江別創造舎

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東蝦夷地の改革

2018年02月11日 | 歴史・文化

 寛政10(1798)年の調査で蝦夷地の経営に関し、松前藩の力量不足が明らかになりました。
翌年、幕府は当面の措置として、ロシアの関係で重要な東西蝦夷地を7カ年仮上知(直轄)することに決しました。
 享和2(1802)年には仮上知を改め永久上知とし、さらに、文化4(1807)年には西蝦夷地も上知し、幕府による全蝦夷地の直轄は文政4(1821)年まで続くことになりました。

 幕府は、東蝦夷地経営のために、国境の警備、アイヌの撫育・同化、開墾、開拓などにわたって方針を立てました。まず、警備については、南部と津軽の二藩に命じました。両藩とも箱館に元陣屋を置き、500人ずつの足軽をクナシリ・エトロフまで駐屯させました。そのためには、箱館から根室までの間の交通路の整備が必要になり、様似山道、猿留山道が開削されました。
 それと共に、農民移民100人をユウフツとシラヌカに送り込みました。これは、武蔵国八王子から100人を屯田農民として迎えたもので、開墾と蝦夷地警備を兼ねた明治の屯田兵のさきがけでした。
 しかし、農耕に不適な土地だったことや、気候条件が合わなかったことで、多くの病気帰郷者や死者が出て結局、この屯田計画は失敗に終わりました。

 アイヌの撫育・同化政策は、交易の際には粗悪品を渡したり秤目・升目をごまかすなどの不正を行わない、和語の使用を許可し、かな文字を教える、入墨をやめさせ、住居・服装・道具雑器の類も日本風の風俗に改めさせる、穀食をすすめ工作も徐々に行わせるようにする、病気の者には臥具を与え手当を施す、乙名が多くの妻妾をもつという習慣を改めさせ、独身の者がないようにして、人口が増えるようにする、等々というものでした(『蝦夷地御取締並開国之儀相含取計方申上候書付』)。

 同時に、幕府は、請負人による過酷な使役でアイヌの信頼を失っている場所請負人を廃止し、「直捌(じきさばき)<幕府直営>」による場所経営を行うことにしました。各場所には幕吏が派遣され、番人による不政策であると同時に、幕府が蝦夷地経営を行うための財源確保の意味もありました。
 また、流通過程の整備を進め、江戸には会所を設けて、蝦夷地から送られる産物の処理と、蝦夷地に送る品物の取り扱いを行いました。さらに、箱館や全国主要港に用達、用聞を配置し、取引の円滑化を図ると共に、輸送船舶の増強、山道の開削、駅逓の制を定め交通網の整備も行いました。

 なお、文化4(1807)年には、石狩場所を含む西蝦夷地も幕府直轄になり、場所請負制は従前どおり続けられました。
 そして、一旦直捌となった東蝦夷地の各場所も、文化9(1812)年には再び場所請負制の復活をみるのでした。


註:江別市総務部「新江別市史」86-87頁.

 

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