橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

そもそもユーザー感情なんて読めるのか、自分のことも分からないのに…

2014-07-03 18:27:34 | Weblog

facebook上で「FacebookのサンドバーグCOO、ユーザー感情の操作実験を謝罪」という記事が話題になっていて、このタイトルだけに反応し、以下の文章を書いて、自分のfacebookのタイムラインに投稿した。それをこちらにも転載。

上記のニュース記事はこちら http://japan.cnet.com/news/business/35050302/

>>>>>>>以下

実験まではしないものの、ユーザー感情を読むというのはすべての商売の現場で行われること。しかしながら、あまり読みすぎて、自分はユーザー感情が読めてると過信するのは、人間の感情の機微というものに対しての冒涜じゃないだろうか。他人の気持ちはそんなに読めやしない。

ものを作って人に売る時の基本はやはり、自分がいいと思ったものを、伝わりやすい形に仕立てることだと思う。自分は感動しもしないのに、他人の心を読んだ気になって作ったものは、最終的に、その読みこぼしている「他人の感情の機微の部分」に復讐されるのではないだろうか。

人間が頭で理解出来ることなんて、宇宙の真理や生命の神秘のほんの断片。現在の科学はその断片だけをハメた隙間だらけのパズルを見ながら全体像を想像しているようなものだとつくづく思う。まるで、パネルクイズアタック25のチャンピオンクイズ。それも獲得枚数1枚みたいな世界。運良く顔の真ん中の部分を取ってたから読めましたみたいなまぐれの世界でしかない。何枚かパネルが開いていても、見えてない部分に落とし穴があると考える方が科学的にも正しいんじゃないだろうか。

人間は神にはなれないに100万点!

追記>>

でも、最近、感情を読まれたいと思っている人も多いんじゃないだろうかって気もするよな。なんかメディアとユーザーの共依存みたいな状態なのか…。ものづくりにおける考え方がマーケティングとなってから先、受ける側でさえ、喜んで、勝手に想像されたユーザー像を受け入れてる感じもする。

で、さらに追記。

上記の文章は自分が書いたことだから、そのとおりに思っているのだが、ひとつ書き落としていたことがある。

「自分がいいと思ったものを」と書いたが、この自分がいいと思っていることというのがくせ者で、しばしば「いいと思っているつもりになっている」ということがある。人間実は自分のことが一番わからないもので、心の奥の奥の声に耳をそばだてると、ちょっと違うことを言っていたりする。人はなかなか自分に正直になりきれない。

で、ちょっとそのへんを真剣に考えず、さらっと流してしまうと、「自分がいいと思ったもの」はなんだか通り一遍なつまらないものになっている。「いいもの作っても売れない」というものの何割かにはそういう通り一遍が混ざっていると思う。