アブソリュート・エゴ・レビュー

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シッピング・ニュース

2015-04-01 22:25:06 | 映画
『シッピング・ニュース』 ラッセ・ハルストレム監督   ☆☆☆☆★

 ハルストレム監督の『シッピング・ニュース』を、日本版ブルーレイに買い替えて再見した。

 私はこの映画が前から好きで、何度も観ている。私がハルストレム映画の美点と考えるものがことごとく備わっているからだけれども、どうも一般の評価はそれほど芳しくないようだ。私が考える「ハルストレム映画」のイメージは世間一般のそれとは乖離しているらしい。最初に断っておくと、私はこの映画を「人生に絶望した男が父祖の地に戻ることによって癒され、再生していくヒューマン・ドラマ」としては見ていない。もちろんそういう要素もあるが、重視していない。だからそういうものをこの映画に(あるいはハルストレム監督に)期待する方々にとっては、私の感想はあまり役に立たないかも知れない。

 ついでながら、本作の制作にあたっては脚本や編集についてハルストレム監督と映画会社が公開直前までもめたという噂があり、それを根拠に、だからこの映画は不出来と断じる向きもあるが、私はそういう周辺事情を作品の評価と結びつけることには賛成できない。また、仮にハルストレム監督自身が本作の出来に批判的だったとしても、私の意見は変わらない。作者とは自分が何を産み出したのか知らない者の謂いである、という言い方が極端だとしても、創作者が作品のことをもっともよく理解しているとは限らないし、当然ながら制作環境が良かったら傑作になり悪かったら駄作になるというものでもない。映画を評価するには、映画自体をよく見る以外に方法はないのである。

 物語の舞台はニューファンドランド島の厳しくも美しい自然と、その中にある箱庭のような小さな町である。凍てつく海とそそり立つ大地の狭間に、人々のささやかな営みがある。都会の生活と人間模様に疲弊した主人公クォイルとその娘バニー、そして叔母アグニスは、物語の開始早々父祖の地であるこの島へやってくる。島と町がたたえる寂寥感は「世界の果て」の偏愛者ハルストレム監督ならではであり、この清澄さみなぎる研ぎ澄まされた空気感は『サイダーハウス・ルール』と同種のものだ。

 何をやらせてもダメなクォイルは妻に裏切られかつ死なれたショックで心神喪失状態となっていて、叔母に引っ張られるようにしてニューファンドランド島へ到着する。子供の頃父親にプールに叩き込まれ溺れかけたことがトラウマのクォイルは「ぼくは海は苦手なんだ」とこぼしながら、また50年前から空家という家のボロさに閉口しながら、やむなく島で仕事を探し、馴れない記事を書き、バニーを学校に連れて行く。やがて友人が出来、子連れの未亡人ウェイヴィーと知り合い、そうやってだんだんと人間らしい生活を取り戻していく。

 しかし先述の通り、私が考えるこの映画の醍醐味はクォイルの立ち直り過程よりも彼が出会うさまざまな人生の断片的ドラマであり、彼が見聞きし、通過していくバラエティに富んだエピソードの数々である。それはたとえばニュース記事の書き方であったり、小さな新聞社の人間模様であったり、新聞社社長親子の奇妙な確執であったり、クォイルの先祖であるヴァイキングたちの悪行だったり、叔母の痛ましい過去と憎しみだったり、未亡人ウェイヴィーの秘密だったりする。クォイルの立ち直りに関係するエピソードもあるが、あまり関係がないものも多い。つまり、これは起承転結や伏線の回収によって成り立つ因果律型の映画ではなく、映画の外の世界に向かって開かれた、エピソード羅列型の映画なのである。

 もう一つの大きな特徴はこのマジックリアリズム的雰囲気だ。ニューファンドランド島は亡霊や呪いが跋扈する土地であり、エピソードの多くは非現実的な、あるいは幻想的な色彩を帯びている。たとえばクォイルたちが住む家は50年以上前にヴァイキングたちが雪の上を引きずってきた家であり、地面にロープで縛り付けられている。その家で眠るバニーは毎晩のように白い犬を連れた亡霊を見るし、クォイルは自分の父祖であるヴァイキングたちの悪行を聞いて悪夢にうなされる。彼が取材したヨットの所有者である富豪は殺され、生首となって海を漂い、送別パーティーの客たちは斧をふるって友人の船を破壊する。葬式の最中に死人が蘇り、台風一過の翌朝家が消失する。

 どれもこれも途方もないエピソードばかりだが、新聞社で働く青年の船が酔っ払った友人たちによって打ち壊されるエピソードには唖然とする。彼はもともと自分の船で世界中を旅していたが、船の故障でこの島に滞在し、記者として働く。ようやく船が直り、また旅立つことになる。出発の前夜友人たちを招いてパーティーが催すと、友人たちは「彼が出発できないようにしてしまおう」と言って、全員が斧やチェーンソーを持って青年の船を破壊してしまうのだ。とんでもない残酷なエピソードである。クォイルの先祖がヴァイキングだったと分かる場面もなかなか強烈で、夢の中でヴァイキングたちは船を襲って女子供に暴行し、柱に縛り付けた男の鼻を削ぎ落とす。

 こんなエピソードに混じって、未亡人ウェイヴィーの秘められた過去のようなメロドラマティックなエピソードもあるし、クォイルの娘バニーが母親の死をトラウマとして抱えていたというヒューマン・ドラマ的エピソードもある。どことなくユーモラスなトーンもこの映画の特徴で、クォイルが記事の書き方を教わる場面はとても面白い。年輩の記者が水平線の雲を指差して言う。「あれを見て見出しを付けてみろ」クォイルは見たままを答える。「水平線に黒い雲、でしょうか」年輩の記者は言う。「違う、『町に嵐迫る!』だ」「…でも、もし嵐が来なかったら?」「『嵐の脅威、去る!』だ」

 こんなエピソードが連発される映画が面白くないわけがないと私は思うのだが、多分この映画を好きになれるか否かは、個々のエピソードの簡潔さと、エピソード同士の関係の緩さをどう考えるかにかかっている。つまり、一つ一つのエピソードはさらっと通り過ぎるだけでさほど深堀りはされず、またエピソード間のつながりは緩い。かっちりしたストーリーラインがあってエピソードはそれに奉仕しなければならない、と考える人にはこの映画は向かない。

 しかし、エピソード羅列方式とはそういうものなのである。映画でも小説でもそういう緩い構成は一つの手法としてちゃんとあり、傑作だってたくさんある。かっちりしたストーリーラインの緊密な物語も良いが、エピソードを緩く羅列する方式の物語にはまた違った良さがある。私自身は、どちらかというとエピソード間の因果関係などなくても良いと考える方なので、この映画にも全然違和感を感じない。これは、羅列されたエピソードがパズルのピースのように組み合わさって、全体(世界)を蜃気楼のように浮かび上がらせる類の映画である。そしてそこに浮かび上がってくる世界像は、自然の厳しさや人間の残酷な営みにもかかわらず、どこかユートピアのように美しい。この小さな町に住んでみたいと思わない人がいるだろうか。

 ニューファンドランド島の厳しくも美しい大自然、その「世界の果て」の感覚、そしてマジックリアリズム的に豊穣な物語の数々。中途半端なヒューマンドラマとして片付けるにはもったいない、独特の美しさをもったフィルムである。

 


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