ここではないどこかへ -Anywhere But Here-

音楽・本・映画・サッカーなど興味の趣くままに書いていきます。

J1第7節 FC東京対ジュビロ磐田(調布・味の素スタジアム)3-1

2006-04-10 21:20:14 | サッカー
今日は勝てるというような予感めいたものを試合開始の割と早い段階で感じることがごくたまにだが、ある。
今日は試合が始まって5分でシュートを放ったころから、これはいけるんじゃないかと思った。
なぜ、そういう感じがしたのかというとやはり選手の動きである。
それも個々の選手の動きというよりも全体の動きとでも言おうか。
同じチームをずっと見ていると、今日は動けているなとか、
今日は動きが鈍いなというのが何となく分かってくるようになる。
動き出しがシャープで全員が連動しているかのように同じベクトルを持って動いているときには、やはり勝ててきた。
そうした既視感のようなものが、冒頭の「予感」につながっているのではないだろうか。

しかし、よく一週間でここまで修正できたと思う。
相手に合わせるのではなく自ら仕掛けてボールを奪うという意味では、
よく東京らしさを取り戻したゲームだった。
限界を露呈した徹底したマンマークをあっさりと放棄するあたり、
ガーロ監督の戦術は思ったよりも柔軟性があるのではないか。
伊野波は名波をマークしていたが、それだけには終始せず、
機を見て攻撃参加することで、攻撃のオプションを増やしていた。

この試合でのポイントを3つあげてみたいと思う。
ひとつは言うまでもなくルーカスの復調である。
あれだけ苦しんだルーカスが1試合で2得点と、ようやく目覚めたことである。
得てしてこんなもの。ストライカーにとっては決めることによって、吹っ切れるということがあるのだろう。
今後ブレイクしてくれればうれしい。

二つめは伊野波である。ルーキー伊野波はここまでのガーロ戦術のひとつのアイコンだった。
彼の徹底したマンツーマン・ディフェンスが戦術のキーとなっており、
川崎戦や京都戦ではそれが一定の成果を収めてきた。
反面、攻撃の枚数がどうしても減るわけで、
堅守速攻という東京の本来の良さがどうしても消されてしまう。
横浜戦ではそのマイナス面がもろに出てしまっていたこともあって、
今回は前述のように伊野波の役割をフレキシブルに設定した。
加えて、磐田の中盤のプレスがあまり効いていないこともあって、
後半はその象徴的存在の伊野波に代えて宮沢を投入してきたこと。
宮沢の長短のパスを織り交ぜることによって、終盤運動量の落ちてくるところをかく乱させた。
こうした柔軟性の高い采配が功を奏したのいうのはこの試合の大きなポイントだった。
栗澤の駄目押しの3点目は、宮沢→今野と繋がったボールを栗澤が流し込んで決めたゴールで、
ガーロの采配が奏効した場面だった。

そして、三つ目は増嶋である。
FC東京が今後優勝を争っていくためには言うまでもなく増嶋の成長は必須である。
ジャーンと茂庭という高い壁を乗り越えて、
彼が試合に出て安定したパフォーマンスを残していかなければ東京の将来もまた危うい。
今期の増嶋はジャーンの怪我もあって起用されてきているが、
ここ2試合ほどは必ずしもそれだけではないのではないか。
横浜戦での安定した守備と値千金のゴールあたりから、一皮向けてきた。
試合で使われることによって、目に見えて自信が身についてきているように見える。
試合で成長している。
ジャーンの怪我ということとは関係なしに、増嶋のパフォーマンスが純粋に評価されての起用だと思うのだ。
増嶋の成長は東京の、若手を競わせて育てながら闘っていくというコンセプトを具現化しつつある。
それは見る者にとっても純粋にうれしい。

それにしてもサッカーは水物だと思う。
相手あってのことだし、先週とは見違えるように変わったと思っていても、
来週も同じパフォーマンスを出せるかはまったく分からない。
Jリーグが世界でもまれに見る実力の拮抗したリーグでもあるからなのだけど、
メンタリティのありようもまた大きい。
今回は選手が奮起した。そしていい勝ち方をした。さて次である。
修正をして成果が出てたら、次も安定した戦い方の出来ることが勝者のメンタリティである。
そういう意味ではカップ戦で再び相見える横浜、オシム率いる千葉との連戦というのは相手も申し分なく、
今シーズンを占う上で大きなポイントになると思う。

山口瞳の人生作法/山口瞳 ほか

2006-04-10 20:47:16 | 
曇り。

ブログを始めるときに意識したのは、山口瞳の「男性自身」だった。
いや、とても恐れ多いことで氏のように書けるなどと、大それたことを思ったわけではなくて、
「男性自身」のような物事の捕らえ方と”続ける意思”を持って書きつづけられればいいなと思ったのである。
あとは植草甚一のように好奇心が縦横に広がる感じで、興味の赴くままにいろんなことを書いて残しておく日記にしたかった。
このブログのコンセプトというか目指すところはそんなところにあって、山口瞳という存在は文章を書いて残すという作業において、
私の中では非常に大きな存在である。

この本は、山口瞳を偲んで編纂された文集で、治子夫人、子息の正介氏を始め、
山口瞳に所縁のある人たちが氏との思い出やエピソードを綴っている。
本人のエッセイ風の文章も所蔵されているが、やはり読んでいて心動かされるのは結婚前に夫人に送ったラブレターの数々である。
夫人にしてみれば、このような極私的な内容を公開するには躊躇いもあっただろうと思う。
こういった類のものは本来当事者二人だけの胸に大事にしまっていとおしく慈しむべきものであろう。
他人、しかも出版を通じて不特定多数の読者に開陳されていることを思うと、やはり心して読まねばと思う。
それなりの意図を持って公開されたものであろうから。
若さが横溢した手紙の数々は瑞々しい。そして氏の不器用さが垣間見られて微笑ましくなってしまう。
若く不器用な二人のストレートな愛の交歓に、山口瞳夫妻の剥き出しでひりひりとするような人間性が伝わってくる。

山口瞳氏は非常に不器用な人だったそうである。そしてその不器用さゆえに愛された人でもあった。
自分はどこか器用には生きられないな、と思っている私のような人間にとって「男性自身」は道標のようでもある。

江分利満氏はブログ隆盛、日記で溢れかえったのこの時代をどう見ているのであろうか。聞いてみたい気もする。