アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

樅ノ木は残った

2006-05-05 23:19:26 | 
『樅ノ木は残った(上・中・下)』 山本周五郎   ☆☆☆☆

 山本周五郎は『日本怪奇小説傑作集2』収録の『その木戸を通って』がたまらなく気に入り、長編も読んでみようと思って傑作の誉れ高い『樅ノ木は残った』を読んでみた。

 あとがきによると、本書は「山本周五郎の代表作であるばかりでなく、日本の大衆文学史上にも数少ない名作の一つ」ということらしい。NHKの大河ドラマにもなっているらしい。なるほど、そう言われれば納得できる品格、風格をこの小説は確かにもっている。しかし正直に個人的な感想を言ってしまうと、私はそこまで大した感銘は受けなかった、といわざるを得ない。

 名作と呼ばれるのは分かる。まず主人公、原田甲斐を始めとする多数の登場人物がそれぞれ深みをもって描かれている。エンタメにありがちな紋切り型がない。物語の展開も劇的、小説的というより、現実の政治の世界そのもののように複雑で錯綜し、つかみどころがなく、迷宮的、多層的である。加えて、こういう権謀術数の物語に美しい自然描写が対比させてあって、普遍的な情緒でもってじわじわ訴えかけてくる。タイトルになっている樅の木を始め、川魚や大鹿など自然の事物が人間の政治的陰謀の世界と対極の価値観を体現している。

 そして本書最大の感動ポイントはやはり主人公・原田甲斐の人物像にある。この人は悪人として歴史に名を残している人らしいが、本書ではそれが180度逆転し、悪人の汚名を着て伊達藩を救ったヒーローになっている。しかし私は原田甲斐なんて人の存在はまったく知らなかったし、伊達騒動という事件のことすら知らなかった。歴史オンチの悲しさである。従って本書を読んでも「おお、なんと斬新な解釈!」などと感嘆できるはずもない。

 まあとにかく、本書中の原田甲斐は素晴らしい人物である。頭脳明晰、人格円満、人から好かれ信頼され尊敬され、胆力があって駆け引きにも優れ、女にももてる。その原田甲斐が藩を救うためにとことんわが身を犠牲にするという、その自己犠牲の精神、というか侍というのはそういうものだという毅然たる思想、そしてその思想に殉ずる潔さ、これが読者の心を打たずにはおかないのである。

 そういう意味では、この長編は短篇集『松風の門 』収録の『夜の蝶』あたりのテーマを拡大したものといえると思う。『夜の蝶』も恩人である主人を救うために汚名を着る男の話だったが、本書も藩をすくうために自分の生命も名誉も犠牲にする男の話なのである。

 更にいえば、この原田甲斐を中心とする様々な人物達が悩み葛藤しつつドラマを繰り広がる中で、胸に沁みるようなセリフの数々が交わされる。なんというか、「座右の書です」と言うには絶好の歴史小説である。

 じゃなぜあんまり感銘を受けなかったかというと、説明は結構難しいが、まず基本的にこれは政治的権謀術数の物語であること、必然的に複雑なプロットになっていること、原田甲斐のそこまでするかというほどの自己犠牲にあまり共感できないこと、原田甲斐がスーパーマン過ぎること、そもそも小説に「人生いかに生くべきか」を求めていないこと、そして原田甲斐の戦い=駆け引きの意味がよく分からなかったこと、などの理由による。まあ、好みの問題である。

 原田甲斐は実際は自然の人だったのが否応なく政治に巻き込まれていった、という設定らしいが、この人はどう考えても天性の政治家である。人と会話する時もいちいち駆け引きがある。「どうだかな」「およそわかっている」「それならそれでいい」なんて言って人の話をはぐらかしてばかりいる。もちろん、藩のために悲壮な覚悟でやっているのは分かるが、腹の中をまったく見せない人物である。人間性に愛嬌というものがない。あまりにスーパーマンなのがまた嫌味である。

 それから最後、最も肝心な酒井邸での謀殺シーンで、甲斐が罪をかぶる意味が良く分からない。なんで自分が殺されておいて、敵の罪をかぶってやらねばならないのか。甲斐が罪をかぶらないと伊達藩のせいにされてしまうということか? 話の流れからしてそうなのだろうが、なんでそうなるのかが具体的に分からない。私が頭が悪いだけなのか。斬られて死にながら「よくお聞き下さい、これは私のやったことです、わかりますか」なんて言われると、なんでそこまでする、とほとんど呆れてしまう。マゾヒズムとしか思えないのである。

 まあ色々あって、私の求めるものとはちょっと違っていた。しかし大抵の人はこれで感動するらしいので、私の感性に欠陥があるのかも知れない。あるいは、もっと歳をとって読むといいのかも知れない。ただ、ラストシーンは文句なく感動的だった。原田甲斐を慕う宇乃という娘が樅の木を見つめ、そこに甲斐の姿を幻視するシーンである。『樅ノ木は残った』というタイトルが壮絶な重みを持って読者の心に迫ってくる。
 


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