明治35(1902)年、航路・石狩川線(江別ー月形間、月形ー札的内間、江別ー石狩間、の3航路)が北海道補助(命令)航路に指定されました。
この補助航路は、21年の小樽ー増毛間がはじまりです。
その後、函館ー釧路線、函館ー網走線、函館ー小樽線、小樽ー稚内線などが対象となります。
いずれも海路でした。
当時の北海道の海は、①安全施設(灯台や港など)が不備で、②冬の大時化、流氷、夏の濃霧など、危険がいっぱいでした。
そのうえに採算上の問題もあり、北海道の内陸、奥地の開拓上重要な航路も思うような安定運航にはほど遠いものでした。
そのため、国が補助し、採算上の隘路を解消すると同時に、受命者、航路、運行回数、船の規模能力を指定、運行を維持する補助航路となります。
例えば、今日の過疎に悩む町村などにおいて、住民の足を確保するため自治体が会社に補助を出して、バスを走らせるのと同じです。
なお、道内の補助航路のうち、河川航路のうち、河川航路は石狩川線だけです。
その理由は、①開拓当時の北海道の道路はすこぶる悪かったことです。人馬相通せずといわれ、鉄道沿線を離れると交通は杜絶し、往来は困難を極めました。
②特に内陸、雨龍方面の農産物を搬出し、逆に札幌、小樽等の生活必需品を同地方へ送るため、この航路は不可欠、などでした。
この航路が補助航路に指定されるまでの間、紆余と曲折ありました。
石狩川航路は、民間の汽船会社の経営で運行されていました。
有限責任石狩川汽船会社であり、西田汽船などです。
大倉組汽船部や大河原文蔵らの石狩運漕会社、さらには石狩川滊線合資会社です。
それぞれがそれぞれに奮戦しましたが、いずれも沿岸農産物の出荷状況や半年の結氷運休などに苦しめられました。
もはや、誰の目にも民間単独の経営は難しい、そこまで追い詰められていました。
註 :江別市総務部「新江別市市」216頁.
写真:石狩大橋<昭和21年代>
*石狩大橋・農産物の搬出を終え、美原方面へ帰る馬車の列が通る
同上書写真4-21を複写・掲載いたしております。
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