アブソリュート・エゴ・レビュー

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サイダーハウス・ルール

2015-01-18 18:36:59 | 映画
『サイダーハウス・ルール』 ラッセ・ハルストレム監督   ☆☆☆☆☆

 ラッセ・ハルストレム監督の映画が妙に好きだ。といってもこれまで代表作とはいいがたい『シッピング・ニュース』ぐらいしか観たことがなかったので、このたび世評の高い『サイダーハウス・ルール』をブルーレイにて鑑賞。美しい。これは美しい映画である。美しく、そして残酷だ。

 基本的に、とても痛ましい物語である。最初に孤児院が出てくる。孤児院では望まれない赤ん坊の堕胎をしたり、望まれずに生まれてきた子供を養育したりしている。そして子供に恵まれない夫婦がやってきて、子供を選び、引き取っていく。選ばれなかった子供たちは「どうして誰も自分を選んでくれないんだろう」と呟く。ここで責任者ドクター・ラーチ(マイケル・ケイン)の手助けをしている青年ホーマー(トビー・マグワイア)は、やはり孤児で、何度引き取られてもうまくいかずまた舞い戻ってくるという経験をしている。

 違法な堕胎に疑問を持つホーマーはやがて孤児院を去り、りんご摘みの仕事に従事する。そこで恋の味を知り、世間の人々にまじって働く喜びを知るが、同時に、数々の人生の苦しみを目にする。そして、サイダーハウスに住んでいない人間が作ったサイダーハウスのルールには意味がない(=貧困に苦しんでいない人間が作った堕胎禁止の法律には意味がない)とさとり、待つこと、人生の傍観者たることを止める決心をして、孤児院に戻る。そして、ドクター・ラーチの跡を継ぐ。

 簡単にいうとこういう物語だが、この映画は観客に人生の残酷をこれでもかと突きつける。親に捨てられた孤児たち、死んでいく子供、不幸な妊娠、半身不随になって戦争から戻る若者。

 と同時に、この映画は論議を呼びそうなテーマを多数はらんでいる。当然のことながら堕胎の是非、そしてタイトルになっているサイダーハウスのルールには本当に意味がないのか、など色々だ。おそらくは、こういう部分に共感できずにこの映画に感動できなかった人も多数いることだろう。ただし私見では、この映画の本質はそこにはない。この映画は、堕胎の是非を考えましょうという映画ではないと私は思う。観客がホーマーの選択に賛成であれ反対であれ、映画がホーマーの行動を通して訴えかけてくるのは、自分の責任で人生を選択することの大切さ、である。それが間違っているのか正しいのかは、人それぞれが結論を出すべきことだ。

 それにしてもハルストレム監督は論議を呼ぶような題材が好きなのか、あるいは観客を挑発するのが好きなのか、何かしらぎょっとするような要素を必ず映画に入れてくる。それが彼の映画に、ただハートウォーミングで「癒し系」なだけでない、妙なひっかかりを残す原因になっている。家族そろって安心して感動できる類の映画ではない。たとえばこの映画では、主人公のメンターであるはずのドクター・ラーチは決して高潔な医者ではなく、それどころか違法な堕胎手術を行い、医師免許を偽造し、しかも薬物中毒というとんでもない医者である。一見そう思わせるような人格者ということもなく、自分の跡を継ぐことに関してホーマーの意志を全然尊重しないし、ホーマーが出て行くとなるとへそを曲げて見送りにも出て来ない。欠点だらけの、エキセントリックな人物だ。

 が、彼の子供達への愛情は本物である。彼は毎晩寝る前に、親に捨てられた孤児達に声をかける。おやすみ、メイン州の王子達、ニューイングランドの王達よ。この映画のキーフレーズを一つ選ぶとすればこれだろう。他にどんなサブテーマがあるとしても、このフレーズの中にあるものこそがこの映画の精神だ。

 このようにハルストレム監督の映画には、どこかヒューマニズム映画の枠におさまりきれないところがある。観る者を不安にさせる要素がある。私は一般的にはそれほど評価が高くない『シッピング・ニュース』がかなり好きなのだが、『シッピング・ニュース』とこの『サイダーハウス・ルール』には多くの共通点がある。自然の厳しさと美しさ、いくつものエピソードを経て人が変わっていく過程を描いていること、ぎょっとするような残酷性、エキゾチズム、世界の果ての感覚。今回『サイダーハウス・ルール』を観て、ああ、私がこの監督の映画が好きなのはこれだったんだな、というのがよく分かった。それは決して単なるハートウォーミングな感動ものだからでも、癒し系の「いい話」だからでもない。もちろんその要素もあるけれども、彼の映画を形作っているのはそれだけではない。

 とりわけ私を魅了するのは、この、「世界の果て」の感覚である。つまり世界の果てに立っているかのような、まるで自分が世界の果てまで旅してきたかのような、この遠い辺境の感覚。そして孤独の感覚。この映画にも、目が覚めるような自然の美しさと表裏一体になって、キリキリと締めつけるような孤独の感覚がある。これが素晴らしい。この厳しさと清冽さこそが、ハルストレム監督作品の本質である。その世界の中ではドクター・ラーチがエキセントリックに振舞い、ホーマーがりんごを摘み、人生の受難を象徴するようなエピソードが連発される。もちろん、ただ辛く残酷なだけでなく、孤児院の子供達が雪合戦をしたり繰り返し『キング・コング』を観るエピソードのように、優しく芳醇な瞬間もある。それらが渾然一体となって、この美しい映画に生命を吹き込んでいる。

 ドクター・ラーチを演じるマイケル・ケインは、このキャラクターの複雑さと陰影を見事に表現している。また、主人公ホーマーのトビー・マグワイアは全体に茫洋とした印象だが、この世間ずれしていない、どこか不思議な性格の青年には合っている。それからホーマーの恋の相手にシャーリーズ・セロンが出演していて、例によってフランス人形めいた完璧な美貌を披露。この物語にクラシックな艶やかさを添えている。

 生きるとは、世界の果てに向かってただ一人、孤独とともに旅すること。その厳しさと寂寥と癒しを渾然一体に表現した映画、それが『サイダーハウス・ルール』なのである。



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