天保12(1841)年に、いわきの地に生まれ、
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。
さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月14日の項には、
次のような記述がある。
十四日 農商家ノ童子、小斧ヲ持、
木厭當(キマジナイ)セント家々ヲ廻リ、
梨、柿、柚、柑類ノ樹ヲ斧ニテ打チ、
なるかならぬかトイフテ責ル。
傍ヨリ、なりもうそうなりもうそうトイフ。
これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。
陰暦1月14日 農家や商家の子どもたちが、
小さな斧を持ち、
木まじないしましょうと言いながら家々を廻り、
梨の木や柿の木、柚、柑橘類の木を斧で打ちつけ、
「実をたくさん付けるか、付けないか」
といい、木を責める。
すると、傍らの子どもが木に代わって
「たくさんの実を付けます」という。
大正元(1912)年に没した
大須賀筠軒(おおすが いんけん)が、
明治25(1892)年に書き記した
『磐城誌料歳時民俗記』(歴史春秋社刊)を
今回もまた、紐解くこととする。
さて、『磐城誌料歳時民俗記』の陰暦1月14日の項には、
次のような記述がある。
十四日 農商家ノ童子、小斧ヲ持、
木厭當(キマジナイ)セント家々ヲ廻リ、
梨、柿、柚、柑類ノ樹ヲ斧ニテ打チ、
なるかならぬかトイフテ責ル。
傍ヨリ、なりもうそうなりもうそうトイフ。
これを現代的な表現に改めると、
次のようになるかと思う。
陰暦1月14日 農家や商家の子どもたちが、
小さな斧を持ち、
木まじないしましょうと言いながら家々を廻り、
梨の木や柿の木、柚、柑橘類の木を斧で打ちつけ、
「実をたくさん付けるか、付けないか」
といい、木を責める。
すると、傍らの子どもが木に代わって
「たくさんの実を付けます」という。