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江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

「動物界霊異誌」中の蝦蟇(ガマがえる) その1

2022-12-18 17:26:52 | キツネ、タヌキ、ムジナ、その他動物、霊獣

「動物界霊異誌」中の蝦蟇(ガマがえる) その1

蝦蟇の魂で遊ぶ

蝦蟇がえるの魂で遊ぶ、ということが「動物界霊異誌」の蝦蟇の項にあります。
本ブログは、江戸時代の物を扱ってはいるのですが、大変面白いので、紹介します。
なるほど、面白いやり方ですね。

ガマの体から蒸発してくる気体を受けて、袋にためる。それの温度が下がると、気体と個体の混じった状態、つまり煙状になったのを、小出しにする。
その煙の一塊をガマの魂に見立てる、という遊びですね。


以下、本文。
数年前、奇術師の天一(松旭斉天一:1853~1912年)が、洋行(実際には上海に行ったことがあるだけ)の土産話として、奇妙なことを雑誌に書いている。

これは、いかにも奇術師らしい話で、一寸聞くと眉唾ものらしい話である。しかし、天一はこれぱかりは、ウソや手品ではない、疑う人は、検証実験をすると良い。ウソであったら、百円進呈する、とまで附け加えての発表であった。
そうであるから、満更(まんざら)ウソではあるまい、と言うことと思われる。

その話と言うのは、こうである。
蝦蟇を宙づりにして、下から火を焚いて焙(あ)ぶると、熱くなってもがき出す。
(ゆでがえるでなく、焼き蛙。日本の一部の識者が、ウクライナ侵攻でも、その他の異常な諸国の振る舞い・嘘、自国民他国民への圧迫・虐殺もに対しても、ゆで蛙状態でいるのは、恐ろしいことである。:編者の意見)
すると、蝦蟇の魂が気体になって、体から脱け出てゆく。
この時、ゴムの袋、又は豚の膀胱(袋状)などを蝦蟇の頭の上にかぶせるようにして、気体を吹い込ませる。
この後に、ゴムの袋、または、豚の膀胱の口を強く締めて閉じる。こうすると蝦蟇の魂を保存する事ができて、夜の楽しみの用意が出来る。

先づ障子を二三枚、裏を出して列(なら)べ立てるか、又は活動写真用の映写幕(スクリーン)を張るかして、その前面にあの袋を持ってくる。
その袋の口には、細い竹の管を挿込んで置いて、蝦蟇の気体化した魂の漏れ出る道をつけて置く。
さて、袋のロを障子又は映写幕(スクリーン)の方に向けて、サッとその下部を握ると、管の先から、シャボン玉が出るように、煙細工(けむりざいく)のような蝦蟇が一個飛ぴ出して行く影が映る。
ニ度握れぱ二個出で五度握れぱ五個出る。
大小濃淡、握りかたに応じて、蝦蟇の魂の気のある限り、何十個の煙の蝦蟇が飛ぴ出してくる。・・・

蝦蟇の油や小便は、古来我国や中国で、種々なことに使用される、と言われている。
しかし、西洋のように、その魂を使う、という考えには及ぱない。
天一の土産話が、果して実際に西洋に行はれているならば、西洋人も案外話せる人たちである。
丹念に捜せば、西洋にも何所(どこ)かに、蝦蟇仙人がいるかもしれない。

 

 


狸の易者 百家奇行伝

2021-06-26 23:21:44 | キツネ、タヌキ、ムジナ、その他動物、霊獣

狸の易者        

これは、ごく最近の寛政年間(1789年から1801)の頃のことである。
江戸銀座二丁目の西側に、狸の易者というものがいた。
名は何といったかは、忘れた。

この者は、いささか学問があって、かって話をしたときは、大変面白かった。
大変な奇人であって、朝夕の行動も、普通の人とは、大いに異なる所があった。

常に狸を好んで、多く家に飼っておき、朝夕、狸を愛するのは、世の婦女子などが、猫を愛るのと同じ様であった。
寝室には狸の軸をかけ、壁には狸の絵をここかしこに貼り付け、夏の浴衣に狸の模様を染め、冬は狸の皮衣を身にまとていた。
占いの、小看板にも狸を絵を描いていた。

そういう事で、世人は、彼を狸の易者と呼んでいた。

「百家奇行伝」(古事類苑 動物7)より

訳者注:これは、怪談ではなく、奇談ですね。


狼は、神の使い  中陵漫録

2021-05-29 23:02:44 | キツネ、タヌキ、ムジナ、その他動物、霊獣

狼は、神の使い      

「中陵漫録」 佐藤成裕(江戸時代後期の随筆)には、様々な、面白い話があります。
目に見えないオオカミが、神様の使いとして、田畑を荒らすイノシシを追い払ってくれた、という話です。


以下、中陵漫録 より

備中の今津と言う所の山中に、小さな社がある。木ノ山権現という。
そのあたりに神社がある。
同じく、また下神代村というのがある。
ここより十里ばかり山の奥であるが、猪が出て田畑の作物を荒し、秋の作物が一粒もとれないことがある。
これを免れんと思へば、この神社から霊符(お守り)ならびに幣帛(へいはく)を受けて来て、祈る。
すると、祈った人に一匹の狼がついて来て、猪の害を防ぐという。
その人、帰路に狼がついて来ている事を気がついていないが、その山路に何か所も渡り超えるべき川がある。すると、川中の石の上の乾きている処へ水がはねて、ぬれた跡がある。
水がはねたのが、現に見えるが、狼の姿は、全く見えないと、その人が、私に話した。
その夜、猪が出て、田畑を荒らす事はない。
狼は、毎夜走り回って猪を狩って、帰るとの事である。

私は、この村の村長の家に数日続けて宿泊した。
薬を採集に行ったのだが、その時、何度かその話の事を、聞き正した。
まったく、その通りであるとの答えであった。


青鷺の妖怪  「尾張名所図絵」玉滴陰見

2020-10-29 18:32:01 | キツネ、タヌキ、ムジナ、その他動物、霊獣

青鷺の妖怪
2020.10

先日、ネットを見ていたら、アオサギが出てきた。
それで、数年前、松江に旅行したときに、アオサギを見たのを、思い出しました。
松江城のお堀を巡る船に乗りましたが、その時に人生で初めて、野生のアオサギを見ました。
堀端に、じっとたたずんでいました。
初めて、見たときは、何か妖しい感じがし、またペリカンに似ているとも感じました。
調べてみると、アオサギは、ペリカン目サギ科の鳥なんですね。どおりで、ペリカンぽいわけですね。

鳥山石燕(とりやま せきえん)の「画図百鬼夜行」には、アオサギも妖怪の一つとして描かれています。

また、平秩東作(へっつ とうさく)など編の「狂歌 百鬼夜狂」という、狂歌集には、
山東京伝(さんとうきょうでん)先生のアオサギを詠んだ狂歌が収録されています。


青鷺(あおさぎ) 山東京伝(さんとうきょうでん)
「色かへぬ 松にたぐへん(比=タグえん) 青鷺の さもものすごぐ 塀を見こすは」
と、載っています。

アオサギが、なぜ妖怪扱いされたのかを考えて見ました。
始めて見た時の感じというのは、何か不気味な感じでした。

なぜか?
まず、アオサギは、ほかのサギ類に比べて、大きいこと。体形が、違うこと。
もし、薄暗い時に見たら、なにか怖そうです。
また、体色も、くすんだ灰青色で、ほかの鳥とは、違っています。
もし、同じような大きさで、白い体色でしたら、普通の鳥と感じたことでしょう。
また、見たときには、まるで銅像のように、動かなかったので、ほかの鳥とはちがう、奇妙な感じを受けました。
後で考えると、多くの鳥は、せわしなく動いています。
動き回る生き物が、静止しているのも、生の感じがしなかった、と印象を得たのでしょう。

そのようなことから、アオサギを夕暮れの暗い時に見た人が、怪異を感じて、化け物扱いをしたのだ、と推定されます。

それなら、妖怪や化け物の話を集めた百物語類に、アオサギの事が、記載されていないか、と当たってみましたが、見つかりませんでした。

わずかに、「尾張名所図絵 付録 三」に、一話あるのを見つけました。
紹介しましょう。

尾張   ・・・・

長良村と烏森(かすもり)村とのあいだにある佐屋海道の縄手(細い道)に、昔 妖物が出て、夜行く人を悩ましていた。
或いは、七尺余りの大坊主となり、後ろより見越して妖しい顔を見せ、又は婦人の姿になり怖れさせていた。
ある夜、名古屋の人が来て、高須賀川の橋のほとりで、待ちかまえて、この化け物を組み伏せ、刺し殺した。
すると、大変大きな青鷺であった。
そのことを、里の老人は、聞き伝えてる。
これは、百八九十年ばかりの昔の事である。

玉滴陰見(ぎょくてきいんけん)に、
延宝八年(1680年)、尾張(愛知県)にて、青鷺が変じて、七尺ばかりになった。その後、女に化けて人をたぶらかしたかした、との事を、黄門公が聞いた。何としても、足軽に捕まえさせよ、と責任者に命じた。そして、命じられたとおりに、青鷺を組留めたとのことである。


キツネに導かれた、館林城  その2  関八州古戦録

2020-03-22 14:02:07 | キツネ、タヌキ、ムジナ、その他動物、霊獣
キツネに導かれた、館林城  その2
  
享禄(きょうろく)元年(1528年)戊子年のことである。
初春の祝として上野の国の舞木(こうずけのくにのまいき)群馬県邑楽郡千代田町)の城主の甥、俵五郎秀賢照光は、少ないお伴と供に外出した。
道の途中で、五六八九歳の子供達が集まって、狐の子をとらえて殴っていた。
照光は、それを遠くから見つけて、お供の鉢形惣次郎に、子供たちに銭を与えさせて、キツネの子を、逃げさせた。

晩に、帰城した所、狐の親が、人に化けて出てきた。
照光の馬の前にかしこまり、
「私は、今朝助けていただいた狐の親でございます。
あなた様の御厚恩に対して何をもってか、ご恩返しを致しましょうか。
今 あなた様の御居城の青柳は勝地ではありますが、敵に攻められやすく、味方千騎は、敵の百騎にしか匹敵しません。
(その訳は、)(あなた様の)御先祖照重公が、去る文治四戊申年(つちのえさるのとし1188年)、赤岩の館(やかた)より移って、青柳に築城されました。
享禄まで城主七代、年数は三百四十一年、武勇が盛んで子孫繁栄をしていますが、国は衰え、民は苦しんで、城は日々衰えてきています。
(その証拠は、)広沼は敵を防ぐためでありますが、(当時、田畦となれば、)守護の霊神も助けてくださいました。
しかしながら、諸国は乱世となって、去る永正(えいしょう)九年(1512年)に武州鉢形の城主を始め、永正十七年(1520年)に上州高田の城が、大永(だいえい)元年(1521年)十月二十三日武州杉山の城が、大永四年(1524年)正月十三日武州江戸の城が、落城してしまいました。
彼らが戦いに弱いのではありませんが、城を守護する霊神が威力を失ったことから、戦に負けたのです。
このような乱世には、名城にお移りください。
館林に築城すれば、当国(上野こうずけ:群馬県)の名城となりましょう。」
と語って、消すがごとくに消え失せた。


以上、「館林盛衰記」広文庫より


群馬県の舘林城は、戦国時代から江戸時代にかけてのしろである。
五代将軍の徳川綱吉の居城であった。
その城が、狐の導きによって、築城された伝説があるのは、興味深いことである。