アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

日の名残り(映画)

2012-04-14 11:48:45 | 映画
『日の名残り』 ジェームズ・アイヴォリー監督   ☆☆☆★

 英語版DVDで鑑賞。傑作という評判をきいて観たが、確かにいい映画だった。原作の素晴らしさに感動した身からすると物足りなく感じてしまうが、これはもう仕方がない。あの原作と比較されるというのはあまりにも過酷なハンディであり、絶対絶命である。勝てという方が無理だ。

 映画はダーリントン・ホール売却の場面から始まるが、これは小説にはない。この映画は基本的に原作に忠実だが、細かいところではアレンジが加わっている。冒頭の場面にミス・ケントンの手紙の文面がナレーションで入るのもそうで、原作ではミス・ケントンが実際に何と書いたのかはっきり分からなくなっていた。ということからも分かるように、原作でポイントだった「信頼できない語り手」による多義性は、映画ではきれいになくなっている。まあこれも仕方ないだろう。あれは小説ならではテクニックで、映画でやるのは大変だ。

 ただし、いくつかの重要な、そして私としてはあまり感心できない変更がある。まず、ダーリントン・ホールの現在の持ち主がルイスになっていること。そしてそれに伴い、アメリカ人のルイスが原作のように老獪で卑劣な策謀家ではなく、高潔な人間になっていること。これは重要で、かつ、映画製作者の意図が明白な(おそらくは明白過ぎる)変更である。そしてこの意図はもう一つの重要な変更につながっていて、それはダーリントン・ホールの国際会合が第一次大戦直後でなく1930年代に変更になっていることだ。これにより、ダーリントン卿ははっきりとナチのシンパ、協力者という位置づけになる。

 原作でももちろん、ダーリントン卿がナチスに利用されたという暗示があり、人々はダーリントン卿を「ナチのシンパ」と呼ぶ。しかし、これは必ずしも正確ではない。ダーリントン卿の動機は高潔なもので、彼を「ナチのシンパ」と呼ぶのは適当ではないというニュアンスがある。人々が彼を「あのナチの協力者」という時、人々の側にも誤解があり、ある種の愚かさがある。これが原作を素晴らしい小説にしている多義性だ。

 ところが映画ではダーリントン卿は(たとえ善意を利用されたのだとしても)事実ナチのシンパとして描かれる。そしてそれに唯一気づき、警告を発するのは聡明なアメリカ人、ルイス(クリストファー・リーヴ)である。だから映画の中でスティーヴンスが旅行先でダーリントン卿の名前を出し、人々が「あのナチのシンパか」という時、人々の認識は正しく、少なくとも映画はそこに多義性を与えない。そして、人々は次にスティーヴンスに「君は主人の思想に賛成だったのか?」と尋ねてくる。スティーヴンスはそれに対し、主人の考えを評価するのは自分の仕事ではない、と苦い言い訳で逃げるしかない。

 ここで人々が発する問いは、すなわち映画製作者が発する問いである。映画製作者は人々と同じ立場に立って、ダーリントン卿を糾弾する。ダーリントン卿は失敗者であり、それ以外の何者でもない。アイロニーは消えうせる。つまり映画製作者たちは、原作が多義性の中で示唆していた愚かしさの罠に、自らが捕らわれていることになる。

 また原作には、卑劣な策謀家であり人格的には劣っていたルイスが、政治の世界では結果的に正しかったという歴史のアイロニーがあるが、映画ではそれもなくなり、高潔で聡明なアメリカ人・ルイスが愚かなダーリントン卿たちヨーロッパ人に忠告したが聞き入れらず、結果的にダーリントン卿は滅び、ルイスが彼の家屋敷まで引き継いでスティーヴンス達を救ったという美談になる。アメリカだけが賢明。アメリカ人観客向けに口当たりを良くしたか?

 と、意地悪な書き方をしてみたが、おそらく製作者サイドとしては単に話を分かりやすくしただけなのだろう。図式が明確になり、腑に落ちやすくなる。娯楽としての映画にこういう配慮が求められることは、分からないじゃない。しかしこういう一見微妙な部分にこそ、芸術作品の魂というか、志の高さみたいなものがあらわれるんじゃないだろうか。

 それ以外には、小説にあったユーモラスな感覚は映画では薄まり、ぐっとロマンス色が強くなっている。たとえば、ミス・ケントンがスティーヴンスから本を奪う場面では、原作ではスティーヴンスの頑なさとミス・ケントンの強引さがぶつかり合うイメージで、ハラハラする場面だったが、映画では妙に色っぽい場面になっている。「見せて下さい…」(顔が接近する)「駄目です…」(お互いじっと見つめあう)みたいな。うーん。こういうの、ちょっとやってみたい。

 映画ならではの良さとしては、やはりイギリスの田園風景や貴族屋敷の重厚な映像だろう。美しい。またアンソニー・ホプキンスのいかにもまじめな執事は、さすがの演技力だ。エマ・トンプソンとの不思議な関係、成就しないからこそ愛おしいようなお互いへの思いが、しっとりとほろ苦く、描き出されている。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (corara)
2012-04-19 17:56:04
こんにちは。
映画版はやっぱりお屋敷やイギリスの田舎の美しい風景が観られるのが楽しいですね。スティーヴンスが誇りに思っているのも頷ける、本当に美しい景観です。

でも、映画にするからって、ロマンス色を濃くしたり、話の構造を単純に分かりやすくする方が、本当に売上につながるんでしょうかねえ?
私はロマンスあり、アクションあり、勧善懲悪やったー!の『アバター』みたいな映画も好きですが、全部が全部そういう戦略にしなくても、と長年思い続けています。
返信する
Unknown (ego_dance)
2012-04-21 13:41:55
こんにちは。私も個人的には、こういう「分かりやすさ」というか、単純化は好きではありません。それにこの映画の場合、ルイスの設定を変えなくても映画の印象は変わらないし、むしろエピソードの面白みが減ると思うんですけどね。

ハリウッド映画では時々、ナチスというのは分かりやすく絶対悪として描かなければいけない、というような暗黙のルールを感じることがあります。
返信する

コメントを投稿