江別創造舎

地域文化振興活動・江別カルタ制作

授業の風景

2018年06月08日 | 歴史・文化

 明治10年(1877年)12月の教育所スタート時の教員、大河内章三郎は北海道開拓使民事局勧業課勤めでした。

 樺太在勤の開拓使御雇医師の大河内は、アイヌ語で堪能であるため教員も兼ねることになりました。
しかし、本務の医師の仕事が多忙のため「一ヶ月のうち、本当の授業のある日は、10日位か、あるいは15日位しかありませんでした。」(『あいぬ物語』山辺安之助)。

 大河内は、対雁学校のはじまりと同時に兼務を解かれました。
後任に氏家、工藤が、その後氏家が宮永計太にかわり、道守栄一が赴任しました。
しかし、アイヌ語に堪能な人がそうそういるものではありません。
「彼ノ国語ト吾カ国語トヲ比較シ 然シテ単語図ニ照シ授業ヲ成スト離モ 少シク困却セルハ 講義上或ハ論述等ニ未タ自由ヲ得サルナリ」(前出・「対雁学校」)と、授業の展開は一筋縄には行きませんでした。

 そのほか、不都合は少なくありませんでした。
学校という意味では、明治の初頭、しかも草創期ならではの清新さに溢れていました。教科書よりも教員そのものが魅力溢れる教材でした。
 例えば、教員道守は、薩摩藩出身です。
明治10(1877)年の西南の役で西郷側で戦い、いわば賊軍となり、北海道へ逃げてきた負け組の一人でした。しかし、彼の教え子山辺安之助にとっては、終生忘れ得ぬ教師となりました。
ある日ある時、激しく少年山辺安之助の魂を捉え、揺さぶり、その感動は語り継がれて今日に至っています。それはただの負け組の者がよくなせるわざではありませんでした。

 「(前略)先生は、よく私達に大西郷の事を説かれた。先生が大西郷の話を聞かせる時分には涙を揮って話された。私達も大西郷の話を聞くのが好きだった。その話を聞かされる毎に血を湧して聞いたものであった。
 其の頃世間には、大西郷はまだ死なずに何処かに隠れているという噂があった。私達は、そうでありたいと思って、良く其の事を先生に尋ねた。併し決してそんな事は無い筈ぢゃ(中略)。正しく死なれた筈ぢゃ。斯う話されるのであった。私達は、小供心にもそれが非常に悲しかった。」(前出「あいぬ物語」)。

 明治15(1882)年2月、開拓使は廃止され、いきなり移民は生活全般にわたり窮地に直面しました。学校も例外ではなく、補助の削減が断行されました。
 例えば、それまで子どもたちを学校に通わせるため、生徒一人に対し一ヶ月米九升、塩五合の扶助、学用品などが支給されていましたが、それも廃止となったのです。学校運営の前途は、難しくなっていきました。
そのため、明治15(1882)年9月、上野正を組合長とし、在村の木下チコヒロ等による対雁移民共救組合が結成されました。そして越えて明治16(1883)年4月、同組合立対雁学校の設立の運びとなったのです。

 (以下略)



註 :江別市総務部「新江別市史」122-123頁。
写真:「対雁学校 校舎新築開業式」明治13年6月
   同上書122頁写真3-2を複写・掲載いたしております。


ジャンル:
文化
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 本日!北翔大学YOSAKOIチーム... | トップ | 北海道功労賞受賞記念展〜手... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史・文化」カテゴリの最新記事