フリーターが語る渡り奉公人事情

ターミネイターにならないために--フリーターの本当の姿を知ってください!

気になるマンガーー絶望の階級社会?

2006-06-20 21:58:51 | 映画&本
デスティニィーーー運命ーー

作画:河 承男  原作:倉科 遼  企画:フリーハンド
https://www.j-n.co.jp/cgi-bin/product_detail.cgi?code=20834-0124-06


貧乏暮らしが続くと、近所の小さい本屋やコンビニで立ち読みするマンガが数少ない娯楽となる。なかなかアルバイトが見つからなくても、コストなしで楽しめる。アルバイトに入るときには、見知らぬ人との共通の会話の糸口となり、コミュニケーションがとりやすくなる。

なかでも、階級問題についても臆せずとりあげているマンガがある。
倉科 遼原作の「デスティニィーーー運命ーー」だ。
実業日本社の週刊マンガサンデーに連載中で、今連載23回目だ。
この作品は、近年の日本のマンガにしては珍しい。日本のマンガは私小説の系譜を引いて、ごく狭い世界を描く傾向がある。そのなかでこのマンガは、個人の運命と社会や経済の動きの両方を描いてみせる。プロレタリア文学でもなく、私小説でもない、たいへんバランスのとれた世界観を「デスティニィーー運命ーー」は描いている。それは、この作品が優れていることの証明となっている。
原作は日本人でも、作画は韓国人というとりあわせもいい。今の日本のマンガ家は、絵はうまくてもストーリーや世界観を示せなくなって久しい。萌えるキャラを作ることは上手でも、世界または社会を描くためには、韓国のマンガ家に頼むのがいいに違いない。

ストーリーは次のとおり。
この物語の主人公・将は、大金持ち北条家おかかえの運転手の子どもとして生まれる。同じ日の同じ時刻、北条家にも麗奈が誕生する。ふたりは一時は結婚を誓い合ったが、北条家と成り上がりの金持ち五条家とのむすびつきのために、麗奈は達也と結婚することに。将は、北条家を追い出されてしまう。
麗奈への思い断ちがたい将は、香港に渡る。そこで、ホテルを経営するフェニックス・グループ・劉(ラウ)家のお嬢様・碧琶(ペクハ)と結婚する。だが、それは成り上がるための結婚だった。しかも、そのため、将は闇社会の仲間とともにペクハの兄を暗殺することになる。
フェニックスグループの中で出世した将は、東京でのホテル事業をまかされ、再び日本に舞い戻る。そこで麗奈と再会。麗奈はちょうど、五代家に北条家の土地を手放せと迫られ、実家との板ばさみになっていた。それに麗奈と将はまだ相手のことをあきらめてはいなかった。互いに五代家・劉家を切って結婚しようと二人は計画を練る……。

階層が分極化する世界のなかで、貧しい家と豊かな家の人間が、はじめは愛のために、次には打算として結婚するように変化してゆく様は、まさに現代という時代を象徴している。
金持ちでなければ好きな女性とつきあえないし、上流の社交界で相手にされなければ結婚もできない。だから将は、人を殺してまで成り上がった。
一方、麗奈は、常に相手が財産の豊かな男でなければつきあわない。彼女は自分の家の財産の価値をよく知っており、自分と自分の家を安売りしないのだ。
甘い家族幻想、現実離れした「身分や階層を問わず愛し合える」とする恋愛幻想は、この作品世界には存在しない。常に利害の衝突が起こり、家族だからこそ相手を疑い、時には抹殺しようとさえする。そうした現実的な血なまぐささ、人間の業をエンターテイメントとしての質を保ちながら読者に示してくれる。
それは、「がんばってコツコツやれば幸せが手に入る」という物語がもはや信じられなくなった時代のマンガなのだ。
将がなりあがるのは日本ではなく香港が舞台というのも考えさせられる。日本では、家柄・学歴のない人間が出世する抜け道が、他の地域・国よりも機能していないことの反映なのかもしれない。もしも将が日本で成り上がったら、まったくリアリティのないお話になってしまうだろう。

このマンガがこの先どういう展開をたどるのかは、まだわからない。しかし、タイトルがズバリ「運命」とある。ということは、あくまでも宿命論から脱出しないことを前提にしているのだろう。運命の糸で結ばれた二人にしか階級・階層の壁は越えられない。階級の運命とカップルの運命との狂想曲。(同じ日に生まれたから結ばれる運命、という世界観はあまり豊かではないとはいえ。)
そこに運命からの自由はないように見える。それは、一般の読者の夢と現実感に対応しているのだろう。


なぜ・どうして掃除が残る

2006-06-20 20:06:22 | 日常生活

注意! 食事中の方は、この記事を読まないでください。吐き気をもよおすおそれがあります。特にゴキブリぎらいの方はご遠慮ください。

今のすまいは狭い。10年ほど前に、死に場所を求めるように引越ししてきた。その前は、東大阪のほうにいた。そこでわたしはフリーター生活をはじめた。そして、年収の計算も、労働基準法も組合も何も知らないまま、主観的な孤立感を深め、なんとか現状から逃げ出そうとして、引越しをした。親福祉を使っての、逃避行だった。東大阪の家は親類の持つ物件だった。何かと問題のある親類で、いろいろといやがらせを受けることは、母とわたしにとって耐え難いことだった。そこからの距離を求めての脱出だったこともある。長岡京がアルバイト先で知り合った友人の近所だったことも、引越しした理由のひとつだった。つてのまったくないところに一人で行くのは勇気がいることだ。当時、まだ20代初頭だったというのに、アルバイトと仕事探しと貧乏ぐらしで疲れたわたしには、一人で冒険する勇気などなかった。

それから10年。はずかしいことに、家の掃除がまるでできていない。
自分でも思っていた以上にひどいうつ状態だったようだ。ある社会保障法の解説書を見ると、福祉のために役所に手続きをするいくつらかの用件のうち、一時はすべて満たしていた。いっときは、ロクに食事もとれなかった。
今も、うつで職探しがうまくいかない。あまりにちらかった部屋にいると、それだけでうつがひどくなって悪循環になる。不思議なもので、そうなると、小さいころからの自分の人生や自分と縁のあった人や環境のすべてが悪かったように思えてくる。それで自己嫌悪して、ウツがひどくなったりもする。

ゴキブリもずいぶん繁殖している。黒いのや茶色いのなどいろいろいる。中には、大型化してやたら飛行するようになった個体もある。バッタが大量発生すると、大型化し羽も長くなるタイプが出現するという。ゴキブリも繁殖して別の地域に移ってゆく必要がでてくると、別のタイプがあらわれるのだろうか? 
はじめはまあいいかと放っておいたが、夜中に足音がうるさいし、ゴキブリは衛生害虫に指定されている。玄関のドアを開けて部屋の奥のほうにいるときに、ギャング・エイジ期とおぼしき子どもたちが「ウワサは本当だった!」「ここ、誰かが死んだん?」などとはやしたてている。家主さんも、もっと部屋をきれいに片付けろと言ってくる。
こうなると、もうゴキブリを観察している余裕はない。ゴキブリホイホイとホウ酸団子で駆除することにする。最初はかんたんにワナにひっかかっていたゴキブリたちにも学習能力はある。だんだんとひっかからなくなってくる。それでも、ゴキブリホイホイでもう300匹はつかまえた。
なんだかとてもかわいそうな気がする。けれど、家主さんとの契約書にも部屋をキレイに使うとする条項もあるので、仕方がない。

まだいつものように会社の仕事があったり、一日の大半を面接ですごしていた時期のこと。家の中の掃除はあとまわしになっていた。食事は一日一食程度は食べていた。服は、人と会うので、ルーズになってもなんとかこなしていた。十代半ばのころは、「片付け上手」だった。なのに、今では別人のようだ。

先日、ある引越し業者ににする会社に電話連絡して、部屋のクリーニングだけでも依頼できるかどうか、たずねてみた。それでもOKだと電話受付の人が言う。
さっそく、下見に来てもらった。「失礼かもしれませんが、ずいぶん汚れていますねー」とコメントされる。増殖したゴキブリが壁や冷蔵庫などあちこちにフンを残している。で、拭き掃除は少しずつしかできない。結局、ゴキブリの圧勝。地球が再び氷河期になっても生き残ると推定される生物に、疲れ果ててビョーキしてる人間が、一人で勝てるわけありません。ゴキブリさまは偉大で高貴!
結局、2人が3時間でいらないゴミをまとめて引き取ってもらう。そのあと、時間があまれば掃除もやる。ということで10万円。田舎の母に連絡すると、「それでもいいからやってもらいなさい」とのこと。

ということで、ここ数日、自分でできる範囲のゴミを捨て、部屋のふきそうじをしていました。忙しいやらゆううつで頭が痛く・重く、スムーズに動けないやら、意識や記憶がときどき薄らいだりとだえたりするといった状態が、今でもときおり訪れるのです。それがどういう周期を描くのか予想できないこともあって、苦しいのです。

明日以降、部屋がスッキリしたら、ゆううつも晴れるかな、とちょっぴり期待しています。

それにしても、片付けがしにくいほど人を拘束する企業の労務管理もなんとかならないものか。うつでも、うつでなくても、こうした「片づけができていなくって」
「家事のなかで、片づけが一番後にならない?」的状況は広まっているわけで、ワーク&ライフバランスの問題として考えてゆきたいと思っています。
また、少しものを買い込めば、何かを捨てねばならない。となると、貧乏人はわずかの財産ももつな、ってことですよね。なので、行政がもう少し一人暮らしの人むきに広い家を提供する政策ができないかどうかを提案するきっかけとして、このエピソードが使えないかと考え、ここに記しておきます。同じような悩みをもった方がいらしたら、恥ずかしがらずに体験や意見をメール・コメントなどでお寄せください。

(このブログを建てるのは、もはやわたしの“仕事”ですので、なんとかなるみたいです。)