橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

鈴木宗男議員有罪判決に思う・・8年前に書いたブログ「鈴木宗男よどこへゆく」再掲

2010-09-08 20:45:25 | 国内情勢
鈴木宗男議員の有罪が確定した。
なぜこんな時期に・・・というのは多くの人が思っている事だろう。
さっきustreamで本人と弁護士の会見を見たが、検察のシナリオありきの捜査を批難し、明確に冤罪を訴えていた。
再審請求してがんばって欲しいと思う。

疑惑がマスコミ上をにぎわしたのは今から8年ほど前。
奇しくも、当時の私は現在と似たような状況にあった。
当時は情報番組が政治を扱うようになり始め、私も徐々にニュース関連の仕事にシフトし始めていた。
それまでバラエティや生活情報主体の仕事をしてきたが、ニュースを報じる側として扱うようになると、少しずつ、その報じ方に疑問を感じ始めるようになっていた。そして、そうした疑問によるすれ違いや、当時の私のスキルが低かった事もあって、4月の改編を機に、その番組のリストラ対象となったのだ。
今回は、自分から辞めたいといって辞めたので事情は違うが、現場に居づらくなって職を離れるという意味では同じだ。

8年前は、4月以降すぐに別のキー局の番組に転職した。転職した次の職場では、勉強させてもらう事も多く、また私と考え方の近いスタッフも多く、円満に仕事を続けさせてもらった。
しかし、より本格的にニュースの仕事に携わるようになればなるほど、マスメディア全体への疑問が生まれ、政権交代後の小沢一郎に対する一連の報道や、普天間問題の報道のあり方などに触れるに至って、今度は自分のほうから辞める事を決断してしまった。現在、私は失業者だ。

自分の話が長くなってしまった。これがどう鈴木宗男と関係があるのか?
そろそろ話を鈴木宗男に戻したい。
(以下、敬称略します)

2002年3月。
鈴木宗男証人喚問を前に、私は、自分のリストラと鈴木宗男の状況を重ねてブログを書いていた。

当時の私は、政治に関する知識も検察に関する知識も乏しく、メディアの情報から「鈴木宗男は怪しい」と思っていた。
もちろん今はそうは思っていないが、8年前に書かれたそのブログ記事は、「ムネオ怪しい」という前提で書かれている。
しかし、この記事は、そんな時期に書いたものであるにもかかわらず「鈴木宗男が怪しい」ということを主張するものではない。
そして、この記事の中で私が批難した世の中の状況は、現在の小沢一郎を取り巻く状況にも似ている気がする。
そしてまた、私が昨日このブログにアップした記事にも繋がる部分があるように思えた。
そこで、今日は、この8年前の記事を再掲しようと思う。
今より文章も下手で分かりにくい部分もあるが、たまに(注)を入れながら、そのまま掲載します。

<ここから8年前のブログ引用>

2002年3月10日(日)
『宗男証人喚問まであと8時間』

久々更新、2週間振り。4月以降の就職先のことを考えて、行ったり来たりしているうちに、明日とうとう鈴木宗男の証人喚問と相成ってしまった。この2週間、私も色々考えたが、宗男の立場を考えると私の悩みなんてアリの悩みほどもない。でも宗男は自業自得なのでしょうがないけど。(現時点での注:自業自得とはもちろん今は思っていない。)
それにしてもこれほど多くの人々に注目される人生の岐路もない。ましてや日本国民のほとんどが「つぶれろ!」と思っている。どんな気分なのか。四面楚歌との報道の裏で、こっそりと声をかけてくれる人はいないのか。力付けてくれる仲間はいないのか。心配なんかしている私はバカなのか、騙されやすいのか。
いや、私は宗男に味方するわけではない。逆境になったらすぐ手のひら返す汚い奴らに腹が立つだけだ。
奴らは「だって自分が生き残るためにはしょうがないですよね」とでもいうつもりなのか。
「生き残る為しょうがないこと」とはどんなことなのだろう。

新しい仕事を探す時、周りからも自らの中からもこの言葉が聞こえた。
世の中の人々は大抵これを我慢して生きているらしい。
でも、手のひら返す政治家達は(返す前も後も)、自分で踏ん張る力がなかったから「~しょうがな」かったのではないか。同じように、自分や周囲の人から聞こえるそんな声も自らの力と勇気のなさではないか。
自分の実力の限界を悟る諦観イコール「しょうがない」ではないと思う。
努力すれば必ず報われるとも思わない。
けれど、「しょうがない」と言う人が理想に向けて本当に努力をしているようにも見えないのだ。肩を落とす事は簡単だし、所詮・・と思う事も簡単である。でもそう思わない元気と体力そして焦りがあるうちは踏ん張っていたい。
毅然とするということは今の日本では本当に難しいと思う。
そんな土壌が変わらない限り宗男が失脚しても何も変わらない。

こう書いてくると、なんとも堅苦しい生き方を選ぶように感じるが、目指しているのは目分量の世の中だ(現時点での注:目分量というより「臨機応変、是々非々」という意味でしょうか)。マニュアルではなく自己責任の下、人を信頼して物事を行う世の中だ。上手く行けば開放的だ。しかし、こんな事をぶつわりに私は物事から逃げ過ぎた。「しょうがない」という人たちに胸を張るためにも思った事は実行するしかないのだ。人から遅すぎると言われようとも、失敗しようとも。
それしか「手のひらを返して宗男を見限る汚さ」的なものに対抗する方法はないのかもしれない。
 鈴木宗男の証人喚問まであと8時間。

(現時点での注:このとき自分のことを「物事から逃げすぎた」「思った事は実行するしかない」と言いながら、今まで「思った事を実行」できたとは言いがたい。あれから8年も経って40歳も過ぎて、今になってやっと思った事をやろうとしている。でも、人とはそんなものだ。思った事をそんなに簡単に思った通りに実行できるものでもない。当時は、周りに反発しているのもあって、妙にイキガっている。諦めはあっていいのだ。しかし、責任転嫁や逃げは良くない。諦めと逃げは違う事を自覚すべきと思う今日この頃だ。)


2002年 3月13日(水)
『宗男の日とりあえず終了』

宗男証人喚問の日3/11は宗男の日と揶揄されるくらい宗男一色だった。
世間話でも宗男の話しかしちゃいけないくらいの勢い。子供達まで加わって、かつてのロッキードやリクルートの時の盛り上がりとは比べ物にならない。
私も宗男は嫌いだったけれどこんなに重箱の隅までつついてこられると、もういいよという気になりそうになる。
もちろんこのまま疑惑をうやむやにすることは絶対いけない(現時点の注:今はこれを検察に言いたいです)。

けれどなんだかしっくりこない。
NGO問題が引き金で起こった騒動で真紀子更迭、その復讐発言、野党宗男疑惑追求の動き、世論の後押し、証人喚問へ、世の中宗男一色といった経緯の中で、あんな強烈な真紀子さえ、昨日今日は世の人の興味の対象ではなく、ましてや、これらの宗男関連の問題は外務省がらみでありながら、その外務省の問題はどこかに忘れ去られている。
みんなが宗男宗男と騒いでいるうちに、外務省の責任なんてなかったことにしようとするかのごとく。
けれど、思い起こすと、NGO問題が起こった時、テレビに出演した与党政治家は官僚の責任を一番に言い立てたはずだ。宗男が悪い事は分かっていながらその決定的証拠をつかめず、疑惑の数ばかりが増えてゆく。
テレビや新聞は毎日何かは提示しなければいけないから、だんだん訳が分からなくなる。宗男のしっぽを掴む為どんなに小さい疑惑でもいいから完全に犯罪を証明できるものを探しているのだ。

しかし、だんだん手段が目的化しているような気がする。
まるで見えない黒い糸に操られてみんなでよってたかって宗男疑惑をあさっているようだ。証人喚問の辻元の追求には間違いがあったかもしれないと今日の報道。
宗男の証言との信憑性比較が行われると思うが、今週もっとも興味が有るのは、宗男に辞職を迫る与党の面々の思惑とそれに対する宗男自身の思いである。

やつらの冷や汗をあぶり出さないことにはどうしようもない。  


2002年 3月16日(土)
『鈴木宗男よどこへゆく』

宗男が涙の離党会見。ニュースステーションでは、宗男の政治人生を2人称で「あなたはあのとき__でしたね・・・」という感じでニュースらしからぬ感情たっぷりで振り返っていた。宗男の会見で、時代が変わる予感(期待も込めて)とともに旧時代の一つの象徴が崩れ行く姿を目の当たりにし、ある意味感慨を抱かずにはいられなかった。ステーションのVTRはその気持ちを代弁してくれるようなものだった。(現時点の注:この「感慨」という記述。本質が見えてなかったのだなあと反省。小泉旋風に乗せられていたのですね。)

そういうVTRをつくるなら私にはもう一つつけ加えたい映像があった。
それは、去年の6月私が足寄に宗男取材に行った時に撮影した映像である。その時の番組構成ではどうしても組み入れることができず日の目を見ることなく消えてしまった映像だ。
廃坑になった炭坑の町の数十年後の姿だった。
そしてそこは鈴木宗男が働くはずの場所であった。   _                  t

鈴木宗男は、1頭の馬を売って拓殖大学に進学する事になる前、すでに地元の炭坑へ就職が決まっていたという。当時は炭坑全盛時代、炭坑の周辺には、働く人々が住む家々のほかに病院や映画館、商店街が立ち並び、とてもにぎやかな町並みを形作っていた。

足寄地区に宗男の過去を訪ねた私は、そんな彼が働くはずだったという炭坑の跡地にも足を伸ばした。以前その地を撮影したことがあるという地元のカメラマンの案内で山道を登ったが、なかなか炭坑の入り口は見つからなかった。帰りの飛行機の時間を気にしながら私たちは草をかき分けた。カメラマンによると、そんなに見つからないわけはないという。けれど右を見ても左を見ても背丈よりも高く伸びた草と潅木が茂っている。無口になって、残り時間の少なさに半分諦めながら山道を進んでいたらふと水の流れる音が聞こえた。そして、その方向を見るとなんと入り口をコンクリートで埋められた炭坑のトンネルの上から湧き水のように水が流れ落ちていた。ツタが絡み、周りは伸びた草木に囲まれ、気をつけないと炭坑口だったなんて気がつかない。

そして、その場所からよくよくあたりを見渡してみれば、もう森になってしまったその木々の奥のほうに病院ではなかったかと思われる建物が見えた。街は完全に森に回帰していた。植林したわけではないらしい。廃坑になって人々が出ていった後に自然にこうなったのだ。
カメラはその炭坑をうっそうと覆う森を見上げ、そしてゆっくりとコンクリートで埋められた入り口のところまで振り下ろしてきた。その炭坑の名前が記された朽ち果てたプレートがまとわりついたツタの葉っぱに見え隠れし、その上をちょろちょろと山から湧き出した水が流れ続けている。

もし鈴木宗男が18歳の若き日に大学に行くという決断をしていなければ・・・。

鈴木宗男はその後この地を訪ねたことがあっただろうか。
一つの街を覆い尽くすほどの森が育つその間、彼はそんな木々の成長を知ることもなくその近隣の町を大きな声を張り上げながら通り過ぎていたのだろう。
一から出直すと言っていた鈴木宗男は次にどういった行動に出るのか・・・。

<過去の記事ここまで>

当時の私は、まだ検察に疑問を抱くほどリテラシーが高くなかったので、単純に鈴木宗男の疑惑を認めていた。これは単なる勉強不足、知識不足なだけだ。
しかし、知識の多寡に関係なく、いろんなことに「流されたくない」という思いだけが、私を踏ん張らせてくれた。
あれから8年間。この「流されたくない」という思いから、いろんな情報に対する素朴な疑問や、ちょっとした引っかかりを大切にして物事を見るようにしてきたつもりだ。
でも、そのせいで(かどうかはわからないけど)私は失業中だ(笑)。

一方、鈴木宗男氏の昨今の活躍は、皆さんご存知の通り。
根がしっかりと張っていれば、森は復活するのだ。まさに「新党大地」。

当時の私は、その鬱蒼とした森に、ただ時の流れの感慨を感じただけだったが、
今は、森の包摂力、再生力に畏怖を感じる。
人間たちが、小さい了見で右往左往しているのを横目に、森は粛々と再生して行く。

8年後の私は、もう、鈴木宗男はこれからどうするのだろう・・なんて言わない。
鈴木宗男の復活を祈るのみだ。




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