アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

わたしを離さないで

2007-04-18 13:07:21 | 
『わたしを離さないで』 カズオ・イシグロ   ☆☆☆☆★

 とても評判がいいカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を読んだ。この作家の本を読むのは初めてだ。タイトルからしてセンチメンタルな恋愛小説だろうと思って敬遠していたのだが、SF的な設定の物語と聞いて興味をひかれたのである。

 設定はSF的だが、全体の印象は多少ファンタジーがかった青春小説だった。キャシーという語り手が子供時代から現在までを回想する。彼女の職業は「介護人」で、「提供者」の世話をしている。子供時代をヘールシャムという場所=施設で過ごした。回想と物語の中心となるのは、ヘールシャム時代から一緒に過ごしたルースとトミー。

 「提供者」とか「ヘールシャム」が何なのかははっきり説明されない。物語の中でだんだん分かる仕掛けになっている。そのあたりがSF的設定の部分。ネタバレしないようにここでも書かないが、ポイントはヘールシャムで育てられる子供は非常にかわいそうな運命を背負っているということ。ぎょっとするぐらい残酷な設定である。その残酷な運命を共有するキャシー、ルース、トミーの三人が、それでも普通の人々のように愛し合ったり傷つけあったりしながら大人になっていく過程を描くのがつまりこの物語である。女性が語り手ということで文体は「ですます」調。回想形式ということもあって、抑制された中にも震えるようなリリシズムを感じさせる、とても抒情的な小説になっている。

 トミーは主人公キャシーが愛するようになる男性で、この恋愛も大きなテーマの一つ。だから本書は切ない恋愛小説としても読める。ルースはキャシーの親友であり、トミーの最初の恋人なのだが、この小説を読む限りかなり嫌な女であって、なんでキャシーがこんな人物と友達づきあいをしているのかよく分からない。キャシーは何度もこのルースにひどい傷つけられ方をする。

 タイトルの『わたしを離さないで』はキャシーが大切にしていた音楽テープに入っているポップソングのタイトル。キャシーは一度それをなくし、後年トミーが同じものをプレゼントする。キャシーとトミーが旅先でテープを探すシーンは幸福感に溢れていて、とても感動的なエピソードになっている。この「わたしを離さないで…♪」という歌詞のポップソングがこの物語をBGMのように彩り、本書をより「泣ける」小説にしている。

 キャシーの回想は子供時代からの三人を丁寧に追いかけていく。ヘールシャムのさまざまな謎めいた設定が読者をひきつけるとともに、物語に不吉な予感をもたらす。それでも子供時代は三人の恋愛模様や友情を描いてリリカルな成長物語として読めるが、だんだん大人になるにつれて「時間切れ」が迫り、運命的な悲劇の様相が濃くなっていく。この避けがたい運命をSF的に設定し、その中でリリカルな成長物語を描くという基本的な構想が非常に力強く、シンプルながら素晴らしい効果を上げている。寓話的と言ってもいい。

 Amazonのレビューなんか読むと、どうして彼らは自分の運命と戦わないのか、という疑問を持つ人が多いようだが、やはりこれは私達にとっての死や老化と同じように、シンボルとしての「避けがたい運命」と考えるべきだろう。彼らが自分達の運命と戦う話になると全然印象が変わってしまうと思う。ハリウッド映画的になってしまうんじゃないか。

 筋だけ見ると「泣ける」話だが、解説で柴田元幸が書いているように抑制が効いているのでただ感傷に流れるということはない。たとえばキャシー達を教育する教師達も重要な役割を演じるが、彼らも単純にいい人・悪い人と分けられない複雑な存在感を持っている。それからまた、キャシー達に用意された運命=SF的設定そのものもとても重たい問題提起を孕んでいて、人間というものの悲しさをあぶり出す仕掛けになっている。

 比較的厚い本だったが面白いし、文章が読みやすいこともあって一晩で読み終えてしまった。文学的な深み、静謐さ、幻想性、抒情性、そして適度な「泣き」を備えたなかなか素晴らしい小説だった。


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6 コメント

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重いテーマですよね (くrにゃんこ)
2007-04-19 09:29:11
この小説の記事を書こうとして、どこまで書いたらいいのか大変迷いましたが、こちらの記事はとても上手く解説されていて、スゴイなぁと思いました。
アトウッド「侍女の物語」もそうですが、純文学で高く評価される作家がSF的な小説を書くとクオリティがグッと高まりますね。
考えてみれば、純文学とかSFとかのカテゴリーは、便宜上のことで、あまり意味がないことなのかもしれません。
いいものはいいんですから。
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SF的 (ego_dance)
2007-04-20 09:07:57
すごいインパクトのある設定ですよね。おいおい、そこまでいっちゃうか、みたいな。そこに触れないと突っ込んだレビューにはならないんですけど、一応紹介文ということで……。でも設定の衝撃度、社会風刺的、文明批評的部分より、私としては残酷な運命の中の成長物語のみずみずしさがまず印象的でした。この構成は美しいです。あと、いくらなんでもこの設定はあり得ない=実際には社会が許容しないという意見もあるようですが、そこを見越した上で「本当にそうでしょうか」という静かな問いかけをしているようで、この醒め方もすごいですね。ものすごい醒めた視線と優しさが同居しているという、珍しい小説でした。

それにしても、いまやSF的な設定が純文学でも普通に使われるようになりましたね。昔筒井康隆がSFといえば馬鹿にされる風潮を嘆いていました(ちょっと現実離れした設定で小説を書くと、「まるでSFではないか」と老作家が顔をしかめる、とか)が、マジック・リアリズムあたりからでしょうか、変わってきたのは。アンチ・リアリズム文学が大好きな私としては大歓迎です。
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お久しぶりです (青達)
2012-08-22 23:46:51
「アンナ・カレーニナ」三読終了。やっぱり良い!トルストイに「人間性あるある」を書かせたら右に出るものは無いですね。

で、余勢を駆って長らく積読になってたカズオ・イシグロの「わたしを離さないで」を一日で一気読み。

……う~~ん。そうだなあ、結論から言うとちょっと不満だなあ。高く評価されてるらしいけど正直ピンと来なかった感じ。

Amazonの評価の「何故彼らは運命と戦わないのか?」という疑問の根源は要するに「どうしてそれが避けがたい運命なのかいまいち納得できない」という不満にあるんじゃないのかなあ?

「確かにこれなら彼らが<提供>を従容として受け入れざるを得ないな」と思わせるロジックが小説内にあったら読んでる方もその悲劇性に共感できるんだけども。

どう読んでも彼らが「それ」を受け入れるのはそれが当然であると幼い頃から教え込まれたから、という以上の理由が無いので「ハリウッド映画的」反抗を起こさない理由が見当たらない。

それに学校(ヘールシャム)の教育では「外界」のことを教えているし、或る年齢に達すると割と自由に車で外の世界を移動できたりするので完全な管理下にあるってわけでもない。これなら反抗や逃亡もそうだが自殺だって可能だろう。

まあ、一応彼らには普通の人間とは違う大きな出生上の理由と身体的理由があるわけなんだけど、でもそれが<提供>を必然とする理由になるかなあ?それはそれ、これはこれではなかろうか?確かに<提供>を受ける側には必然性はあるけれども。

それからラストのタネ明かし的展開も僕は好きじゃない。あそここそもっとぼかした描写の方が趣味が良いと思う。特に「展示会」の秘密は言わぬが花。

自分は哲学者ジョン・ハリスの思考実験「サバイバル・ロッタリー」(1975年)を知ってたので(Wiki参照して下さい)それもマイナスポイントかもしれません。

この小説ではそういう社会制度に対する哲学的議論が無いんですよね。「サバイバル・ロッタリー的」世界観が最初から前提になってる。
まあ、別にそれは良いんですよ、カフカの「変身」みたいなもので。

ただ、ラストのタネ明かし場面で大雑把にそのいきさつが語られちゃってるのが……納得いかねぇなー。そんな理由でこんな制度導入できっかぁ?だったらそこもぼやかしてくれた方がego_danceさんの言うように寓話的に納得できたんだけど……

長々と文句ばっか垂れてきたけど、子供時代の友情や仲違い、そして仲直り、大人ぶって背伸びをしてるのがバレて恥をかいたり…といった甘酸っぱい人間関係の機微が良く表現されていてそこは楽しく読みました。
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Unknown (ego_dance)
2012-08-25 11:59:09
確かに、イシグロの作品では他にもっと良いものがあると思います。ただ、この社会制度について議論するのは本書の意図ではないということで、私はさほど気になりませんでした。「サバイバル・ロッタリー」との違いは、キャシーたちはここでは「人間」ではないということでしょう。
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まあ、そうなんですけど・・・ (青達)
2012-08-26 18:43:35
この社会制度そのものが問題になっていないのはその通りですよね。

そこは別にいいんですけども、キャシーたちがそれを受け入れる「必然性」が感じられないんですね。物語の流れを素直に受け入れさせる外側の枠がかっちりとあればなあ、と。彼らが<提供>を行なわなければ人類は滅んでしまう、とかね。

・・・・・・今思いついたんですがこの話、食用の豚や牛が知性を持ったら、というシチュエーションを豚や牛の側から描いたとでもいうべきなんですかねえ?家畜は人間の食用の為に繁殖され、育てられているわけだからと。

・・・うん、割とこれなら納得できるかなあ。彼らが<提供>を淡々と受け入れるのもそれが彼らの役割だから。なるほど。

おっしゃられるように「キャシー達は人間ではないということ」が端的な答えなんでしょう。と自問自答で自己解決・・・

やっぱ、どこか道徳的判断で作品を評価してしまう所が自分にはあるんだなあ。なるべくこれはやらんようにしてるんだけれども。「こいつは善人、こいつは悪人」ってレッテル貼る読みは一番幼稚なわけで。も一度「家畜知性説」で再読してみようかなあ?
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Unknown (ego_dance)
2012-08-29 12:04:10
その為に飼育されているという意味で、家畜というのも近いと思います。個人的には、人間というのは刷り込みや洗脳には意外なほど抵抗できないということ、逆に「万人は平等」という思想は意外と歴史が浅くて現代の我々が思うほど普遍的な価値観ではない、というあたりで納得しています。色んな考え方があると思いますが、ご参考まで。
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