布施弁天界隈の自然と歴史情報

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茨城の利根町にある柳田國男の記念公苑って?

2008-12-19 | 歴史
利根川に架かる橋に栄橋というのがある。下流に向かって左岸が茨城の利根町の布川地域で、右岸が千葉県の我孫子の布佐地域である。この両地域とも、日本民俗学の父と言われる柳田國男(1875年~1962年)と縁が深いことをご存じであろうか。
私は、布施弁天の歴史を調べているうちに、江戸時代末期に『利根川図誌』という本を書いた赤松宗旦という人を知った。その人がこの利根町の布川の出身であることも知った。いつかは、そこを訪れてみたいものだと思っていたら、この赤松の『利根川図誌』に影響を受けた人物にあの日本民俗学の父・柳田國男がいることが分かった。しかもその柳田國男の記念館が利根町布川あるというではないか。では、まず、そこに行かずはなるまいと思い、先日行ってきました。
正式名称が柳田國男記念公苑となっているので、広々とした公園の一角にそれがあるものと思っていたら、なんと住宅街の真っ只中に、旧小川邸を活用してあったのです。利根町の町立で、入場は無料でした。
柳田國男は、明治8年兵庫県神東郡田原村辻川(現・神崎郡福崎町)に父・松岡賢治、母・たけの六男として生まれ、明治20年故郷を離れ、茨城県利根町布川で医院を開いていた実兄鼎(かなえ)のもと、2年ちょっとの時を過ごしました。この時の体験が、後に民俗学を志すきっかけとなったといわれていますので、そういう意味では柳田國男にとってはここは、第2の故郷といえるということで、それを記念して町が資料館、記念公苑を作ったそうです。
この柳田國男記念公苑は、旧利根町役場跡地約2000㎡の敷地の中に、國男が少年時代を過ごした旧小川家の母屋(木造平屋建193㎡)、管理棟、國男が書物を乱読した土蔵(資料館)で構成されています。
この記念公苑には、柳田國男に関する著作物、文書等を展示しているほかに、国際交流、地域間交流、町民交流の場として開放し、また会議、講座の開催及び宿泊施設としてもご利用できるようになっております。私がお邪魔した時も和室の一室で町民の方が打ち合わせを行っていました。その部屋のまわりに張り巡らされた渡り廊下をウロウロし、部屋やこれも立派なに庭園を見て回りました。そして、この母屋を出て、白の漆喰作りの資料館へ、柳田國男の世界の一部を味わいに。
これらの一般見学は、午前9時~午後4時30分で、会議・講座等の開催の場合は、午前9時~午後9時、さらに宿泊となると、午後3時~翌日の午前8時30分までです。休苑日は、月曜日・祝日・年末年始となっています。
さて、柳田國男の民俗学の特徴は、なによりも「文献史学においては典拠とする史料そのものに偏りが生まれるのは避けられないとしており、それゆえ公文書などに示された一揆や災害とかかわる民衆の姿をそこで確認できたとしても、その生活文化総体は決してみえてこない」ということである。つまり、「常民」の生活文化史の解明を目的とする民俗学にとっては文献資料にのみ依拠することには限界と危険がともなうのであり、それゆえフィールドワークによる民俗資料の収集が重要だと論じている。まさに、その通りだと思います。
だが、このことが現在の民俗学の危機へともつながるというから、わからないものである。それは、民俗学が悪いのではなく、日本の社会が、豊かになりすぎ、全国いたるところ、画一的な生活が展開され、特徴ある地域性を見いだせなくなってしまっていることに起因している。わざわざ、離島にいってさえも、この地域独特の民俗資料を探すことが困難になってきてしまっている。常民の生活アップという観点からは良いことだが、独自の地域文化の伝統の継承という観点からは、残念なこととしか言えないようだ。今回は利根町でしたが、この次は対岸の我孫子の布佐に柳田國男の業績を求めて行ってみたい。なお、赤松宗旦の墓は、近くの曹洞宗のお寺の来見寺にあったが、この話はまた後日書きたいと思います。
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