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山田家の進出

2018年04月13日 | 歴史・文化

 石狩場所は阿部屋の独占場所といわれていましたが、第一次幕府直轄以後、勇払場所請負人山田文右衛門の出稼漁場は確実に増加し、安政2年直轄時には石狩川口に大網一統、石狩川筋に小網14の計15統をもち、和人網の約4割にも達していました。

 形式的には山田が阿部屋から引場を借りて、収穫の1.5〜3割を阿部屋に出稼料として納め、残りを自分荷物として出荷するという入会網の形をとっていましたが、阿部屋には全引場を直営するだけの資力もなく、労働力の確保も困難だったため、山田と組む必要があったと考えられます。

 川口からバンナグロまでは、阿部屋が早くから手がけてきた引場でしたが、その上流、サッポロブト(現茨戸附近)からエベツブトまでは山田が新規に開いた漁場が多くありました。
後者の地域では阿部屋と山田の網数は対等であり、出稼料も2割でした。
こうした状況の中に新たな出稼人が参入してきましたが、好条件の漁場はほとんど既得権者に抑えられていたため、多くの新出稼人は一統しか認められず、場所開放2年目にはすでに引場は飽和状態になっていました、

 石狩改革ではアイヌの掌握・撫育も大きな課題でした。
アイヌは和風化を基本としながらも、出稼和人との接触を厳しく制限し、アイヌの生産物を売買できるのは石狩役所だけとしました。
アイヌの作る衣服や毛皮など、いわゆる軽物の物々交換も禁じました。
アイヌの撫育はすべて石狩役所の役目となり、和人がアイヌを雇用する際は、必ず石狩役所を通すこととしました。
こうしたことには、和人による不正防止の狙いもありましたが、主眼は石狩役所による収益の確保やアイヌの雇用独占を図ることにあったと考えられます。

 石狩役所は、漁場の他にも農業の振興にも努め、アワ、ヒエ、ムギ、インゲン等の穀類のほか、野菜の栽培を奨励しました。
また、流通面では、松前沖ノ口を通らず、石狩から本州の売払地へ直接赴くことができるようにしたり、石狩役所で使用する物資や役鮭の運搬船からは船役銭判銭を徴収しないことにするなど、商船の往来を奨励しました。
つまり、石狩改革とは、場所請負制を廃止した直捌制を導入することで、出稼人を入れ、アイヌを掌握して生産を高め、産品を売却して得た利潤が御収納高となる一連のシステムを創出することでした。

 石狩役所の御収納高は、年間2,500両ほどでしたが、そのほとんどが北蝦夷地(樺太)西海岸のクシュンナイ直営場所経営に振り向けられました。
箱館奉行は緊迫する日ロ交渉に対応してクシュナイに前進基地を設けることにし、石狩はその足場の役目を果たすことになったのです。
この結果、安政5年から文久3年までの間のクシュンナイ場所経営に要した費用、2万3千337両が石狩役所から支出されることになりました。


註:江別市総務部「新江別市市」101-102頁.


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