江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(21年10月10日)

2021-10-10 17:48:05 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第十九)  2021.10.10

本当は教えたくない愛」ヨハネによる福音書13:1~17.31~35

 Ⅰ導入部

 おはようございます。10月の第2日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと、会堂に集い、あるいはご家庭で、置かれた場所で、このようにライブ礼拝を通して、共に私たちの救い主であるイエス・キリスト様を賛美し、礼拝できますことを心から感謝致します。

榎本保郎先生の新約聖書一日一章で、ヨハネによる福音書13章の箇所で、稲の品種が多くあるけれども、たくさん米のとれる品種がある地方にあり、その品種の名前は、「だまっとれ」という名前。人に言うとそれを作るから、「だまっとれ」という品種名になったということが記されています。独り占めしたいというのは私たちの思いです。

私たちが体験した、いただいた神様の愛は、自分にとっては素晴らしくて、最高で、誰にでも知らせたくないようなしろものです。そのよう素晴らしい愛を私たちは、イエス様を通していただいていることを今日確認したいのです。

 「本当は教えたくない」という言葉は、よく商売で使われる言葉です。本当は教えたくないのだけれども、このシャンプーは、このパソコンは、商品の名前があげられ、お得なので紹介しますということがよくあります。本当は教えたくないのだったら、教えなかったらいいだけです。穴場というような言葉があります。自分が買いたい商品が品質もよくて価格も安い。その店はだけは教えたくない。自分のものだけにしたいということでしょう。自分にとって、役に立つ、メリットがある、お得だということを独り占めしたい、という思いは誰にでもあることでしょう。

今日は、ヨハネによる福音書13章1節から17節と31節から35節を通して、「本当は教えたくない愛」と題してお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、イエス様の愛の極み

 今日は、最後の晩餐の箇所です。ルカによる福音書22章15節には、「イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」とあります。イエス様のこの食事における思いが語られています。自分の苦しみ、十字架を前にしての弟子たちとの最後の食事に対する思いです。自分の死を前にして、他人のために配慮できる人、余裕のある人は存在するでしょうか。13章1節には、「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」とあります。「この上なく愛し抜かれた。」とありますが、新改訳聖書には、「その愛を残るところなく示された。」とあり、口語訳聖書には、「彼らを最後まで愛し通された。」とあります。「愛しちゃったのよ」なのです。ところが、弟子たちの方は、最後の食事だとは知らないでいました。食事を楽しんでいたのです。ルカによる福音書22章24節には、「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。」とあり、弟子たちは、この食事の席でさえ、「誰が一番偉いのか」という争いがあったのです。その中で、イエス様は突然、弟子たちの足を洗われるのです。イエス様の十字架を前にした最後の食事の席でさえも、弟子たちの間では、地位や肩書や権力の内容が論じられていました。イエス様が弟子たちに、3年と少しの間、教えられた事、訓練された事が無駄な事のように思われます。しかし、弟子たちが、聖霊を受けて、イエス様がかつて語られた言葉、イエス様の業の意味がわかるようになるのです。ですから、無駄ではなかったのです。

 2節には、「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」とあります。ヨハネによる福音書6章70節~71節には、「すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」とあります。5つのパンと2匹の魚で群衆を養われた後に言われた言葉でした。ユダがこのような人物でありながらも、イエス様はユダと共に生活し、彼にも教え指導されました。共に歩まれました。そして、十字架の直前まで最後の食事をも彼と共にされたのです。弟子であったユダの裏切りは、師であり、先生であるイエス様に対する最大の侮辱であり、最大の不誠実でありました。それに対して、イエス様は、ユダをこの上なく愛し抜かれた。最後まで愛し通されたのです。ユダの裏切りを知っておらたがゆえに、イエス様はより大きな愛を示された。イエス様は、傷つけられれば傷つけられるほど、ますます愛したのです。

 3節には、「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、」とあります。イエス様は、権威と栄光を与えられるのです。その事を知りながらも、イエス様は御自分を低くして、異邦人の奴隷しかしないような卑しい事、弟子たちの足を洗うのです。地位のある人や、高い位にある人は、卑しい仕事はできないと考える人が多いでしょう。それは、自分のすることではないと。権力があればあるほど、位が高ければたかいほどそうなります。しかし、イエス様は、全てのものを委ねられたという最高の権威をお持ちになりながらも、仕えられたのです。救い主イエス様の地上での最後の働きは、弟子たちに仕えること、奴隷の仕事をされたのでした。最後まで愛し通されたのです。私たち、一人ひとりも、このような愛で愛されている。そのことを覚えて感謝したいのです。

 

 二、洗足の行為はイエす様の十字架を指し示す

 イエス様は、弟子たちの誰が偉いのかと議論する彼らの心、ユダがイエス様を裏切ろうとするその心を知りながらも、御自分が最高の権威を持つものであることを知りながらも、弟子たちの足を洗われるのです。一般的に、「足を洗う」とは、あまりよくない仕事をやめることだったり、悪い道から正しい道に行くような意味で、「足を洗う」と言います。元々の意味は、お坊さんが、世俗の世界を回って、お寺へ帰るその際に、自分の足を自分で洗い、清めてから修行に入るのです。ここでは、イエス様が洗って下さるのです。イエス様は、弟子たち12人一人ひとりの足を洗われ、手ぬぐいで拭かれたのです。ペトロの順番になった時、6節にあるように、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」言いました。イエス様は、7節で、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われたのにもかかわらず、8節でペトロは、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言ったのです。イエス様がペトロの足を洗うことを拒否したのでした。ペトロは、イエス様が弟子である自分の足を洗うということがどうしても理解できませんでした。納得いかなかったのです。6節をリビングバイブルは、「主よ。足を洗っていただくなど、もったいなくてとてもできません。」とあります。僕が、奴隷がペトロの足を洗うというのは、自然な事でしたが、イエス様が弟子のペトロの足を洗うという行為は、自然な行為から逸脱しているのです。普通じゃないのです。常識では考えられないのです。先生であるイエス様が弟子の足を洗うということには抵抗があったのです。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」とイエス様が言われたのですから、自分に納得がいかなくても従えばよかったのです。けれども、ペトロは、8節をリビングバイブルには、「いいえ。どうかもう、おやめください」とあります。ペトロがイエス様の行為を拒否すると、イエス様は言われました。8節後半です。「イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。」新改訳聖書では、「関係ないことになります。」とあります。するとペトロは、9節「主よ、足だけでなく、手も頭も。」と言いました。足を洗わないとイエス様との関係がなくなると言われて、足と手もと言いました。ペトロらしい表現です。するとイエス様は、10節で、「イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」」と言われたのです。

 イスラエルでは、食事に招待されたり、祝宴に出かける前には、水浴して招待された家に着いた時には、客として家に迎え入れられるためには、ただ足を洗うという儀礼(式)が必要だったようです。「既に体を洗った者は」とは、洗礼、バプテスマの事を指しており、キリスト教会に加入するためには、洗礼を受けるということが示されているのではないかと言われています。洗礼を受けるという事が救いではありません。イエス様の十字架と復活を信じて救われた者が、しるしとして洗礼を受けるのです。

 イエス様は弟子の足を洗ってしまうと、師であり、先生であるイエス様が弟子たちの足を洗ったのであるから、弟子のあなたがたは互いに足を洗い合う、つまり、仕え合いなさいと言われました。互いに足を洗うとは、一方通行ではありません。自分が人の足を洗うだけではなく、自分も誰かに足を洗ってもらうのです。人に仕えるけれども、人から仕えてもらうのです。人を赦すけれども、自分も人から赦してもらうのです。自分は人を愛するけれども、人からも愛してもらうのです。イエス様は模範をしましたと言われました。

私たちの見習うべき見本なのです。

 

 

 三、互いに愛し合う関係となる

 31節、32節には、裏切り者のユダが出て行くとイエス様は、「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」と言われました。栄光とは、イエス様の十字架を指しているようです。

 33節には、「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」とあります。イエス様は、逮捕されるまでの間は一緒におられます。しかし、逮捕された後、十字架の道に至るまでは、弟子たちはついて来ることはできないのです。

 34節には、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」 「互いに愛し合いなさい。」というのは、今までにも聞いた言葉でしょう。新しい掟というものではないように思われます。しかし、「互いに愛し合いなさい。」という教えは、私たちがいつも覚えなければならない言葉です。いつも聞かなければならない言葉でしょう。いつも実践しなければならない言葉なのです。昔も今も、これからも絶対的に必要なことなのです。

 「互いに愛し合いなさい。」というのは、自然にできるものではありません。いつも語られ、聞かれ、教えられ、実践しなければならないことです。「互いに愛し合いなさい。」とは、歴史的にもずっと語られ、教えられてきたものです。けれども、それはなかなか実践できた、と言えるものではないのが現実でしょう。イエス様は、「あなたがたに新しい掟を与える。」と言われました。どこに新しさがあるのでしょうか。それは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ということにおいてです。

 イエス様は、そのように言われましたが、私たちは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と、胸を張って言えるでしょうか。夫は妻に、妻は夫に、先生は生徒に、社長は社員に、牧師は信徒の方々に言えるでしょうか。私たちにとっては、「わたしがあなたがたを愛したように」というのには、その愛し方において、愛の質において、愛の熱心さにおいては限界があるのです。イエス様の「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という言葉は、その事、愛せない私たちに向けられている言葉だと思うのです。「互いに愛し合う」という愛は、どこから来るのでしょうか。どこから始まっていくのでしょうか。自分や人の愛ではありません。それはイエス様の愛から来るのです。そして、イエス様の愛から始まるのです。イエス様の愛、十字架の愛が、全ての愛の始まりとなるのです。

 35節では、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」とイエス様は言われたのです。イエス様の愛から始まった愛によって、お互いに愛し合うという共同体が教会なのです。イエス様の愛が源泉であり、基であり、それが実行される場所、イエス様に愛されたように愛が具体的に実践されている場所が教会なのです。私たちの青葉台教会なのです。

 

 Ⅲ結論部

 イエス様の洗足は、イエス様の十字架を意味するものでした。イエス様はペトロに対して、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。」と言われました。そのように、イエス様の十字架を通して、十字架で流された尊い血、裂かれた肉体をゆえに、罪の赦しを与えること、清めることがわかりました。イエス様は、洗足の行為を通して、私たちの罪を赦すだけではなくて、私たちの正しさや強さで、自分を装うことから、私たちを解放して下さるのです。そのままの私たちでいいのです。

 神様の愛の極みが、イエス様の洗足であり、洗足は十字架を指し示しているのです。また、この洗足は、イエス様が奴隷のように、ご自身を低くされたという所に、洗足と十字架のつながりがあるように思うのです。イエス様は、真実の愛というものを十字架につけられる前の日に、弟子たちの足を洗うことによって、あらかじめ示されたのです。

 私たちは、自分の事だけを考えていたのでは、他の人に仕えるということはできないでしょう。謙遜とは、自分を低くするというよりも自分の事を忘れること、自分がなくなるということだと思います。イエス様は、この後、捕まえられ、十字架につけられ、殺されるというのにもかかわらず、自分の事は忘れて、人に仕えるために、神であるのに、人となって人間の世界に来られ、十字架で身代わりに死んで下さったのです。死んで葬られて終わったのではなくて、三日目によみがえられ、死に勝利されたのです。イエス様の十字架と復活を信じる者に、罪の赦しを魂の救い、死んでも生きる命、永遠の命を与えて下さるのです。

 イエス様は裏切り者のユダの足を洗われました。彼の前にひざまずき丁寧に彼の足を、愛を持って洗われたのです。イエス様はユダを責めることもできたでしょう。正当な理由もあるのですから。しかし、イエス様は、過ちを犯した人を責めるよりも、とがめるよりも、むしろ、愛しなさい。赦しなさいということを、洗足を通して示されたのだと思うのです。憎しみを感じる人に、憎しみを増し加えるよりも、むしろ、赦しを持って、愛をもって接するのだというのです。人間の心の汚れは、責められることによっても、正されることによっても取り除かれるのではなくて、赦されることによって、愛されることによってのみ取り除かれることを洗足つまり、十字架で示しておられるように思うのです。

 私たちはイエス様に愛された経験を通して、人を愛したいと思います。イエス様によって赦された経験を通して、人を許したいと思うのです。また、人に仕えることだけではなく、人から仕えられることも受け入れ、愛するだけではなく愛されること、赦すことだけではなく、人から許されることも受け入れたいと思うのです。

 私たちは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と言われたみ言葉を大切にして、愛し愛され、赦し許され、与え、与えられることを喜んで実行したいのです。私たちは、このような大きな愛で愛されています。こんなすごい愛を私たちは独り占めしたいのです。本当なら教えたくない愛なのです。しかし、この愛は全ての人に示されているものです。私たちの経験した素晴らしい愛、本当は教えたくない愛ですが、家族に、友人、知人に、イエス様に愛されたように、愛を紹介したいのです。

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