『エリアーデ幻想小説全集 第3巻』 ミルチャ・エリアーデ ☆☆☆☆
ルーマニアの世界的な宗教学者にして幻想文学作家、エリアーデの全集第3巻を読み終えた。第1巻も持っているが、第2巻は持っていない。ただ『ムントゥリャサ通りで』は法政大学出版局のものを持っていて、かなり面白かった。これは幻想文学の傑作とされている有名な作品である。
しかしこの人の書く小説はかなり独特である。分かりづらい、といえば分かりづらいのだが、難解、というよりプロットがツギハギめいているのだ。訳者の解題を読むと、どうもエリアーデは書き始めてから主題を模索する、言い換えると行き当たりばったりに物語を書く人だったようで、そのせいもあると思う。行き当たりばったりでこういう物語が書けるというのも凄いが、この全体に漂う「わけわからなさ」感もある意味凄い。
この第3巻を読んで私が思い出したのはフィリップ・K・ディックの小説である。アメリカのSF作家とヨーロッパの宗教学者を一緒にするなと言われそうだが、小説としては絶対に共通点がある。しかもかなり多い。
これらの小説の中で、人々は常に監視され、検閲されている。誰かが喋る他愛もない言葉は重要な意味を秘めていて、秘密警察が嗅ぎまわっている。人々は唐突に若返ったり歳をとったりし、時間の流れが一様ではない。話はどんどん横道にそれて行き、何か説明を求めると「その前にこれを言っておきたい」などと言って一見無関係な話が始まり、なかなか核心にたどり着けない。そうやってプロットがゴチャゴチャしていき、わけ分からないままにある神秘的な現象に集約され、解決したのかしないのか分からないままに物語は終わる。どう? ディックみたいでしょ?
さらにいうと、この人のアイデアが少々ナンセンス性を帯びているところもディックに似ている。例えば『ケープ』では反政府組織が新聞を発行するが、その新聞は正規版と同じ記事を載せているが誤植が多く、その誤植が暗号になっていて大衆にあるメッセージを発しているのである。そしてこの新聞の年号はなぜか正規版の三年前なのだ。この暗合は月齢をキーにした暗合なのだが、地表全面の月齢を考慮せねばならず、しかもルーマニアで出版されているにもかかわらず15ヶ国語のどれかで書かれている。秘密警察の連中はこの新聞を解読して目的を突き止めようとドタバタめいた騒動を繰り広げる。発想といいテイストといい、見事にディックである。
他の小説もそんな感じで、『ブーヘンワルトの使者』では観客を変容させる芝居、というモチーフが現れるし、『三美神』は若返りと癌細胞の関係、『若きなき若さ』では雷電の直撃による若返りというか超人間への変異が扱われる。幻想小説のテーマとしてはそれほどユニークでもないが、それに妙チキリンで、わりと無理がある理論がつくところが独特で、ディックと共通するところである。
もちろんディックに似ているばかりではない。この人の特色というかどの小説にも共通するテーマとして、別の世界への解脱がある。解脱の形にバリエーションはあるが、大体行方不明になるとか超人的な存在になったことが暗示される、というパターンが多い。これは本書だけでなく『ムントゥリャサ通りで』その他の小説でも同じだ。非常に神秘主義的である。訳者も、巻末にエッセーがある佐藤亜紀もそれをルーマニアの政治的状況と結び付けている。
それからひたすら荒涼としたキッチュな世界を描き出すディックと違って、この人の小説にはうっすら香るロマン派的なポエジーがあり、それも魅力となっている。『19本の薔薇』ではタイトルからも分かる通り、薔薇が印象的なモチーフとして使われていて、なかなか美しくも不可思議な世界が構築されている。
ところで巻末に佐藤亜紀のエッセーが載っているが、これがあきれるほどつまらない。やたら思わせぶりで持って回った文章だが、結局エリアーデの幻想をすべて政治状況に還元してしまっている。エリアーデ独特の想像力の質や方法論についての言及はほとんどなし。おまけに『ヴェルサイユの幽霊』というオペラに触れ、これは亡霊となったマリー・アントワネットが最後にやはり断頭台に上るという運命を選択する話らしいが、それを「感動的な結末として受け入れた」ニューヨークの観客に対して、911の犠牲者に「だから成仏しろと言えるのか」「勝者にしか到達できない、奢り高ぶった結論」とさんざん毒づいたあとで、「ただし、それが申し分なく正しい結論のこともある」「自分が完全に理不尽な死を死のうとしていると認めることこそ、解脱への第一歩だ、ということになるであろう」などとしれっと書いている。アホか。そりゃ同じことだろ。自分が言うのはいいが、愚かな大衆が言うのはけしからん、ってか。鼻持ちならない知識人気取りとはまさにこのことだ。
というわけで、巻末の佐藤亜紀のエッセーを除けばなかなか良かった。最高に好き、とまでは行かないし、万人におすすめはしないが、ユニークな美しさを持った幻想小説であることは間違いない。
ルーマニアの世界的な宗教学者にして幻想文学作家、エリアーデの全集第3巻を読み終えた。第1巻も持っているが、第2巻は持っていない。ただ『ムントゥリャサ通りで』は法政大学出版局のものを持っていて、かなり面白かった。これは幻想文学の傑作とされている有名な作品である。
しかしこの人の書く小説はかなり独特である。分かりづらい、といえば分かりづらいのだが、難解、というよりプロットがツギハギめいているのだ。訳者の解題を読むと、どうもエリアーデは書き始めてから主題を模索する、言い換えると行き当たりばったりに物語を書く人だったようで、そのせいもあると思う。行き当たりばったりでこういう物語が書けるというのも凄いが、この全体に漂う「わけわからなさ」感もある意味凄い。
この第3巻を読んで私が思い出したのはフィリップ・K・ディックの小説である。アメリカのSF作家とヨーロッパの宗教学者を一緒にするなと言われそうだが、小説としては絶対に共通点がある。しかもかなり多い。
これらの小説の中で、人々は常に監視され、検閲されている。誰かが喋る他愛もない言葉は重要な意味を秘めていて、秘密警察が嗅ぎまわっている。人々は唐突に若返ったり歳をとったりし、時間の流れが一様ではない。話はどんどん横道にそれて行き、何か説明を求めると「その前にこれを言っておきたい」などと言って一見無関係な話が始まり、なかなか核心にたどり着けない。そうやってプロットがゴチャゴチャしていき、わけ分からないままにある神秘的な現象に集約され、解決したのかしないのか分からないままに物語は終わる。どう? ディックみたいでしょ?
さらにいうと、この人のアイデアが少々ナンセンス性を帯びているところもディックに似ている。例えば『ケープ』では反政府組織が新聞を発行するが、その新聞は正規版と同じ記事を載せているが誤植が多く、その誤植が暗号になっていて大衆にあるメッセージを発しているのである。そしてこの新聞の年号はなぜか正規版の三年前なのだ。この暗合は月齢をキーにした暗合なのだが、地表全面の月齢を考慮せねばならず、しかもルーマニアで出版されているにもかかわらず15ヶ国語のどれかで書かれている。秘密警察の連中はこの新聞を解読して目的を突き止めようとドタバタめいた騒動を繰り広げる。発想といいテイストといい、見事にディックである。
他の小説もそんな感じで、『ブーヘンワルトの使者』では観客を変容させる芝居、というモチーフが現れるし、『三美神』は若返りと癌細胞の関係、『若きなき若さ』では雷電の直撃による若返りというか超人間への変異が扱われる。幻想小説のテーマとしてはそれほどユニークでもないが、それに妙チキリンで、わりと無理がある理論がつくところが独特で、ディックと共通するところである。
もちろんディックに似ているばかりではない。この人の特色というかどの小説にも共通するテーマとして、別の世界への解脱がある。解脱の形にバリエーションはあるが、大体行方不明になるとか超人的な存在になったことが暗示される、というパターンが多い。これは本書だけでなく『ムントゥリャサ通りで』その他の小説でも同じだ。非常に神秘主義的である。訳者も、巻末にエッセーがある佐藤亜紀もそれをルーマニアの政治的状況と結び付けている。
それからひたすら荒涼としたキッチュな世界を描き出すディックと違って、この人の小説にはうっすら香るロマン派的なポエジーがあり、それも魅力となっている。『19本の薔薇』ではタイトルからも分かる通り、薔薇が印象的なモチーフとして使われていて、なかなか美しくも不可思議な世界が構築されている。
ところで巻末に佐藤亜紀のエッセーが載っているが、これがあきれるほどつまらない。やたら思わせぶりで持って回った文章だが、結局エリアーデの幻想をすべて政治状況に還元してしまっている。エリアーデ独特の想像力の質や方法論についての言及はほとんどなし。おまけに『ヴェルサイユの幽霊』というオペラに触れ、これは亡霊となったマリー・アントワネットが最後にやはり断頭台に上るという運命を選択する話らしいが、それを「感動的な結末として受け入れた」ニューヨークの観客に対して、911の犠牲者に「だから成仏しろと言えるのか」「勝者にしか到達できない、奢り高ぶった結論」とさんざん毒づいたあとで、「ただし、それが申し分なく正しい結論のこともある」「自分が完全に理不尽な死を死のうとしていると認めることこそ、解脱への第一歩だ、ということになるであろう」などとしれっと書いている。アホか。そりゃ同じことだろ。自分が言うのはいいが、愚かな大衆が言うのはけしからん、ってか。鼻持ちならない知識人気取りとはまさにこのことだ。
というわけで、巻末の佐藤亜紀のエッセーを除けばなかなか良かった。最高に好き、とまでは行かないし、万人におすすめはしないが、ユニークな美しさを持った幻想小説であることは間違いない。
そうですか、ディックと似ていますか。
ディックは「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」を高校生のときに読んだきりなのですが、ディックも独特な世界を持っていますよね。
デッィクを読んでみようかな。
絶対ディックと似ていると思います、発想の奇妙さとか、底に流れている現実への違和感とか。ただ文芸の香り高いエリアーデに比べて、ディックはピカピカにキッチュなSF(大抵の場合は)なので、そういうところは違います。でもくろにゃんこさんのブログを拝見するとSFも守備範囲ですよね。だったらぜひ読んでみて下さい。
私のおすすめは『暗闇のスキャナー』『火星のタイム・スリップ』『虚空の眼』『ニックとグリマング』あたりですかね。本当はサンリオの『シミュラクラ』『時は乱れて』『最後から二番目の真実』あたり超お薦めなんですが、入手困難なので。
例えば『時は乱れて』って、田舎に住んでて新聞の懸賞クイズをいつも当ててる男がいるんだけど、洗面所のスイッチがいつもの場所になかったり、ラジオから変な通信が聴こえてきたりする。やがて現実が偽装されていることが分かり、彼は懸賞クイズを当ててるつもりで実はまったく違うことをやっていたという、実に変な話です。エリアーデっぽくないですか?まあ最後はアクションSFになっちゃうんだけど。『ティモシー・アーチャーの転生』とかも神学論議が出てきてエリアーデっぽいかも知れません。
マーサーは、さまよえるユダヤ人のイメージが浮かんだんですが、さまよえるユダヤ人といえば「ダヤン」にも出てきましたね。
ディックとエリアーデでは、役割の違いはありますが、実在しない観念的な人物が現実の人間に影響を与えるというところが似ていますね。
とりあえず、「火星のタイムスリップ」は借りてありますので、次はこちらに挑戦!
「火星のタイムスリップ」の感想もぜひ聞かせて下さい。