江別創造舎

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イザリ・ムザリ紛争

2018年02月14日 | 歴史・文化

 東蝦夷地の幕領化に伴い、それまで石狩川筋のアイヌが東蝦夷地に保有していた漁業権を失うという事件が起きました。

 この事件の顛末を記録した『土人由来記』(ユウフツ請負人山田文右衛門がユウフツ会所の文書から書き写したもの)には、その経過が次のように記されています。

 石狩アイヌ(石狩場所のアイヌ)とシコツアイヌ(シコツ場所のアイヌ)は、それぞれ石狩川筋と千歳川筋に異なる生活圏をもっていましたが、もともと「春先より夏分迄は、イシカリ大川通ニて小綱引立(注?引綱)飯料魚漁事致し来、秋ニ至り候得は、小川々々へ登り鮭を取ルニシコツへ参り」と、互いに譲り合い協調関係を保ちながら生活していました。

 上ツイシカリアイヌの惣乙名シレマウカは、もともとシコツアイヌ系で、以前からイザリ川とその支流ムイザリ川に三カ所のウライ(梁)を張る権利を持ち、ここの漁獲物を生活の糧にしていました。
 また、イザリの乙名と親戚関係にあった下ツイシカリの乙名レタリカウクも、父親の代からイザリ川の干鮭場への出漁場への出漁権を持っていました。上ユウバリのアイヌもまた数年前からムイザリ川に出稼ぎしていました。

 ところが、寛政11(1799)年、幕府は東蝦夷地を直轄地とし、その境界をシママップ川(現在の島松川)と決めたため、石狩アイヌ・シコツアイヌが相互に持っていた入会漁業の場も幕府領と松前藩領とに二分されることになりました。この結果、イザリ・ムイザリ川流域の石狩アイヌの出漁地は幕府直轄地に属することになりましたが、翌年、事態はユウフツ詰合による石狩アイヌの入会禁止の命令へと発展し、石狩アイヌの漁場は強制的に没収されました。
 シレマウカの場合は、三カ所のウライのうち一カ所は幕領となると同時に、また一カ所は文化3年にイザリブトに通行屋が建てられた際に、番人の飯料として没収されました。下ツイシカリと上ユウバリのアイヌの場合も同様で、イザリ・ムイザリ川流域に石狩アイヌがもつ出漁地は、シレマウカのウライ一カ所だけとなってしまいました。このことは、入会漁業に依存していた石狩アイヌにとって死活問題でした。

 西蝦夷地も幕府直轄となった翌年の文化5(1808)年、上ツイシカリ、下ツイシカリ、上ユウバリのアイヌは、石狩詰役人にあて漁業権の返還を願い出るが、シコツアイヌの反対で認められませんでした。
 続いて、文化10(1813)年には、前年から東蝦夷地に場所請負制が復活したことを受け、シレマウカは第二回目の訴願を提出しましたが、この時も解決の方向が見出されませんでした。結局、文政4(1821)年になって、幕府が蝦夷地の直轄を止め、全蝦夷地が松前藩に返還されたことで、ようやく妥協をみることになりました。しかし、この間20年の歳月が経過する中で、戸数37軒、128人と数えられた上ツイアシカリのアイヌは、ユウバリのアイヌ共々離散してしまいました。

 以上が、『土人由来記』に記された事の顛末でした。
 江別のアイヌはもともとシコツアイヌ(サルアイヌ系)の系統にありましたが、石狩十三場所が成立し、その請負制が進む過程で、シコツ場所に属するシコツアイヌと切り離されていきました。それでも生活圏の多くをシコツアイヌと共有していましたが、幕府直轄による東西蝦夷地の分割は、そうしたアイヌが伝統的にもっていたイオロをも分断してしまいました。その結果、江別のアイヌは、シコツアイヌから完全に引き離され、石狩アイヌ圏に属することになりました。

註:江別市総務部「新江別市史」87-88頁.

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