布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

一茶と双樹と新撰組ゆかりの光明院

2008-01-08 | 歴史
先般、紹介した流山の地名発祥の地といわれる赤城神社の隣にあるのが、真言宗豊山派の寺院、光明院です。創建は不詳ですが、本尊は不動尊で、赤城山神楽寺が寺号です。また、明治初期までは赤城神社の別当祈願所でした。境内には、寛文6年(1666年)の庚申塔や享保7年(1722年)建立の六地蔵があります。
この光明院には、昭和53年(1978年)の「第二回双樹忌」にちなんで、高さ2㍍の双樹と一茶の連句碑(写真)が建立されております。句碑には、
「豆引きや跡は月夜に任すなり 双樹」
「烟らぬ家もうそ寒くして 一茶」
と彫られております。これは、文化元年(1804年)9月の連句です。双樹が、一日中豆を引き抜いてくたびれた、あとはお月さんにたのみますよと詠むと、一茶が、夕げの煙で煙っている家も煙っていない家も晩秋の夕暮れで、何となく薄ら寒いですねと受けたようです。
また、近くには、「庭掃てそして昼寝と時鳥 双樹」という句碑もありますが、説明が無いので、何時の句か分からないようです。
連句について言えば、双樹と一茶の最後の連句は、文化9年(1812)3月3日に詠んだ下記の
翌は又どこぞの花の人ならん    双樹
川なら野なら皆小てふ也       一茶
句である。この年の10月27日に双樹が没し、29日に双樹葬を行う。もちろん、一茶は双樹の葬儀に参加している。
その際に、葬儀に関して詠んだ句としては、下記の
双樹仏の野送りおがみて
鳴く烏こんな時雨のあらん迚(とて)   
がある。
ここで、一茶の親友の双樹について少しふれてみます。流山村の酒造家の四代目の秋元三佐衛門春雄の長男として宝暦7年(1757年)に生まれる。五代目の正式の名前は秋元三佐衛門感義という。俳号を双樹といい若いときから学問に長じていたらしい。豆腐商から酒造家に転業をはかったのは父の代であったが、それから7年後に味醂づくりをはじめたのは、双樹の研究の成果によると推測されます。 酒造家の名門となった双樹は家業の傍ら、葛飾派の門人として俳諧道をきわめ、寛政3年(1791年)一茶が下総地方を巡歴した頃に出会いのがきっかけ。その後、一茶が既に交流していた馬橋村(現松戸市)の油商で葛飾派の大川立砂と共に親交を深めていくのです。
光明院で有名なのは、この一茶関係の秋元双樹の墓や句碑ですが、もう一つの余談にもふれておきます。それは、以前にもふれた明治維新時、幕軍がここ、光明院に陣をひいたということです。新撰組の近藤勇が長岡屋に本陣を構え、この光明院にも陣をひきます。近藤勇が官軍に捕縛された時、この光明院には、約200名以上の幕軍がいたのですが、彼等は、その際一体どうしたのかについて、ちょっとふれてみます。
幕軍等が調練を終え、光明院の寺の近くまで引き上げて来た時に、この長岡屋本陣の異変を聞いた。部隊はそのまま光明院で情報待ちとなり、物見の兵を出したり、中にはお寺の松の大木に登って、はるかに本陣付近の様子を眺める者も居たそうです。しかし、約200名のうち新撰組はわずか10数名で、あとは歩兵隊約100名弱、残りは馬屋方、雑役夫などの寄せ集めのためか、腰が引け、ほとんどが銃器を手にしたまま、松戸方面に逃げたとかという話しが、地元に残っているそうです。
いつの時代も寄せ集めでは、なかなか仕事にならないようですね。文学碑と似つかわないなまぐさい戦いの逸話も残っているのが、光明院なのです。
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