江別創造舎

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兵村の解体

2018年11月09日 | 歴史・文化

 国や北海道レベルにおける屯田兵制度の評価は、決して低くありません。

 軍隊組織の屯田だからこそ、厳寒未開の地を一村足らしめることができたという説は、説得力があります。
江別のマチの基礎を築いた功の多くも屯田に帰しています。
屯田兵の功績は何人も否定するものではありません。と同時に、その時代的、制度的な制約が生活を窮屈にしたことも、事実です。

 兵村(中隊)を枠組みとする江別と野幌の村は、軍律が全てでした。
特に創設の基因が北門の鎖禴であれば、長い間守りの精神が基調とならざるを得ませんでした。
その分、進取の気風に欠けていたと言っては酷ですが、野幌・殖民社における俳句結社の誕生など、無縁でした。
つまり、兵村が醸成し、強固ならしめた精神風土は、多様な価値観を前提とする現代市民社会の基調色とは、自ずから別種のものとならざるを得ません。
それは、音次郎がこったら村に居れるか!と夜汽車で脱出した姿に凝縮されました。

 もっとも、兵村の実体的な解体の兆しは、明治30(1897)年代に入り始まりました。
すなわち、同30年に「屯田兵土地給与規則」が改正され、給与地の30年間譲渡禁止、質入無効とされた規程が緩和されました。
「屯田兵死亡シ、又ハ服役ヲ免セラレ 兵役相続人ヲ缼クトキハ 其ノ給興ノ土地ハ家督相続人ニ其ノ所有権ヲ相続人が給与地を相続できるようになりました。
つまりは、兵役と家産の分離、名義をそのままに家産の売却が可能となりました。
 さらに、37年9月の屯田兵条例の廃止、39年4月の屯田兵土地給与規則の廃止は、土地の売却を加速させました。
どこに売却されたのでしょうか。
篠津兵村の場合、少なからず札幌の高利貸しに売られました。
つまりは、それまで生活費その他、緊急のものを彼等から借りていたということでしょう。
そのほか、地元の雑穀商、肥料商などに手渡ったケースもあるでしょう。
その借金で手離した土地に自身が小作人として入る場合も、見知らぬ人が入ったケースもありますが、肝要な点は、ここから姿の見えぬ不在地主の意向が村に存在しはじめました。
「古老の記憶によれば、明治37年頃から大正初期までに60戸中、実に30数戸の退転を確認することができる。」(既出「北海道篠津兵村の展開と村落構造」)。こうして、人と土地の流動が加速し、兵村は一気に変容しました。

 篠津兵村だけのことではありません。

屯田入地から約30年後の統計です。
江別兵村では入地者の約40%(65戸)が離脱し、残った95戸のうち約40%(37戸)が給与地を失っています。
野幌兵村では約57%(129戸)が離村しました。まさに劇的な変動といえます。

 屯田兵条例の廃止以降、兵村の姿と形は一気に変わりました。
しかし、それを兵村の風儀、あるいは精神風土の面から眺め直すとき、確かに人と土地の流変動はありましたが、村はいぜん兵村でした。と、いうのも、村内の風儀は、行動規範は、依然中隊のものであり、兵村のそれが色濃く残ります。
事実、その後も屯田関係者は村の有力者、有識者として大きな影響力を持ち続けたのでした。

 顕著な例を挙げれば、江別の初代町長名越源五郎は篠津屯田です。
二代目町長吉原兵次郎は野幌屯田です。
そのほか、自治、公安、衛生、教育など公職の要路の多くを占めたのも屯田兵村、それも多くは士族出身者でした。それも、無理はありません。
士族屯田は「他ノ移住者ト異ナリ 其教育程度ハ遥カニ高ク 文字ヲ読ミ事理ニ通ズルモノ多カリキ」(既出「北海道屯田兵制度」)ため、自然と各方面に亘る知識見識をうるにいたりました。
つまり、指導層は、彼らのものでした。

 当然、村の地域の支配的な風儀は、屯田兵員及家族教令」の延長上に現れました。
制度は、廃止され、外形上の変動は激しかったのですが、精神風土はなお、兵村ノ面目に拘り、そこから離陸飛翔するには、なお幾歳月を要することになりました



註 :江別市総務部「新江別市史」161-163頁.
写真:屯田兵屋
 同上書写真3-16屯田兵屋を複写・掲載いたしております。



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