部落学序説

<常・民>の視点・視角・視座から見た<非常・民>である<穢多・非人>の歴史的真実の探求

「庶民」と「部落民」

2006年03月03日 | 付論 市民的権利について

【市民的権利について】 「庶民」と「部落民」


インターネットを散策していて、「奈良県部落解放同盟支部連合会」「基本理念」に遭遇しました。副題は、「部落差別の軛から自らを解き放つための21世紀初頭の新しい運動の基調」。一読していて、この「基本理念」と、筆者の『部落学序説』の内容とがかなり酷似しているので、驚いてしまいます。

筆者は、どちらかいうと、アナログ世代の人間ですので、インターネットに興味を持ち出したのはつい最近のことです。そのインターネットから情報を収集しようとすることは、ほとんどなかったのですが、『部落学序説』をココログ上で書き下ろすようになったのがきっかけで、インターネットの情報を散策するようになりました。

「奈良県部落解放同盟支部連合会」「基本理念」も、筆者が、『部落学序説』の執筆をはじめる前に、すでに存在していたようですから、一読する価値がありそうです。

「基本理念」は3部構成です。

Ⅰいま、なぜ新しい運動路線なのか。
Ⅱこれまでのわれわれの運動のどこに問題があったのか その隘路を打開するための発想の転換のポイントは何か。
Ⅲ新たな発想で、「なにを」「どうする」のか。21世紀のわれらの運動の基本的理念と路線。

Ⅰいま、なぜ新しい運動路線なのか。

「生活水準における部落内学の較差はなくなった。しかし、部落差別は存続している。」という現状認識に立って、「人と人との新たな関係を再構築」することを目標に掲げて、従来の部落解放同盟の「運動路線」から「決別する」といいます。

「基本理念」は、「93年総務庁「同和地区実態把握等調査」の結果」から、「トリプルショック」を受けたといいます。
1.「部落民の被差別体験の多さ」(10年間の奈良県の差別事件5000件)
2.「部落民が差別に真正面から向き合えていないこと」(差別を受けても抗議しない人が100人中80人)
3.「運動団体が差別問題の解決をめぐって部落大衆から頼りにされていない」こと。運動団体に相談したのは、80人中2人のみ。
「基本理念」は、この「現実」「深刻」かつ「口惜しくもつらいこと」と受け止め、「自らの運動を根本から見直す道」を選択したといいます。

Ⅱこれまでのわれわれの運動のどこに問題があったのか その隘路を打開するための発想の転換のポイントは何か。

「基本理念」は、運動の見直しとして5項目を列挙します。
「部落とは何か」「部落民とは何か」「部落解放とは何か」「定義」すること。
「社会主義革命」などの「幻想」を捨てること。
③部落差別は、「社会的、経済的、文化的」較差の是正によっては実現できないこと。
④差別・被差別を問わず、「自他共々にその弱さを克服していく道を切り拓いていく」能力を与えられていることを確認すること。
⑤教育や啓発の場における「建前と本音の乖離」を退け、差別なき社会のために差別・被差別を超えて「具体的な営み」を展開すること。

Ⅲ新たな発想で、「なにを」「どうする」のか。21世紀のわれらの運動の基本的理念と路線。

(1)「部落とは何か」「部落民とは何か」「部落解放とは何か」について、「基本理念」は、「部落」「近世の時代に「カワタ」「エタ」と称された身分」の系譜を引く「集落」と位置づけ、「部落民」をその末裔と位置づけます。「部落解放運動」については、「賤視、忌避、排除等の形態で出現する部落差別を媒介として成り立つ人と人との関係及び共同体相互の関係を解体し、共生と連帯の関係として再構築しようとする営みである。」と定義します。
(2)「基本方針」は、差別社会の中にあって「あえて部落民であることをひきうけての個人的あるいは社会的な戦い」を続け、「部落民」として「自らの意識の中に背負い込んできたコンプレックス(劣等感)を払拭する」人間関係を新しくつくっていく。
(3)「部落問題を政治的課題としてではなく地域社会の課題として位置づける」。
(4)差別事象に対して「異議申し立て」をする。
(5)「私的な日常生活の場での差別的言動」に対して従来の「糾弾闘争」は組織しない。従来の「糾弾闘争」は、「公的な場での発言、法や規制、制度や措置」に限定する。「政治闘争」から「司法(裁判)闘争」に切り換える。
(6)部落固有の行政闘争を避け、「政治の仕組みに泣かされている庶民と・・・共同の闘い」をしていく。

筆者は、「奈良県部落解放同盟支部連合会」「基本理念」をそのように読むのですが、すべての文言が筆者の臓腑に落ちてくるわけではありません。

(1)「奈良県部落解放同盟支部連合会」が過去の「運動路線」から「決別」したい気持ちは分からないわけではありませんが、「決別」と同時に、過去の「運動路線」とその成果に対して徹底的な総括が必要です。「運動路線」から「決別」しても、運動の歴史と「決別」できるはずもありませんから・・・。
(2)「部落とは何か」「部落民とは何か」「部落解放とは何か」の定義に関して、「豊かな肉付けを期す」とありますが、現在まで、どのような「肉付け」がなされてきたのでしょうか。「部落概念」の拡大がなされる中での「部落概念」の縮小論に立つ「奈良県部落解放同盟支部連合会」の研究成果は、「基本理念」と同じく、挑戦的に公にされるべきではないでしょうか。
(3)差別・被差別を超えた、「庶民」との共同の闘いは、どのようにして可能なのでしょうか。その認識・理念はなになのでしょうか。

いくつか疑問点が浮上してきますが、「奈良県部落解放同盟支部連合会」「基本理念」を、「被差別」の側からのひとつの「問い」であるとしたら、筆者の『部落学序説』は、「差別」の側からのひとつの「答え」のような側面があるのではないでしょうか。「差別」の側からの、『部落学序説』の「部落とは何か」「部落民とは何か」という問いに対する「部落」「部落民」に対する定義に対して、「奈良県部落解放同盟支部連合会」の方々はどのように受け止められるのでしょうか。『部落学序説』を書き上げた時点で、「奈良県部落解放同盟支部連合会」の方からお話をうかがいたいと思っています。

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※「あえて部落民であることをひきうけての個人的あるいは社会的な戦い」
『部落学序説』の筆者の目からみると、「奈良県部落解放同盟支部連合会」の「基本理念」の1節は、『部落学序説』第5章水平社宣言批判の論述にとって、貴重な資料になります。水平社運動の時代、「自分達は穢多の末裔であるが、特殊部落民ではない。しかし、この時節、あえて特殊部落民であることを引き受けて・・・」運動に参加した少なからぬ人々が存在しています。『部落学序説』の筆者は、「あえて部落民であることをひきうける」ということばの中に、水平社宣言の秘めている、隠され、評価されていないプラスの部分があると思っています。日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に帰依する学者・研究者・教育者・運動家は、このプラスの部分をこれまで切り捨てて省みませんでした。「あえて部落民であることをひきうける」ということばの中に、「庶民」と「部落民」の共存の道、部落差別完全解消への萌芽が宿っていると確信しています。このことばは、近世幕藩体制下の由緒正しき「百姓」の末裔である筆者からは決してでてくることのないことばです。近世幕藩体制下の「穢多」の末裔が語るとき、はじめて、歴史の真実の重みが付け加わります。『部落学序説』第5章水平社宣言批判は、「批判」であって「非難・中傷」ではありません。「部落学」としての学問的な批判に徹することで、マイナスの部分も明らかになる以上に、プラスの面をも描きだすことができます。