がありました。その時代は、衝撃を受けた幕府が、キリシタン禁教の政策を確認し、もう一度、日本全体をキリシタン禁令下に置くために、宗教警察を強化した時代でもあります。

宗教警察は、穢多・非人だけでなく、それぞれの藩の宗教奉行以下、それ相当の人員が配置されていました。徳山藩の「家中諸法度定」によると、第一条に、「幕府の法令を堅く守り、吉利支丹宗は手がたくとりしまり、五人組として互いにせんさくすべきである」とありますが、この法度は、正徳年間で再び強化策が展開されました。

ただ、かっての島原の乱のように、血なまぐさい弾圧を「効果なし」として、直接的なキリシタン弾圧を避けようとした幕府と、近世幕藩体制下の中で、戦争のない安定した生活を営み、それなりの社会的実力を身につけてきた百姓は、「道理にはずれた無理非道な政治をおこなえば、黙って忍従するような農民では決してない。」という状況にありましたから、幕府は、正徳年間に再度、キリシタン禁令を強化するために、直接、百姓を取り締まるのではなく、キリシタンを「取り締まる側」、つまり、近世幕藩体制下の「非常民」の宗教警察としての機能を強化しようとします。

当然、「穢多・非人」は、キリシタンの探索・捕亡・糾弾等の第一線で活躍することを求められます。

年に1回実施される「宗門改め」だけでは、キリシタン禁教令を徹底することができないと悟った幕府・諸藩は、宗教警察としての「穢多」に対して、二人一組で、「戸別調査」を実施させたと思われるのです。彼は、宗門改め人別帳の写しを手に、「戸別調査」の対象に質問をしたと思われます。そして、記録と口頭による応答との間に相違があれば、また、疑わしい点があれば、一定の手続きに従って、キリシタンの探索・捕亡・糾弾を実施したと思われます。

キリシタンが見つかったときは、「穢多」はもちろん、「藩」にも、自由に処罰する権限はありませんでした。いつも、幕府に届け出て、その裁可に従わなければなりませんでした。

幕府は、その寺社奉行のもとで、すべての諸藩の宗教警察としての「穢多」を把握・管理していたと思われます。キリシタン禁教令をより徹底して実施するため、「穢多」組織の管理・強化を図るのですが、日本宗教史・キリシタン史に関心を持たない、部落史研究家によって、正徳・享保年間に実施された、宗教警察としての「非常民」の管理・強化、その一端としての「穢多」組織の管理・強化が見落とされてしまいます。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」の存在が不問に付された結果、「穢多」に対する「差別強化」のみがクローズアップされるようになってしまいます。

正徳3年(1713)から、渋染一揆の原因となった安政2年(1855)の「御触書」が出されるまでの142年間、長期間に渡って、幕府のキリシタン禁教政策は功を奏し、取り締まられる「常民」だけでなく、取り締まる「非常民」の意識の中から、キリシタン弾圧の記憶が薄らいでいきます。

明治24年頃、旧幕代官手代八州取締・宮内公美は、「・・・考察などに切支丹宗門云々と書いてありましたが、切支丹というのは何の訳だか分からずに、まあ訳の分からぬ方が多いのでしたから、関東ではただ、切支丹・バテレンは恐ろしいものだという考えでいた位のことです。」といいます(『旧事諮問録-江戸幕府役人の証言-(下)』岩波文庫)。

安政2年(1855)年の「御触書」がだされる2年半前の嘉永6年(1853)、キリシタンが大挙して日本にやってきます。それが、「黒船」来航です。イタリアの宣教師が日本再布教のため単身日本にやってきたのとくらべて、「黒船」来航の際には、巨大な大砲を搭載した巨大な軍艦と共に日本にやってきたのです。

1854年、再度日本にやってきたペリーと幕府との間で、「日米和親条約」が締結されます。幕府は、アメリカ同様、イギリス・ロシアに対しても、「和親条約」を締結します。アメリカ・イギリス・ロシアの国は、いずれもキリスト教を国教にしている国々です。

幕府は、キリスト教の日本上陸を阻止しようとします。

岡山藩は、「幕府の命令で房総半島、ついでに摂津の沿岸の警備のために家老以下千数百人もの番兵・人足を動員した。」といいます。「巨額の費用をついやしたうえ、天災地変による莫大な災害復旧費がうわずみされた」といいます。岡山藩の借銀高は、年間支出総額の3倍を越える額に達していました。「破産寸前」の岡山藩は、領内への「黒船」侵入に備えて、洋式大砲や洋式銃の装備や、「非常民」の近代化を図らなければなりませんでした。

特に、「異国人徘徊」は、藩主のみならず、藩全体にとって、避けて通ることができない重大問題であったと思われます。

欧米の外交官の記録をみると、「異国人徘徊」は、幕府役人だけでなく日本の民衆、「常民」・「非常民」に大きな影響を与えたようです。日本人なら、当時の司法・警察が誰であるか、その身なりが少々違っていても、敏感に認識することが可能であったでしょう。

ところが、外国人には、「常民」と「非常民」の区別ができません。そのため、外交官の中には、「非常民」に対して、傍若無人的な態度をとる人がいましたし、また、「非常民」も、「切支丹・バテレンは恐ろしいものだ」という先入観から、キリシタンの前から、職務を忘れて逃亡する場合があったようです。

当然、岡山藩主は、「領内への「黒船」侵入に備えて、洋式大砲や洋式銃の装備」の他に、「領内への「黒船」侵入に備えて」、「警察」機能の改革と充実とをはかります。

そのひとつに、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」を、司法・警察官として、顕在化させることでした。領内の司法・警察の顕在化によって、侵入・上陸してくる欧米人(キリシタン)に対する司法・警察官である「穢多」の存在を鮮明にするために、「非常民」としての「制服」、渋染・藍染の木綿でつくられた「制服」で統一しようと計画されたのです。

「渋染」・「藍染」が、差別の色であるという説は、日本の歴史学上の差別思想である「賤民史観」が作りだした、幻想・錯誤・誤認であったと思われます。

安政2年の「御触書」は、「全文29カ条からなり、そのうち前24カ条は、郡内の農・工・商・医者など、いわゆる「平人」を対象とするもの・・・」です。しかし、その「御触書」には、さらに5カ条が付加されていました。いわゆる、「別段御触書」と言われている部分です。

「賤民史観」に立つ部落史研究者は、「別段御触書」の5カ条を、「常民」を対象にした「倹約御触書」である、前24カ条から区別して、「差別法令」と解釈します。

『渋染一揆論』の著者・柴田一も、「岡山藩が部落差別のしかたにもことかいて、服装・持物など、一見してすぐにそれとわかるような露骨な措置をうちだしてきた藩当局のねらいはなんであったのか」といいます。

柴田は、その背景に、岡山藩の「部落差別のしかたが内面的差別から外観的差別へ、その重点のおきかた」が変わったことがあるといいます。柴田は、「外観的差別」が導入されることで、「百姓・町人と部落民衆とを意識的に引き裂き、逆に憎しみあう条件を作り出そうとしたのである」といいます。柴田は、「差別法令」の背後に、百姓と穢多の分断支配が存在していると主張しているのです。

『部落学序説』でこれまで確認してきた命題に従いますと、岡山藩の安政2年の「御触書」の前24カ条は、「穢多」の「家職」(農人)に対する規制、後5カ条・「別段御触書」は、「穢多」の「役務」(司法・警察官である「非常民」としての穢多の職務)に対する規制であると理解できます。

「村役人」から「穢多」に対して、この「御触書」が読み上げられ、「請取書」にサインを求められたとき、「穢多判頭」が答えた言葉の中にその裏付けが含まれています。

「此度御倹約之義に付、御百姓一同之御請は仕候得共、私等衣類格別の御請ハ御断申上べき」。

「穢多」の「家職」に対する「御百姓一同之御請」は承諾するけれども、「穢多」の「役務」に対する「衣類格別の御請」は承諾することができないというのです。

岡山藩が、別段御触書で、「穢多」の衣類を「無紋渋染・藍染」に限定する理由として、「平日の風体」「御百姓」と区別するためのものであることが、第26条に明確化されています。

岡山藩の穢多たちは、「別段御触書」の撤回を求めて、藩に「嘆願書」を提出します。『渋染一揆論』の著者・柴田一は、その「嘆願書」の第5条をこのように要約します。

「すなわち、第5条では、部落住民は盗賊の追捕・治安維持のために身命を堵して働いているが、その部落住民を差別すれば、忠勤の意欲も仕事への情熱もたちまちうすれ、やがては、治安が乱れ盗賊が横行するべき結果をまねくであろうと述べている」。

私は、柴田の要約は、本文を無視しているように思われるのです。

まず、「穢多」を安易に「部落住民」(同和地区住民を想起させる)と言い換え、「無紋渋染・藍染」の木綿の強制を、「部落住民を差別」という言葉に置き換えています。柴田の中にある、日本の歴史学上の差別思想である「賤民史観」が災いして、柴田は、「嘆願書」第5条から、「差別法令」を読み込んでいくのです。

柴田の要約は、故意に、読者から、渋染一揆の本質を遠ざける側面をもっています。「嘆願書」に目を通してみましょう。筆者の意訳です。

「御国中、穢多共の内、御城下近在の5か村の穢多どものうち、番役など仕えているというものがいます。藩の牢屋や刑場で死罪判決がでた者の処刑が実施された場合は、その際、刑の執行に携わったものもあまたいます。そのため、5か村の穢多はもとより、その他の穢多村も同様、御用を仰せつかった穢多は、役人に対する報酬として、御米4俵宛受け取ってきました。それは、諏訪御用の節、御忠勤をつくしたてまつる身分であるがゆえに、御百姓も御承知されていることがらです。(穢多の在所は)役人村と呼ばれることもあります。盗賊または強盗・荒破者が出たときには、穢多村にひきとり、・・・番にある役人はいうに及ばず、無役の穢多に至るまで、一命にかかわることも厭わず、御用に励み、御忠勤を尽くしてきました。別段御触書に記された渋染・藍染の衣服を身にまとっていては、御城下はもちろん、村々、浦々に至るまで、盗賊や疑わしい人々は、遠く離れたところからも、渋染・藍染の制服をきた、司法・警察である穢多に気づいて身を隠してしまいます。これでは、巡邏の際に不審人物に職務質問することはさらに難しく、犯人の逮捕は難しくなります。詮なきことを続けていては、御用に携わる意気も低下してきます」。

岡山藩の穢多が、「渋染・藍染」を拒否したのは、それが、「差別」であるからではなく、「穢多」の役務である、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」の役務の妨げになるからであるということがよく分かります。渋染一揆の原因は、岡山藩の「穢多」の「穢多」であることの熱心さに由来するものです。

「藩主」と「穢多」との間に立っていた「村役人」の誤解が、「穢多」をさらに危険な方向へと追いやっていきます。「村役人」が正しく「穢多」の真意を藩に伝えれば、「渋染一揆」に発展することはなかったでしょう。

岡山藩の「穢多」は、百姓一揆や農民一揆のような「一揆」ではなく、「穢多」が「穢多」として役務に携わるための嘆願でした。しかし、一見、百姓一揆や農民一揆に見える行動をとるため、「穢多」たちは、「穢多」の「嘆願」に相応しい行動をとります。

それが「竹槍1本たずさえない強訴」になったのではないでしょうか。

柴田はいいます。「村役人たちは6尺棒を揮って戦ったが、屈強の強訴勢は村役人どもを素手で掴み左右に投げ・・・」たのです。その両手に一切の武器を持たず「丸腰」であったことは、近世幕藩体制下の司法・警察としての「非常民」である「穢多」の「穢多」であり続けようとする強い意志を感じます。

柴田は、「この一揆こそ、近世における部落住民の解放運動の最高水準・到達点を示すものだと思う。」といいます。

筆者は、柴田と違って、「渋染一揆」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」が「穢多」であり続けるための、その「役務」に対する熱心さから出たものであると思っています。「渋染一揆」は、決して、「部落住民の解放運動」ではありません。柴田がいう、「部落差別に対する抵抗運動」でもありません。岡山藩の「穢多」は、「穢多」であることを誇りと自信を持っていたのです。「穢多」が「穢多」の職務、犯人の探索・捕亡・糾弾に際して、「渋染・藍染」は、職務遂行の妨げになるので、撤回してほしいと訴えたに過ぎないのです。

徳山藩の「家中書法度定」の最後の条文は次のようなものです。「先例をひいて、とかくの愁訴嘆願を禁ずる。これに一味加担するものは、大小身によらず罪料に処する」。岡山藩に同種の法度の条文があるかどうかは知りませんが、恐らく、岡山藩の「穢多」も、「愁訴嘆願」の内容によってではなく、「愁訴嘆願」の行為そのものによって裁かれたのであろうと思います。
 


渋染一揆の時代的背景

2005年09月02日 | 第3章 「穢多」の定義

【第3章】穢多の定義
【第9節】誤解された渋染一揆
【第3項】渋染一揆の時代的背景



私は、岡山県児島市琴浦町出身です。

琴浦町というのは、昔から繊維の町として有名です。私が小学生の頃は、学生服の生産・日本一と言われたところです が、琴浦町では、男性でミシンが踏める人も少なくありません。というより、男性もミシンが踏めないと、この町では生活できない・・・、そんな雰囲気のある町でした。

私の母も、父の事業が倒産した頃から、内職でミシンを踏んでいました。その頃は、電動ミシンではなく、足踏み式のミシンでした。琴浦町で生まれた子どもは、子守歌がわりに、ミシンの音を聞いて育ったように思います。

私は学生服の町で生まれ、学生服の町で育ったわけです。

小学校3年生のときでしたか、参観日のときの授業は、家庭科の時間でした。担任の教師は、家庭科が専門の教師で、母親の前で、このような話をしました。「これから、うんしんをします。私に勝ったら、成績5をあげます」。親と子どもの間にざわざわと動揺がひろがります。

全員立って、手が疲れてうんしんができなくなったら、席に座るのですが、そのとき、最後まで、うんしんを続け、担任の教師がその手を止めたときにも、運針を続けていたのは、私ひとりでした。

担任は、「約束通り、あなたに5をあげます。」とみんなの前で約束しました。

そのとき、うしろで、授業を観察していたおかあさんたちの間から、「いいな、あの子、養子にほしい・・・」というような言葉が聞こえてきました。

その学期の終り、家庭科の成績は、やはり5でした。

しかし、それは、当然と言えば当然でした。父の事業の倒産のあと、母は内職の時間を増やし、くる日もくる日も、ミシンを踏んだり、糸つみをしたり、ボタン付けをしたりしていたからです。忙しいときは、私も、その内職を手伝わされました。毎日、毎日、針とはさみを使っていれば、運針が上手になるのは当たり前です。

学生服の町で育った私は、「制服」というものに違和感を感じません。

戦後、「制服」か「私服」か、教育上の問題になったことがありますが、私は、一度も、制服反対論に賛成したことはありません。「制服」に反対することは、私には、何か、ふるさとに反対するような響きがあります。

山口県のある宗教教団に赴任してきて、しばらくたった頃、キリスト教会の牧師が、制服反対運動を展開しているとの報道がありました。その報道の司会者は、山口県の学校教育の現場に制服を持ち込んだのは、下関にある梅光学院であることを紹介していました。昔は、制服に賛成、今は、制服に反対・・・、時代が変わると、主義・主張も変わるようです。

私の知人に、娘さんを大坂に嫁がせている人がいます。彼は、娘さんから、小学生の「制服」の話を聞かされたといって、なんとなくショックを感じているようでした。

娘さんの話では、大坂の小学校では、制服を採用しているところもあれば、私服を採用しているところもあるといいます。「制服」は高価なので、普段着の私服で通うことができれば、親は楽になると言われていたのは昔のことで、今の小学生は、小学生同志で、自分の着ている「私服」の質、ブランド名を競いあうというのです。上着・下着・靴下・靴・鞄・・・、どれだけ有名なブランドを身につけているかを競っているというのです。自分の子供を、友達の家に遊びにやるときには、その身なりに気をつけないと、相手の親から、「安物を身にまとっているところをみると、親の生活水準は・・・」と判断されて、友達つきあいを断られる場合もあるというのです。

私は、柴田一著『渋染一揆論』を読んでいると、「渋染・藍染」は「制服」のこと・・・、というふうに受け止められがちになります。

学生服は、黒か紺が一般的でしたから、「渋染・藍染」の色にこだわる人々を理解することができないのです。

江戸時代の言語学者・新井白石は、その辞書『東雅』の中で、「青」という色に「賤しい」(身分が低い)という意味があるといいます。『古事記』の中に、「民」を指して、「青人草」という字が用いられていると指摘していますが、この場合の「青」は、支配者に対する被支配者全体を指して用いられています。白石は、「青といふをもて、賤称とするの義、つまびらかならず」といいます。

白石のいう「青」は、「渋染・藍染」の色とは異なります。

古代・中世の、司法・警察である「非常民」の着ている服の色を探してみると、多くは、「藍染」のようです。「藍染」の色は、「規律と責任」を示す色なのでしょうか・・・。

この問題に果敢に取り組んだのが、住本健次著《渋染・藍染の色は人をはずかしめる色か》という論文です。この論文には、「「渋染一揆」再考」という副題がつけられています。

住本は、北九州市教育委員会が作成した同和教育副読本の「渋染一揆」に関する記述をとりあげ、「これまでの教育現場における部落史学習は「権力に対する怒りをもたせる」ことを中心に構成されることが多かった。・・・しかし・・・「怒りをもたせる」ために、歴史の事実をまげて教えてはならないのである。」と問題提起しています。

副読本の内容を二次引用してみましょう。

1856年(安政3年)6月14日の朝、備前平野(岡山県)を流れる吉井川の八日市河原は、備前藩の53か村からかけつけた、およそ三千人の人びとでうずまっていました。河原のはずれには、あわてふためいた役人たちが、つめよる人びとをおしとどめようとしていますが、ばく発した怒りはおさまりません。
「無紋しぶ染や、あい染を着て生きていけん」
「これ以上、差別を許すことはできんぞ」
このさわぎにまじって、笹岡村の良平たちはたぎる胸をおさえていました。(中略)
7か月ほど前、大庄屋が良平たち村の代表を集めて、藩のお触れを伝えました。
-町人どもは、絹類を着るな。町人より身分の低い者は、ナワの帯をしめ5寸4角の革を胸につけよ。夜は、ちょうちんに目しるしをつけること-。
そのうえ、「衣類を新たにととのえる時は、紋なし、無地の一番そまつなものにせよ」
庭先にならんだ一同の顔はあおざめました。いままで、さんざん差別をしておいてこれ以上に衣類まで無紋しぶ染にされれば、農民や町人から、いっそう差別されることはわかりきっています。
わずかばかりの耕地。ぞうりやわらぐつをあんだ、わずかばかりの手まちん。飢えをしのぐために、なんども着物を質に入れたこともあります。
こんどのおふれでは、それさえできなくなったのです。(後略)

この北九州市教育委員会の渋染一揆に関する記述は、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」に基づいた典型的な表現です。「賤民史観」に立つ歴史学者や教育者は、「みじめで、あわれで、気の毒な」人びとの姿を、すべて、「被差別部落」の人びとに押しつけるのです。そして、歴史的な事実とは異なる像を捏造して省みないのです。

住本は、「渋染一揆」に関する教育界の「常識」、「衣服統制令は・・・「差別するために」、一目でわかるように特別の色を強制した」という解釈を否定して、「衣服統制令は「庶民と同じような染・色を要求した」ことになる」というのです。

住本は、「当時の被差別部落の人々の中に・・・目立つ程度に高価な染や色の衣服を着ている人がいたからこそ、倹約令として出された」という解釈が成り立つのではないか」といいます。

住本は、そしてこのように結論付けるのです。
「今までの解釈とは別の視点で「渋染一揆」を再考する必要がある・・・」。

インターネットで「荊冠旗」を検索していたら、このような説明に遭遇しまた。

「全国水平社の旗に由来する、部落解放運動の象徴にして部落解放同盟の旗。1923年、全国水平社の結成メンバーの一人、西光万吉が考案。赤い荊冠は、水平社宣言にある「殉教者がその荊冠を祝福されるときがきた」という言葉に象徴されているように、被差別の苦闘の歴史の中で生き抜いてきた彼らの誇りを意味し、黒い背景は差別のある厳しい世の中を意味する。全体として、差別を跳ね返し、被差別者として誇りを持って生きていくという理想を表現している。」

「赤」は「(部落民であること)の誇り」を意味し、「黒」「差別のある厳しい世の中」を意味しているというのです。

西洋では、「赤」は、十字架の受難とイエスの血の色、「黒」は、絶望・死の色です。

私は、「荊冠旗」をみるとき、このように考えるのです。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」は、その役務の中に、アジアで一般的に存在していた「宗教警察」の職務遂行が含まれていました。特に、最後の宣教師が日本に潜入したあと、正徳・享保年間に、幕府から、キリシタン取締りの命令が出されます。忘れかけられていたキリシタン禁教政策が、またぞろ、宗教警察である「穢多」に大きな影響をあたえます。「穢多」は、近世幕藩体制下全期間において、幕府のキリシタン弾圧について、多大な貢献をしてきました。しかし、幕末期、幕府は、諸外国から開国を求められ、不平等条約を締結させられます。日本が「国辱」として受け止めたのは、「治外法権」でした。日本国内で、外国人が犯罪を犯した場合、日本の国内法で裁くことができないのは、著しい日本の主権侵害であると受け止めていたのです。治外法権撤廃のために、明治政府は、考えられるかぎりの対策をとります。そのひとつに、諸外国から求められていた司法・警察の「近代化」があります。明治政府は、対外的なしるしとして、宗教警察解体を宣言します。近代以前の封建的な制度である宗教警察を解体するのです。それが、明治4年太政官布告でした。宗教警察は、幕府や藩の寺社奉行をトップに当時の「非常民」全体によって担われていました。しかし、明治政府は、スケープゴート(身代わりの犠牲)として、「穢多・非人」を人身御供に捧げるのです。しかし、それは対外的なポーズで、国内的には、「穢多・非人」は、明治警察の「手下」として、実質上のキリシタン弾圧の先鋒を担ぎつづけるのです。明治初期には、「旧穢多」によるキリスト教会襲撃事件も多発しました。彼らの心の中には、「日本をキリスト教の汚染から守ることで、御国のためになる」と信じて疑わなかったことでしょう。しかし、明治中期に、日本はイギリスと軍事同盟を結びます。その結果、両国は、相互の国教を容認しなければならなくなります。日本は、キリスト教徒をはじめて、皇居に入れ、天皇と会見させます。キリスト教弾圧のために、陰の宗教警察として活動していた「旧穢多」は、その場所を失ってしまいます。そして、当時の内務省(警察)と浄土真宗やキリスト教の指導者とが協力して、「旧穢多」を、「特殊部落民」として「棄民」扱いすることを決定します。近世幕藩体制下で宗教警察であった「穢多」が、ふと気がつくと、明治政府から、そして、浄土真宗からも見捨てられ、「棄民」として、かってのキリシタンと同じ、身分外身分、社会外社会に落とされていることに気づくのです。「荊冠旗」の黒は、明治政府によって「棄民」扱いされた人々の「絶望と失望の色」。赤といばらは、浄土真宗門徒として、キリシタン弾圧に関与してきた「穢多」が、明治になって、いつのまにか、かっての「キリシタン」と同じような境遇、身分外身分、社会外社会に落とされたことへの怒りと抗議の色ではないかと思います。

私は、「渋染・藍染」は、「色」の問題ではなく、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」の「制服」、あるいは「制服の色」として理解します。岡山藩の穢多たちは、「渋染・藍染め」の「色」に反応したのではなく、「渋染・藍染」の「制服」に問題を感じたのではないかと思います。
 


渋染一揆の指導者の実像

2005年09月02日 | 第3章 「穢多」の定義

【第3章】穢多の定義
【第9節】誤解された渋染一揆
【第2項】渋染一揆の指導者の実像



渋染一揆に関する研究書として、まず紹介しなければならないのは、柴田一著『渋染一揆論』です。

『渋染一揆論』は、柴田の論文と巻末に収録された「渋染一揆関係史料」から構成されています。渋染一揆について研 究する際に、避けて通ることができない、大西豊五郎稿『禁服訴歎難訴記』が全文掲載されています。

柴田は、『禁服訴歎難訴記』を読んだとき、「そのころわたし達が概説書、啓蒙書から得ていた部落に対する常識では 、到底理解できない記述に直面し、びっくりしたり、また眼から鱗が落ちる思いがしたものである。」といいます。そして、「それをひとつひとつ地方史料で確かめ、裏をとることはとても困難であったし、この仕事は今日もまだ十分に果たしていない。」というのですが、十分確認がとれていないことのひとつに、次のような「謎」があります。

「一揆を指導した弥一・友吉といった知識人は、いったいどこでどのような勉強をしその知識を身につけたのか、いまもって謎である」。

柴田によると、「強訴首謀者のひとりとして投獄された福里の弥市というひとが、獄中で牢名主に「唐詩選」のさわりを講釈してやるというひと幕がある」といいます。「また稲坪の友吉というひとは、投獄されたがやがて釈放され、明治五年(1872)稲坪に「小学」が設けられるとその「教授」に任命されている。郡中きっての秀才で頭脳がよかったという伝承もある。」といいます。

柴田は、当時の「概説書」や「啓蒙書」に記された被差別部落民像と、『禁服訴歎難訴記』に記された、渋染一揆に参加して指導した、当時の知識人層との間のギャップに驚きの思いを持ったのでしょう。

当時の「通説」と異なる被差別部落民像を記した『渋染一揆論』に対する批評の中には、「肯定的、好意的なものばかりではなかった。むしろ全く非常識で、部落史というものが全くわかっていないといった酷評」も含まれていたといいます。

柴田は、当時の部落史研究家は、「部落史を「残虐物語」の標本のように理解」していたといいます。柴田は、「階級闘争史観で固まった頭脳」で、柴田の『渋染一揆論』を読んでもらっても、「とうてい理解できるはずはなかった」といいます。

柴田は、さらに、「しかし、著者のわたし自身も、いま反省すると・・・」、渋染一揆の研究に時代的な制約を免れなかったといいます。

柴田の、歴史学者としての真摯な態度を知ることができるのですが、柴田の被差別部落民に対する視線のどこかに、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」に影響されていた側面があるのではないかと思わさせられるのです。

「一揆を指導した弥一・友吉といった知識人は、いったいどこでどのような勉強をしその知識を身につけたのか・・・」、そのような問が、柴田の脳裏に浮かんでくることそのものが、柴田の時代的制約を物語っていると思うのです。

『被差別部落の暮らしから』の著者・中山英一は、このように語ります。

「世間の人は「部落の人は字を知らない」とか「文化の程度が低い」といいますが、そういう現象は明治以降なのです。それ以前は、部落の人たちは、文字がなければ生活できなかったのです。なぜかというと、「長吏」という役は権力の末端を担う仕事ですから、さまざまな役があるのです。今でいう「警察」や「刑務所」の仕事です。だから、字を読め、あるいは、書き、役目を理解する必要があるのです。字を知らないと、「長吏」という役がつとまりません。たとえば、「何日から何日まで牢番をしろ」という命令が文書でくるのです。それで、たしかに命令を受け取ったという請書を書くのです。今でいう文書のやりとりです。必然的に字の読み書きが必要になってくるのです。高度な漢書を自由に読み書きできる人もいました。こういう人たちがどこの部落にも必ずいました。そして、その部落の文化を大きく支えていたと思うのです」。

被差別部落の側からの主張をそのまま受け入れるとき、『渋染一揆論』の著者・柴田一の、渋染一揆を指導した弥市や友吉に対して抱いた、「いったいどこでどのような勉強をしその知識を身につけたのか・・・」という問は、柴田の偏見・予見に基づく判断であるといいうるかも知れません。柴田は、その偏見・予見が強ければ強いほど、『禁服訴歎難訴記』に記された、渋染一揆に参加して指導した当時の知識人としての弥市や友吉の姿に、柴田の思いを超えた驚きの思いを持たざるを得ないのです。

水平社宣言の執筆者のひとり、平野小剣こと栃木重吉は、福島県福島市代町の被差別部落出身です。阿武隈川畔にある彼の「生まれた村は小さな町くらいの戸数と人口を有していた」といいますが、「明治34年の冬であったか火災にあって全戸数のほとんどを焼燼して、今は(1926年当時)わずかに15、6軒しか残っていない」といいます。現在では、一般民家に吸収されて、その存在は消滅していますが、栃木重吉は、昔の記憶をたどりながら、このように語ります。

「この俺の生まれた町、昔はどんな社会的待遇をうけていたか、老翁の語り草を思い出してみる。この村の一角には獄屋があった。そこへは村人はたいがい番卒として働いていた。・・・大仏城主の板倉様からは不浄役を仰せつけられ祿米をいただいていた・・・。浪人どもは時おりこの村へ足を入れた。そのたびごとに村人に手習いや読み物などを教授してもらった・・・。(穢多村に出入りしていた浪人や武士の中には)この村に一生を過ごした者もある」。

栃木重吉は、幼き日に聞いた古老の話を、振り絞るように思い出すのですが、そのかすかな記憶の中にも、穢多村の子どもたちが読み書きを学んだ様子が語り伝えられているのです。

幕府が、「穢多」の名を持って統一した、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての穢多は、当時の社会の知識階級を形成していた下級武士と同様、高度な知識と教養を身につけていたものと思われます。

筆者が集会に参加していた被差別部落の「解放学級」の参加者は、現在50未満のメンバーの大半は、「学歴」の持ち主です。大学・短大の出身者で、公立小・中・高校の教師をされている方も少なからず存在します。

筆者は、「無学歴」・・・。父親の倒産を契機として、貧困と病気にさいなまれた私は、青春時代の貴重なときを家族を支えるためにそのほとんどを費やしてしまいました。ただの百姓の末裔であり、貧乏人でしかない親を持つ私には、「学歴」を持つ機会はあたえられませんでした。

筆者は、ときどき思っていたのですが、被差別部落の人々は、せっかく、身につけた高学歴を、なぜ、被差別部落の歴史を解明し、ほんとうの差別なき社会を作るために労しないのだろうか・・・、と。部落差別から逃亡に逃亡を重ねて、何の問題解決ができるのか・・・。

33年間15兆円という、膨大な時間と費用をかけて実施された同和対策事業や同和教育。それが、国家の施策で終了のときを迎えたとき、多くの部落解放運動に参加した人々が、その前線から撤退していったと風の噂で聞いています。

公共事業の見直し論議が盛んになり、その関係者が逮捕され、裁判にかけられる事例が多発する今日、かっての同和対策事業や同和教育にまつわる不正の摘発・逮捕・裁判という事例に遭遇するのを恐れて、身を引いていっている当事者も多いそうですが、今日、同和問題にかかわり、その運動に参加するというのは、廃墟と化したレジャーランドにたたずんで、在りし日の姿を想起するのと同じことなのでしょうか・・・。

筆者をして、この『部落学序説』を執筆させているのは、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の語っていた言葉にあります。

「私たちの先祖は、江戸時代三百年間に渡って武士でした。しかし、明治の御代になって差別されるようになりました。差別されるようになって、たかだか百年に過ぎません」。

33年間15兆円という、膨大な時間と費用をかけて実施された同和対策事業や同和教育の恩恵にあずかりながら、「差別」と対峙することなく、「被差別」から、ただひたすら逃亡を続ける人々と違って、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老は、未指定地区住民として、いっさいの融和事業や同和事業の恩恵に浴することなく、先祖伝来の歴史を胸に秘めて、その歴史を継承して生きていっている、古文書や古地図に「穢多」とラベリングされながられも、先祖伝来の大地に根を張り、その末裔として生き抜いているさま、筆者をして『部落学序説』執筆へと駆り立てるのは、そのたったひとつの出会いなのです。

その出会いがなければ、筆者の部落問題についての理解は、最も良心的な概説書である小森哲郎著『部落問題要論』の域を一歩もでなかったでしょう。

山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老との出会いが、差別・被差別の壁を突破させて、穢多の末裔として、穢多の歴史の忘却の時代に身をおいた栃木重吉が、自己の存在理由を求めて苦悩した日々、歴史学者の柴田一が、歴史研究者として通説を越えて史料と格闘した日々、それらの日々を越えて、近世幕藩体制下の司法・警察としての「非常民」であった「穢多」のほんとうの姿を見せてくれたのです。

この文章の最初の方で紹介した中山英一の証言を、何のためらいもなく、真実としてうけとめることができるのは、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老との出会いが引き起こした衝撃に由来します。

『渋染一揆論』の著者・柴田一に最大の敬意をはらいながらも、その著作の重要な史料である大西豊五郎稿『禁服訴歎難訴記』に直接目を通してみましょう。

筆者が使用するテキストは、『差別の諸相』(岩波・日本近代思想大系)に収録された『禁服訴歎難訴記』です。柴田一著『渋染一揆論』に添付された『禁服訴歎難訴記』と違って、『差別の諸相』に収録された『禁服訴歎難訴記』には、ひろたまさきによる、本文の漢字の読みと重要な語句に対する解釈上の注が施されています。また、ひろたまさきによる「本文批評」も加味されています。

筆者は、当然、これまでこの『部落学序説』で論じてきた「非常民」の学としての部落学を前提にして、この『禁服訴歎難訴記』を解釈していきます。
 


「素人考え」による批判

2005年09月02日 | 第3章 「穢多」の定義

【第3章】穢多の定義
【第9節】誤解された渋染一揆
【第1項】「素人考え」による批判



筆者は、学歴も資格も持ち合わせてはいません。歴史学だけでなく、社会学・地理学、宗教学、民俗学、法学、政治学 、言語学・・・等、「部落学」構築に必要なすべての個別科学について、まったくの素人です。

素人の考えを、昔から、「素人考え」といいますが、筆者の知人の中には、このブログ上で書き下ろしている『部落学 序説』が、専門家によって完膚無きまでに徹底的に批判されることを期待している人もいます。今か今かと待っておられるのですが、なぜか、どこからも批判は出てきません。

彼はいいます。「専門家は、様子を見ているに違いない。おりをみて、総反撃をしてくるに違いない・・・」。

この『部落学序説』にどのような評価が下されるのかは、筆者も予測の範囲外のことがらです。

部落研究・部落問題研究・部落史研究の研究者の論文や書籍を一方的に批判しているのですから、当然、批判している研究者から、逆に批判されるということは当然なことです。

しかし、『部落学序説』の「序文」中に出てくる「研究者」のように、「学歴のない人と論争はしない」という姿勢を貫く人も多いでしょうから、筆者の予測では、このままの形で推移するのではないかと思います。

筆者は、学歴も資格も持ち合わせていませんが、学歴や資格を無視しているわけではありません。部落研究・部落問題研究・部落史研究の研究者の論文や書籍を人一倍丁寧に読んで、そこから多くのことを学んでいるという点では、他の人々に遅れをとることはないと思っています。

優れた研究者は、研究に携わるものに対する励ましと希望をも語ります。『法と訴訟中世を考える』の著者・笠松宏至もそのひとりです。彼は、「素人考え」について、このように語ります。

「自ら使えば奥床しい謙辞になるが、ひと樣を対象にすれば、間違いなく侮辱語の一種になる。どちらにしてもその道の玄人でない者がもつ偏見もしくは皮相の見方をしている。しかし、発想の主体が単に「素人」であることのみをもって、玄人の側からそれを一概に無視したり侮ることのできないのは、文学や芸術などに限らない。学問、とくに人文科学、とくに歴史学などという、わからないのが当たり前の大昔のことをも対象とする分野では、その感がひとしお深い。そしてそれが玄人が手を染めていなかった未開の領域に対する提言であったり、疑いもせず思い込まれていた常識への疑問であったとき、そのもつ衝撃度はさらに強い」。

筆者の『部落学序説』は、笠松がいう、「疑いもせず思い込まれていた常識への疑問」でもあります。日本の歴史学に内在する「賤民史観」という「疑いもせず思い込まれていた常識」に対して、筆者は、その「賤民史観」は、歴史学上の差別思想で、そのもとになされた「部落史」研究法によっては、「部落史」の歴史的真実にたどりつくことができないのではないかという疑問を提示しているのです。

筆者が、ときどき、「素人考え」と言われて失笑を買うことがあります。それは、安芸の農民の間に伝えられてきたという「ことわざ」に関するものです。

筆者がまだ20代のとき、当時、東京都町田市の鶴川公民館の館長をされていた浪江虔というひとから聞いた話を、そのまま語り伝えているからです。

浪江虔という人は、戦前、鶴川の地で、農民運動をしていた人です。自由民権運動の研究家でもあったのですが、彼が、講演の中で、「昔、安芸の農民たちの間で、語り伝えられたことわざ」として紹介した、<きりうなぎ、ざるどじょう、たるへび>という言葉です。

浪江によると、近世幕藩体制下の安芸の農民が、「自分たちは、藩権力によって、このように管理されてきた・・・」と、反省と新たな闘いの決意を込めて、語った言葉が、<きりうなぎ、ざるどじょう、たるへび>であるというのです。

この言葉は、藩権力が、農民一揆を潰すときの手法を語り伝えているのです。

【きりうなぎ】

「きりうなぎ」というのは、こういう意味です。うなぎは、素手で取り押さえようと思っても、からだがヌルヌルしていてなかなか思うように捕まえることができません。しかし、うなぎをまな板の上で料理をするときの光景を思い起こせばわかりますが、錐で、うなぎの頭を、まな板につきさせば、うなぎはその動きをとめてしまいます。安芸の農民は、自分たちの農民一揆は、藩権力によって「きりうなぎ」のように潰されてしまった。農民一揆を成功させるためには、藩権力から「うなぎの頭」を守らなければならない・・・、ということを悟ったというのです。

【ざるどじょう】

「ざるどじょう」についてはこうです。どじょうというのは、水の中にいるときは自由に泳ぎ回ります。管理しようがありません。しかし、網で捕らえて、同じような大きさのどじょうをひとつのざるに入れると、どじょうは、急に動きをやめておとなしくなってしまいます。安芸の農民は、自分たちの農民一揆は、いろいろな考えを包みきれないで、異なる考えを排除していくときに、藩権力によって潰された。農民一揆を成功させるためには、「同志」だけでなく、幅広い民衆の支持が必要だ・・・と悟ったというのです。

【たるへび】

最後の「たるへび」というのは、農民一揆のとき、一揆の目的を忘れて、農民の間で指導者を誰にするかをめぐって、内部争いが生じるときがあります。そのとき、藩権力は、密かに介入して、農民の指導者群に、指導権争いをさせます。ちょうど、樽の中のへびの群れのように、誰かが指導者になろうとすると、他のものが足を引っ張ります。そして、また他の者が指導者になろうとすると、またまた他の者がその足を引っ張り、延々と、内部抗争に終始し、農民一揆は挫折に追いやられた。農民一揆を成功させるためには、極力内部抗争を警戒しなければならない・・・と、悟ったというのです。

浪江によると、この<きりうなぎ、ざるどじょう、たるへび>という安芸の農民の言葉は、近世幕藩体制下の藩権力によって、その農民がこのように支配され管理されていたという、絶望の響きを持った言葉ではなくて、百姓一揆を繰り返し経験することで、今度はもっと上手に百姓一揆を起こそうとした、農民の智恵、闘う姿勢を示したものであるというのです。

東京都町田市の鶴川公民館館長・浪江虔の、戦前戦後を通じて農民運動家として実践を積み重ねてきて、戦前においては、治安維持法違反で9カ月間も投獄を経験した人です。農民の、農民による、農民のための運動を実践した浪江の語る、この<きりうなぎ、ざるどじょう、たるへび>という言葉は強烈に響きました。

それ以来、ずっと、この<きりうなぎ、ざるどじょう、たるへび>を語り伝えているのですが、山口の地にきてから、ときどき、「素人はこれだから困る。安芸の農民は、<きりうなぎ、ざるどじょう、たるへび>と言ったのではなく、<きりかえる、ざるどじょう、たるへび>といったんだよ」と指摘されることがあります。

「きりうなぎ」が正しいのか、「きりかえる」がただしいのか、筆者は知りません。しかし、近世幕藩体制下の農民一揆、百姓一揆の記録を見ていると、「きりかえる」よりも「きりうなぎ」の方が史実に近いように思われます。藩権力は、農民一揆が起きた際には、その提唱者や首謀者となった農民の首をはねています。それは、残酷なまで徹底していました。

「きりかえる」というのは、かえるの鼻先に、錐をつきつければ、かえるは身動きができなくなるということを意味しているそうですが、近世幕藩体制下の農民は、武士から刀や槍をつきつけられたからといって、農民一揆や百姓一揆をやめるということはなかったと思われます。農民の側からの犠牲者を出しても、農民の側は、藩権力に対して、「天理人事に相背き候」と藩権力の不正を追及していったと思われるからです。

長州藩の記録によると、寛文3年(1663)夏、恋路村のふたりの少年が、旱魃の影響で、恋路村の稲が枯れかけていたのを見て、「宮野川の井出を切落とし、恋路村に水を引いた」といいます。そこで、恋路村と隣村との間で「水論」が激化します。自分たちのしたことで、両村が一発触発の事態におちいったとき、恋路村の2少年は、藩主に直訴して、藩主の力を借りて問題の解決を図ろうとするのです。その結果、2少年の訴えは藩によって裁可され、勝訴となるのですが、しかし2少年は「直訴の罪」により萩の大屋刑場で処刑されてしまいます。

三宅紹宣・佐藤省吾著《山口県百姓一揆総合年表》に、百姓一揆の事例として掲載されているところをみると、この恋路村の事件も、百姓一揆のひとつなのでしょう。藩は、「きりかえる」ではなく「きりうなぎ」の論理で、この2少年を無残にも処刑してしまうのです。

「素人考え」と言われようと、筆者は、<きりかえる、ざるどじょう、たるへび>ではなく、<きりうなぎ、ざるどじょう、たるへび>の方を語り伝えているのです。

三宅紹宣・佐藤省吾著《山口県百姓一揆総合年表》には、長州藩内で起こった百姓一揆の件数は90を越えるとあります。

『部落学序説(削除文書)』の中で触れた、そして、この『部落学序説』執筆の最大のきっかけとなった、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老が住んでいた地方で起きた慶長13年(1608)の百姓一揆は、「検地実施による増加に反対」して引き起こされたものですが、防長二カ国に幽閉された毛利・長州藩は、その強訴を認めず、「指導者の庄屋10人、百姓1人を引地峠で」首をはね、処刑してしまいます。

長州藩は、その地方を、「本藩別業の地」として、近世幕藩体制下全期間に渡って、その他の地方とは異なる処遇を実施します。その地方全体が、長州藩によって、現代的な言い方をすれば、「被差別」の状況に置かれたのではないかと思われます。

『民衆運動の思想』(岩波・日本思想大系)の末尾の論文の中に、安丸良夫著《民衆運動の思想》がありますが、安丸は、元文3年(1738)の磐城国平藩の一揆をとりあげています。

安丸によると、一揆の多くは、突発的に発生したのではなく、「組織性」と「規律性」の下で実施されたといいます。

組織性については、村内に臨時の「指導部」を設置して、家1軒につき1人を限度として一揆に参加させます。徴集された百姓は、「百人を一組として・・・鉄砲になれたる者拾人宛添へ置く」ことが指示されたといいます。一揆に参加する百姓は、怪我を防ぐために、戦闘用の蓑・頭巾で身を固め、五日間の水と兵糧米を用意して餓死対策をたて、「長い伝統と経験のうえにたった民衆の叡知が発揮されており、こうした叡知に支えられて一揆は闘われたのである」といいます。

百姓は、「村八分」をたてに、「庄屋をも騒動に強制参加させた」といいます。
『民衆運動の思想』に収録されている史料の伝える百姓と、百姓一揆にまつわるその姿は、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」が語り伝えるところのものと大きくかけ離れているように思われます。「賤民史観」は、百姓を「愚民論」の立場から描きます。

武士の末裔でもなく、穢多・非人の末裔でもない、ただの百姓・農民の末裔でしかない筆者は、当然、近世幕藩体制下の百姓の生き方、ものの見方や考え方を踏襲しようとします。

「百姓一揆」をそのように把握しますと、備前藩の「渋染一揆」は、「百姓一揆」とは似てもにつかぬものでした。筆者は、それどころか、「渋染一揆」は、「一揆」ですらなかったのではないかと考えています。「渋染一揆」には、「天理人事に相背き候」という百姓一揆の理念は、どこにも見いだすことができないからです。

筆者は、前掲の《山口県百姓一揆総合年表》を読む都度、思うのですが、歴史の流れの中で、近世から近代へと移っていきますが、それは、日本歴史学の時代区分のように、ある日、ある時、突然と古い時代が去って新しい時代が来るというものではないと思っています。古き時代の中に、新しい時代の息吹が注がれ、新しい時代の中に古き時代の風情が残り、古い時代と新しい時代は、2色のグラデーションのように、徐々に古き時代から新しい時代へと変化していくものだと考えています。

百姓一揆の歴史を見れば、そのことがよくわかります。

筆者は、「渋染一揆」は、近世幕藩体制下で起きた事件ですが、その「渋染一揆」は、古い時代の中にありながら、新しい時代の息吹が注ぎ込まれていた時代のできごとであると考えています。

「渋染一揆」を、過ぎ去り行く古き時代の「身分差別強化政策」、「無紋渋染・藍染の強制」、その強制に対する抵抗、としてのみとらえると(『部落解放史』解放出版社)、私たちは、「渋染一揆」の歴史上の本質を限りなく見失ってしまいます。明治維新ではじまる新しい時代の到来の12年前に発生した「渋染一揆」の中に、古い時代の精神と新しい時代の制度との間の葛藤が存在しているのです。その「葛藤」を正しく理解しないかぎり、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」によって引き起こされた「渋染一揆」の本質は、誤解されたままになります。


法の番人としての穢多

2005年09月02日 | 第3章 「穢多」の定義

【第3章】穢多の定義
【第8節】穢多と法的逸脱
【第4項】法の番人としての穢多



『部落学序説』の書き下ろしをはじめた日、筆者のこころの中にあったのは、『部落学序説』を新書版1冊程度にまとめることでした。

しかし、十分な説明をするためには、その枠を固守することはできず、次第に文書量が増えてしまいました。すでに、新書版3冊程度の長さです。そして、やっと3章の終りに近づきつつあります。

当初、1章から3章までを、近世幕藩体制下の「穢多」の解明にあて、それを前提にして、4章から6章まで、明治以降の「旧穢多」のたどった歴史を明らかにするつもりでいました。その論文の章立てを変更する予定はなかったのですが、結果からみると、かなり章・節・項の配置を変更したようです。

第1章 部落学の研究対象
第2章 部落学の研究方法
第3章 穢多の定義

第3章においては、「穢多」の属性を明らかにするために、多方面に渡って、話題を展開してきました。筆者の得意とする分野もあれば、逆に苦手とする分野もありましたが、できる限り、多角的な視点から、穢多の属性を検証してきました。

そして、この『部落学序説』が提唱する、「非常民」の学としての部落学を構築する過程において、従来の部落研究・部落問題研究・部落史研究の、未解決の問題にかなり光をあて、その問題の解明に貢献してきたのではないかと思います。

「穢多・非人」に関する考察は、従来の部落史研究者が、暗黙の前提として受け入れ、継承してきた「賤民史観」を放棄しても、部落史研究そのものに大きな影響はないことも明らかになったと思われます。

むしろ、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」に固守すればするほど、部落史研究は、部落差別完全解消という科学の社会的課題から遠ざかってしまいます。それどころか、差別の拡大再生産という「差別行為」に連座するようになってしまいます。

第3章を閉じるにあたって、書き残してきたことについて2、3触れておかなければなりません。「穢多」概念の定義は、「外延」と「内包」を明らかにすることによって達成されます。「穢多」が身分概念であるため、その「内包」は、必然的に「役務」と「家職」の両属性をともないます。

しかし、この第3章では、外延と内包の一部「役務」のみを取り上げ、「家職」の方は直接とりあげることはしませんでした。

最近の部落研究・部落問題研究・部落史研究は、どちらかいうと、政治起源説から文化起源説に移行していくような傾向があります。

『身分差別社会の真実』(斉藤洋一・大石慎三郎著、講談社現代新書)にこのような言葉があります。

「これまでは、部落差別は政治権力がつくったものとする見方が有力だったが、そのように考えているかぎり差別をなくすことはできないのではないか。差別は、私たちみんなでつくり、維持してきた、いいかえれば私たち一人ひとりの問題としてとらえ、なくしていこうとしないかぎり、差別をなくすことはできないのではないか・・・」。

筆者は、斉藤・大石両者に、異を唱えざるを得ません。「部落差別は政治権力がつくったもの」という歴史的な事実は、今日に至るも、歴然とわれわれの前に存在しているからです。「部落差別は政治権力がつくったもの」という政治起源説的な考え方が、部落差別完全解消につながらなかったというのは、ひとえに部落史研究者の歴史学的方法論が間違っていたためではないかと筆者は考えています。

筆者は、文化起源説に逃げることなく、政治起源説に踏みとどまって、この『部落学序説』を執筆しているのです。しかし、筆者は、文化起源説に立っている学者や研究者が、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の「家職」に関する研究分野で多大な貢献をしてきたことを知らないわけではありません。「穢多・非人」の「家職」は、同じ下級武士の「家職」とくらべて、その職分の範囲は広く専門的で、決して、下級武士の太刀打ちできる類のものではありません。「非常民」としての「御役」を割り当てられなかった「穢多・非人」は、家の経済的安定のため様々な「家職」に従事したものと思われます。それはそれで解明する必要があります。

しかし、「穢多・非人」が「穢多・非人」であるのは、その「家職」というより、その「役務」にあります。この『部落学序説』では、「家職」ではなく、「役務」に集中して、「穢多」とは何であったかを解明してきました。

明治政府は、明治4年の太政官布告で、穢多等の「身分・職業」の封建的拘束を解きます。この表現は非常に微妙なニュアンスをうちに秘めています。「身分・職業」は自由、しかし、「身分・役務」はどうなったのでしょうか。「穢多」の「家職」から自由になっても、「穢多」の「役務」からの自由は保証されなかったのではないか・・・、筆者にはそのように思われるのです。「穢多」の「家職」については、『部落学序説』後半(第4章)で、要点のみとりあげることにします。

そして、言い残していることに、「渋染一揆」と「百姓一揆」の問題があります。どちらも「一揆」という表現が用いられていますが、筆者は、「渋染一揆」は、一揆ではないと考えています。なぜなら、「百姓一揆」が、鍬や鋤を持って示威行動・破壊活動に走るのにくらべて、通称「渋染一揆」は、一揆に必然的にともなう示威行動・破壊活動はともないませんでした。その違いは、どこから出てきたのか・・・。

筆者は、「穢多」が、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」であったためであると考えています。「常民」である百姓の一揆の矛先が藩権力である、藩の軍事・警察である「非常民」であるのに比して、「渋染一揆」のそれは、「非常民」による「非常民」に対する嘆願という形式を貫いています。

筆者は、そのことが、「渋染一揆」の問題を誤認させる大きな原因になっていると考えています。

「渋染一揆」とは何だったのか。

歴史学者のその問いに対して提示する答えは、実に、漠然としたものです。『部落の歴史と解放理論』の著者・井上清は、「渋染一揆」の背景について、「部落民の生活が農民化しつつあること」を強調します。しかし、「渋染一揆」の中に、「非常民」の「常民」化の傾向はないように思われます。むしろ、「渋染一揆」は、井上の期待するところと大きく違って、「非常民」が「非常民」であるための、「穢多」が「穢多」でありつづけるためのたたかいではなかったかと考えています。「渋染一揆」は、「穢多」の例外的な法的逸脱であると思われます。

『部落史の見方考え方』の著者・寺木伸明は、「渋染一揆-差別に対する怒りと闘い」と表現しますが、寺木だけでなく、「渋染一揆」を「身分差別強化政策」の抵抗としてとらえる研究者や教育者は多いのです。その理由に、「部落民の衣服を特定のものに固定することによって、一見すれば被差別身分であることを判然とさせ」ることをとりあげます(『部落解放史』解放出版社)。

被差別身分であることを判然とさせる・・・。

何故に・・・。

多くの部落史研究者や教育者は、この問いに対して何の答えも発していないのです。

『部落学序説』第3章の最後、9節で、「渋染一揆と百姓一揆」を取り上げたいと思います。『部落学序説』前半の近世から、『部落学序説』後半の近代・現代に入っていきたいと思います。「渋染一揆」は、近世と近代・現代のはざ間で起きた、いわば時代の流れの分水嶺にあたります。

『部落学序説』後半は以下のように展開されます。

第4章 解放令批判
第5章 水平社宣言批判
第6章 同対審答申批判

今後とも、ブログ『部落学序説』、ご愛読のほど、よろしくお願い申し上げます。筆者・吉田向学。
 


穢多と法的逸脱

2005年09月02日 | 第3章 「穢多」の定義

【第3章】穢多の定義
【第8節】穢多と法的逸脱
【第3項】穢多と法的逸脱



宝永・正徳・享保年間において、近世幕藩体制下の司法・警察制度は、完成の域に達します。

幕府は、江戸幕府開闢以来、「法度の名を冠する幕府の制定法」を頻発します。『世界法史概説』の著者・田中周友は 、江戸時代を、法制史上の「後期武家法時代」とします。さらに、その時代を前期と後期に分けて、「江戸時代前期」 「江戸時代後期」に分類し、「江戸時代前期」を「法度時代」と呼びます。

「武家諸法度」・「禁中並公家諸法度」・「寺院法度」が制定され、近世幕藩体制の枠組みが確定されていきます。

幕府の指示で、諸藩も、それに対応した法令を作成していきます。長州藩を例にとっても、膨大な法の累積がなされます。万治3年(1660)には、領主法である『万治制法』が制定されます。この『万治制法』は、「藩主の命令という形式の禁令」であるが、内容は、詳細な法の体系ではなく、「政治上の大綱的規律や禁令」であったといいます。

全国の諸藩は、それぞれの地域性や歴史を考慮して、藩独自の「家中諸法度定」や百姓町人統制令を頻発します。多くの場合は、箇条書きで、より具体的に法の内容が記載されます。

しかし、法は制定するだけでは、実効あるものにはなりません。幕府や藩は、「御触書」という名の啓蒙書を発行して、「常民」・「非常民」に、諸法度の遵守を訴えます。

『百姓の江戸時代』(ちくま新書)の著者・田中圭一は、「御触書」が法であるという一般説を否定します。その理由として、「御触書」に違反しても、それを根拠に「罰せられたあとはない」というのです。田中によると、「御触書」は、「日常生活についての道徳」、「凶作・不作に対処するための方策」でしかなかっと主張します。「支配者の教条的な正論だけを並べ立てた「道徳の教科書に過ぎない」。歴史学者の「御触書」に関する見解は、「歴史学者の作文」に過ぎないと手厳しく批判します。

田中は、「本書では、これまでの権力の側からの史観を覆し、当時の庶民である百姓の視点から江戸時代の歴史をよみなおす。」といいますが、筆者は、そこまで言い切ることはできません。

「御触書」に違反すると、「御触書」を根拠に処罰されることはないとしても、「御触書」が遵守を求めている「法度」を根拠に処罰されることは多分にあります。「御触書」の背後に、実体法としての「法度」が存在する限り、田中の説のように、百姓にとっての「御触書」を無効化することは無理があるように思われます。

幕府や藩によって累積されていったのは、「法度」だけでなく、その「法度」を法の淵源として適用された判例集もありました。近世幕藩体制下の訴訟法である「公事方御定書」と、判例集である「御仕置例書」、「御仕置例類集」も作成されていきました。「それらは、すべて奉行諸役人のための心得ないし準則だった」(大木雅夫著『日本人の法観念』)といいます。

この訴訟法や判例集が、「他見あるべからざる」として極秘扱いされたことで、近世幕藩体制下の絶対専制主義を示す「よらしむべし、知らしむべからず」というようなことが主張されるようになりました。

大木は、「御定書等は裁判役人のための準則なのであるから、それらを名宛人以外の民衆に公布しなかったとしても、それをもって直ちに幕藩体制下の法の基調を東洋的専制主義とみることは、はなはだしくイデオロギー過剰な解釈というべきであり、日本法の性格を著しく歪めて描き出すことになろう。」と指摘します。

法制史上の「江戸時代前期」で集積された法は、「江戸時代後期」に成文法として編纂されていきます。法の淵源の確定と整備だけでなく、司法・警察制度も、より確固たるものに改革されていきます。

「江戸時代前期」「江戸時代後期」は、『世界法史概説』の田中周友によると、「公事方御定書」が制定された寛保2年(1742)によって時代区分されます。

しかし、時代というのは、「江戸時代後期」は、1742年をもって突然とやってくるのではなく、「江戸時代前期」「江戸時代後期」の間には、過渡的な時代が存在します。ひとつの時代の終りは、もうひとつの時代のはじまりとオーバーラップしているのが普通です。私は、「江戸時代前期」「江戸時代後期」が重複した時代は、正徳・享保年間ではないかと思っています。

正徳・享保年間には、幕府の重要な禁令である「キリシタン禁教」にとって、深刻な事態が発生します。「穢多とキリシタン」のところですでにとりあげたように、日本へのキリスト教再布教を目的として、イタリアの宣教師、ヨハン・シロウテが日本に潜入してくるのです。従来の宣教師と違って、日本人の姿で、武士の装いで潜入してくるのです。

幕府は、新井白石による取調べを通じて、日本が欧米諸国からどのように認識されているかを知らされ、再度、キリシタン禁教と鎖国の意志を確認していきます。そして、近世幕藩体制下の司法・警察制度の整備・拡充と、キリシタンに対する「宗教警察」、浪人に対する「公安警察」機能を強化していきます。宗門人別帳の整備や宗門改め制度の強化をはかります。

徳川8代将軍・吉宗は、「をしへざるを罪するこそなげかしけれ」と言って、「法令の周知徹底をはかった」といいます。大木は、吉宗の法政策は、「罪刑法定主義」を背景にしているといいます。

大木は、「それどころか吉宗は、百姓どもに法度を守るよう申し聞かせるだけでは足りないとして、手習いの師匠に命じ、法度書や五人組帳などを教材にさせている。それが、どれだけ効果を挙げたかは分からないが、ここまでして、かれは法令を知らしめようとしたのである。」といいます。

「法に定めなき罪は裁かれない」という吉宗の政策は、「江戸時代後期」の法システムに大きな影響を与えたのではないかと思います。

筆者は、正徳・享保年間は、法制史上の「江戸時代後期」に加えてもいいのではないと思っています。「江戸時代前期」の法システムの改革こそ、「江戸時代後期」のはじまりのしるしであるからです。

正徳・享保年間においては、法の整備だけでなく、司法・警察制度も改革されていきます。司法・警察制度は、近世幕藩体制下の「専門職」として、「名誉職」的存在が排除されていきます。そして、「専門職」たる、司法・警察に携わる役職については、「職権の乱用」や「賄賂」が司法・警察の「信用を失墜させるもの」として厳しく糾弾されていきます。

吉宗は、「公事上聴」として、「江戸場内における三奉行の裁判に臨席した」といいます。「久しく惰眠を貪っていた評定衆に強烈な刺激をあたえた」といいます。

法制史上の「江戸時代前期」から「江戸時代後期」への過渡期において、実施された、法の整備と法制度の整備、改革は、幕府においてだけでなく、諸藩においても実施されます。

唯一、将軍に直結する宗教奉行の管理強化によって、全国津々浦々に配置されていた、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「同心・目明し・穢多・非人」に対する規制強化も現実のものになっていきます。

この時期、「穢多・非人」に対しても、司法・警察としての、「非常民」としての規制が強化されていくのです。

『新修広島市史』によると、「藩内全般にわたる倹約令が出され、身分規制を細かく厳しくし・・・支配体制を強化する体制が固められていった」(橋本敬一著《芸備の被差別部落》)のですが、「藩権力は、革田身分の人々に対しても風俗規制を行ない、差別政策を顕在化する政策を法的にも明確にしたのである」(橋本)という指摘は、幕府がすすめてきた、正徳・享保年間における法整備や法制度の改革の流れをまったく無視した、「賤民史観」に立つ偏見でしかないと思われます。

身分規制は、差別規制なのか、それとも職務規制なのか、倹約令の条文をみればわかります。

「革田共近年風俗分過ニ相成、在家ニマキレ候様成ル体仕、衣類等不相応ニ有之、甚不届之儀ニ候、依之自今之義相定候」

広島藩は、ここで、「常民」と「非常民」の区別を明確にすることを命じているように思われます。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」が「非常民」として存在するのではなく、「常民」と同様の体をするときは、社会の治安に重大な影響をもたらすので、「非常民」は「非常民」身分に相応しい「風俗」(衣食住)につとめ、「常民」から批難を買うようなことをしてはならないという法令ではないかと思います。

次の条文、「向後ちゃセン髪ニ可仕事」という言葉は、男性の「穢多」に対する、近世・幕藩体制下の司法・警察に相応しい髪型の強制であると思われます。非常時に際して、凶悪や強盗団逮捕に対して、夜目にも識別可能な髪型ではなかったかと思われます。「取り締まる側」と「取り締まられる側」の明確な区別の必要性から、そのような規制がなされたと思います。

幕末の「非常時」に際しては、武士も、「茶筅髪」にしたと言われています。軽快に身を処することができるようにするためでしょう。

しかし、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」は、この条文を「差別法令」として解釈します。
「刑罪者有之節、其外科人之儀ニ付罷出ル格式之義者格別、常々者刀指候義無用ニ可仕事」という条文は、広島藩内で起こった「享保の一揆」(1718年)の事後対策としてだけではなく、幕府によって指示された、近世幕藩体制下の司法・警察機能の強化とも連動していたと思われます。

広島藩の「穢多」(革田)は、「非常時」には、帯刀を許可されていたのです。しかし、広島藩は、「非常時」ではないときは、「穢多」に帯刀を禁止しています。その際の「穢多」の主な捕亡具は、「鉄刀」である十手や六尺棒ということになります。

そのあとに続く条文も、ほとんどが、近世幕藩体制下の司法・警察である、「穢多」に対する職務遂行上の規制であると言えます。

近世幕藩体制下の司法・警察に関する制度の改革の流れを把握しようとしない、「賤民史観」に立つ部落史研究者は、歴史の流れの中から、この条文のみを観念的に抽出して、「差別法令」・「差別政策」とするのです。

「穢多」(革田)の職務に対する規制強化は、「穢多」だけでなく、同じ、近世幕藩体制下の司法・警察という「非常民」であった、下級武士や村役人に対してもそれ相応に適用されているのです。

「賤民」に関する統制(『部落解放史』解放出版社)ではなく、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多・非人」に関する規制なのです。

穢多に関する「御仕置帳」は、司法・警察である「穢多・非人」の職務遂行上の規律違反と、百姓等と共通して守るべき一般法に対する違反を記したものです。それは、決して、「穢多・非人」に対する差別事例として記録されたものではありません。

元山口県立文書館の布引俊雄は、「穢多・非人」に関する「御仕置」を、「穢多・非人」に対する差別文書として把握しますが、大いなる誤解、否、悪しき改竄であるといえましょう。

『警察学入門』(アスペクト)は、「警察官平成不祥事年表」の中で、現職警察官の法的逸脱例を列挙しています。
「巡査部長・・・盗む」。「巡査・・・万引き」。「警察官酒酔い運転」。「(公道でOLにだきついた)ハレンチ警部」。「殺人警官」。「女子高生襲撃警官」。「下着泥棒警部捕」。「県警買春警官」。「ひったくり機動隊員」。「巡査部長売春接待」。「乗り逃げ巡査部長」。「調書捏造」。「スリ警部」。「銀行恐喝警官」。「犯歴データ遺漏」。「収賄刑事」。「いたずら爆弾警官」。「拳銃行方不明」。「マンション侵入警官」。「暴力警官」。「裏取引」。「飲酒運転人身事故」。「留置人の現金着服」。「ひき逃げ警官」。「賭博警官」。「巡査部長婦女暴行」。「わいせつ警官」。「反則切符偽造」。「詐欺恐喝警官」。「夫婦喧嘩暴れ警官」。「わいせつパトカー」・・・。まだまだ、延々と続きます。

「穢多・非人」に対する「御仕置」というのは、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多・非人」の職務違反、服務規定違反、一般犯罪違反を集めて記録したものです。元山口県立文書館の布引俊雄は、これらの「御仕置」を、「賤民」身分が受けた「差別」として解釈(曲解)するのです。

「穢多・非人」に対する御仕置きは、彼等が、司法・警察官としての職務に違反したが故に課せられた「刑罰」であって、決して「差別」ではないのです。

元山口県立文書館の布引俊雄によって、山口県の領域の外へと発信された「穢多・非人」に関する情報は、彼独特の「フィルター」にかけられたあとの、史実とはほど遠い、改竄された情報でしかないのです。

長州藩に記録された、近世司法・警察の「不祥事」は、現代ほど多くはありません。恐らく、近世幕藩体制下の社会的治安は、現代以上に安定していたのでしょう。近世幕藩体制下の司法・警察官が、「非常民」と「常民」の区別を忘れてしまうほどに・・・。幕府も藩も、おりにふれて、同心・目明し・穢多・非人に対して、その区別を厳守して、「非常民」としての職務に徹底するようにお触れをださなければならなかったようです。

現代の司法・警察とくらべて、近世の司法・警察の「御仕置き」事例が少ないのは、彼等が犯罪を犯したあとの処遇の違いによります。

石井良助著『江戸の刑罰』に、司法・警察である「穢多」が犯罪を犯して入牢された場合、牢名主(犯罪者)による残酷な処遇が待っていることを伝えています。その残酷さは、言葉として紹介することはできません。関心がある方は、『江戸の刑罰』(中公新書・126頁)をご覧ください。

近世・近代・現代に関わらず、司法・警察に関与するもののうち、犯罪にはしるものは、極めて例外的な存在です。それをとらえて、「差別」と強弁するのは、歴史学者としての、実証史研究者としての良心を棄てて、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」に身をゆだねたときのみです。

多くの「穢多・非人」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として、自覚と責任を持って職務にあたっていた人々です。今日の日本人の多くが、その言葉すら記憶にない、キリシタン弾圧のための「宗教警察」という役務を含んでいましたが、その当時にあっては、当然のこととしてその職務を遂行していました。

以前紹介した、元山口県立文書館研究員の北川健が発掘した、長州藩の「穢多村」に伝わる伝承を再掲しましょう。

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺弐分の棒構ひ
旅人強盗せいとふ(制道)し
高佐郷中貫取

「非常民」であることを高らかに歌う高佐郷の「穢多」たちの姿に、「被差別」の翳りはありません。
 


近世法と穢多

2005年09月02日 | 第3章 「穢多」の定義

【第3章】穢多の定義
【第8節】穢多と法的逸脱
【第2項】近世法と穢多



明治以降、日本は様々な分野で「近代化」を指向してきました。その「近代化」は、往々にして、日本古来の政治・文化を棄てて、欧米諸国の政治・文化の模倣を引き起こしました。模倣を繰り返している間に、日本古来の政治・文化に関する知識は忘却のかなたに追いやられてしまいました。忘却されないまでも、「欧米化」された政治・文化の輝きの中で、昼間のたき火の炎のように、極めて存在感の薄いものにされてしまいました。

明治以降の社会の中で、忘れられていった古き時代の政治・文化の美風は、近代化・欧米化に彩られた学者の批判によって、否定されるか、歪曲・萎縮され、今日、通説という「歪んだ形」(大木雅夫)をとることを余儀なくされたものが少なくありません。

『部落学序説』に「「非常民」の学としての部落学構築を目指して」という副題をつけた筆者は、部落差別も、日本固有の司法・警察制度が否定され、明治以降の近代司法・警察が構築される中で、否定・歪曲・萎縮され、本来の「穢多」とは似ても似つかぬものにされた結果であると考えています。

部落差別完全解消につながる希望は、明治以降の学者によって、否定・歪曲・萎縮される以前の本来の「穢多」の姿を取り戻すことによって手にいれることができると信じています。

『日本人の法観念西洋的法観念との比較』の著者・大木雅夫は、「法史学」の分野で、同じことを主張しています。

大木は、「近代化を西洋化と同義のものと心得て専心西洋に追従する路線」に沿って日本の法史学が研究されてきた結果、「われわれ自身の日本法ですら西洋法学のレンズを通して研究されなければならなかった」と指摘しています。「そしてとりわけ日本法史はその盲点をなし、少数の専門家以外の日本の法学者たちにとって、外国法継受以前の固有法は、ほとんど忘却の彼方に押しやられたといってよい。」といいます。

大木は、さらに、「文化は連続的に発展するものでありながら、日本法文化を論ずる際に日本固有法を無視してよいとする奇妙な習癖の結果として、われわれの間に行われていた「通説」は、かなり歪んだ形をとっていたといわざるをえないのではなかろうか。」といいます。

大木は、「あとがき」で、「われわれ日本人は、われわれ自身の日本法を知ることの難しさを思わせられる」といいますが、筆者は、「日本法」だけでなく、その「日本法」の法の執行者であった、「同心・目明し・穢多・非人」という、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」についても、同じことを感じざるをえないのです。

「本書の主題は、早くからわたくしの脳裏に去来していた。そしてこれほど先人に多く教えられながら、これほどわたくしを混迷の淵に押し沈めたテーマはない。通説が晦渋で曖昧だったからではない。むしろそれがあまりにも明快で、揺るぎなく確立されていたからである・・・。」

大木が、『日本人の法観念西洋的法観念との比較』執筆に際して直面した様々な事象は、『部落学序説「非常民」の学としての部落学構築を目指して』の執筆を指向している筆者にとっては、かけがえのない先駆者でした。民俗学の分野では柳田国男、小説・歴史の分野では島崎藤村、法学の分野では大木雅夫・・・、学歴も資格もない、「無学なただのひと」でしかない筆者にとって、彼等は、尊敬すべき師でした。そして、今も・・・。
通説に反する研究は、「はかり難く困難なものであるだけに、今後各方面から種々の視点に立って、さまざまの方法を用いて解明されるべきもの」なのですが、最初に通説を覆そうとするものは、ひとりで、その作業を遂行しなければなりません。

大木は、ヨンパルト教授の言葉を引用してこのようにいいます。「「学問とは、箱のようなものである。われわれは、箱の外側をよく知っているが、その中身は知らない。それを開ける試みに成功しても、内にはまだ中身のわからない箱が入っている。」・・・そして、一つの鍵で全部の箱が開けられないことも、わたしはよく知っている」。

箱の中に箱、またその箱の中に箱、またまた箱の中に箱・・・。筆者の、『部落学序説』が、章・節・項毎に、「種々の視点に立って、さまざまの方法を用いて解明」しようとしているのは、『部落学序説』の提唱者として、できる限り多くの「箱」をあけて、部落差別完全解消への希望を提示したいと思ったからです。

大木は、「日本人の権利意識が一般的に萎縮したのは、想像以上に近い過去-恐らくは明治以降に求める方が真実に近いとすら思えるのである」と主張します。大木によると、権利意識の萎縮は、明治以降の知識人による「よらしむべし、知らしむべからず」という主張に見られるといいます。

「よらしむべし、知らしむべからず」という言葉は、孔子の「民可使由之、不可使知之」(論語)を「曲解した・・・近時の学者」に由来するというのです。明治以降の学者は、「単に民に対して法令に従わせることはできるが、その立法理由を理解させることはできないという慨きを表現したにすぎない」孔子の言葉を、近世幕藩体制下の各種法の立法趣旨として解釈してきたというのです。

明治以降の法学者によって、日本固有の法は、著しく疎外され、拒否・歪曲・縮小され、その輝きを失ってしまいます。

大木は、「通説」を否定し、「通説」の彼方にある、日本固有の法の輝きを取り戻そうとするのです。
大木は、「通説」と異なって、日本人は「権利義務の用語こそ用いなかったにもせよ、実質的には訴人も論人も理非の弁別を求め、権利義務の争いをしていたに相違ないとわたくしは考える」といいます。「一般民衆の間ですら・・・強烈な、西洋人とさして異ならない、権利意識があったことは、史実に照らして明らかである。」と確言します。

明治以降の学者によって、「鎌倉時代における恩顧と奉公の道徳が過度に強調され、江戸時代における義理人情の美風があまりにも宣伝される場合に、日本文化は、いかにも義務中心の法文化であるかのように見えるのである」。「・・・通説は、この誇張や宣伝による脆弱な基礎の上に立てられているのではなかろうか。わが国の実証主義的史家は、むしろそれぞれの時代における強烈な権利意識の存在を指摘している」というのです。

近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての、同心・目明し・穢多・非人に関する考察は、彼らの法意識や法観念が正当に評価されるときにのみ、法の執行者としての彼らの歴史的存在の意味が明らかにされ、明治以降の近代化・西洋化の流れの中で輝きを失ったその輝きを取り戻すことができるのです。近世における「法意識」・「法観念」が大木の指摘する通りなら、それに基づいてなされる司法・警察としての「非常民」である、同心・目明し・穢多・非人も本来の輝きを取り戻すことができるのではないかと思うのです。その結果として、部落史の「通説」の背後に押しやられ隠されてしまった歴史の真実を取り戻し、私たちの社会から、私たちの子孫の生きる社会から、部落差別を完全に取り除くことができるのではないかと、私は思うのです。

『部落学序説』(「非常民」の学としての部落学構築を目指して)を、ブログ上で書き下ろしをはじめて、3カ月が既に経過し、書き下ろした文章も30万字を既に越えました。

しかし、なぜか、この『部落学序説』に対して、ほとんどコメントらしいコメントは寄せられていません。不思議と言えば不思議です。なぜなのでしょう・・・。

筆者にとって、こころの中の師である大木雅夫は、その「はしがき」でこのように語っています。

「久しく西洋を学んできた者にとって、西洋のレンズを通さずに、自己の立場から世界を観察することは、容易ならざることである。したがってわたしくは、差し当たり西洋の学問の方法に従い、「極東」のような、西洋における既成概念を利用しながらも、せめて自分自身を見失うことなく、わたくし自身の立場から日本法を見直してみようと思いたったのである。

このことは、しかし、わたくしに途方もない課題を課するものであった。西洋における学問的方法の基礎には批判精神があり、祖述よりも独創を尚ぶ気風があるかぎり、それは、わたくしを駆り立てて、通説批判への道を歩ませることとなったからである。しかもその通説たるや、これまでのわたくしの学問的生活をはぐくみ育ててきたものである。それはあたかも、新しい生命を産みだすために母鶏が胎内でつくり、自らの温もりを与えて温めた堅い殼のようなものである。しかし、雛は、そのなかで力の限りもがき闘ってその殼を打ち破るのでなければ、新しい生命を得ることはできない。

非力の雛は、間もなくもがき始るであろう。突破口を模索して無駄な努力を繰り返すであろう。もちろん今は忙しい時代であるから、要するに生まれたのか生まれなかったのかを早く知りたいと思われる向きがあっても不思議ではない。本書を読む場合にも似たところがあって、もし読者がわたくしの主張をしりたければ、最後の章の「総括的考察」を一読してから最初に立ち戻るのも一案であろう。しかし、比較法学を愚者の学とするツヴァイゲルト教授のことばの意味を正しく理解される方々に対しては、願わくば冒頭からわたくしの模索の跡を心静かに読んでいただきたいと思う」。

大木雅夫は、1931年福島県生まれ、東京大学法学部卒業、上智大学法学部教授のときこの書を出版、現在、聖学院大学・大学院、政治政策学研究科教授。無学歴の筆者は、当然、一面識もありません。高等教育を受けることが可能であったなら、筆者は、必ず受講して、質問ぜめにしたことでしょう。
 


木綿着用の強制は差別にあらず

2005年09月02日 | 第3章 「穢多」の定義

【第3章】穢多の定義
【第8節】穢多と法的逸脱
【第1項】木綿着用の強制は差別にあらず



「部落学」は、非常民に関する学です。常民の学としての「民俗学」が、歴史学、社会学・地理学、宗教学の学際的な研究としてはじまったように、筆者の提唱する「部落学」は、「民俗学」にならって、歴史学、社会学・地理学、宗教学と民俗学の学際的な研究として遂行されます。

しかし、「民俗学」も「部落学」も人間に関する学である以上、それらの主要科学だけでなく、多くの補助科学を必要とします。政治学・法学・経済学・国際関係学・人類学等・・・。

特に、近世幕藩体制下の「穢多・非人」が、司法・警察であるという「部落学」の基本的な理解からしますと、「穢多・非人」の役務を理解する上で、「法学」的知識は必須のことがらになります。

しかし、高等教育を受ける機会のなかった筆者にとって、「法学」的知識を身につけることはそれほど簡単なことではありません。

青年時代に独学で、憲法学は橋本公宣、民法学は末川博、刑法学は団藤重光の著作から多くのことを学びましたが、実定法を独学でマスターするというのは非常に難しいものがあります。法を学ぶというのは、法の「体系」を学ぶことですから、なかなか、法の全体像を把握することは困難なものがあります。

橋本公宣著『憲法原論』を精読していたときのことですが、「第2章第2項法の下の平等」で、憲法14条1項「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」がとりあげられていました。そして、「国家は国民を差別してはならず、国民は差別的な取扱いを受けない」という説明がありました。

橋本によると、「平等とは、法上のひとしい取扱いのことであり、差別をうけないことをいう」とありました。しかし、橋本は、「相対的平等」という概念のもとに、法的に許容される「差別的取扱」に言及していくのです。

そして、橋本は、「教育の機会均等」に触れるとき、憲法26条1項「すべての国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」を解釈して、このように説明するのです。

「すなわち、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位または門地によって、教育上差別されないのである。教育は、個人の能力に関係があるから、学力、健康によって差別することは、許される」。

橋本は、「社会的身分」の具体例として「部落出身者」を列挙していますが、上記の橋本の説では、「部落出身者」であるということで差別は許されないが、「学力、健康によって差別することは許される」との法解釈をしているのです。

そのとき、私が感じたのは、憲法学の学者であるからこそ、この条文は、「学力、健康によって差別することは許されない」と解釈されなければならないのではないかと・・・。

橋本は、その理由として、「個人の能力に関係があるから」といいますが、「個人の能力」は、常にその人の努力に制限されるとは限りません。「人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位、門地」のいずれによっても大きく影響をうけます。橋本の解釈は、「学力」にとどまらず「学歴」にも波及していきます。「学歴」は、国家による「学力」の証明でもあるからです。

筆者は、実体法に非合理を感じて、結局、実体法から離れ、法哲学の方に関心が移ってしまいました。

最も影響をうけたのは、ドイツの法学者、ラートブルフでした。彼は、ドイツのワイマール憲法の刑法の起草者ですが、政治犯の死刑廃止を説きました。第二次世界大戦のときは、ヒトラーによって、ナチスの政治体制になじまないとして公職を追放された人です。

私は、彼の、「法的相対主義」にこころ惹かれました。『法学入門』・『法哲学』は、理論的に明快で、橋本公宣の『憲法原論』のような理論上の薄暗さはありませんでした。

法学的なものの見方、考え方は、そのような形で身につけたのですが、独学である以上、それがどこまでリーガルマインドをみにつけることに成功したかは定かではありません。

それでは、そのような中途半端な知識で、「穢多と法的逸脱」に関して文章を書くことができるかというと、筆者は、最初から非常に困難であることに気づいていました。

なぜなら、ラートブルフはもちろん、橋本公宣・末川博・団藤重光等は、いずれも、近代・現代法の学者であって、欧米の法学から大きな影響を受けています。

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」について論じるときに、欧米の法学から影響を受けた法概念を用いて論じることに、私は、ある種のためらいを感じたのです。そこで、近世幕藩体制下の法を理解する上での、予備知識を探し求めたのですが、それで入手したのが次のようなものです。

田中周友著『世界法史概説』、大木雅夫著『日本人の法観念西洋法概念との比較』、佐藤友之著『江戸町奉行支配のシステム』、石井良助著『江戸の刑罰』、笠松宏至著『法と言葉の中世史』・『法と訴訟』等です。

特に、「部落学」構築の観点からすると、大木雅夫著『日本人の法観念西洋法概念との比較』が最適であると思われました。筆者が、「穢多と法的逸脱」を論じるときの前理解は、大木の著書によるところ大です。

筆者が大木の著書を持ち出すのは、当然、日本の歴史学上の差別思想である「賤民史観」を撃つためです。

筆者が、差別思想であるという「賤民史観」が、「穢多と法的逸脱」について、どのように解釈してきたか、井上清著『部落の歴史と解放理論』をみてみましょう。

井上は、1778年に幕府から出された法令をこのように紹介します。

「近来えた非人の風俗が悪くなり、百姓町人に対して法外のことをしかけ、百姓のようなふりをして、旅館や飲み屋などへ立ち入り、それをみとがめるものがあると、むつかしく抗議するので、百姓町人らは、えたとけんかしては外聞がわるいと思ってそのままにしておくものだから、ますます増長する。今後はえたが、百姓町人のふりをするのは、いっさいゆるさない」。

井上は、「えたの風俗がわるくなるというのは、えたが人間なみの生活をもとめ、差別とたたかっているということにほかならない。」といいます。それを、「部落民の人間としての地位をもとめるたたかい」であると断定します。また、1856年の岡山藩の渋染一揆のように、「服装などにたいするきびしい差別」がしばしば強制されたと解釈します。

上杉聡著『これでわかった!部落の歴史』においても、井上の説明とほぼ同じ説明が展開されています。日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」に共通していることがらなのでしょう。上杉は、「日常生活を規制する差別法」として認識します。そしてこのようにいうのです。

「そうした差別法を最初に確認できるのは、先にも述べましたが、1683年の長府藩(現山口県)が出したもので、部落の人々は木綿と麻布以上の衣服を着てはならないというものでした。」

上杉によると、「穢多・非人」に「木綿」を強制することは「差別」であるというのです。

上杉が、根拠となる史料をどのようにして手にいれたかは知りませんが、長府藩と同じ、長州藩の支藩である徳山藩の藩士を対象にした「家中諸法度定」には、このような規則があります。

「諸士は平素綿服を着用すること。・・・50石以下の妻子は、内外ともに絹布はいっさい禁止する。」

『徳山市史』(旧)の「徳山藩士卒階級表」によると、「士席班」は439名、「卒席班」は628名ですが、50石以上の武士は、藩士(「士席班」)439名中の160名に過ぎません。藩士のうち、10人に7人は「諸士は平素綿服を着用すること。・・・50石以下の妻子は、内外ともに絹布はいっさい禁止する。」という規制の中にあります。士雇(「卒席班」)628名は全員がこの規制は入ります。

徳山藩では、「非常民」のうち、軍事に関与する「武士階級」(藩士・士雇)の85%の人々は、「諸士は平素綿服を着用すること。・・・50石以下の妻子は、内外ともに絹布はいっさい禁止する。」という規制の中にあることになります。

そのように史料に基づいて確認していきますと、「非常民」のうち、司法・警察に関与する「穢多・非人」に対して、「木綿と麻布以上の衣服を着てはならない」というのは、「穢多・非人」に対する「差別」と断言していいのでしょうか。

近世幕藩体制下の「非常民」、司法・警察である「穢多・非人」は、同じ「非常民」、軍事・警察である下級武士と「同様」であったと判断すべきではないでしょうか。

上杉が、それらの史実を視野から遠ざけ、「穢多・非人」に対する木綿の制限を「差別」とする背景には、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」が大きく影響していると思われます。「穢多・非人」に関する史料は、すべて「差別的」であると解釈しないではおられないのです。

徳山藩の規則では、「他国役にでるときは、分限相応に取り繕う必要がある」というのです。ですから、武士は、実際は、木綿だけでなく、それ以上の衣服を持ち合わせていたということになります。

それは、「穢多・非人」についても同じです。日常は、「木綿」を羽織っても、ハレのときには、それ相応の着物を身にまとっていたのではないかと思います。なぜなら、近世幕藩体制下の女性にとって、着物は、ささやかな貯蓄の意味をもっていたからです。病気や怪我で収入がないときには、それを質屋において必要経費を入手することができたからです。

柳田国男の弟子・山川菊枝は、その著『武家の女性』の中で、「三界に家なしといわれた女にとって、着物だけが唯一の財産」であったといいます。

山川は、天保元年水戸藩で、「此度御家中一統綿服着用仕るべき」とのおふれがでたといいます。

「穢多・非人」に対するおふれは、多くは、下級武士に対しても出されたおふれではないかと思います。

西島勘治著《お仕置き帳にみる足軽・中間・陪臣の実像-長州藩の場合》によると、「厳し過ぎる封建制身分社会において、最も差別の桎梏に苦しんだのは、百姓・町人といった一般庶民よりも、むしろ諸士階級と深く関わっていた、彼等下級知識階級ではなかったか・・・」とあります。「穢多・非人」も同列に考えることができます。

日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」にとらわれると、井上清や上杉聡のように、なんでもかんでも「穢多・非人」に「みじめで、あわれで、気の毒な」イメージを強制したり、押しつけたりするようになります。

「穢多と法的逸脱」を考察するためには、まず、差別思想である「賤民史観」から自由にならなければなりません。

そのために、大木雅夫著『日本人の法観念-西洋的法観念との比較』に耳を傾けてみましょう。(続く)
 


穢多(非常民)と遊女(常民)

2005年09月02日 | 第3章 「穢多」の定義

【第3章】穢多の定義
【第7節】穢多と遊女
【第5節】穢多(非常民)と遊女(常民)



『部落学序説』(非常民の学としての部落学構築を目指して)からみると、「穢多」と「遊女」は、上杉聡が主張するよ うに「賤民」という概念でひとくくりにできる存在ではありません。

なぜなら、「穢多」は「非常民」に属し、「遊女」は「常民」に属するからです。近世幕藩体制下の司法・警察に従事 する「非常民」と、その監視下に置かれる「常民」とは、様々な形で区別されます。そして、それらは混同されること はほとんどありえません。

江戸時代、「遊女」は、幕府や藩の監視下に置かれていました。「遊廓」を経営する場合は、幕府や藩の許可が必要でした。

徳山藩の法令集をみると、「人身売買はもとより、他領に年切り奉公人を出すことはいっさい禁止する。」とあります。人身売買の多くは、「売春制度」と関係があります。この条文では、遊女にするための人身売買が禁止されていた・・・と解するのが一般的でしょう。

しかし、徳山藩城下には、実際には遊廓が存在していたので、一定の条件を満たした場合は、徳山藩の百姓や浪人の娘は、徳山藩領内で、遊女になることができたと思われます。別の条文に、「領内で年切り奉公人を使うときは、町方は目代、地方は庄屋に届け、証書を作った上で召し使うこと。もしその主人が領内を立ちのく場合には、召し連れて出てはならない。」とあります。

幕府や藩によって、認可された「遊廓」はその存在が保証されましたが、認可がない場合、私的に設置された「遊廓」あるいは「売春業」は、「地獄」と称され、官憲による摘発の対象とされました。非公認の「遊廓」あるいは「売春業」によって、性病が蔓延するのを防ぐためであったと言われます。

明治6年の「警察規則案」には、その第13条にあげられた「行政警察の条目」のひとつに、「娼家ヲ視察シ娼婦ノ健康ニ注意スル事」というのがあります。近代警察がほぼ完成期に近付いた「行政警察全般にわたる詳細な指示を集成」したものに明治18年の『警務要書』があります。

その「下巻、第4篇風俗警察、第4章第2款娼妓」があります。その中にこのような条文があります。
「娼妓ノ出稼ハ概シテ不幸薄命ニ出デ、若クハ誘拐騙詐等ニ罹ル者多キヲ以テ、認許ノ際、警察官ニ於テ精密其事実ヲ穿鑿シ、且貸座敷主トノ結約条件ノ不都合ナニヤニ注意スベシ」

これは、明治の警察が、売春の社会的原因として、「誘拐」・「騙詐」等が原因で発生するとの認識を持ち、その人の自発的な「出稼」と、「誘拐」・「騙詐」によって自分の意志に反して遊女とされる場合を区別していることがわかります。そして、「誘拐」・「騙詐」によって売春させられるような事態を未然に防ぎ、場合によっては摘発するために、「精密其事実ヲ穿鑿」する必要性を説いているのです。

「遊女」に対する取締りの内容と方法は、近世幕藩体制下においても、明治以降の近代警察国家においても、そんなに大きな違いはないと思われます。

要するに、「遊女」は、近世幕藩体制下においても、明治以降の近代警察国家においても、司法・警察である「非常民」による取締りの対象であったということです。

中には、その取締りの最中に逮捕され、留置場に留め置かれる場合もあるでしょう。同じ建物の中に、「穢多と遊女」が、「警察官と売春婦」が共存する場合も多々あったでしょう。しかし、その事実をことさら強調して、「穢多と遊女」は同質存在であり、「警察官と売春婦」は、身分上、「身分外身分」であり「社会外社会」であったとすることは、事実誤認だけでなく、事実をねじ曲げてとらえる所作と言えるでしょう。

近代だけでなく、近世においても、「取り締まる側」と「取り締まられる側」は、はっきりと峻別されているのです。「非常民」と「常民」、「穢多」と「遊女」は、別な存在なのです。

それに、穢多が、司法・警察として、「非常民」として、遊廓に取締りに入るのではなく、遊廓の客のひとりとして入る場合が想定されますが、それはほとんど不可能であったと思われます。「低い収入」で、高価な料金を支払うことはほとんど不可能です。

磯田道史著『武士の家計簿「加賀藩御算用者」の幕末維新』によると、70石取りの武家の「一家の大黒柱」の年間の小遣いは、「信じられないほど少ない。年間わずか19匁である。・・・悲惨という他はない。」と磯田はいいます。

年間銀19匁では、廓遊びをすれば、一瞬にして吹き飛んでしまいます。
70石取りですらそうですから、中間・足軽(徳山藩では13石取り。ただし税金を天引きされるので実収入は、30%未満になる)、穢多・非人にとっては、経済的にほとんど不可能です。

上杉聡は、「部落の男性も、吉原などの遊女屋通いをすることを禁じられていました」(『部落史がわかる』)といいます。上杉は、なにか、そのことで、「穢多」が差別されていたとでもいいたそうですが、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」は、その職務の内容からしても、また、経済的理由や宗教的・倫理的理由からしても、「穢多」が「遊女屋通い」をすることはありえないことでした。仮にあったとしたら、恐らく、同じ「穢多」から、そのお金の出所について、厳しい穿鑿と糾弾に曝されたことでしょう。

上杉は、関西大学文学部で使用される教科書・『これでわかった!部落の歴史』で、「御仕置例類集」から史料を紹介しています。そして、その副題に、「部落民は遊女になれたか」という表題をつけています。

「穢多の娘を売女などにいたし候もの、穢多の身分を弁えながら、素人まじわり致させ候段、不届きに候・・・」。

上杉は、上記の史料に対して、適切な解釈をしていません。上杉は、史料を提示して通り一遍の説明をしただけで、「この授業の範囲を越えますので、このままにしておいて・・・」と、避けてしまいます。

この史料について、「非常民の学としての部落学」構築を目指す筆者の立場から解釈すると、このような解釈になります。

近世幕藩体制下にあって、「穢多・非人」と言われた人々は、当時の司法・警察である「非常民」です。藩士の多くは、城下に住むことを強制されましたが、穢多は、司法・警察として、藩士や陪臣の存在しない村々にも配置されました。長州藩では、現代の警察署のように、集団で配置されるときは「穢多」と言われ、現代の駐在所のように、比較的少人数で配置されるときは「茶筅」ないし「宮番」と呼ばれていました。「穢多」・「茶筅」・「宮番」を総称する言葉として広域概念としての「穢多」が使用されました。近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」は、その役務に相応しい言葉と行為をすることを求められました。彼らは、幕府や藩によって定められた法に従って職務を遂行し、犯罪を未然に防ぐと共に、犯罪が発生した場合は探索・捕亡・糾弾等に従事し、裁判のあとには、一連の「キヨメ」によって犯罪者の社会復帰に協力しました。そのような司法・警察に対して、幕府や藩は、強力に支援体制を敷きました。近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」と「穢多の家族」に対する法的保護の施行です。「武士」や「百姓」に対して、司法・警察である「穢多」の職務を疎外するような行為を禁止しました。たとえば、この史料にみられるような、「穢多」の娘を遊女にするというようなことです。もし、そのようなことを認めたら、近世幕藩体制下の司法・警察体制を根底から揺るがすことになってしまったでしょう。「娘を遊女に」人質としてとられているとき、その「穢多」は十分に司法・警察としての職務を実行できない可能性があります。幕府や藩は、それを恐れて、被告に、「司法・警察官がなんであるかを十分認識していながら、その職務を疎外するような、その娘を遊女にするような所作は、司法・警察の信頼を著しく害う故に、断じて許すことはできない。当法廷は、厳罰を以て被告を処す。そして、再びこのような事態が生じないよう、そして、司法・警察の権威が失われることがないよう各方面に適切な対策をとることを指示する。」と判決を下したと思われます。この史料は、近世幕藩体制下の司法・警察としての「穢多」の「役務」に関するもので、一部の歴史学者が指摘するような、部落差別の実態を物語る史料ではないことを明言しておきます。

上杉は、「穢多」概念に、「遊女」の持っている、「身分外身分」・「社会外社会」・・・という属性を窃取します。そして、明治政府によって、唯一、「解放」という言葉が使われた、明治5年の太政官布告第295号「芸娼妓解放令」ないし「遊女解放令」の「解放」という言葉を窃取して、明治4年の太政官布告を、「賤民解放令」と呼びます。それは、歴史の事実に反する解釈です。

明治4年の太政官布告は、国内外に向けて発せられた、日本の国恥とされた治外法権撤廃の早期解決のため、明治政府がやむを得ずとらざるを得なかった、近世幕藩体制下の旧司法・警察である「非常民」(「穢多」)の、苦渋にみちた解体以外の何ものでもないのです。

明治政府は、「穢多」を「非常民」からはずします。明治政府によって、「穢多」たちは、「常民」の世界に組み込まれます。

しかし、「常民」は、「穢多」が自分たちと同じ「常民」になることに烈しい抵抗を示します。「穢多」が「常民」になる一方で、「常民」が近世幕藩体制下の「穢多」と同じ「非常民」になることが予測されたからです。「常民」の「非常民」化は、明治政府によって画策された国民皆兵制度(徴兵制度)において現実化します。「常民」による明治政府に対する烈しい抗議と抵抗は、「賎民史観」の学者がいう「解放令反対一揆」へと発展していきます(筆者は、「解放令反対一揆」ではなく、「常民」による「非常民」化撤廃を要求する明治政府に対する反対一揆と認識しています)。

明治4年の太政官布告を正しく読み取らないと、部落史における本当の意味を見失ったままになります。

上杉聡は、「賤民」の外延として、「穢多」・「遊女」をとりあげますが、上杉の「穢多」定義は、あまりにも、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」にのっとっているため、大きく失敗しています。
 


上杉聡の遊女観

2005年09月02日 | 第3章 「穢多」の定義

【第3章】穢多の定義
【第7節】穢多と遊女
【第4節】上杉聡の遊女観



日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」の帰着点、それが、上杉聡の『部落史がわかる』です。

上杉は、関西大学文学部で二十数年間、「部落史研究」を教えてこられたそうですが、その教科書『これでわかった! 部落の歴史』の「はじめに」で、このようにいいます。

「私の授業は、史料を毎回配布し、それを読むことによって進めてきました。本書に本文と別枠で掲載しているのがそれで、講義は基本的に、まずその史料を理解してもらった上で行ってきました。これは、教師が一方的な「論」を押しつけるのではなく、実証的な多面的な史実を学生と共有した上で、浮かび上がってくる差別への歴史認識を通して、自己の差別意識への反省やそれを克服しようとする意欲や励ましなどを得ることができれば、と考えてきたからです。」

上杉のこの文章を読みながら問題点を感じるのは、上杉が学生に提供する「史料」のことです。

上杉の授業においては、その「史料」を学生が自由に探索するというのではなく、講師である上杉自身があらかじめ教材として選択したものです。無数に存在する史料の中から、どのような史料を教材として選択するのか、そこに大きな問題が発生します。

上杉が、「部落史研究」に関する指導内容を「暗黙の前提」として、それにみあう「史料」だけを選択するとしたら、学生は、講師の「暗黙の前提」である、講師の「思想」を確認したり、追認したりするためにだけ、その「史料」を使用することになります。

私は、このブログで繰り返し語っていますが、今まで、一度も、大学という名前のついた場所で、大学教授という肩書のついた方から講義を受けたことはありません。今後もないと思われますので、私にとって、大学教育はまったく無縁なものです。

大学教授が大学で何をどのように教えているのか、知るためには、一般に公開されている書籍や資料を通して間接的な手段に頼る以外に方法はありません。

鐘ケ江晴彦著『「同和」教育への社会的視座』の中に、《信州の「同和」教育の問題と課題》という論文が収録されています。

鐘ケ江は、「私は、大学で例年、現代日本における主要な差別事象(部落差別、性差別、障害者差別、在日韓国・朝鮮人差別など)の社会的特性、歴史と現状、教育とのかかわりなどについて概説する授業をおこなっている。」といいます。

鐘ケ江は、「ある年の授業では、部落差別についての講義に入る前に、次のような質問をはじめとする幾つかの質問に対して、レポートを書いてもらった」といいます。

その質問というのは、「これまで『同和』教育を受けたことがありますか。ある場合には、いつ受けたか、そのときどのように感じたか、それについて今どのように思っているか、書いてください。」というものです。

その質問に対して、長野県出身の一人の学生がこのようなレポートを書いたというのです。

「小学校5年より中学3年まで、毎年授業として同和教育を扱っていた。5年生のとき、題名は忘れたが、映画を見せられ、偏見問題について勉強した。親が肉体労働者で、家が貧しい子どもを差別する映画で、かなりのショックを受けた。たしか、感想文を書いたと思う。
小学6年生から中学3年の間は、毎年、部落差別問題をやっていた。同じクラスの友達に部落の人がいて、その人が作文を発表したりしたが、特に何も感じずつきあっていた。それよりも、同和問題の映画を見せられ、その子がどう思ったかが不思議だった。また、こんなこといちいち僕らに教えなくていい、まったく知らないほうがいい、と思った。それは、必ず中途半端に教えられるために、逆に部落の人をばかにしたり、いじめたりする人がいたからである。別に部落出身だろうと人間的にできた人なら、差別されるわけはないだろうと思っていた。今でも、まったく知らないですむならそれでいい、と少し思うことがあるが、歴史として見るに、目をつむるわけにはいかないということがわかってきた。(C君)」

その学生のレポートに対して、教授の鐘ケ江は、このように評価するのです。

「C君の場合は、部落差別は知らないですむならそれでよいのではないかと、いわゆる「寝た子を起こすな」論的な考え方に現在でも傾いている。」

鐘ケ江は、3人の学生のレポートを分析・評価した上で、「3人が3人とも、それぞれ問題のある意識・態度を示している」として、「信州の「同和」教育が、本当に差別から解放された人間をつくり出せているか、差別問題に対する望ましい意識・態度を培うことができているか、と言えば、それは疑問である。」と結論付けます。

しかし、筆者の目からみると、問題があるのは、学生ではなく教授の方ではないかと思います。

C君のレポートをよく読むと、C君は、決して「寝た子を起こすな」という考えた方の持ち主ではないということがわかります。「寝た子を起こすな」と信じている人は、なによりもまず、部落差別に関する歴史的考察を拒否する姿勢を持っています。

しかし、C君には、そのような側面は見いだされません。むしろ、歴史について、積極的な姿勢がうかがえます。

C君は、中学校のとき受けた同和教育には批判的です。「それは、必ず中途半端に教えられるために、逆に部落の人をばかにしたり、いじめたりする人がいたからである。」という文章からも確認することができます。C君は、自分が受けてきた同和教育は「中途半端」なものだというのです。逆をかえせば、きちんとした同和教育なら何の問題も感じないと主張しているのです。

中途半端な同和教育が何を引き起こすか・・・。C君は、被差別部落民の一般像として提示された「親が肉体労働者で、家が貧しい子どもを差別する映画」「同じクラスの友達」との間のギャップに大きなショックを受けるのです。それまで意識しなかったイメージが、同和教育を通じて、C君の脳裏に入ってきます。

C君は、それを不愉快であると感じて、「こんなこといちいち僕らに教えなくていい、まったく知らないほうがいい、と思った。」というのです。

そして、C君は、被差別部落出身の「同じクラスの友達」のことを思いやって、「同和問題の映画を見せられ、その子がどう思ったかが不思議だった・・・」と感じたというのです。

C君は、「別に部落出身だろうと人間的にできた人なら、差別されるわけはないだろうと思っていた。」といいます。

このC君の発想は、信州の被差別部落の住人である、『被差別部落の暮らしから』の著者・中山英一の言葉にも見られます。

「世間から疎まれ差別されてきた部落には、たくましく、かしこく、そしてやさしく生きてきた人たちの歴史があった。それを知らずに、勝手にマイナスのイメージを抱きつづけてきた人たちのために、私はこの本を書いた。苦しみ、悲しみながら、それでも喜びのときには笑いを忘れず、真摯に人生を全うする人の姿にふれたとき、だれもその人を見下したり、卑しいと忌避することはできないはずだと、私は信じている。なぜなら、部落の出であろうと、真摯に生きる人がこの世には大勢いるのだし、そうした人が自分と同じように生きる人を差別することなどありえないではないか」。

C君は、「今でも、まったく知らないですむならそれでいい、と少し思うことがあるが、歴史として見るに、目をつむるわけにはいかないということがわかってきた。」といいます。

C君は、「中途半端」な同和教育を受けて「中途半端」な差別感情を持っていきるのではなく、本当の歴史をきちんと見すえて生きていきたい・・・、と、教授・鐘ケ江に訴えていたのではないかと思うのです。

しかし、鐘ケ江は、C君のレポートから、鐘ケ江の思考パターンにあった要素「まったく知らないですむならそれでいい」のみを抽出して、それだけに依拠して、C君のレポートを問題ありとします。そして、信州の同和教育の問題点の指摘へと脈絡させるのです。

鐘ケ江の授業は、「差別事象・・・の社会的特性、歴史と現状、教育とのかかわり」等について概説することなのですから、「歴史と現状」という観点から、C君の評価をもっと高くしてもよかったのではないかと思います。

鐘ケ江は、その講義を受けたあとに実施される期末試験の結果について、C君については、「C君の答案は、設問と若干ずれているので省略する」といいます。

そして、その論文をこのようにしめくくります。

「なによりも必要なのは、教師ひとりひとりの意識改革であろう。・・・まず教師が、部落差別をはじめとする差別問題を、自分の人間としての在り方にかかわる問題としてとらえ、明るくホンネで語れるようになること、自分の身の回りの差別問題の解決に主体的に取り組むようになることが、何よりも必要なのではなかろうか」。

なによりも必要なのは、『「同和」教育への社会的視座』の著者を含む、学者ひとりひとりの「意識改革」ではないでしょうか。

鐘ケ江は、C君を評価することなく終わったのではないか危惧されます。

関西大学文学部の上杉聡の、「部落史研究」に関する「史料」を提示して、それを「解釈」してみせる方法では、学生の評価に際して、自分の認識パターンに合致したものは評価するが、そのパターンに合わないものは評価しない・・・ということになりはしないのでしょうか。

上杉の被差別部落民理解には、「血」の問題が内包されています。上杉はこのようにいいます。
「現実には「純粋の部落民」などどこにもいませんし、たとえいたと仮定しても、ほとんど今は何分の一かの部落民ばかりです」。

「何分の一かの部落民」というのは、「部落の歴史が続いていること」、「部落の血が続いていること」を意味しているのでしょう。上杉は、「歴史家は、まず自分の偏見を正しつつ研究に取り組むべきものですし、注意深く歴史をみつめれば、偏見そのものを打ち砕く素材にあふれています」といいますが、その言葉に反して、上杉自ら、日本歴史学の差別思想である「賤民史観」に立って、それをより強固なものにしようとします。

彼は、「摂津下新庄村・幸七儀、穢多を女房にたいし候一件」という史料を解釈して、「このような人(不義密通をした百姓)の「血」が、部落に流れ込んでいることを「プラス・イメージ」として評価するのです。

上杉聡は、「娼妓解放令」に異常な関心を持ちます。そして、「穢多」と「遊女」を同一視して「賤民」と呼びます。上杉は、このことから「賤民」と「解放」という言葉を使って、明治4年8月の太政官布告を「賤民解放令」と呼ぶのです。

上杉の歴史理解には、中世から近世、近世から近代へと目を向ける以上に、近代から近世へ、近世から中世へと、「賤民概念」を再適用していっているようなところがあります。

ある人は、「遊女」についてこのようにいいました。
「遊廓と称するは即ち売淫の巣窟・・・人間世界には非ざるなり。・・・禽獣に異ならず」。「娼妓の技は最も賤しく最も見苦し」。「人倫の大儀に背きたる人非人の振舞なり」。彼は、遊廓を「封鎖したらば、如何なる事相を呈すべきや。数月を出でずして満都の獣欲自ら禁ずることあたわず、発しては良家の子女の淫奔と為り・・・」良家の娘が男の慰み物になり、性的被害を受けるというのです。良家の娘の貞操を守るためには、遊女の存在が不可欠であると力説します。遊女がその身を犠牲にして良家の娘の貞操を守るは、「親鸞日蓮の功徳に比して差異なき者と云ふべし」といいます。

「一方は(良家の娘は)人にして一方は(遊女)は禽獣に異ならず」といいます。

その人の名は、福沢諭吉。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と名言を残した、福沢諭吉その人なのです。「人」の中に、最初から「遊女」は含まれていなかったのかもしれません。

明治初期の「遊女」は、「身分外身分」、「社会外社会」、「最下層の賤民」、「人非人」とされた人々でした。明治政府は外交上の問題で、明治5年10月2日太政官第295号を布告しました。その中に、「娼妓・芸妓等年季奉公人一切解放可致」という法文がありました。明治政府が出した身分に関する布告の中で、唯一、「解放」という言葉を含んだ布告でした。

上杉聡は、明治初期の「遊女」に関するイメージを、近世の「穢多」と「遊女」の関係にも持ち込むのです。そして、両者を「賤民」概念でひとくくりにして、両概念の属性を交叉させます。そして、近世幕藩体制下の司法警察であり、当時の「遊女」を取り締まる側にいた「穢多」を、取り締まられる側の「遊女」の位置まで引き下ろし、明治4年の太政官布告をして「賤民解放令」と呼ばせるような「強権」を発動するのです。「部落民」に擬した上杉の主張(精神的似非同和行為)は、多くの歴史学者や研究者に受け入れられていきますが、それは、部落差別解消への道にはほど遠く、返って、部落差別を解決不能な世界に追いやる、歴史学者による「差別行為」そのものなのです。(続く)」
 


賎民史観から見た遊女

2005年09月02日 | 第3章 「穢多」の定義

【第3章】穢多の定義
【第7節】穢多と遊女
【第3節】賎民史観から見た遊女



筆者は、関西大学文学部講師・上杉聡という人に会ったことは一度もありません。ただ、『部落史がわかる』(三一書房)、『部落史を読みなおす部落の起源と中世被差別民の系譜』(解放出版社)と2、3の論文を読んで、批判を展開することになります。

「著者紹介」欄を見ると、「1947年岡山県生まれ。関西大学文学部講師。」とあります。私も、1948年岡山県生まれです。最初、上杉の「著者紹介」を見たとき、同じ岡山県出身であるということでこころ引かれましたが、『部落史を読みなおす』を読んでいて、違和感を感じる箇所がありました。

上杉は、「歴史学会の趨勢は、中世起源説に向かいつつある」といいます。

上杉は、「天皇制を・・・古来以来、支配者の中に一貫して流れ続けてきた」ものとしてとらえるといいます。上杉は、天皇制と部落差別を、同じコイン表と裏と考えているようです。天皇制が古代・中世・近世・近代・現代へと続いてきたように、「賤民」も古代・中世・近世・近代・現代へと続いてきたと考えるのです。

そして、「中世-現代をつらぬいてなんらかの共通するもの」「賤民」の時代を越えて変わらざる属性(内包)として「社会外」であることを指摘するのです。「賤民」は、社会の「下」ではなく「外」にいた存在であると。上杉は、「下」・「外」という言葉を「排除」・「所有」という言葉で置き換えます。そして、「賤民」は、同じ「排除」といっても、天皇と違って、「上」ではなく「下」へと排除されることで被差別民として生きることを余儀なくされたと考えているようです。

上杉は、「中世賤民と近世賤民との間における変化といっても、そこには本質的な変化があるわけではない」として、被差別部落の「近世起源説を唱える人たち」を厳しく批判します。そして、このようにいうのです。

「現代の部落問題を研究する人びとを除き、近世の穢多・非人を研究するような人びとは、たとえば部落解放研究所から出ていき、別の研究会を組織するよう勧めねばならないことになる」。

上杉の著作を読んでいて、筆者が、問題を感じたのは、「近世の穢多・非人を研究するような人びとは、たとえば部落解放研究所から出ていき、別の研究会を組織するよう勧めねばならないことになる。」というような彼のものいいです。

私には、非常に強権的な発言のように思われます。そのような強権的な発言はどこから出てくるのだろうか・・・。「被差別」(真)からか、「被差別」(偽)からか・・・。

「被差別」(真)というのは、「被差別部落出身で、被差別部落民として行動したり発言したりしている人」のことです。また、「被差別」(偽)というのは、「被差別部落出身者ではないけれども、被差別部落民として行動したり発言したりしている人のことです。

上杉の著作を読んでいて、彼の「視座」が極めてあいまいで、とらえどころがなかったからです。「近世の穢多・非人を研究するような人びとは、たとえば部落解放研究所から出ていき、別の研究会を組織するよう勧めねばならないことになる。」というような強権的な発想をしているところを見ると、被差別部落出身者なのか・・・と思ってもみるのですが、それまでに私は、「被差別」(偽)のパターンに属する「研究者」や「運動家」に何人も遭遇しているので、上杉は、もしかしたら、被差別部落民を偽証しているのかも・・・、と迷ってしまったのです。

山口県の部落解放同盟の方にお聞きしたら、「上杉聡さんについては、よく知らない」ということでした。

ところが、昨日、近くの書店に立ち寄って、同和問題のコーナーの書籍の表題に目を通していたら、上杉聡著『これでわかった!部落の歴史私のダイガク講座』という本を見つけました。

その本は、関西大学文学部の講座「部落史研究」のテキストとして編集されたものです。

上杉は、「第1回講義」の中で、「残念ながら、私は部落の出身者ではありません。」と言明していました。私は、「上杉は、やはり、被差別部落出身者ではなかったのか」と納得しました。

彼は、さらに続けてこのようにいいます。「「残念ながら」というのは、変な表現かもしれません。ただ、みなさんのなかには、直接、部落の人から講義が聴けたら、という人がいるでしょう。私にとっても、もし部落の出身であれば、もっとこの研究を深めることができたかもしれないと思うからです」。

私は、ときどき、「精神的似非同和行為」について話をします。「精神的似非同和行為」というのは、被差別部落出身ではないのに、被差別部落民であるかの如くに、行動したり、発言したりする人のことです。「間違えるのは、間違える方が悪い・・・」と反論されるかもしれませんが、「精神的似非同和行為」に疑問を持つどころか、被差別部落民に代わって発言してやっている式の、それ故、必要以上に、被差別部落民である装いをとりながら強弁してしまう人の所作を、「精神的似非同和行為」と呼んでいるのです。

「被差別」(偽)、つまり、被差別部落出身者ではないのに、被差別部落民のように行動したり発言したりする人の中で、知識階級・中産階級に属する人の中には、度を越して、「精神的似非同和行為」の世界にまで足を踏み入れる人が少なからずいるのです。

そのような人びとの脳裏にあるのは、「賤民」概念のみです。

上杉は、「賤民」という概念を「学術用語」として認識しています。「賤民」概念は、古代・中世・近世にはなく、近代に入って、はじめて、「行政用語」として登場してくるものです。その「行政用語」としての「賤民」は、やがて、日本の歴史学者によって、「学術用語」として受け止められていきます。つまり、「賤民」概念、「学術用語」としての「賤民」概念には、明治以降の「行政用語」としての「賎民」概念が内包されていることになります。上杉は、そのあたりを一度も検証していません。そして、「学術用語」としての「賤民」概念を、中世・近世・近代・現代の被差別部落民を定義するための本質概念・実体概念として使用しているのです。

上杉説に立つと、近世幕藩体制下、幕府によって公用語として使用されていた「穢多・非人」は、近世だけでなく、近世を遡って中世まで「賤民」であったということになります。「賤民」は、「江戸時代300年間」だけでなく、その前身まで含めて「1000年間」に渡って「賤民」でありつづけたということになります。

上杉の説によると、日本の歴史の半分以上、「みじめで、あわれで、気の毒な」被差別民として生きつづけてきた人びとがいるということになります。

私は、上杉のような、「被差別」(偽)の生き方をしている研究者の脳裏は、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」一色に塗りつぶされていると思うのです。「被差別」(偽)の立場に立つ人からは、「被差別」(真)の本当の歴史や伝承を語る「気迫」は伝わってこないのです。

上杉は、「私自身は部落民でないと考え、うっかりすると、差別する側へと転落する位置に立っていました。」といいます。

私が、最初に、被差別部落を尋ねた日、部落解放同盟の某支部の書記をしていた青年は、私にこのようにいいました。

「あなたが立っているのは、差別か被差別か、はっきりさせてください。差別者の立場でかかわるならそれで結構です。被差別部落の人は、差別されているから、他の人を差別していないのかというとそうではありません。日本の社会はいろいろな差別がありますから、被差別部落であるといっても、女性差別・民族差別・学歴差別・障害者差別から自由になっているわけではありません。しかし、私たちは、自分の中にも差別的なものがあるということを自覚している分、自覚していない人より差別的ではないと思っています・・・」。

被差別部落の人びとの前で自己紹介するときに、「私はただの貧乏人です」といいますと、彼は、「私はただの部落民です」と答えていました。

彼は、被差別部落出身ではありませんが、被差別部落の女性と結婚して、部落解放運動をはじめました。

私の「差別・被差別」の分析から判断すると、彼も、「被差別」(偽)になります。しかし、私は彼の中に、上杉から感じるような強権的なものいいを見いだすことはないのです。「近世の穢多・非人を研究するような人びとは、たとえば部落解放研究所から出ていき、別の研究会を組織するよう勧めねばならないことになる・・・」、そんなものいいには、一度も接したことはありません。

彼の献身的な部落解放運動への関わりを見てきた筆者には、彼は、「被差別」(真)そのものです。彼の姿を見ていると、被差別の民と交わった親鸞のような姿があります。

上杉は、「もし部落の出身であれば、もっとこの研究を深めることができたかもしれない・・・」といいますが、たとえ部落出身者であったとしても、今以上の研究に到達することはできないでしょう。上杉は、被差別部落の人びとの中に「賤民」を見いだしても、「人間」を見いだすことができないからです。

上杉は、『これでわかった!部落の歴史』の中で、このように語ります。

「部落の女性が娼妓なんかに売られることがあったかどうか・・・たしかに、明治以降でしたら、それはよくありました。しかし、江戸時代には厳しく禁止されていたのです。・・・したがって、男性が吉原へ遊びに行って部落の女性と出会うとういことはありえなかったのです。もしそのような事実が発覚すれば、たいへん厳しい処罰が加えられました。つまり、一般社会の最底辺にいた遊女たちは、どんなに落ちぶれたとはいえ、町人や百姓の娘さん、あるいは武士の娘さんであって、そこに部落の女性が入っていくことは絶対にありえないことでした」。

上杉は、「部落」と「娼妓」、近世的な表現を使えば、「穢多」と「遊女」の関係について、何がいいたいのでしょうか。判然としません。というより、上杉聡の「賤民史観」に毒された差別性が明らかにされていきます。

さすがに、関西大学の学生に読ませるテキストには掲載されていませんが、『部落史がわかる』の中で、他の資料をとりあげて、このように綴ります。長くなりますが、「部落史こぼれ話④遊女屋に売られる部落の娘」の全文を引用・紹介します。

(以下、上杉の差別文書の引用)

遊女屋で働く女性の最高年齢は、24歳ぐらいだという。五十嵐富夫氏は『飯盛女-宿場の娼婦たち』のなかでこの理由を、「年季明けを待たずに徐々に死んでゆく女が、どこの宿場でも多かった」からであるとしている。

16歳ぐらいで男をとることを強いられてから数カ月をへると全身に変調をきたし、腫れものがでるなどして苦しみはじめる。これを「鳥屋」と呼ぶ。一種のセックスによる中毒とでもいうべきものだろうか。この時期、悶々とする女性は納屋などに押し込められて時を過ごす。
この苦しみを通りすぎることによって、はじめて「遊女らしい」体つきになるという。あとは、ほとんど死ぬまで粗食で身体を酷使させられることになる。

こんな苦界に、被差別部落の女性が、賤民廃止令以降、多く身を沈めたという話がある。『明治奇聞』という雑誌には、部落の女性が「四民に伍するのを名誉のやう心得」「お女郎に成ってもいいのですかなど喜び、普通ならば三年三百円といふ位のシロモノが百円ですみ」と書いてある。喜んで売られていったというのは嘘であろう。ただ、部落の女性にとって、「平民の男と付き合える」ということが、売られていく際の唯一の慰めの言葉になろう、悲しい差別の現実が見えてくるのである。

筆者に見えるのは、関西大学文学部講師・上杉聡のいう「悲しい差別の現実」ではなく、上杉自身の差別性です。遊女や被差別部落の女性の中にある人間性にまなざしを向けることなく、16歳の若さで、納屋に閉じ込められ、無理やりに遊女にされていく非人間的な悲惨な状況に対して悲しみも怒りも表わすことがない上杉聡の中に、なぜ、部落差別を語る資格があるというのでしょうか。

上杉は、大学で使用するテキストの中で、このように綴ります。

「子どもたちを部落で育てたことについては、この子たちが成人する頃に、差別はもうなくなるだろう、という楽観がありました。しかし、その見通しはみごとに裏切られました・・・」。

上杉は、だから、今頃になって、「私は部落出身者ではありません。」と、カミングインするのでしょうか(カミングインという言葉があるのかどうかは知りません。カミングアウトの反対語として使用しました)。
 


近世幕藩体制下の遊女

2005年09月02日 | 第3章 「穢多」の定義

【第3章】穢多の定義
【第7節】穢多と遊女
【第2節】近世幕藩体制下の遊女



長州藩の史料では、「遊女」の社会的な身分は、「百姓」に帰属します。

喜田川守貞著『近世風俗志』の「巻之二十一」と「巻之二十二」に、喜田川が行った近世幕藩体制下の「娼家」に関する調査があります。

喜田川は、天保年間の遊廓と遊女に関する調査を、「知的レベル」で実施しました。その資料収集にあたっては、なかなか思うようにいかなかったようで、当時の遊女の格付けと値段表『諸国遊所見立角力并直段附』を入手するには相当時間がかかったようです。

この表を見ると、当時の日本全国の遊郭の格付けがなされています。

長州藩を例にとると、下関稲荷町の遊郭は、「前頭」に位置付けられます。遊女の「値段」は銀24匁。同じく下関の伊崎は銀12匁。上関は9匁よりとなっています。

『防長風土注進案』によると、上関には、50人を超える遊女がいたようですが、その身分は、「百姓」に帰属します。

『防長風土注進案』の記載では、「武士」と「百姓」に2分類されていて、「武士」の系列にあらざるものは、すべて「百姓」に数えられています。「遊女」は、「武士」ではなく「百姓」身分に算入されています。

近世幕藩体制下で「武士」出身者で「遊女」になった人は、なんらかの事情で「武士」格を剥奪されたあと、「遊女」になったと思われますので、「遊女」は、すべて「百姓」に帰属するようになるのです。

喜田川の調査から推測しますと、「遊女」になった人は、2様に分類されます。まず、自分の意志で遊女になったひと。遊女もひとつの「家職」として、その道に入り、たくさんの遊女を抱えて大儲けを企む人々です。また、それに、ある意味賛同して、遊女になっていく人々です。

近世幕藩体制下の遊郭に関する史料を見ていて思うのですが、女性を「遊女」に仕立てる最も大きな力は同じ女性自身ではなかったのかと思うのです。

喜田川は、その他に、自分の意志ではなく、他から強制されて遊女になった人々が存在することを書きとどめています。

まず、まったく見ず知らずの人に誘拐・拉致されて、他国に遊女として売られる場合です。藩を超えて暗躍する人身売買組織がある場合、遊女として売られた娘を取り戻すことはほとんど不可能であったと思われます。

次は、子供のいない家庭に請われて養女に出している場合、「養父の貧戻より私かに養女を娼家に売る。実父あるひは死亡、あるいは遠国、遂にこれを訴ふことを得ず・・・」という悲惨な状態に陥ったようです。

喜田川は「江戸の地獄」と言う表現を用いていますが、この言葉が何を意味するのか定かではありませんが、自分の意志に反して、非人間的な状況に陥れられた女性の境遇を指して「江戸の地獄」と呼んでいるのかもしれません。江戸には、自分の意志に反して、遊女とされた多くの女性が存在していたのでしょう。彼女たちにとって、江戸は「穢土」そのもの、地獄以外の何ものでもなかったと思われます(「江戸の地獄」は、幕府が無許可の違法風俗業のことだそうです)。

『吉原と島原』の著者・小野武雄は、「遊女が町医者の許へ運ばれてゆく場合は、ほとんど瀕死の重病人で、治って帰れる場合がなかった・・・」といいます。名もなき女性たちが、遊郭という「地獄」で、死ぬまで、「商売道具」としてこきつかわれ、大病を患うと、ごみくずを捨てるかのごとく捨てられた様をみると、本当に胸つぶれる思いがします。

数年前、山口県立某高校に、ある仕事で勤務していたとき、お昼の休憩時間に、職員室で、ある女性教師と話をしたことがあります。それは、現代の高校生の性風俗についてです。その女性教師は、現代の高校生は乱れに乱れていることを強調して、その原因は、親にあるといいます。親が、自分の子供にきちんと教育しないので、学校がどんなに注意・指導しても効果がないというのです。

その話をききながら、筆者の娘が小学校のとき、親を対象にして開かれた同和教育の席上で、講師の教師が、「小学校では、同和教育を正しく実践しています。しかし、せっかく、人権感覚に富んだ教育をしても、生徒が家に帰って、おじいさん、おばあさん、おとうさんやおかあさんから、差別的な話をきかされると台無しになってしまいます。くれぐれもそういうことがないように・・・」と、部落差別がなくならい理由として、家庭と親に原因があるような説明をされていましたが、山口県立某高校の女性教師が「親が、自分の子供にきちんと教育しないので、学校がどんなに注意・指導しても効果がない」と嘆いていたのも、同じ発想ではないかと思って話を聞いていました。

すると、何を思ったのか、その女性教師はこのような話をしました。「考え方によっては、風俗は必要なのですよね。うちの娘のように、育ちのいい娘を変な男の毒牙から守るためには、風俗の女がきちんと相手をしてくれないとね。そうしたら防げるのよね・・・」。

私は、「何を言い出したの?」と思いながら、その女性の顔をじっと見続けました。どう答えたらいいのか、言葉を捜しあぐねたからです。

すると、その女性教師は、「あら、わたし、何か変なことをいいましたか?」と、私に問い掛けるのです。

私は、ますます言葉を失って、ただ、その女性教師の目をじっと見続けました。

すると、彼女は、「あら、わたしとしたことが、とんでもないことを言ったみたいで。あの、この発言、なかったことにしてください。」というのです。

最近、山口県でもいろいろな事件が発生します。教育現場を舞台にした事件も多発しています。その都度、思うのですが、小学生・中学生・高校生などの生徒がさまざまな事件を起こす背景に教育現場の荒廃があるのではないかと思うのです。それも、教えられる側ではなく、教える側の方に・・・。

私は、彼女にひとこと、このように言いました。
「先生、先生はどのような姿勢で高校生を指導されているのですか。親の立場から気になります・・・」。

そして、福沢諭吉の売娼制度の話をしました。「売娼制度」が如何に残酷なものか、非人間的なものか・・・。その教師のこころにどこまで届いたのかこころもとないのですが・・・。

ある被差別部落でこのような話を聞いたことがあります。
「被差別部落の女性は、遊女の世界でも差別されていたんです。男たちは、部落の女性は穢れているといって抱きませんでした・・・。」

遊女について話をしているときに、男性だけでなく、時として、女性自身から、残酷な言葉が飛び出してきます。私は、その都度、語るべき言葉を失ってしまうのですが、多くの人は、「遊女」の問題を話すときに「的を外す」のです。「遊女」だけではありません。「穢多」について論じるときにも「的を外す」のです。

「的を外す」というのは、聖書では、「罪を犯す」という意味なのですが・・・。

旧約聖書の中に、『レビ記』というのがあります。その19章29節に「あなたの娘に遊女のわざをさせて、これを汚してはならない。これはみだらな事が国に行われ、悪事が地に満ちないためである」とあります。

旧約聖書の言葉によると、「売春制度」と政治の頽廃、社会の紊乱とは、大きな関係があるというのです。

逆からみると、日本の政治の汚職や不正などの腐敗体質(おとなの側の悪)が取り除かれると、教育上のいじめや万引きなどの様々な問題(こどもの側の悪)も取り除かれるのではないかと思います。こどもの荒んだ現状は、おとなの荒んだ現状の反映でしかないのです。

自分のこどもさえ守られたら、人さまのこどもが風俗にはしろうと何しようと関係がない・・・というような教師の姿勢が、今日の教育の混乱を引き起こしているのではないでしょうか。学校の教師が「本音」としてそのような思いを持っているとき、どうしてまともな教育が実践されるのでしょうか。教育することに失敗した教師ほど、社会的に害になる存在はありません。なぜなら、何十人というたくさんのクラスのこどもに間違った観念、倫理・道徳を教えるからです。

教師の語るひとことが、どれだけ、多くのこどもたちに消すことのできない影響を与えているか反省すべきです。

中学校の校長が同僚の若い教師を天井から盗視する事件がありましたが、教育界の不祥事は、いつも、「とかげのシッポ切り」で終わってしまっているようなところがあります。「犯罪を犯したのは例外的存在・・・」と片づけることで、真に解決されていない問題が累積し、腐敗臭を放って教育界を蝕んでいくのです。

郵政事業民営化に反対した自民党員に対して、小泉首相は、徹底した「懲罰」で出ているようです。

「発言の自由」が憲法で保証される日本で、しかも、国会の審議過程で、政策論議を踏まえて、郵政事業民営化反対を唱えた議員を、再選させないように「刺客」を送り込んで徹底的に潰してしまおうとする姿勢、そのためには、なりふりかまわず、「くのいち」と称して女性候補者を大量投入する姿勢、党の方針に従わないことを理由に、反対議員を「自民党から限りなく野党の側に追放する」やり方、「権力」を駆使して発言を封じる姿勢は、今後、日本社会に大きな、深刻な影響を与えること必定であると思われます。

力を持って発言を封じる・・・、そんな風潮が強まるのではないかと思います。

小泉は、参議院の議決を完全に無視しています。参議院も、憲法上定められた「国会」です。これほどまでに徹底的に無視するとは、小泉は、日本国憲法を土足で踏みにじっているとしかいいようがありません。一国の首相が、日本国憲法を恣意的に解釈して、事実上の改憲を行うということは決して許されるものではありません。

「力」ではなく「言」にものを言わせるのが、現代の政治家が政治家たる所以ではないかと思うのですが・・・。逆に「言」を「力」で圧殺する、戦前の軍国主義化への道を想定させるような事態が一般化しつつあるのです。危機感を感じてしまいます。

小泉は、山口県の高校の教師が「自分のこどもさえ守られたら人さまのこどもはどうなってもいい・・・」と考えているように、小泉の「政策に賛成するひとが守られれば、反対勢力や野党はどうなってもいい」という姿勢は、問題解決ではなく、あらたな問題を引き起こす悪しき決断でしかないと思われます。

今後、教育現場においても、こどもたちが「言」ではなく「力」を誇示する風潮が高まるでしょうか。危惧されるところです。

またまたかなり脱線してしまいましたが、この文章は、「穢多と遊女」でした。「穢多」と「遊女」はどのような関係があるのか。

近世幕藩体制下の「穢多」は、当時の司法・警察であり、当時の風俗を取り締まる立場にありました。一方、「遊女」はその取締りの対象でした。「取り締まる側」と「取り締まられる側」は、まったく異なる存在です。筆者は、それを「非常民」・「常民」という範疇で区分しました。

「穢多」と「遊女」は、混同することができない概念なのです。

しかし、「賤民史観」に身を漬けている部落史研究者は、この「穢多」と「遊女」を「賤民」という同一概念で把握しようとします。その最たるものは、関西大学文学部講師の上杉聡です。「賤民史観」に埋没している彼は、部落差別を、解決不能な世界へと追いやるのです。その論理は、「穢多」の歴史的な本質を相対化し、「遊女」と同じ「身分外身分」・「社会外社会」へ追いやる論理です。(続く)
 


周防国・室積の遊女の碑

2005年09月02日 | 第3章 「穢多」の定義

【第3章】穢多の定義
【第7節】穢多と遊女
【第1節】周防国・室積の遊女の碑



昔、カメラのキタムラが「300円カメラ・ガラクタ市」をしていたことがあります。

娘が小学校低学年のとき、夏休みの宿題に、アサガオを観察をするというので、娘が使うカメラが必要になって、その 「300円カメラ・ガラクタ市」へ行ってみたのです。

そのとき、店に展示品で、そのまま中古になった一眼レフの「オリンパスOM1」を、消費税込み309円で入手する ことができたのです。そして、数ヶ月後、200ミリの望遠レンズも309円で・・・。

その「300円カメラ・ガラクタ市」は、定年退職した年配の方々の「カメラマニアの集い」のようなところがあって 、私も、そこでいろいろなことを教えてもらいました。

あるおじいさんとは非常に親しくなって、訪ねたり訪ねられたりする仲になりました。一眼レフのことはほとんど知ら なかった私に、彼は、懇切丁寧に、カメラの基礎知識から教えてくれました。

彼は、「滅びゆくものの姿」を写真にとるのが趣味で、単車で、いろいろなところにでかけているということでした。 彼が、いちばん気にいっている場所が、山口県光市室積の象鼻ヶ崎でした。

象鼻ヶ崎の浜辺には、潮の流れにのっていろいろなものが漂着するそうです。下関海峡から流れ込む日本海流は、北の 国の白樺の流木を運んできます。また、豊後水道を通って入ってきた黒潮は南の国の椰子の実を運んできます。いずれ も波に揉まれて、朽ち果てているそうですが、長い歳月をかけて漂流し、象鼻ヶ崎の浜辺に打ち上げられた白樺や椰子 の実の朽ちた姿は、それだけで写真になるそうです。

一度写真を撮りに行ってみたらいいと勧められて、知人と一緒に、2月の象鼻ヶ崎を訪ねたことがあります。

冬の象鼻ヶ崎は、瀬戸内ではめずらしく潮騒が聞こえます。

港の中は、ほとんど波がなく静かですが、訪ねたときは、浜辺に、真っ赤な椿の花が点々と散っていました。まっかな 椿の花を目で追っていきますと、浜辺の向こうに、瀬戸内の冬の海が見えます。殺風景な冬の海を想定してきたのに、 目にもあざやかな椿の花を見て、不思議な気持ちになりました。

象鼻ヶ崎の先端には、小さなお堂がありました。弘法大師ゆかりのお堂で、案内板には、「願いごとがある人は、お堂の前の浜辺の石をひとつ持って帰って、願いがかなったら自分の住んでいる場所の石をあわせて戻すように・・・」記されていました。

お堂の前の石は、小さな小判形の石です。財布に入れていても邪魔にならないような石ですので、ひとつ持ってかえり ました。

象鼻ヶ崎の話をするときに、「これがその石ですよ・・・」と見せるために拾って帰ったのですが、板書きの説明では 、霊験あらたかなのが、「疱瘡」。特に女性にとっては、疱瘡にかかって顔にあばたができるのは嫌われたようで、よ く女性が石を拾って帰るということでした。

その境内の一角に、遊女の碑がありました。

10センチ角の材木に白いペンキを塗った簡素なもので、その上に、「遊女の歌碑」と記されていました。また、その 側面には、次のような歌が書かれていました。

周防なる御手洗の沢辺耳風の音つれてささ羅波立・・・

私は、浜辺に所狭しと散っていた椿の赤い花と、この「遊女の歌碑」のイメージをダブらせながら、「この椿の花の赤 は、昔の遊女の悲しみを伝えているのかも・・・」と思わされました。

そして、次の日、徳山市立図書館の郷土史料室を訪ねて、この「遊女の歌碑」について調べました。

『風土注進案』に普賢寺に伝わる伝承が紹介されていました。

昔、その地方にある夫婦がいたそうです。その間にひとりの女の子が与えられたそうですが、成長して、摂津の国江口 の里に移って「宇治橋姫」という遊女になったようです。「摂津の国江口」というのは、神崎・蟹島・河尻・乳守・高 須などと同じく「遊里」があった場所です(小野武雄著『吉原と島原』)。

その頃、「性空上人」という人がいて、「生身の普賢を拝せん事を」願っていました。あるとき夢をみます。「所願を 果たさんとせば摂津の国江口に至るべし」。上人は、夢でみた御告げに従って、摂津の国江口にいったところ、遊女の 姿を見つけます。近づいたところ、遊女の歌う歌が聞こえてきます。「周防なる室積の中の御手濯に風ハふかねともさ さら浪たつ・・・」。

上人は驚いて目を塞いだところ、瞼の中で、その遊女が普賢菩薩に化身したといいます。上人は、「実相無漏の大海に 五塵六欲の風はふかねとも、随縁真如の浪たたぬ時なし」と悟ったといいます。

上人が目を開けると、遊女は元の姿に・・・。上人が、舟に乗っている遊女に近づこうとすると、遊女の姿は消えてな くなったといいます。そして、上人の手には、「象尾」が残ったのです。

上人が、周防の国の室積を訪ねて、村人に、何か変わったことがなかったかと訪ねると、村人は、「近頃網して木仏を 得たり、畏憚りて近付ものなし」と聞かされます。上人は、この木仏を祀るために、普賢寺を建立したといいます。

室積村の普賢寺縁起伝説として語り伝えられたものです。

象鼻ヶ崎がある室積浦には、性空上人と遊女について別の伝承が語り伝えられています。「遊女の長者」がでてきます 。仏教の教説とは関係がなく、遊廓を経営する「遊女の長者」が、客が酒を飲み酔いがまわってきたころを見計らって 、遊女に、「周防なるみたらしの澤邊に風の音信て」(客を迎える準備ができたか)と歌えば、遊女が、「ささら浪たつ 」(準備ができました)と返す隠語として使われているようです。

室積は長州藩にとって「重要な役割をになっていた」そうですが、「宝暦」年間には衰微していたと言われます。室積 近辺の漁が思うように収穫できなかったことが原因であると言われています。しかし、室積港は、藩政改革の一貫とし て、港と港町が整備されることになり、「明和」年間には、室積の港と町の活性化が図られたといいます。室積浦庄屋 は、「湯屋の復活によって港町としての室積の繁栄を目論んでいた」といわれます。湯屋というのは、「「汚かき女」 と呼ばれる一種の遊女を抱え、廻船の船頭や船乗りに慰安の場を提供するもの」です。室積浦庄屋の目論見は成功し、 室積は、下関・中関・上関に並ぶ重要な藩の港になっていきます。室積の繁栄は、湯屋(遊廓)の経営者・「遊女の長者 」は、年間500両を越える収入があったことからも察せられます。

バブルがはじけたあと、象鼻ヶ崎を訪ねたときには、木の柱で作られた「遊女の歌碑」はすでになく、代わりに、何と かクラブという、光市室積の企業家クラブが、堂々とした石碑を建てていました。遊女の悲しみを伝えていた「遊女の 歌碑」とはまったく違う、その堂々とした石碑は、経済不況に陥った光市室積をその苦境から救ってくれる「遊女の長 者」の再来を祈るような石碑に思われました。私は、すごく、違和感を感じました。

そして、しばらくして、また象鼻ヶ崎を訪ねたときには、その堂々とした石碑は取り除かれ、木の柱で作られた「遊女 の歌碑」と同じ大きさの石碑が建てられていました。象鼻ヶ崎の冬の海に潮騒と混じって、昔の遊女のすすり泣きの声 が、再び、聞こえてくるようでした。

あるとき、室積の港町を妻と一緒に散歩しました。その辻で、3人のおばあさんが話をしていたので、訪ねてみました 。

「昔の史料を読んでいたら、室積には、遊廓があったそうですが、遊廓跡というのはあるのですか・・・」。
すると、ひとりのおばあさんが、口に指をあてて小さな声でこのようにいいます。
「あなた、いまどき、そんなことを聞いたら、大変なことになりますよ。遊廓がどこにあったかなんて・・・」。
私と妻は、てっきり、断られたのかと思ったのですが、そのおばあさんは、このように言葉を続けたのです。
「ついていらっしゃい。教えてあげますから。」

そのおばあさんの話では、室積の遊廓は悲しい場所であるといいます。「他の遊廓と違って、室積の遊廓は、遊女に子 供を産ませて、その子供にも遊女をさせていた・・・」というのです。「遊女の家は代々遊女をしていた」というので す。「家が貧しくて遊女をしなければならないというのは精神的に苦痛です。そういう苦痛を感じているといい遊女に はなりません。室積の遊女は、子供の頃から遊女であることになじませるのです。本当に悲しいところです・・・」。

「あの、その遊女の家の方は・・・」。
「ああ、今も室積に住んでいます・・・」。

おばあさんは、遊廓跡につくまで、そのような話をとぎれることなくしてくれました。遊廓跡の近くは、「穢多」の在 所であることを告げるとおばあさんはもときた道を帰って行きました。

そのときから、筆者は、「遊女とは何か」、「遊女と穢多とはどういう関係があるのか」、関心を持つようになりまし た。

訪ねた遊廓跡は、「跡」ではなく、建物全体が現存していました。私は、妻を遊廓の門の側に残して、遊廓の玄関を叩 きました。今は、篤志家によって、遊廓の建物が保存されています。その管理をされている女性の方が出て来られて対 応してくださいましたが、はじめて見た遊廓は、ある種の「牢屋」でした。人ひとりしか通ることができない程の狭い 廊下に狭い階段・・・。その奥にある客室。これを「牢屋」と言わないでなんと呼ぶのだろうと思わされました。

筆者にとって、「穢多」の世界も「遊女」の世界も、ほとんど縁のない世界です。

室積の町の辻でであったおばあさんが話していたことが真実であるのかないのか、筆者は、確認するすべはありません 。

『特殊部落一千年史』の著者・高橋貞樹の若き日の伴侶、小見山冨恵は、山口県光市の「昔の遊廓の、今は侘しい一隅 で、六畳一間の二階」を借りて晩年を過ごしていました。彼女を訪ねた沖浦和光は、彼女は、「若い時から婦人運動・ 反戦運動に参加し、高橋と同じ頃に逮捕されて獄中にあった。戦争中は、瀬戸内海のハンセン病棟で看護婦として働か れた」。彼女の住む部屋は「壁面は全部本で埋まり、80歳をこえてなお読書に励んでおられた」といいます。

光市にある、昔の遊廓を捜し当てたとき、その管理者の方に、「小宮山冨恵さんという方をご存知ではありませんか・ ・・」と訪ねたが、何も知らないということでした。

そのあとも、ときどき思い出したかのように、その遊廓跡を妻と一緒に訪ねたのですが、「忘却」の壁に阻まれて、ほ とんど情報を収集することはできませんでした。訪ねる都度、わたしの脳裏には、象鼻ヶ崎の「遊女の歌碑」と、真っ 赤な椿の花、そして、遊廓の2階に身をおいて晩年を過ごした女性解放運動家の姿が交互に思い出されます。(続く)
 


『西洋紀聞』・長助とはるの物語

2005年09月02日 | 第3章 「穢多」の定義

【第3章】穢多の定義
【第6節】穢多とキリシタン
【第6項】長助とはるの物語



『西洋紀聞』に記されているイタリアの宣教師・ジュアン・シドチ(以下、村岡がいう日本語風にシロウテと呼ぶ)につ いて考察するとき、筆者の視点は、『部落学序説』の視点と同じ、「百姓」の視点と同じです。

権力者の立場からではなく、権力によって支配されている被支配者の側、民衆の側に立って、考察することになります 。

新井白石は、宝永6年から正徳5年(1715)の7年間、第6代将軍・家宣、第7代将軍・家継に儒学者・政治顧問として仕えましたが、「家宣の将軍就任後、その特命によって宝永6年11月から12月にかけ、4回の尋問をおこなった」(『西洋紀聞』教育社/原本現代訳)といいます。

白石のシロウテに対する取調は、多角的な視点から実施されていますが、ときには、シロウテの個人事情にまで踏み入ってこのような対話をします。

白石から、身の上を問われたシロウテはこのように答えます。

「父は・・・死して既に11年、母は・・・猶今ながらへて世にあらんには、是年65歳也。・・・兄弟4人、長は女也。幼にして死す。次は兄也。・・・次は我、是年41歳、次に弟あり。11歳にして死して、既に20年。・・・我幼よりして、天主の法をうけ、学に従ふこと22年、師とせしもの16人・・・、6年前に、一国の推挙により宣教師になされたりき。・・・師の命をうけて、此土に来るべき事を、奉りしよりして、此土の風俗を訪ひ、言語を学ぶこと3年・・・。」

そして、3年前、日本に行く直行便がないので、いろいろな国の船を乗りついで、時には、難破の危険に遭遇しながらやっとの思いでルソンに到達したというのです。ルソンの日本人村の住人から、日本の風俗・言語を学びましたといいます。

ありのまま、自分の身の上を語る宣教師・シロウテに、白石は、このように問いかけます。

「男子其国命をうけて、万里の行あり。身を顧みざらむ事は、いふに及ばず。されど、汝の母すでに年老いて、汝の兄も、また年すでに壮なるべからず、汝の心においていかにやおもふ」。

白石の問いにシロウテは、日本宣教の使命があたえられたとき、年老いた母も兄も、キリスト教宣教のため、国のため、「これ以上の幸せはないと喜びあった」と答えます。「いきて此身のあらむほど、いかでかこれをわするる事はあるべき」といいます。

新井白石は、宣教師・シロウテの取調べに際して、シロウテの「自分史」まで聞き取ろうとします。

しかし、シロウテの「自分史」を聞いたのは、新井白石だけではありませんでした。そのキリシタン屋敷の中で、獄舎の掃除や、囚人の料理を作っていた、長助とはるという非人の夫婦もこの話を聞くのです。

長助とはるが「非人」であるというのは、幕府から、そのように命じられて、長年に渡ってその仕事に従事してきたからです。獄舎の掃除や囚人の食事の世話は、長州藩の支藩である徳山藩の記録によると、「穢多」身分の「小番」という役がこれにあたります。長助とはるは、その職務上は、「被支配」ではなく「支配」の側に身を置いていたのです。

幕府が、狂気の中、キリシタン糾弾や弾圧をしている真っ最中なら、長助とはるは、キリシタン関係者として、キリシタンと同じ罪で斬首に処せられたと思われます。しかし、その時は過ぎ去り、江戸の民衆からキリシタン糾弾や弾圧の悲惨さを遠ざけることを幕府の方針としたあとであったため、長介とはるは命拾いをするのです。それぞれの両親は処刑され、そのあと、キリシタン・バテレンに引き取られていたのです。長介とはるは幼くして殺すにしのびないと思った幕府は、キリシタン屋敷に囚人として送られてくる「宗教犯罪者」の身の回りの世話をする役を与え、長助とはるを生かすのです。そして、長助とはるが年頃になったとき、二人を夫婦にします。

新井白石がキリシタン屋敷内の獄舎を視察したとき、新井白石をはじめ、キリシタン奉行の役人を晩秋の冷えた土の上に土下座して迎えたのは、この長介とはるという老夫婦でした。

新井白石は、役人から、長介とはるについてこのような説明を受けます。

「これらは、其教をうけしなどいふものにはあらねど、いとけなきより、さるもののめしつかひし所なれば、獄門を出る事をもゆるされず」。

つまり、長介とはるは、キリシタン関係者あるいはキリシタンと接触のあったものとして、キリシタン屋敷の中では、「非人」の役を担っているが、幕府は、彼らをキリシタンと同類とみなしているので、キリシタン屋敷の外にでることはできない・・・というのです。

江戸や大坂だけでなく、日本全国にあったキリシタン屋敷(宗教刑務所)の中では、同じような様相がみられたのではないでしょうか。

長介とはるのような存在は、日本全国のキリシタン屋敷のある穢多村の中に存在していたのではないかと思います。しかし、いずれの場合も、近世幕藩体制下の司法・警察としての「穢多・非人」としてではなく、準犯罪者として「軟禁状態」に置かれていたのです。キリシタン屋敷あるいは穢多村という限られた世界でのみ、少々の自由をゆるされていたに過ぎないのです。

キリシタン屋敷の中では、キリシタンとキリシタンを糾弾したり弾圧したりするものとの間の人間的な交流が存在していたのです。中には、司法・警察である同心・穢多・非人の中から、キリスト教への改宗者が生まれてきますし、キリシタンの中から「転び」と称される背教者が生まれ、その人たちが、権力の命のまま、「非人」役を命じられる場合もあったのです。『切支丹風土記』にもいろいろな実例が紹介されています。

長介とはるは、キリシタン屋敷に幽閉されていた宣教師・シロウテから、彼が新井白石に語ったのと同じ「身の上」話を聞かされます。

そして、時が経過して、正徳4年の冬、長介とはるは、キリシタン屋敷の役人に「自首」をするのです。

キリシタン屋敷に幽閉になっていたキリシタン・バテレン、黒川寿庵から、キリスト教の教えを習っていたこと。キリシタン屋敷に幽閉となった宣教師・シロウテから、「キリスト教のため、身の危険もかえりみず万里の波頭を越えてやってきたこと。とらわれの身になっても、獄舎の中で、自分で作った紙の十字架を前に、執り成しの祈りをしていること。その姿をみながら、次第に熱いものがこみあげてきたこと。そして、シロウテから洗礼を受けて、シロウテと同じ信仰に生きるものとなったこと。最初は隠していたが、次第に、内側からこみあげてくる熱いものに抗しきれず、「我等、いくほどなき身を惜しみて、長く地獄に堕し候はん」という思いが募って沈黙を守ることができなくなったこと。

長介とはるは、キリシタン屋敷の役人に告白するのです。

キリシタン屋敷の中に幽閉中に、宣教師シロウテが、キリシタン屋敷の囚人の世話をする「非人」、長介とはるを入信させたことを知った幕府は、シロウテ、長助、はるを別々の牢屋に繋ぎます。

シロウテは、「其真情破れ露はれて、大声をあげて、ののしりよばわり(キリシタン屋敷の役人にはそのように聞こえた)、彼夫婦のものの名を呼びて、其信を固くして、死に至て志を変ずまじき由をすすむる事日夜に絶ず・・・」と、記されています。

宣教師ヨハン・シロウテは、座って身を容れるだけの数尺の牢に閉じ込められます。

キリシタン弾圧の際に使用された一辺数尺の牢(3尺牢)は、津和野のキリシタン殉難の地「乙女峠」にそのひな型が展示されています。ヨハン・シロウテは、立つことも、横になることも、姿勢を変えることもできない数尺の牢の中で、わずかな粥以外何も与えられませんでした。

シロウテは、泣きながら、日本人は残酷である・・・と訴えたといいます。

しかし、シロウテの言葉に耳を傾けるものは誰もなく、シロウテは、「牢番の者両人に、切支丹宗門を勧め入たるよし」(『長崎実録大成』)を以て、「冬月極寒の砌、凍死せし・・・」(同書)と言われます。シロウテの死因は、「凍死」とも「餓死」とも「病死」とも「憤死」とも伝えられています。シロウテの死は、おそらくそのすべてに該当したのでしょう。長助とはるが獄中で病死した2週間後のことでした。

幕府は、キリシタン弾圧の必要性を再確認し、キリシタンの探索・摘発・糾弾の機関としての宗教警察機能を担う「穢多」制度を、あらためて、再整備していきます。

津和野の乙女峠を訪ねる都度、私と妻は、いつも涙ぐみます。

「もし、そこに救われるべきひとりの人がいるなら、神は、多くの犠牲をはらって、そこに宣教師をおくりたまわん」。

江戸の小石川のキリシタン屋敷に生涯軟禁状態におかれ、江戸の庶民から見捨てられたような日々を過ごしていた「番人」の老夫婦・・・、幼き日に芽生えたキリスト教信仰を棄てることなくその救いのために、神は、はるか遠く地より宣教師をおくりたもうた・・・、キリシタン弾圧の背後に神の愛を見る思いをするからです。

近世幕藩体制下の司法・警察である「番人」の中から「キリシタン」が生まれる、「なぜこのような事情が生じたのかは、重要かつ興味深い研究テーマである」(寺木伸明)が、キリスト教信仰の何たるであるかを十分に把握しない限り、解明することは難しいと思われます。日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を払拭しないと、闇の中に輝く目にみえない光を認識することはできないのです。(被差別部落出身だから、差別されたものの痛みや苦しみが分かるというのは、幻想に過ぎません。被差別部落出身者ではないからこそ、見える差別の痛みというものも存在するのです。)