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江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

学校給食法施行

2009年08月28日 | 歴史・文化
 学校給食は、終戦直後、アジア救済連盟の脱脂粉乳やカンユなどの寄贈物資の助けで開始されました。

 学校現場では、アルミの碗に入ったスープとなり、口中でトロリと融ける甘い肝油となって子どもたちを喜ばせました。
 第二小学校では、『昭和23年、給食指定により、民の寄付45万、町費20万で調理場を新設し、便所、手洗い場、水浴場を増設しましたが』(第二小学校・開基100年記念誌)、この戦後初期の学校給食は、26年のユニセフ援助物資の打ち切りでひと頓挫しました。

 昭和29年6月、法的に学校給食を確立し、安定させるため、「学校給食法」が施行しました。
 しかし、折しも財政難に苦しむ江別では実施が見送られました。昭和34年には、農林省の牛乳販路拡張策による半額補助の牛乳給食が、市内4小学校と2中学校で実施されました。これも、やがて中断され、全道27市の中で1校も給食を実施していないのは江別市だけという不名誉な事態に立ち至ることとなりました。

 昭和37年9月、江別小学校で完全給食が始まりました。
同年10月、豊幌小学校が小規模校では石狩管内の口火をきって実施、39年5月には江別小学校で一括調理し、保温食缶で郊外の3小学校(江別太・下の月・対雁)に輸送する親子給食が実施されました。
 なお、全校への学校給食の実施は、昭和43年12月の学校給食センターの完成を待たなければなりませんでした。

註:江別市総務部「えべつ昭和史1926-1993」206-207頁.
写真:昭和44年6月学校給食が教育の一環として実施された頃の写真
   同上書206頁掲載写真を複写掲載いたしております。

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