『道化師の蝶』 円城塔 ☆☆☆☆
芥川賞受賞作品を読了。
難解という評判だったので、読むのに骨が折れるややこしい仕掛けの実験小説かと思ったらそうでもない。とりたててプロットに依存しない、語りの対象が一見ランダムにあっちに行ったりこっちに来たりするという、柔らかい構造の小説だった。言葉、物語、読むという行為、などをモチーフにイメージを膨らませ、連環させていくテキストの連なりである。従って読者にはストーリーを追うとか登場人物に感情移入するとかいうより、意味とイメージがずれたりかぶったりしながら繰り広げられる言語のロンドを愉しむ、という態度が要求される。
こういう小説は必ずしもこれまでにない新しいものではなく、むしろ純文学作品としてはオーソドックスなものだと思う。以前にレビューを書いた丸谷才一の『樹影譚』などもこのタイプの小説で、「小説」というものの本質やオリジナリティをつきつめていくとこういうスタイルに傾くのではないか、と私は思っている。ちなみに『樹影譚』も、何がいいたいのかさっぱり分からない、と言われそうな小説である。
さて、具体的にこの『道化師の蝶』の中で語られるのはエイブラハムズという奇態な事業家、友幸友幸という特異な作家、蝶を捕まえる小さな網、アルルカンに似た蝶、などなどである。エイブラハムズは乗客たちのアイデアを捕獲するために小さな網を持って飛行機に乗り、友幸友幸は作品を書くごとに一つの言語を習得する作家だ。こういうメタフィジクスの遊び以外に蝶などの詩的イメージもちりばめられていて、決して無味乾燥な屁理屈をこね回すような小説ではない。
「わたし」という一人称の中身が次々と入れ替わりながら語りが進行し、物語は微妙にずれていく。意味がスライドし、イメージは連環する。きわめて遊戯的な作品であり、どこか『きことわ』や『世紀の発見』などこれまでの芥川賞作家の小説に似ている。最近日本じゃこういう小説がはやりなのだろうか。前にも書いたが、こういう小説のベーシックはひょっとしたら筒井康隆が作ったのではなかろうかと思う。
もう一篇収録されている『松ノ枝の記』も、やはり言語や「書く行為」にこだわった小説で、お互いの小説を翻訳しあう作家というのが出て来る。一人がもう一方に会いに行くと、その作家はある女性のザゼツキー症候群によって分裂した自我内自我だった、という話である。彼女は書痙でものを書けず、その自我内自我である「彼」は読むことができない。というメイン・プロットの他に、文字を読めない祖父の話や最初のホモ・サピエンスの話などが出てきて混乱させる。
無論、こういした「混乱」こそがこういう小説の醍醐味なのだ。意図的な意味の撹乱である。本書の中に「どうとでも読めるものが正しいのだ」というセリフが出てくるが、これはこの作家の創作姿勢でもあるに違いない。
そういうわけで、ここには小説でしか得られない快感があり、世評はともあれ私はわりと面白いと思ったが、これも『きことわ』『世紀の発見』と同じように、あまりに遊戯的で印象が薄い、とも言える。はっきり言って、読み終わって2、3分もたつともう忘れてしまう。語りは高度なのだが、内容が薄いんである。「語り」のテクニックだけでは、それが名人芸クラスだったとしてもやはり傑作にはならない。語りと内容が両方充実してこそ最高の小説が生まれる。『百年の孤独』『愛人』『レクイエム』『ローマのテラス』『倦怠』『存在の耐えられない軽さ』『ヴェネツィア』『『日の名残り』、みんなそうだ。多少不器用でも、カフカやP.K.ディックのように何かしらオブセッションを持つ作家の方が心に残る。まああえていえば、言葉、書くという行為、読むという行為、などがこの人なりのオブセッションなのかも知れない。
芥川賞受賞作品を読了。
難解という評判だったので、読むのに骨が折れるややこしい仕掛けの実験小説かと思ったらそうでもない。とりたててプロットに依存しない、語りの対象が一見ランダムにあっちに行ったりこっちに来たりするという、柔らかい構造の小説だった。言葉、物語、読むという行為、などをモチーフにイメージを膨らませ、連環させていくテキストの連なりである。従って読者にはストーリーを追うとか登場人物に感情移入するとかいうより、意味とイメージがずれたりかぶったりしながら繰り広げられる言語のロンドを愉しむ、という態度が要求される。
こういう小説は必ずしもこれまでにない新しいものではなく、むしろ純文学作品としてはオーソドックスなものだと思う。以前にレビューを書いた丸谷才一の『樹影譚』などもこのタイプの小説で、「小説」というものの本質やオリジナリティをつきつめていくとこういうスタイルに傾くのではないか、と私は思っている。ちなみに『樹影譚』も、何がいいたいのかさっぱり分からない、と言われそうな小説である。
さて、具体的にこの『道化師の蝶』の中で語られるのはエイブラハムズという奇態な事業家、友幸友幸という特異な作家、蝶を捕まえる小さな網、アルルカンに似た蝶、などなどである。エイブラハムズは乗客たちのアイデアを捕獲するために小さな網を持って飛行機に乗り、友幸友幸は作品を書くごとに一つの言語を習得する作家だ。こういうメタフィジクスの遊び以外に蝶などの詩的イメージもちりばめられていて、決して無味乾燥な屁理屈をこね回すような小説ではない。
「わたし」という一人称の中身が次々と入れ替わりながら語りが進行し、物語は微妙にずれていく。意味がスライドし、イメージは連環する。きわめて遊戯的な作品であり、どこか『きことわ』や『世紀の発見』などこれまでの芥川賞作家の小説に似ている。最近日本じゃこういう小説がはやりなのだろうか。前にも書いたが、こういう小説のベーシックはひょっとしたら筒井康隆が作ったのではなかろうかと思う。
もう一篇収録されている『松ノ枝の記』も、やはり言語や「書く行為」にこだわった小説で、お互いの小説を翻訳しあう作家というのが出て来る。一人がもう一方に会いに行くと、その作家はある女性のザゼツキー症候群によって分裂した自我内自我だった、という話である。彼女は書痙でものを書けず、その自我内自我である「彼」は読むことができない。というメイン・プロットの他に、文字を読めない祖父の話や最初のホモ・サピエンスの話などが出てきて混乱させる。
無論、こういした「混乱」こそがこういう小説の醍醐味なのだ。意図的な意味の撹乱である。本書の中に「どうとでも読めるものが正しいのだ」というセリフが出てくるが、これはこの作家の創作姿勢でもあるに違いない。
そういうわけで、ここには小説でしか得られない快感があり、世評はともあれ私はわりと面白いと思ったが、これも『きことわ』『世紀の発見』と同じように、あまりに遊戯的で印象が薄い、とも言える。はっきり言って、読み終わって2、3分もたつともう忘れてしまう。語りは高度なのだが、内容が薄いんである。「語り」のテクニックだけでは、それが名人芸クラスだったとしてもやはり傑作にはならない。語りと内容が両方充実してこそ最高の小説が生まれる。『百年の孤独』『愛人』『レクイエム』『ローマのテラス』『倦怠』『存在の耐えられない軽さ』『ヴェネツィア』『『日の名残り』、みんなそうだ。多少不器用でも、カフカやP.K.ディックのように何かしらオブセッションを持つ作家の方が心に残る。まああえていえば、言葉、書くという行為、読むという行為、などがこの人なりのオブセッションなのかも知れない。