江別創造舎

地域文化振興活動・江別カルタ制作

野幌駅南側市街地

2019年03月26日 | 歴史・文化

 明治23(1890)年5月、野幌駅の南側一帯へ北越殖民社の集団入植がありました。殖民社は、駅南側(鉄道を挟み、屯田兵村市街地の反対側)に倉庫と吹抜け小屋を設け、移住者に配給する米噌の貯蔵庫及び休憩所としました。これを端緒に、鉄道沿いに小さな街区が形成されました。つまり、野幌の市街地は、当初から駅を挟み、屯田側と殖民社側の二つに分かれていたのです。

 20年代末には、山田山三郎が古着屋を開業しました。山田商店は、のち炭、雑穀、米などを扱い、やがて近在の金融機関へと転身していきました。そして、明治31年、北海道炭鉱鉄道の野幌煉瓦工場、翌32年の舘脇煉瓦工場が相次いで野幌駅南側に進出し、大勢の煉瓦職人や労働者が来往、この一帯の人口は一気に増えていきました。もとより、商人たちの来往もあり、職工などを相手の料理屋、風呂屋、理髪店、呉服店、雑貨店などの店を開きました。その他、農村を背景にした雑穀屋など、更には大工、木挽たちの借家も並んでいました。
 
 こうした職人や労働者、あるいは家族の慰安のため、殖民社の竹見堅蔵が同社倉庫を借受けて興行を行ったのも、この頃のことでした。
「30年頃、殖民社の倉庫を借りて煉瓦場相手に常舞台をやって見たり、風呂屋をしたりしたが、却々繁盛した」(『野幌部落史』・竹見談)。

 明治35年、佐野利吉が、「煉瓦餅」を製造し、野幌駅で立売りを開始しました。
「34年野幌で駅売の許可を得たのが佐野の他に松浦孫七さんがおりました。松浦さんは翌年春から饅頭を作って売り出していました。それが煉瓦餅を売り出してからばったり売れなくなったのです。松浦の願いにより、煉瓦餅の製造方法を教え、上包の紙を譲ってやって二軒で売りました」(『野幌部落史』佐野タオ談)。

 煉瓦餅は、短期間の内に野幌名物として知れ渡りました。
明治40年5月に函館に渡った石川啄木は、「やがて札幌、小樽、釧路へと転々とする。彼が小樽から釧路へ移る車中記、「雪中行」が『小樽日報』紙に掲載されたのは、明治41年1月でしたが、そこに「煉瓦餅」が出て参ります。
「白石、厚別を過ぎて、次は野幌。睡眠不足で何かしら疲労を覚えている身は、名物の煉瓦餅を買う気にもなれぬ。江別も過ぎた。幌向も過ぎた。」



註   :江別市総務部「新江別市史」198-199頁参照。
写真:野幌駅鉄道高架化構想モデル
*平成18年(2006年)より進められて参りました函館本線連続立体交差事業の一環として着手された新野幌駅舎されました。事業推進時に提示された構想モデルです。


コメント (1)   この記事についてブログを書く
« 本日!自然観察会森の中で春... | トップ | トマンベツ・越後屋出張所1 »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
新しい記事を (山元 清)
2019-04-09 17:53:23
日ハム応援デーの記事は2015年は古すぎます。

コメントを投稿

歴史・文化」カテゴリの最新記事