江別創造舎

地域文化振興活動・江別カルタ制作

上川丸の就航

2019年05月12日 | 歴史・文化

 開拓期の石狩川は、原始河川でした。埋木あり、流木あり、増水、出水などにより川中の状態が変化しました。
 不用意に乗り出した川船の座礁、転覆は日常茶飯事でした。
当初は、のんびり、ゆったりと安定的な運航を行うなど、望むべくもありませんでした。 

 明治17(1884)年に、初めて石狩川の涘渫工事が行われました。
「水路は連日囚人7,8人が二ヶ月にわたって動員され、転覆散乱した流木の除去と、川床の調整につとめている」(『樺戸監獄史湧』)。月形集治監の囚人を動因し、月形ー石狩間のうち約118キロを二ヶ月をかけ実施、航路の安全確保に着手しました。
 明治19(1886)年、越後農民の移住地見分のため江別を訪れた三島億二郎も、石狩川涘渫の早期実施の必要を痛感しました。彼曰く。現在は石狩川沿岸の村落は少ないが、年々移民増加、石狩から空知、上川へと開拓が伸展するのは必至でした。だから、「水路ノ要用ハ欠ヘカラザル次第ニて、陸ニ道路ヲ開クト同シク 急ニスヘキ事件ニテ」(『第二回北遊記』明治19(1886)年8月10日)と、開拓の将来と舟運の緊密なるを捉えていました。

 こうした中、明治22(1889)年7月、道庁技師福士成豊が、「石狩川水路保護之件」の上申を行いました。その中で彼は、五つの提唱、七つの効用をあげました。道庁は、福士の考えを受け入れるかたちで、明治22(1889)年から本格的な浅瀬涘渫及び流木除去などを行いました。その結果、江別から雨龍までの125キロ区間は、とりあえず吃水深1.0mの川汽船で、150石積淀川船の曳船が可能となったのです。
 この間、明治17(1884)年の秋、石狩川ではじめての官用鉄船、神威丸(かむいまる)、安心丸が就航しました。
 「船の構造は、干水時の運行にも使用できるよう、吃水を二尺の浅いものとし、専ら引船利用に役立てるよう造られていました(『月形町史』)。これは、明治14(1881)年の樺戸集治監開庁の折、東京から月形入りをした役人達が、札幌ー月形間を丸木舟で三日も費やしたことから、早々に石川島造船所に造らせたものでした。

 さて、明治22(1889)年4月、月形に有限責任石狩川汽船会社が設立しました。同社は、上川丸(60トン)、空知丸(32トン)の2船により、江別ー月形間の定期運行を開始しました。
「石狩川には毎日汽船の往来あれば樺戸空知太へ行くには最も便利よく」(明治22(1889)年7月19日付北海道毎日新聞)と、ここら辺りから石狩川の舟運も頻繁となり、一方の拠点でもある江別市街の賑わいも目に立つようになりました。

 また、明治24(1891)年6月から西田汽船組も運行開始しました。航路は、(1)江別ー樺戸、(2)対雁(ついしかり)、当別(とうべつ)、茨戸の三カ所、でした。運賃(明治24年8月現在)は、(1)の場合穀物100石で25円、乗客1名35銭でした。(2)の場合、穀物は100石で30円、乗客1名35銭でした。
 この西田組は、折からの新十津川、上川方面への移民増加、北海道炭礦鉄道空知線敷設工事などにより、かなりの繁昌となりました。
 その後明治29(1896)年9月、西田組は廃業し、そのあと大倉組手代土田政治郎が譲り受け、江別に大倉組汽船部が置かれました。



註 :「新江別市史本編」江別市役所、214-215ページ引用掲載いたしております。
写真:上川丸
   *江別カルタ<江別創造舎制作>絵柄抜粋

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