アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

ブラック・ヴィーナス

2005-10-13 09:27:03 | 
『ブラック・ヴィーナス』 アンジェラ・カーター   ☆☆☆★

 本日読了。イギリスの女流作家で、ボルヘスやマルケスと並ぶマジック・リアリズムの作家という評価を得ている人らしい。初めて読んだ。本書は自選短篇集。8篇収録されている。

 マジック・リアリズムというのはきっと人によっても色んな定義があり、一概にこうとは言えないものなのだろうが、私は本書からちょっと違う印象を受けた。題材やプロットの選び方に共通点はあるかも知れないが、私はむしろコクトーあたりに近いものを感じる。つまり、この人の最も重要なファクターはこの散文詩的な語りというか、言語の運動そのものだと思うのである。

 短篇のモチーフは実在の事件や人物から取られているものも多い。ボードレールの愛人を描いた『ブラック・ヴィーナス』、ポーを題材にした『エドガー・アラン・ポーとその身内』、リジー・ボーデン事件を題材にした『フォール・リヴァー手斧殺人』。そうでないものも、狼少女や数奇な人生を歩んだ女性を題材にするなど、驚異的な事物を描くことがマジック・リアリズムの特徴だとしたら確かにアンジェラ・カーターにもそういう傾向がある。もちろんシュルレアリスムだって驚異的なものを志向するのだが、ジャーナリスティックな価値を持つような尋常でない事件や人物を好んで扱うのは、ガルシア・マルケスを見れば良く分かるがマジック・リアリズムの明らかな特徴である。

 それからまた、マルケスやボルヘスもその「語り」のスタイルには非常に意識的かつ技巧的であるのは間違いない。『族長の秋』あたりのマルケスの饒舌体は散文詩的である。

 にもかかわらず、アンジェラ・カーターにおける文体の役割とマジック・リアリズムのそれとは違うと思う。マルケスの華麗な文体の後ろには必ず驚異的現実の世界、分かりやすくいうと映像化可能な世界が存在していると感じさせる。ボルヘスはまた違って観念というか抽象的思考の世界だが、少なくともそれは言語化される以前にそこにある。
 それに対し、アンジェラ・カーターの世界は言語によって生まれる。ちょうどコクトーの『ポトマック』が運動する言語のみによって生まれたように。カーターはその言語をドライブさせる呼び水として驚異的な題材を利用するが、彼女がめざしている小説世界は言語化される以前には存在しないのではないか。それは言語の運動とともに初めて立ち現れてくるものなのではないか。

 まあ別にマジック・リアリズムの定義なんてどうでも良いのだが、他のいわゆるマジック・リアリズム作家との異質性を感じたということを言いたかった。

 彼女にとっての文体の重要性は、最初の一篇『ブラック・ヴィーナス』の書き出しからありありと感じ取ることができる。まるで詩のような、作家の自意識が目一杯込められた情緒とメタファーにみちみちた文章である。これは三人称による小説だが、作家の自我が前面に出ているためにまるで一人称の小説を読んでいるような印象を受ける。これは本書の中のどの短篇でも同じだった。

 さて、私はというと、比較的このような文章は苦手なのである。美文調というほど古臭い感じではなく、むしろ軽快で砕けた文章なのだが、凝った言い回しから「これは文学だぞ」というような気負いがびんびんに伝わってくるのだ。もうちょっと力を抜くか、力を抜く「ふり」をして欲しい、というのが私の注文なのである。まあ、完全に好みの問題だが。

 基本は軽い文体なので、ストーリーの展開が速くなると文体は簡潔になり、イイ感じになってくる。飛び跳ねるようなしなやかさや、メタファーの自在さはテクニシャンであることを感じさせる。しかし、あちこちに顔をのぞかせる文学少女的自我みたいなものがどうしても重たく感じてしまう。コクトーのしなやかで軽やかで自在でエレガントな文章と比較すると特にそう思う。まあコクトーと比較するのはフェアじゃないんだろうけど。

 『キッチン・チャイルド』は特に軽い文体で綴られる遊戯的な短篇で、ポーのファルスを思わせるところもあるのだが、やはり力が入りすぎているようなところがあり、泥臭いドタバタ性を漂わせる。バターを使い過ぎたフランス料理のような印象。

 しかしマジック・リアリズム的題材とこの文章の融合はユニークであるには違いない。少なくとも私はこういう小説は初めてだった。またいつか読み返して見ると、印象が変わってくるのかも知れない。

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